2012年5月29日火曜日

原発被災地に生きる越中人

公開講座「越のまほろば」


「越のまほろば」5月例会(北日5/18)
 

  
「北関東・相馬における真宗移民
 

  「相馬移民と二宮尊徳」



 二宮尊徳像


「越のまほろば」5月例会
公開講座「越のまほろば」5月例会が17日、富山市千代田町の「割烹まる十」で開かれ、南砺市大窪の僧侶で、となみ民芸協会会長の太田浩史さんが「原発被災地に生きる越中人」と題して講演しました (北日本新聞5/18記事参照)。その中で、太田さんはご自身の著作「北関東・相馬における真宗移民研究のあゆみ」、「相馬移民と二宮尊徳」はじめ大量の資料をもとに、つぎのように解説されました。
東日本大震災で原発被害を受けた福島県相馬地方は、江戸時代に越中砺波地方から大勢の真宗門徒が移り住んでいた経緯があり、富山県とゆかりのある土地。
1783~84の「天明の大飢饉」で農民が減った相馬地方へ、砺波から移り住んだ真宗門徒たちが、信仰の異なる新たな土地で苦労しながら荒地を耕し、豊かな田畑に変えてきた。
③東日本大震災に対して最も実効性のある復興策を建てるには、「相馬移民」、「天明の大飢饉の復興策」などの歴史にまなぶことが必要。

「北関東・相馬における真宗移民研究のあゆみ」
現代日本史研究者として、本田さんの研究報告書です。
1章 北関東の真宗移民研究
2章 相馬における真宗移民研究のはじまり
3章 岩本由輝と加賀者
4章 昭和29年の合同調査
5章 北陸における研究
6章 その後の諸研究

「相馬移民と二宮尊徳」
太田浩史著。20111128日発行。「刊行の御挨拶」から一部ご紹介します。
原発がある一帯は、江戸時代相馬中村藩といって、天明の大飢饉で人口の大半を失い、その復興のために移民が行われたところです。移民のほとんどは北陸はじめ各地の真宗門徒でした。そして二宮尊徳翁の報徳仕法真宗門徒のお講を通じての聞法力が、数千町歩の荒地を美田に変え、50年以上の歳月をかけて見事な復興をなしとげたのです…
私は歴史学徒として何度も現地におもむいて資料をあさり、諸先輩の研究を調べてみますと、まことに純真で、気宇壮大で、かつ美しい人々の物語が浮かび上がりました。それをできるだけ読みやすく、ポケットに入るほど小さく、廉価で配布しやすい小冊子にまとめてみました。それは原発被災地の方々と、全国の方々が、ひとつの美しい歴史を共有するためです。
相馬地方はたんなる被災地ではなく、これからの日本が物心両面において立ち直るべき、宝石のような土徳の場所です。その土徳がふたたび輝きだすことのお手伝いとしてこの書を捧げます…
そこで有縁の諸兄にお願いがあります。
この書は原価90円のところ、300円でご購入いただいております。それは1冊買っていただくことによって、ご先祖の歴史を知りたがっておられる原発被災地の方々に送料をふくめて2冊が無償でとどくことを意味します…
<連絡先> 太田浩史(おおた・ひろし)。富山県南砺市大窪125.電話0763-62-1807.

内容もくじ 
6判、全文80ページの小冊子。読みやすいように、たくさんのコミダシがついています。イズミの<独断と偏見>で、主なものだけを記します。
入百姓ということ/ 豊かだった相馬藩と財政危機/ 藩勢が一変した天明の大飢饉/ 移民以前の真宗門徒と本願寺派/ 最初の移民/ 移民ルート/ 草鞋脱ぎ僧の活躍/ 越中と関係が深い相馬の真宗寺院/ 信仰と習俗のちがい/ 違和感/ 第一次移民の成果/ 天保の大飢饉/ 草野正辰と二宮金次郎/ 相馬藩の分度/ 第一期相馬報徳仕法/いもこじ会/ 富国方法書/ 北関東の報徳仕法/ 第二次移民と報徳仕法/ 相馬に残る越中弁
 
