2011年10月18日火曜日

「詩と山歩きの記録」 


「叩く子・再訪の山…」2011


佐藤正樹さん年賀状、2011


 佐藤正樹さん年賀状、2009 


佐藤正樹さん年賀状、2002

「たらいまの子・山野歩き…」2006


叩く子・再訪の山・山歩きの記録
  先日、佐藤正樹さんから「叩く子・再訪の山・山歩きの記録」(2011.9.15)という作品をいただきました。あとがきに「詩と山歩きの記録,お受け取り、お読みいただければ幸いです」とあり、同封の便せんに「ご返信無用にお願いいたします」と書きそえられていました。
それから だいぶ日がたちましたが、ご指示にしたがって、いまだにお礼の手紙をさしあげておりません。
わたしは詩心がとぼしく、俳句や短歌も門外漢です。もちろん、きらいではありません。親戚や知人から句集や歌集などをいただくことがあり、そのつど楽しく読ませていただいています。
佐藤さんの作品はかなり凝っていて、読みごたえがある感じです。長年月にわたる「人生経験」と「山歩き野歩きの経験」がいっしょになって、はじめて生まれたと感じさせられるコトバが、いっぱいつまっています。
以下、わたしが共感をおぼえた部分を、かってに引用させていただきます。
 
叩く子
小さい手が叩く
這ってきて叩く
何でも叩く
叩いて在るのを確かめる
一緒につくばって叩いてみる
叩かれて新しく物は現われる
丸っこい手が叩く
ガラス戸を叩く
テーブルの脚を叩く
無心に叩く
大工さんのリズムで叩く
ガラス戸が生まれる
テーブルの脚が立ち上がる
誰かが見ているとも知らず
小さい手が無心にものをたたいている
 
はなやぐ祖母
てんめいは煎餅  やちゅうは野球
生まれたての片言に
ととここ とこ とこ
二本足の誕生に
 
中学同級会
にぎやかな幹事の声がする
「おれが壁に向かって立たされているよ」
動物園の檻のペンギン
小ぶりなペンギンたち
三々五々壁に向かって起立
しばらくすると動き出す
一羽だけ動かない
動く気配もない
反省中の―
それともひがんで意地を張ったおれ
 
山辺の土
日があたる土
気持がふくらむ
雨が降る土
気持にうるおい
土のおおらかさ
舗装世界から来た人へ
 
Mさんへの手紙(06826日)
(前略)戦中のことはたとえば軍歌の一節を流行り歌の一節のようにくちずさんでいることがあります。戦争は終わって がらっと世間が変わりましたが、子供の戦中体験は心のどこかに張り付いているようです。当時の大人はどう落とし前をつけているのか、今年815日の朝日新聞に掲載の大江健三郎さんの「定義集」で引用されている、南原繁の話に目を引かれました。
 《私は彼らに「国の命を拒んでも各自の良心に従って行動し給え」とは言い兼ねた。いな、敢えて言わなかった。(中略)、
私は学生と語った。「国家がいま存亡の関頭に立っているとき、個々人の意志がどうであろうとも、われわれは国民全体の意志によって行動しなければならない。われわれはこの祖国を愛する、祖国と運命を共にすべきである。ただ、民族は個人と同じように、多くの失敗と過誤を冒すものである。そのために、わが民族は大きな犠牲と償いを払わねばならぬかもしれない。しかし、それはやがて日本民族と国家の自覚と発展への道となるであろう」と》(南原繁著作集9巻)

年賀状の1行詩
佐藤さんからいただいた年賀状にそえられた1行詩を紹介します。
元日様…来てみれば不断の日で座っている(2011年)
頂で…飛んでいく今 そこにいる昔(2009年)
白馬三山 春の高みを想ひけり(2002年)

たらいまの子・山野歩き…
実は、2006年にも佐藤さんから「たらいまの子・山野歩き・山歩き野歩きの記録」という作品をいただいています。こんどの「叩く子・再訪の山…」は、その続編にあたります。
ついでに、前作の一部をご紹介します

たらいまの子
家の中のあちこちから
たらいま
と覚えたての言葉で出てくる
たらいま
舌足らずでも赤ん坊語でもない
ちゃんとした自分の言葉
今も階段脇からたらいまと帰ってくる

