2011年6月21日火曜日

義務教育で民主主義教育をさぼったツケ

「たかじんのそこまで言って委員会」


奥村さんのブログ


学級機関紙「カガミ」10号


バリー先生の手紙(部分)


「そこまで言って委員会」
3.11から3か月。テレビも新聞も毎日、くらい、かなしい、さびしい話ばかり。こうなると、ぎゃくに、あかるい、たのしい話がききたくなります。
テレビで「たかじんのそこまで言って委員会」という番組を見ました。原発や石油ではなく、あらたなエネルギー資源の研究が進んでいるという話。どこまで真実か、やっぱりただのホラ話か、にわかに断定できませんが、発表者はいずれも大学教授クラスの肩書を持った人ばかりですから、そうデタラメな話ではないでしょう。日本のエネルギー問題について、一から考えなおしてみようかという気持になりました。

奥村さんのブログ「やっぱり癌でした」
5月24日のブログで、奥村隆信さん(富山国際学院校長)のお話をしましたが、6月9日、奥村さんがブログで「やっぱり癌でした」と書いておられるのを見てびっくりしました。さいわい経過は順調のようで、12日付のブログで「3.11ボランティア」にふれ、「体力が回復したら再訪できるかなあ」とありました。
さらに14日付のブログは「坂東真理子・上野千鶴子『女は後半からがおもしろい』(潮出版社)」というタイトルで、この「富山県生まれの2人の女性」を紹介し、論評しておられます。お元気のようなので、すこし安心しました。

「お上のお考えなさること」
奥村さんは、15日付のブログ「お上のお考えなさることは、ようわからん、と民草の一人は思った」の中で、「某県の某公益財団法人」から届いた「平成23年度日本語教師育成支援事業のご案内」をとりあげ、一刀両断にしています。
「アホなことを思いつくものである。そんなことにお金(税金であろう)を使うくらいなら、もっと使い道があるというものである。勉強お助け隊(米田哲雄代表)や高岡アレッセ(青木由香代表)の活動に支援するとか…」
「日本語教育に限らず行政がボランティアの『善意』に甘えている構図は全国各地似通った状況でしょうね。」 (「日本語教師・奥村隆信 ひとり語り」参照)
まさに「奥村節」全開のご様子。わたしは後期高齢者なので、気力も落ちています。奥村さんのように直言できる人がうらやましく、尊敬しています。

危機に対応できない日本政府と国会
3.11以来の東電や政府の対応について、おおかたの人が「危機管理体制ができていない」と感じているようです。しかし、政府や与党がダメなら、すぐにでも野党に交替してもらえばよさそうなものですが、世論調査の数字を見ても、圧倒的な支持を得ている政党は見あたりません。野党第一党党首の話を聞いても、ただ「政権をよこせ」というだけで、どうやってこの危機を乗りきるのか、説得力のある具体的な政策が見えてきません。
ここでよく考えてみましょう。いま危機におちいっているのは、東北地方の被災地だけではありません。世界という競争社会の中で、日本国全体が地盤沈下をおこしているのです。しかも、そのだいじな時期に、日本政府や国会が必要かつ十分な役割をはたしていません。つまり、日本国の統治機構そのものが危機におちいっているわけです。

日本の民主主義のレベルが問われている
大臣や国会議員は国家公務員ですから、「滅私奉公」、お国の危機脱出のため全力を尽くすのがあたりまえ。「人民のために奉仕する」ものだけが指導者にえらばれる資格を持つ。それが「民主主義国家」です。しかし現実には、「料亭で接待を受けたり」、「権力を利用し、利権をちらつかせて、支持層を拡大したり」するのが目的で国会議員になった人もいます。おそらく「民主主義」について学習したことがないか、なにかカンチガイをしている人たちです。こんな議員さんたちに、国家の危機管理など、できるわけがありません。
アメリカとならんで「民主主義」のチャンピオンだったはずの日本。いま、その民主主義のレベルが問われているのだと思います。
政府や国会の危機管理能力がよわく、統治機構が機能不全、あやうく停止しそうな状態。まちがいなく、日本民主主義の危機です。