二宮尊徳像
この本のトビラにかかげられた二宮尊徳像です。
尊徳のことば「荒地は、荒地の力をもって開くべし」については、本文中「草野正辰(くさの・まさとき)と二宮金次郎」(43ページ)の項をご参照ください。
 
正直な感想
わたしは学生時代から『歎異抄』の愛読者で、ずっと「親鸞の押しかけ弟子」を自称していました。『歎異抄』に「親鸞は弟子一人も持たずそうろう」とあったからです。
敗戦中国大陸から引きあげてきたあと、富山に定住することになりましたが、中学卒業まで北海道で育ち、東京で学生生活4年、大陸で鉄道会社社員として4年、さらに帰国前半年ほど八路軍管理下で生活してきたわたしは、富山の生活習慣になれるまで時間がかかりました。富山は真宗王国と聞いていましたので、仏教青年会のサークルに参加したりしましたが、(いろいろな事情もあって)相互の違和感はそう簡単には消せませんでした。
また、まわりの浄土真宗の僧侶たちの活動をみても、むしろゲンメツを感じるばかり。真剣に親鸞の教えを説教するお坊さんの姿など、めったに見たことがありません。ただ門徒制度の上にアグラをかいて、祖先の遺産を食いつぶしているだけのように見えました。
それからン十年。東日本大震災がおこり、地震・津波とともに放射能汚染被害をもたらしました。もはや東日本だけの問題ではありません。「原子力発電推進」は日本の国策でしたから、福島原子力発電所の爆発はそのまま日本国の「敗戦」とよぶべきものです。その復興策もまた、「東北のひとたちにホドコシをする」ためではなく、「東北のひとたちといっしょに日本再建する」ための方策であるべきでしょう。日本人はおたがい、それなりの「覚悟」をもとめられているのだと思います。いや、わたしがこんなことをいうまえに、みなさんそれぞれに「覚悟」をきめておられるようにも思われます。
太田さんのお話を聞かせていただいて、富山にも親鸞直流の宗教者が健在することが分かり、うれしくなりました。
そのあとまた『相馬移民と二宮尊徳』を読ませていただき、あらためて「越中人」や「二宮尊徳」について考えてみたいという気になりました。

2012年5月15日火曜日

ゼロ歳ポッチャリ君のパワー


北前船廻船問屋「森家」



磯料理「松月」
 


 ポッチャリ君、ケータイ電話に関心



こっち向いて!


もういちど!


西田夫妻と長男ハルト君
4月なかば、東京から伊藤広美・淳子夫妻が来県。わたしども老夫婦をあちこち花見につれていってくれました。あのときは、愛犬ランちゃんともども「二人と一匹のご一行さま」でした。
そのあとまもなく430日、こんどは九州小倉から西田タカノブ[尚信]・規子夫妻が、生後8か月の長男ハルト[悠人]君をマイカーにのせて、たずねて来てくれました。
尚信さんは西田恵美子(信子の妹)さんの長男で、信子にしてみれば「オシメをかいていたころから、よく知っている」あいだがら。また、規子さんの話では、「(骨付き)魚の上手な食べ方を、富山のおじさんから習った」というのが尚信さんの口ぐせだそうです。わたし自身たしかな記憶はありませんが、あるいはそんなことがあったかもしれません。
これまでの尚信さんと規子さんは、「西田家の長男とオヨメサン」というだけでしたが、こんどは(未来の西田家当主)ハルト君の親として、「富山のおじさん・おばさんたちにオヒロメする」ための富山訪問。その意味で、この「西田家三人のご一行さま」の主役は生後8か月のハルト君というわけです。

ポッチャリ顔で、女の子みたい
尚信さん一行は、小倉を出てから規子さんの実家のある大津に立ちより、そこで規子さんの「琴の発表会」をすませてから富山へむかったそうです。
30日午後2時過ぎ、イズミ宅へ到着。ハルト君がよく眠っていたおかげで、クルマの運転が予期以上に順調だったとのこと。
ハルト君のことは、恵美子さんからの電話で、いろいろ話は聞いていましたが、これがはじめてのご対面。クルマにゆられての長道中、くたびれていないかと心配していましたが、意外に元気なようす。人見知りせず、わたしが抱っこしても、にこにこしていました。
ポッテリ・ポッチャリした顔で、まるで女の子みたいに見えます。
まだハイハイもうまくできませんが、とにかく元気で活発。よく動きます。オモチャにはあまり興味がないようですが、電気のコードやケータイのストラップなどを見ると、手をのばしてつかまえようとします。つかまえたものは、口へもってゆきます。タベルというよりも、クチにフレル感触を味わっているようすです。それはやがて、食品を検査したり、グルメを楽しんだりする行為につながるものかもしれません。
そして時々、かなり大きな声で「アァ、アァ」とさけびます。なにか重要なメッセージを発表しているのかもしれませんが、わたしらには意味不明です。