北アルプス・動かずの大展望
いくら姿がよくても 動かずに
いつもお互い見合っていてはあきるだろう
姿隠しの霧や雲が動いている
いい間をおいて
 
運針歩きの山
家庭科で中学生は雑巾縫いを習った
年を経て今日は山を運針のように歩いた

Mさんへの手紙(2002916日)
(前略)詩について、季語、文体、語調を特に考えることなく書いてきました。抽象画、時にひっくり返されて見せられても上下がわからないが、飽きなくて面白い抽象画のような現代詩も良いかも知れないが、誰でも書け、わかる詩、しかもどこか新しさのある詩を書きたいと思っています。実際は分かりにくい、独りよがりの表現になる場合も多いですが、この点は読んでくれる人の解釈におまかせ、の気持ちです。(以下略)
 
佐藤さんとのご縁
佐藤正樹さんとのご縁は、1990年ころ(?)、YKK生地工場の山本憲司さんの紹介で、佐藤さん(当時東京勤務)からお手紙をいただいたのがはじまりだったようです。YKKが上海事務所開設をまえに、若手社員を対象に中国語研修を実施。そのときの企画責任者が山本さんでした。1回、2年ほど(?)JRで富山~生地間を往復した記憶があります(ブログ:七ころび、八おき。中国物産コーナーのころ③)。
佐藤さんは、たしか東京外語スペイン語科、1961年卒。佐藤さんのご紹介で、19981月、貫井進さん(東京外語フランス語科、1959年卒)からお便りをいただきました。「1994年、北海道新聞社を定年退職。当面、東北地方以南に存在するアイヌ語地名を探索中。できれば、日本語・アイヌ語・朝鮮語3語間の関係をさぐってみたい〉とのことで、アイヌ語とヤマトコトバとの音韻対応例も示されました。
縁は異なもの。待てば海路の日和。どこで、どんな縁があるやら、わかりませんね。

2011年10月4日火曜日

富山東部中5回生の思い出


東中5回生の懇親会、2011


彼岸花が満開


切り絵「晩秋の称名滝」福田温旦


「学研・漢和大字典」


東中5回生の懇親会に出席
922日夜、小幡駿君にさそわれて「東中5回生有志の懇親会」(第一ホテル)に出席しました。正式な同期会ではなく、5回生一部有志の交流会として、毎年1回開催しているとのこと。ことしも昼間のゴルフ会につづき、夜の懇親会がセットされていて、今回はたまたまイズミにも声がかかったということのようです。  

出席者合計22名。内、女性4名。東京・横浜からも参加があり、この日は横浜在住の福田温旦君が開会あいさつをしていました。       

東中5回生といえば、1952年春の卒業。わたしが はじめて中学校教師として東部中学校に赴任し(ブログ:七ころび、八おき東部中学校のころ①)学級を担任し、3年後に卒業を見とどけた生徒たちです。

あれから60年ちかい年月がすぎています。小幡駿君、滋野啓志君、奥野博道君、福井貞夫君や木山順子さん、安原睦子さんなどは、その後もなにがしかの交流があり、むかしの顔がそのまま いまの顔につながります。しかし、町野清君、鍛喜人君、片桐修君、橘明君、三浦博道君、福田温旦君、吉田洋三君、高松正治君となると、ほとんどが卒業以来はじめてのご対面です。「○○です」と名のられて、しばらくしてから、「そうだ、まちがいない」ようやく眼前の顔とむかしの顔が一致してきました。

数日後、滋野君が当日の写真数枚をとどけてくれました。さっそく、集合写真の顔と名簿を、ひとりひとりチェックしてみました。名前と顔が確実に一致したのは半分ほど。あとの半分は、推定は出来ても、自信が持てません。むかしの卒業アルバムの顔ともつきあわせましたが、60年間の空白はどうにも埋めようがありません。ついにお手上げです。

あくる日、いたち川を散歩の途中、月見橋のあたりで滋野君に会いました。「彼岸花が満開ですね」と声をかけられたのです。そのとき、わたしは「集合写真の顔ぶれに、名前を記入してもらえないか」とたのみました。数時間後、滋野君が一覧表をつくって、とどけてくれました。おかげで、出席者全員の顔と名前が一致し、安心しました。
 

それぞれの人生
懇親会は2時間そこそこでしたから、全員と60年間の思いを語りつくす余裕はありません。じっさいに時間をかけて話を聞けたのは、ほんの23人だけでした。それでも、60年ぶりに再会した顔には、まぎれもなく人生のシワが刻みこまれていました。「十人十色。二十人いれば、二十通りの人生がある」と感じさせられました。

