2012年10月28日日曜日

ランちゃんが来た

 
こんにちわ
 
 
 お食事中
 
 
 おひるね
 
 
 おやすみ
 
 
 お散歩

 


伊藤夫妻が来富
1012日、東京から伊藤夫妻が来富しました。愛犬ランちゃんもいっしょです。

こんどは、白山スーパー林道の紅葉狩りなどで1週間滞在の予定。期間中、ランちゃんは基本的にイズミであずかります。臨時にマゴかヒマゴが一人できたみたいなことになります。食事用 (エサ入れ・水入れ)やトイレ用のトレーなどは、前回イズミに置いていったものを出して使います。

 

ランちゃんは12
ランちゃんはことし12歳とのこと。人間の年齢に換算すると65歳ほどでしょうか。そういえば、以前にくらべて動作がすこしにぶくなった感じがします。ひるま、だれも遊び相手がいないときは、よく眠っています。体がちいさいので、つい「寝る子は育つ」「これからおおきくなる」とカンチガイしそうになりますが、そうはゆかないようです。

よるは、わたしのベッドのすそのアタリで寝ます。これまでは、ユカからベッドまでひょいと飛びあがったものですが、こんどは人の手でベッドにのせてもらっていました。

 

お散歩がダイスキ
ランちゃん、食欲はあります。ドッグフードだけでなく、ニンゲンの食べるものにも関心があるようです。

また、ヌイグルミで遊ぶのがスキです、ヌイグルミを遠くへ投げてやると、一目散に飛びだし、おいかけ、口にくわえてもどってきます。ヌイグルミを取りあげようとすると、こんどはしっかりくわえたまま。いくらふりまわしても、クチからはなそうとしません。もうしばらく、いっしょに遊んでもらいたいのでしょう。

お散歩もダイスキ。朝夕の散歩は信子の担当(わたしはなにもしません)。首輪をつけてもらって、いそいそと出かけます。

ドライブでお出かけもスキなようです。さいごの写真は、大沢野「石像の里」に着いた時のランちゃんです。

2012年10月18日木曜日

いたち川の秋

いたち川の秋、A
 
 
 いたち川の秋、B
 
 
いたち川の秋、C
 
 
 
 シルエット
 
 
 百塚ガラス出土遺構
 
 
 
 百塚ガラス出土遺構





いたち川の秋
9月になっても、毎日あつい日がつづきました。それが10月にはいったとたん、いっぺんに秋の風を感じるようになりました。

いたち川の川べりもすこしづつ紅葉が目にはいります。ヒガンバナは、開花がおくれた分、まだ赤い花をおとさずにのこっていますが、ススキの穂が秋の到来を強調しています。夏日のヒザシがよわまった分、舗装道路にうつる人間のシルエットもうすれてきた感じがします。

 

百塚遺跡のガラス
106日午後、県民会館で、金沢学院大学文学部歴史文化学科の公開講座が開かれました。

はじめに「科学で探る百塚遺跡のガラス」という題で、中村晋也さんが「古代ガラスの材質分析」「材質の歴史的変遷」「百塚遺跡のガラス出土遺構」「ガラス小玉蛍光エックス線スペクトル」などについて解説されました。

老人のアタマでは、なかなかついてゆけない部分もありましたが、百塚遺跡のガラス玉は弥生時代呉羽山古墳群のガラス玉は古墳時代後期に分類されることが分かりました。

これまで神話や伝説の世界としか考えられなかったものが、いっぺんに身近な存在になった感じです。

 

渤海と日本の航路
古代ガラスの話にひきつづき、小嶋芳孝さんが「日本から渤海へ渡航した人々が見た風景」と題して、「渤海の歴史」「渤海と日本の航路」「渤海の風景」「ポシェト湾の港湾施設」などについて報告されました。

渤海国698年に勃興、926年に契丹の攻撃を受けて滅亡。810年、渤海使節が帰国。高多仏が残留し、越中で渤海語を教えるなど、越中とは深い縁がある国です。その渤海語とは、どんなコトバだったのでしょうか。語順は漢語や英語にちかいものだったのか。それとも日本語や朝鮮語・モーコ語にちかいものだったのか。質疑応答の時間に質問してみましたが、残存する渤海国にかんする記録文書はすべて漢文ばかりで、直接渤海語の実態を示す資料は見あたらないとのことでした。

あとでネットでも調べてみました(ウィキペディア・フリー百科事典)。

渤海国では、高句麗語と靺鞨語が混用され、やがて一つの渤海語が形成され、渤海の滅亡とともに衰退し、遅くても12世紀から13世紀には消滅したという説が存在している。
渤海語研究では資料的な制約のため詳細については不明である。僅かながら『新唐書』に渤海語と思われる単語が収録されている程度のものである…会話では靺鞨語(ツングース系の言語)を主に、表記などでは高句麗語を交える傾向が推察される。また、表記文字としては当時の東アジアで一般的であった漢字を利用していたものと考えられている。


2012年10月6日土曜日

ヒキ山と山ホコとヒゲコ[髭籠]