「津田ずし」で夕食
午後6時、藤木芳明さん・美織さん夫妻が到着したところで、雪見橋ほとりにある「津田ずし」へ移動、いっしょに夕食を食べました。「津田ずし」までは、歩いて3分ほど。あまりはでな宣伝広告はしていないようで、有名店といえるかどうかは分かりません。それでも、尚信さんがはじめて富山へみえたとき、ここでスシを食べ、「富山のサカナはうまかった」といってくれたので、そのあと規子さんがみえたときも、ここへ案内しました。
美織さんは、尚信さんといとこ同士。昨年5月西田夫妻が来富したときも、八尾の祭りで山車見物にさそってくれたこともあり、話題が尽きません。
この日、お店の方でお客さんが立てこんでいるようすはなく、座敷は貸切状態。ハルト君がなにをしようとキガネなし。みんなゆっくりオシャベリすることができました。
食事のあと、西田家の3人はクルマをイズミの駐車場にとめたまま、予約してあったホテル・ドーミンへむかいました。

ポートラムに試乗
51日午前中は、藤木夫妻が「富山のまちなみ」を案内してくれることになりました。
10時、藤木さんのクルマで砂町から富山駅北口まで移動。ここから東岩瀬駅までポートラムライトレールの愛称)に試乗しました。森富山市長が提唱する「新しい都市づくり」のメダマであり、日本全国から見学者が押しよせている、いま評判の新型電車です。
これまで富山市内の観光コースといえば、富山城・中心商店街、あるいは呉羽山展望台・民族民芸村などが定番でした。ところがバブルがはじけてから、中心商店街はさびれるばかり。いつ立ち直れるのか見当がつきません。その一方で、いまの森市長になったころから、富山駅北側のオフィス街と海沿いの「廻船問屋のあるまちなみ」(岩瀬地区)を1本の線でつなぐ「新しい都市づくり」の動きが目立ってきました。その「1本の線」が、このポートラムです。わたしは、まだ2~3回乗っただけですが、はじめて乗った時から「これならイケル」と感じていました。ユレも騒音も小さく、これまでの電車とはまるで天と地のちがいです。いま走っている市内電車をライトレールにとりかえたら、沿線の住民たちや商売屋さんたちは大歓迎だろうと思ったくらいです。

北前船廻船問屋「森家」
東岩瀬駅でライトレールを降りると、藤木さんがクルマで先まわりして、待ち受けていました。ここからふたたび藤木さんのクルマで「回線問屋群のあるまちなみ」見学にむかいます。
岩瀬大町通りには、「北前船廻船問屋森家をはじめ馬場家、米田家、佐藤家、佐渡家、宮城家などの旧家があり、中でも森家は重要文化財に指定されています。
リーフレットに「森家は、代々四十物屋仙右衛門と称し、明治以降は苗字を森とした」と解説されていました。アイモノ[四十物]は、もとアヘモノ[饗物](ごちそう)。四十物屋は「水産物業者」(魚屋さん)のことです。アイモノというコトバは、職業名のほか地名にも使われ、富山市中心街にも「西四十物町」が現存しています。「東四十物町」は中央通に吸収されましたが、郵便局名「富山四十物町」(2010.8.31.ブログ「川にゆかりの地名」参照)としてナゴリをとどめています。
 
「松月」で昼食
藤木さんが、「松月」で昼食をとるように手配してくれました。「松月」は岩瀬地区を代表する老舗の料理旅館で、「磯料理」をカンバンにしています。わたしはむかし北部中学校に勤めていたころに数回、そのご町内会の懇親会でも1回来たことがありますが、それっきりだと思います。古風な建築様式がそのまま残されているので、ここへ来たとたん、タイムスリップした感じになりました。