義務教育で民主主義教育をさぼったツケ
民主主義を身につけていない国会議員がいることについては、そんな議員さんをえらんだ国民にも責任があるでしょう。また、その議員さんたちを教え育てた小中学校の先生たちにも、責任がないとはいえません。
1945年、大日本帝国の敗戦で学制改革が実施されたとき、義務教育の最重点項目が「民主主義教育」でした。しかし、きのうまで「君主主義」だった人間が、あしたから「民主主義」に変身せよといわれても、それはムリな話です。「民主主義」は、教科書をよんで丸暗記すれば、それで身につくというものではありません。男と女、加害者と被害者など、双方が意見をのべ、納得ゆくまで話しあう。たいへんテマ・ヒマかかる仕事です。
「民主主義教育」は義務教育のカンバンやスローガンとしてかかげられただけでなく、全国各地で真剣な実践活動も進められました。しかし、もともとつよい抵抗勢力があったことも事実です。じっさい義務教育の現場では、いろいろな事情から、「民主主義教育」にあまりテマ・ヒマをかけないようになりました。そういう事実経過を考えれば、いまの政府や国会が機能停止状態にあるのも、じつは戦後の義務教育で民主主義教育をさぼったツケがまわってきただけということかもしれません。

元中学校教師としての反省
1949年から20余年、わたしは富山市立中学校に奉職し、とりわけ学級経営の中で民主的な人間形成を目ざして努力した記憶があります。クラスの生徒たちや父兄たちとの合作で学級機関紙を発行したり、毎日のように反省会を開いて討議したりしました。また、富山大学の須沼吉太郎先生にお願いしてアメリカの作家パール・バック女史をご紹介いただき、そのご縁でクエーカー教の学校のバリー校長先生から助言をいただいたこともあります(ブログ「七ころび、八おき」…4/12「東部中学校のころ②」参照)。
当時担当した生徒たちの教室内外での生活風景を思い出しながら、「もうすこし、うまくやれなかったかな」と反省しきりです。


2011年6月7日火曜日

マウス、マスラオ、マッサージ

m-s音の単語家族しらべ(その3) 

ムスものがムシ[虫]



マシマス[坐]ところがマス[枡]


マウスと申しマスル



森にマシマス[坐]マシラ[猿]



マスラオ[益荒男]は筋肉隆々



筋肉をマサグル、マッサージ


コトダマ効果
3.11の大震災から3か月。テレビで見る被災地は、復興どころか、瓦礫の除去もまだできていません。たくさん集まった義捐金も、被災者の手元に届いていません。政府や国会も、政権の奪いあいには熱心ですが、肝心の政策審議はおざなりのようです。
ここまできたら、東日本だけの問題ではありません。この3か月のあいだに、世界中で日本国の影がかなりうすれてきた感じさえします。
そんなある日、NHKテレビで、「鶴瓶の家族に乾杯」を見ました。鶴瓶師匠とさだ・まさしの二人が石巻市の避難所を訪問する番組でした。落語家と歌手。いってみればなにひとつ生産することもできない二人。それが「コトバのあそび」をするだけで、被災者たちの心の傷をいやし、元気にさせていました。おまけに、テレビを見ているわたしたちまで。
「これがコトダマ効果だ」と思いました。人間とは、コトバをつかう動物。コトバの役割、効果はすごい。コトダマは、コトバのタマ[玉・珠・球・弾・魂]。鉄砲ダマのようにトビかけり、聞く人のタマシイを傷つけたり、ぎゃくに明るい灯をともしたりします。できれば日本国の総理にも、コトダマ効果を発揮してほしいところです。

m-s音の単語家族しらべ
前々回「マセグチ[馬瀬口]の尼寺」の項でm-s音語をとりあげてから、きょうで3回目。わたしが提唱する「64音図」の中で、m-s音タイプのコトバは、けっして多数派ではありません。それでも、日本語と英語のm-s音語を単語家族として比較してみると、意外なほど共通感覚をもって対応していることがわかってきました。
今回は、すこし総合的に「日英m-s音語の家族しらべ」をしてみたいと思います。

m-s-音語の基本義
ここでm-s音語というのは、m-子音のあとにs-子音がつづくタイプの語のことです。日本語では、マス・ムス・ムスコなど2音節以上になりますが、英語ではmass, mouse, miceなどのように1音節の例もあります。
そこで、「m-s音語の基本義は?」ということですが、わたしは、「m-音の基本義とs-音の基本義との連合」だと考えています。

m-音の基本義
m-音の基本義は、「m-音を発声するとき、発声器官に生じる感覚」です。
m-音を発声するには、いったんクチビルを閉じ、イキのながれを口の中に閉じこめます。そのイキがクチビルをモミ破ってモレでる。同時に、鼻にまわったイキが鼻の粘膜をマサグリ、共鳴を起こします。
このとき発声器官に生まれる生理感覚が、やがてm-音の音韻感覚と呼ばれることになります。つまり、m-音語には「ウミだす、ウマれる」、「ウメこむ、コモル、モグル」、「モム、マサグル」、「モレル」などの基本義が生まれることになります。             

