2010年10月26日火曜日

まぼろしの文化財

清朝康煕皇帝勅諭







「康煕皇帝勅諭」、富山で発見

いまから40~50年まえ、わたしが富山市立山室中学校に転勤して間もないころの話です。校下の文化財調査を思いたち、カメラを持って太田神社・浮田家・正源寺などをたずねまわりました。  

たまたまシンミョウ[新名](いたち川ぞいの町名)の専立寺さんを訪問したとき、なげし[長押]に一風変わった作品がかかっているのを見つけ、写真をとらせていただきました。それがこの「康煕皇帝勅諭」です。

康煕皇帝といえば、漢族の明朝をたおして満州族の清朝をうちたてた初代皇帝です。康煕元年は西暦1662年。日本では、寛文2年、徳川4代将軍家綱、フランスではルイ14世の時代です。

しろうとのわたしに鑑定する資格はないのですが、わたしがみたかぎり、これは題字のとおり「清朝康煕皇帝勅諭」にまちがいありません。清国の康煕皇帝が朝鮮国李王への使者に持たせた礼物(贈り物)の目録。一種の定型的な外交文書だと思われます。

礼物の内容は、「絹織物11種、合計50疋」。1疋=2反、約9m。「倭緞」は、「倭錦(魏国製絹織物)」のたぐいかと思われます。

 この文書は、特殊な様式で書かれています。清朝は征服王朝なので、公式文書はすべて漢語文と満洲語文を両方ならべて書きます。この勅諭でも、ごらんのとおり、右から縦書きで漢字文、左から縦書きで満洲文字文となっています。皇帝玉璽も、そうなっています。
   
文書の題字から、これが「清国皇帝から朝鮮国王にあてた外交文書」だとわかります。また、1662(康煕元)年10月20日に作成されたこともわかります。
  
この「康煕皇帝勅諭」が本物だと推定される理由がもう
一つあります。それは、勅諭全文が竜紋の額縁にはめこんだ姿に装飾されていることです。いうまでもなく、竜紋は皇帝だけが使用できる文様です。

できれば公式な文化財調査をお願いしたいと考え、県文化課におられた関清さんにご相談したりしました。しかし、正式調査まで話がすすまないまま、数ヵ月後、火災のためすべて焼失したとのこと。現存している資料は、わたしの手元にある写真だけだろうと思います。

いま公開することについて
「康煕皇帝勅諭」が本物だったことは、うたがう余地がありません。本物だとしたら、それがどうして富山市の寺におさまっていたのか?わたしは、こう推理します。

「康煕皇帝勅諭」は、もともと朝鮮国王の宮廷府におさまっていたはずです。 また、公式、合法的に国外へ持ちだされたとは考えられません。おそらくは非公式、非合法的に持ちだされ、日本国・富山県まで持ちこまれたものです。

その時期は、日清・日露戦争、韓国併合、朝鮮総督府設置から1945年の日本国敗戦まで。わたしがおたずねしたかぎりでは、寺方でも記憶がないようすでした。

持ちだした人物は、宮廷府・総督府に出入りできた役人もしくは軍人でしょう。さて、日本へもちこんで、一時自宅で飾っていたかもしれませんが、あまり公然と自慢できる話ではなかったのでしょう。

それで「お寺に納めよう」となったのかもしれません。あるいは、ご本人がなくなられ、ご遺族の判断で「お寺へ」となったのかも。

さいきんアフリカなどの諸国で、イギリス、フランスなどに対して「不当に持ちだされた文化財の返還をもとめる」声があがっているそうです。

わたしが新名のお寺で見つけた「康煕皇帝勅諭」は、実物がすでに火事で消滅し、これ以上調べようもありません。

それでも事実は事実。ここにあらためて、その写真を公開することで、「文化財の国外流失」の問題について考えるための参考になればと願っています。



お知らせとお願い
シリーズ「いたち川散歩」は、ここでしばらくお休みさせていただきます。そのかわりに、シリーズ「七ころび、八おき…わたしのリレキ書」をおとどけする予定です。
ひきつづき おつきあいのほど、よろしく おねがいいたします。




















2010年10月12日火曜日

いたち川にかかる橋

上流の大泉駅付近から松川との合流点まで約2,7km。そのあいだに、21本の橋がかかっているそうです。その中から、毎日散歩の途中でわたったり、ながめたりしている橋を、いくつかご紹介します。