ヒガンバナ 10/2

「日文悠ニュース」第6
 
ヒガンバナ
ことしもいたち川べりのヒガンバナが咲きました。ただ例年なら彼岸の中日にはみごとに咲きそろっていたように思うのですが、ことしはすこしおくれたようです。北日本新聞が「いたち川沿いに咲き始めたヒガンバナ」の写真を報道したのは925日。「狂乱」ともいうべき、あの赤さは、この夏ついに見ることができませんでした。そのかわりというのか、102日になってもまだ、見る人の目を楽しませてくれます。
 
「庄川流域の食とことば」
毎日パソコンにむかっていますが、お年ごろですからブログの更新がはかどりません。その一方9月中は日本海文化悠学会の研修会など、いろいろ勉強になる機会があり、楽しませてもらいました。そのご報告をさせていただきます。
924日、富山市千代田町丸十で、「越のまほろば」公開講座が開かれ、「庄川流域の食とことば」と題して、富山大学教授中井精一さんが北陸地方の「雑煮」の実態について解説されました。社会言語学というのだそうですが、わたしには民俗学とのちがいもよくわかりません。ただ、雑煮の具材としてのガンモドキが地域によって「マルアゲ・マルヤマ・ヒリョーズ・へローズ・アブラゲ・アゲ・ツボー・アツアゲ・アブラアゲ・ガンモ・ガンモドキ」など、ちがった呼び名をもっていることに興味をひかれました。
 
富山で日本語学会の全国大会
中井先生のお話で、この112日から4日にかけて、富山大学五福キャンパス黒田講堂を主会場として日本語にかんする学会の全国大会が開催されることが分かりました。
112日、日本方言研究会第95回研究発表会を富山大学五福キャンパス黒田講堂で開催。午前の部は研究発表、午後の部は柳田國男没後50周年記念シンポジウム、「あいさつ表現の方言学
1134日、日本語学会2012年度秋季大会を富山大学五福キャンパス黒田講堂で開催。
二つの大会とも、会員だけでなく一般人も参加できるようです。全国組織をもつ学会が富山で大会を開くということは、めったにないチャンスです。
世話役の中井精一先生、たいへんご苦労さまです。大会のご成功をいのります。
 
「放生津八幡宮の曳山祭り」の話
928日、富山市茶屋町豊坂稲荷神社で、日本海文化悠学会の第5回研修会が開かれました。テーマは「放生津八幡宮の曳山祭り」、提案者は五十嵐顕房(豊坂稲荷神社宮司)さん。放生津の由来」「八幡信仰」「ヨリシロ・ヤシロ・神体」「ツキヤマ・ヒキヤマ・ヤマホコ・ヒゲコ」などについて、くわしく解説していただきました。
わたしははじめて聞く話がおおく、どれもみなおもしろかったのですが、さてそれではどんなことが分かったのかと考えてみると、あまりくわしすぎて混乱したままのような感じもします。「ヤマホコダシは、どこがどうちがうのか」、「ヒゲコは、どんな意味・役割をもっているか」など、もうすこしスッキリ整理できないかと考えました。
 
ヒキ・ヒゲとホコ
ヒキヤマ[曳山]をめぐって、いろいろなヨビナがあります。そのヨビナを語音別のグループに分け、それぞれの語音がもつ基本義から、そのヨビナ(ヤマ・ダシなど)の意味や役割などをさぐる方法もあると思います。
そこで、もういちど読みなおしてみると、ヒキ(曳山)とヒゲ(髭籠)とホコ[]3語はいずれもp-k音グループであり、同族語と考えられます。ヤマ(y-mダシ(d-sなどとは、あきらかに別のグループです。つまり、音声面からは無関係のコトバ。ただし、同一の事物を他の音声(子音)で表現することもしばしばおこることなので、ヒゲとダシが同義語となる可能性もあります。
 
折口信夫「髯籠の話」
ヒゲコ[髭籠]のことが気になって、ネットでしらべてみました。折口信夫「髯籠の話」紹介されていましたので、一部引用します(歴史カナヅカイのまま。下線は引用者)。
 
古代人の考へとしては、雲路を通ふ神には、必或部分まで太陽神の素質が含まれて居たのであるから、今日遺つて居る髯籠の形こそ、最大昔の形に近いものであるかと思ふ。木津の故老などがひげことは日の子の意で、日神ヒノカミの姿を写したものだと申し伝へて居るのは、民間語原説として軽々に看過する事が出来ぬ。其語原の当否はともかく、語原の説明を藉りて復活した前代生活の記憶には、大きな意味があるのかも知れぬ。
 
「日文悠ニュース」のこと
928日の研修会の席で、「日文悠ニュース」第6が配布されました。前回研修会(宮原利英氏提案「富山の金太郎伝説」)のあらまし、参加者の感想・意見、次回研修会の予告などがのっていました。「悠学会」が単なる同好会ではなく、「学会」の名にふさわしい研究会であるためには、やはりこうした「提案・討論の記録」(そして全会員への配布)が必要だと思います。
なお、この号の記事に「発音で、言葉の意味を再考する手法に興味を覚えた」とあり、そのご101日、事務局の五十嵐俊子さんから「(イズミの)ヰヒカ[井氷鹿]=井戸をヒク職人」説を会員に紹介したいというメールをいただきました。わたしがこの説を発表してから30年あまりになりますが、まだ公認されてはいません。積極的に反論された方もいません。悠学会の席で討論していただけるようになればと、ひそかに期待しています。