s-音の基本義
s-音の基本義も、s-音の調音方法から生まれます。
「舌サキで上ハグキをサスル姿で、イキを吹きつける」ことでs-音が発声されます。そこで、s-音語には「サス、スル、コスル」などの基本義がつきまとうことになります。
たとえば、ス[為]・スル[為]という語音は、もとはスル[擦]・コスル[擦]作業(磨製石器づくりなど)をあらわす技術用語として生まれ、やがて(作業の種類を問わず)一般化された用法と考えられます。

ムスものがムシ[虫]
ムス[産]とは、ム[産]の作業をスルことです。
たとえば、てんとう虫や蝶などの昆虫は、タマゴからサナギ、幼虫、成虫など、くりかえし変身します。ムス[産]作業をムシかえすので、ムシ[虫]と呼ばれたのでしょうね。
ムスコ[息子]やムスメ[娘]も、男性と女性がムスバレ、ムス[産]作業にはげんだ結果として生まれたコ[子]であり、メ[女]でありマス。

マス[坐・座]ことは、マス[益・増]こと
お水、お酒、お米など(命の親)が「マシマス[坐]ところ」がマス[枡]です。
カラッポのマスの中に(お米を)入れマスと、それだけ存在量がマス[益・増]ことになりマス。

マウスと申しマスル
ネズミは、なぜネズミと呼ぶのか?定説はないようです。英語ではmouse、複数はmice。辞典には、「筋肉を意味するmuscleと同源」と解説しています。ネズミの動き、とりわけシッポ[尻尾]の筋肉がみごとな動きを見せる点に着目した命名と思われます。パソコンにつかうマウスも、小型ながらチョコマカ敏捷なはたらきをします。
そういえば、日本語のモウス[申]も、歴史カナヅカイではマヲスです。イズミの解釈では、マ[真]ヲ[尾・緒]ス[為]で、「ピンと尾を立てる、伸ばす」姿、また「筋道の通った話をする」姿をあらわすコトバです。

森にマシマス[坐]マシラ[猿]
「広辞苑」は「マシ[猿]=マシラの略」、また「マサル[真猿]=サル。マは接頭辞」と解説しています。
サルにちなんで「敵もサルもの、ひっかくもの」という表現があります。このサルは、「(負けて)立ち去る」姿ではありません。「サの姿にナル」、「サ[矢]のようにスットブ、トビカカル」姿です。
前記モウスに当てた漢字形[申]は、日本漢字音シンでs-音をもち、もとはイナズマ(電光)をえがいた象形文字。デン[電]やシン[伸](のばす)の原字。さらに、動物名としてはサル[猿]をあらわします。
このように見てきますと、日本語の動物名「サル・マシ・マシラ」は、英語mouse、mice、muscleと発想法がおなじ。マシラとは、森にマシマス[坐]マシラ[猿]が人間にマサル[勝]筋力ワザを見せることによる命名かと思われます。

マスラオは、筋肉隆々の男子
マスラオ[益荒男]はモノノフ[物部・武士]とならんで、上代語として成立しています。
モノは武器のことなので、モノノフといえば武装した男子をさします。マスラオは、漢字で[益荒男・丈夫]などと表記されますが、もともと「成長して、マスマス筋骨隆々となりマスル男子」の意味です。マウスmouseやマシラ[猿]の人間版のコトバ。
英語では、muscular(たくましい)の姿。また、いまどきの感覚でいえば、「キン肉マン」にピッタリのコトバです。

筋肉をマサグル、マッサージ
マスラオは、筋骨隆々の状態を維持するため、たえず筋肉をきたえる一方で、ときどき筋肉をマサグリ、コリをモミホグスことも必要。その作業がマッサージです。
マサグルは、マ[目]サグル[探]とも解釈できそうですが、辞典には漢字[弄]を当てています。つまり、目で見てサグルのではなく、手でマス[摩](こする、もむ)こと、モテアソブことです。緊張した筋肉をときほぐし、弾力性をとりもどす効果があります。
英語のマッサージmassageは、もとアラビア語がフランス語経由で英語にはいったようです。このm-s音は、按摩のマやマシラ[猿]のm-s音とも関係があるかもしれません。