ゼロ歳児からパワーをもらう
午後3時過ぎ、砂町へ帰着。「西田家三人のご一行さま」はクルマをのりかえ、大津へむかって出発しました。
ハルト君とは、たった二日間のツキアイ。「風とともに去りぬ」といったところですが、半月たった今でも、ついそこでハイハイしたり、なにかをオシャブリしたりしているような錯覚をおこすことがあります。
生後8か月のアカちゃんですから、カタコトといえるほどのコトバも話せません。それでも、ただ顔を見ているだけで、ハルト君といろんなことを対話できたと感じています。おかげで、わたしはハルト君からたくさんの元気・パワーをもらいました。
客観性・科学性を追求する立場からいえば、ゼロ歳児と「対話」したり、元気をもらったりするという現象を説明するのはむつかしいかもしれません。しかし、実際世間ではありふれたこと、むしろ当然のことと考えられていますよね。

ポタポタ・ポッチリ・活発・potent
さきほど、ハルト君のことを「ポッチャリ顔」といいました。顔だけではありません。手も足も胴体も、ポタポタ・ポッテリした姿です。さわってみた感じはやわらかですが、弾力性があり、カッパツ[活発]な動きをみせます。生命力のカタマリといった感じです。
このpot-という語音は、「水滴がポトポト・ポツリと落ちる」、「滴がホトバシル」姿などにも使われます。また、漢語ハツ[發](発生・活発・発酵)やボツ[勃](勃起・勃興)なども、「生命力がホトバシル」姿です。さらには英語でも、語根poti-(powerful)からpowerちから, possible可能な, potent有力な、などの派生語が生まれています(ブログ「コトダマの世界」2012.5.9.「p-t音の英語」などを参照)。


2012年5月1日火曜日

サクラおっかけ旅行

『富山さくらの名所』    
 



安居寺のシダレザクラ
 


 サクラおっかけ隊


 光徳寺門前の石碑


「夢つづり」露天ぶろ


庄川のさくら



 クロスランドタワー


朝日山公園のさくら 

伊藤夫妻とランちゃん来県
この季節、ことしも東京からお客さんが見えました。信子の姪の伊藤淳子さんとご主人の広美さん。それに愛犬ランちゃん。二人と1匹のご一行様です。伊藤さんみずから愛車を運転。富山までの途中、あちらこちらでサクラの開花を楽しむことができたそうです。
4月12日から18日まで富山に滞在。昨年呉東方面をまわったので、ことしは呉西方面で富山のサクラを満喫したいとのこと。4月16日庄川峡のホテル「夢つづり」で1泊というサクラおっかけ旅行の予定も組まれていました。メンバーは、わたしら老夫婦と富山在住の藤木美織(信子の姪)さんをふくめて5名。全員伊藤さんのクルマに便乗します。

 サクラおっかけ隊出発
4月16日。晴。いたち川べりサクラも、ようやく満開の感じ。朝10時、一行5名イズミ宅に集合。『富山さくらの名所』(富山県農林部発行)を参考に、サクラおっかけ旅行のコースについて相談。適当にサクラが咲いていそうなところを探し、そこがダメなら、すぐほかのところを探すことに。
10時半に出発。まず高岡の元加藤医院(淳子さんの実家)跡地をたずね、宅地造成の現状を見学したあと、近所の犬猫病院でランちゃんをあずかっていただきました(ホテルではペット同伴不可なので)。

安居寺のシダレザクラ    
南砺市福野町の安居寺をたずねました。シダレザクラが見事だと聞いて来たのですが、ざんねんながら、満開にはまだ間があるようでした。満開だったら、どんなにすばらしいことかと想像をめぐらしました。

棟方志功ゆかりの光徳寺
福光といえば棟方志功を連想しますが、あいにくの月曜日。公立の福光美術館は休館だろうということで、方林寺の躅飛山光徳寺をたずねました。山門の手前に、志功作「蓮如上人の柵」の石碑が建っていました。石碑をとりかこむツバキの赤色と水仙の黄色が印象的でした。
寺の中は、本堂も庫裏もふくめて、棟方志功の大作「華厳松」をはじめ、柳宗悦・宮本憲吉・河井寛次郎・浜田庄司らの民芸作品、さらには世界各国の民芸品まで、所せましとばかり展示されていました。
公立の美術館などでは、ガラスケースごしに作品を「見学させていただく」という感じになりがちですが、ここではあまり「気をつかったり」「気どったり」「身構えたり」する気持ちになりませんでした。これが民芸運動の作風というものかもしれません。