吉田君については、毎年の年賀状で、健在ぶりを知っていました。鍛君、三浦君についても、すでに「功成り、名遂げた」状態だと、人づてに聞いていました。

この日、時間をかけて話を聞かせてくれたのは。町田君と高松君です。町田君は、魚屋さんとしてのイキザマを、そして高松君は建具屋としてのイキザマを語ってくれました。それぞれ別々の物語ですが、その背景に「いま、日本の零細企業がかかえている問題…価格競争、後継者問題など」がある点では共通だと思いました。

福田君とは、ゆっくり話をしたかったのに、時間がなくて残念でした。この数年来、年賀状で切り絵作品を見せてもらえるのが楽しみでした。その中から1点「晩秋の称名滝」(2007年賀状)をご紹介させていただきます。滋野君の解説によれば、「前の年、いっしょに登山した。その時の実景スケッチ」だそうです。


紅顔の美少年、いまは後期高齢者
わたしの頭の中では、かれらはいつも、そしていつまでも中学生のままでした。中間の高校生・大学生・社会人としての姿をすっ飛ばして、いきなり老人の姿を見せられたので、まるで玉手箱を開いた浦島太郎の気分になりました。

あのころは紅顔の美少年、美少女たち。いまは(一部は来年)後期高齢者。となると、わたしは「超…?」

そのほかの5回生たち
あのころは1学級57名くらい。7学級で計400名ちかくの生徒数でした。年度ごとに学級編成が変わりますが、教師陣は1年から3年まで持ちあがりです。授業は学年全部の教室に出ます。わたしは、生徒の顔や名前を覚えるのが苦手でしたが、3年間つきあったおかげで、5回生の名前はいまでも あらかた覚えています。姓だけではピンときませんが、下の名前までセットにして聞かせてもらえば、反射的にむかしの記憶が浮かんできます。

先日の会合には見えませんでしたが、島田祐三君は男子・女子の別なく、みんなの人気者でした。その後、第一ホテル・立山国際ホテルの支配人を経て、富山市会議員に当選。市会議長も勤めました。選挙の時には、岸邦弘君、福井貞夫君、石田良平君(故人)、木山順子さん、その他おおぜいの仲間が応援に駈けつけ、演説会場の世話などをしていました。

太田英一君や水野信利君も、5回生です。
太田君は英語が得意で、富山外国語専門学校で英語の常勤講師を勤めています。たいへんな勉強家で、わたしが中国語講師を勤めていたころ、中国語専修コースを受講したりしていました。

水野君は高校生のころから、わたしのところへ出入りしていました。東田重久君、柳耕一君たちといっしょに文芸誌「ちんぐるま」(ブログ:七ころび、八おき東部中学校のころ③)の編集にも参加してくれました。富山大学を卒業したあと国際基督教大学()に進学。やがて「学習研究社」に就職。わたしが「コトダマの世界」(1991)(ブログ:七ころび八おき富山外専のころ①)を発表したあと、「学研・漢和大字典」(藤堂明保編、1978年版)(辞典の話)をプレゼントしてくれました。すべての漢字に上古音・中古音・現代音の解説がついています。日漢英の音韻比較をめざす わたしにとって、もっとも信頼できる辞典の一つです。


負うた子に教えられる
「負うた子に教えられて浅瀬を渡る」というコトワザがありますが、たしかにそのとおりだと思います。わたし自身、これまで中学校・高校・専門学校などで「教えて」きました。しかし、いま考えてみると、わたしが「教える」ことができたものなど、ほとんどゼロだったような気がします。もし、どれだけか成果があったとすれば、それは生徒さん自身の努力によるものです。コトバを学習・習得するのは、生徒さん自身の大脳や視聴覚器官や発声器官であり、教師が代行するわけにはいかないからです。

 わたしが生徒たちに「教えたり、授けたり」できたものはゼロだったかもしれませんが、ぎゃくに わたしは生徒たちから無限大のパワーをもらったと感じています。

東部中学に赴任したころのわたしは、まだ半人前の教師でした。なんべんも失敗をくりかえしながら、なんとか一人前の教師に成長できました。先輩や同僚教師だけでなく、父兄や生徒たちまでふくめて、みんなで「鍛えて」くれたおかげだと思います。

まだあります。「コトダマの世界」(1991)」や「スミ・シム・SMITH」(1995)(ブログ:七ころび、八おき富山外専のころ②を出版した時など、島田君に相談して、5回生のみなさんから組織的なカンパをしていただいたこともあります。あの時は、8回生のみなさんにもお世話になりました。