雪見橋

(富山市の掲示板によれば)…富山城下を通る北陸街道の道筋にあたり、城下でもっとも大きな橋なので、「大橋」と呼ばれていました。また、現在の月見橋は「裏の橋」、雪見橋は「表の橋」とも呼ばれていました。

「大橋」は、慶安のころ(1648~51年)藩の費用でかけられ、1891(明治25)年、木鉄混製のつり橋にかけかえ、その時「雪見橋」と命名されました。

命名の由来は、江戸時代の文人で南画家の池大雅が、この橋のたもとをおとずれ、雪の立山連峰の勇姿に感動し、その絵を描いたからといわれています。
現在の橋は1975(昭和50)年に竣工。ギボシ[擬宝珠]型の欄干で、当時はたしかに見事な大橋に見えたのですが、最近はすこしくたびれた感じもします。


泉橋

雪見橋のすぐ上流にかかる橋。1962(昭和37)年竣工。
左岸の石倉町と右岸の泉町、それぞれに「延命地蔵尊」がまつられ、「お地蔵さんの水」をくみに来る人たちで毎日にぎわっています。泉町がわの橋づめには源氏慶太の文学碑があり、石倉町の「延命地蔵尊」は観光バスのコースにも組みこまれています。








月見橋

国道41号線が通る橋。雪見橋・花見橋にくらべ最近にできた橋。夜間は金色の照明灯で、まばゆいばかり。不夜城の感じです。
 この橋の橋柱には「いたち川」「月見橋」などの表記がありますが、「竣工年月」の表記がありません。国道にかかる橋と地方道にかかる橋とで、規格がちがうからでしょうか?ちょっとフシギです。







花見橋


雪見橋・月見橋・花見橋を「和漢朗詠集」にちなんで、「雪月花の三橋」と呼んだといわれます。その花見橋が戦災で焼け落ちたあと、あたらしい橋にかけかえられました。1964(昭和39)年1月竣工。橋づめに、橋名をしるした旧橋柱(松野平五郎市長の筆跡)が、いまも記念碑として保存されています。松野市長は、大正8年~昭和3年まで在任。









九右衛門橋


1986(昭和61)年竣工。橋づめに「常夜燈」を配置した、みごとな橋です。
命名の由来は、「孝子久右衛門」を記念してとのこと。
「久右衛門」は、いまから300年ほどまえ、江戸時代なかば、寺内町(現堤町通り付近)の住人。母子家庭にそだち、親孝行で正直者。富山2代藩主前田正甫公から「諸人の手本」として表彰され、米10石をあたえられたといいます。




清辰橋


1998(平成10)年竣工。橋の手すりは鋼鉄板製(?)で、手でたたくと、小太鼓を打つようにはずんだ音がひびきます。
いたち川の遊歩道はまだ上流までつづきますが、わたしの平生の散歩はここまで。ここで清辰橋をわたり、こんどは右岸をくだります。









公衆トイレ

清辰橋をはさんで両岸に1本ずつ、柳の大木がそびえています。右岸の柳の下には、公衆トイレもあります。

2010年10月8日金曜日

川べりの文学碑など

源氏鶏太文学碑

石倉町から泉町へわたる橋が泉橋。わたりきった橋づめに、延命地蔵尊とならんで、源氏鶏太の文学碑があります。直筆の原稿「一本の電柱」を模した銅版が自然石にはめこまれています。

源氏鶏太、本名は田中富雄。1912年4月19日生まれ。1985年9月12日没。旧富山商業学校(現県立富山商業高校)出身。「英語屋さん」「口紅と鏡」「三等重役」「定年退職」などの作品を発表。直木賞・吉川英治文学賞などを受賞。

「蛍川」ロケ モニュメント

源氏鶏太の文学碑から上流へ10分ほど歩いたところ、清辰橋の手前に、映画「蛍川」のロケ モニュメントがあります。この映画は、宮元輝の小説「蛍川」を映画化したものです。
宮元輝、本名は宮本正仁。1947年3月6日、神戸市生まれ。一時、富山にも居住。創価学会員。「泥の川」「蛍川」「優駿」「骸骨ビルの庭」などの作品を発表。太宰治賞・芥川賞・吉川英治賞・司馬遼太郎賞などを受賞。



少女像「風に向かって」

久右衛門橋のやや上流右岸に、横山豊介のブロンズ少女像「風に向かって」が立っています。台座にタイトルと制作者名が刻まれていますが、風雨にさらされ、制作者名の部分が読みにくくなっています。
横山豊介は、1930年生まれ。彫刻家。日展評議員・審査員。