庄川のさくら     
まだ明るいうちにホテル「夢つづり」にはいりました。7階の部屋に案内されたとたん、窓から庄川峡の景色が目に飛びこんできました。山の緑と桜のピンクと庄川の青とが、まるで額縁におさまった一幅の絵になって見えました。ホテルの人の話では、この桜きょうようやく咲きそろったばかりとのことでした。
夜の露天ぶろの桜も、ライトアップされて見事でした。

クロスランドタワー     
4月17日、きょうも晴。午前中、小矢部市でクロスランドタワーに登りました。
高さ100メートルの展望台から、小矢部川はじめ散居村のようすなどを一望できます。
小矢部市といえば、小中学校の校舎など公共建築に世界各国の有名建築物をまねたメルヘンチックなものが多いことで有名です。この塔などもそのたぐいといえます。
オヤベ[小矢部]かわ川の古称は「射水川」。大伴家持が「射水い往きめぐれる玉くしげ二上山は…(. 3985)と歌った、その川です。
大和朝廷の時代、イネ農耕で列島改造のパイオニアとしてコシ[越]の国へ派遣された大伴家持が二上山に登ってながめたのがイミズ川とイミズ平野。千数百年をへだてて、イミズ川のほとりの住民たちがイミズ平野を一望できる「太陽の塔」を建てました。二上山とクロスランドタワー。なんの関係もないように見えますが、これを「国づくりの計画を立てるための展望台」と考えれば、両者の発想は完全に一致することが分かります。大伴家持らのDNAがそのまま現代まで、イミズ平野の住民たちに受けつがれてきたようです。

 []をイル[]姿の水
ついでに小矢部川の古称「射水川」命名の由来について、イズミ流の解釈をご披露します。
ヤマトコトバでといえば、基本的に[]を意味します。イク[射来・行]・イル[射・入]・ユク[]ものがヤ[矢]です。したがってイミズとは、「矢がイク」「矢をイル」姿の水=川ということです。
シブヤ[渋谷]・ヨツヤ[四谷]など、タニ[谷]のことをヤと呼ぶことがあります。これも谷・峡谷が川スジの地形であり、「ヤ[矢]がユク」姿だからです。
そのほか、太陽を指すこともあります。それは、太陽が「天空を飛び行く矢(の鳥)」と考えられたからです。
 
朝日山公園のサクラ        
時間はたっぷりあるということで、氷見市朝日山公園のサクラも見物しました。わたしは19881989年ころ、氷見商工会議所主催の中国語講座のため毎週1回中央公民館までクルマで通勤の途中、この辺を通った思い出があります。しかし、この公園での花見は、これがはじめてです。
公園の展望台に立つと、はるかかなたに氷見漁港の巨大クレーンが見えました。
そのあと氷見漁港にまわり、海鮮館で昼食を食べてから帰途につきました。

あとがき
東奔西走、ユメのような2日間でした。とはいっても、走ったのはクルマ。運転したのは伊藤さん。わたしと信子はクルマの座席に座っているだけ。ところどころでクルマから降りて、サクラをながめたり、ケータイのカメラでうつしたり、どこかの茶店でダンゴを1串たべたりしていました。
そうした1コマ・1コマの場面はたしかにおぼえているのですが、さてそれがドコだったか、地名を思いだせないところがあります。ケータイの写真をパソコンにおさめ、2日間の記録をまとめてブログにのせようとしましたが、行程・順序の記憶がおぼろげで、なかなか整理できません。やっぱりトシですね。
数日して、伊藤さんからドサッと写真(20枚)がとどきました。わたしのケータイ電話のカメラなどとちがって、本格的なカメラによる作品です。そのうち「サクラおっかけ隊」「露天ぶろ」「クロスランドタワー」の3枚を、このブログに使用させていただきました。