2014年8月29日金曜日

夏が過ぎ…

 
 
戦時下の暮らし展、A
 
 
戦時下の暮らし展、B 
 
 
高志の国文学館の庭 
 
 
富山県央植物園、A 
 
 
富山県中央植物園、B 
 
 
富山県中央植物園、Ⅽ 
 
 
 
 

ゆーとりあ越中へ1泊旅行
東京から 伊藤 淳子さんが 帰郷する のに あわせて、藤木 美織さんも いっしょに 4人で1819日、ゆっくり 温泉旅行に 出かけようと いう ことに なりました。行き先は 春日温泉 ゆーとりあ 越中。美織さんが 運転する クルマに 3人が 便乗させて もらいました。

台風の あとで、天候の ことが 心配でしたが、うまい ぐあいに2日とも 快晴。ゆったり のんびり、イノチの 洗濯が できました。

 

戦時下の 暮らし 展
午前10時半 イズミ宅を 出発。まず 高志の国 文学館(舟橋南町)を たずね、おりから開催中の「戦時下の 暮らし 展」を 見学。「空襲警報 発令中」の カンバンや「出征兵士を 送る」旗、「富山大空襲」を 報道する 新聞 コピー などを 見て、しばらく 目を クギづけに されました。敗戦当時 わたしは 中国大陸に いた ので、日本内地の 状況を 直接体験して いない のですが、おなじ 時代を 生きた 人間として 共感 できます。問題は、この 戦争体験や 情報・知識を どう 生かすか です。「過ちは くりかえし ませぬ から」と いいきれる のか?あるいは、またしても「いつか 来た 道」を たどる のか?          

文学館の ガラス戸 ごしに、みどり ゆたかな 庭が ひろがって いました。時間が あれば、そして 健康が ゆるせば、また 足を はこんで、いろんな テーマの 資料を のぞいて みたいと 思いました。

 

富山県中央植物園 
時間は たっぷり ある から という ことで、ついでに 富山県 中央植物園(婦中町 上轡田)を たずねる ことに しました。

歩くのは ニガテ なので、ひろい 敷地を どう やって まわろうかと 思案して いた ところ、ちゃんと 電動 ミニバスが 運行して いました。30分 ほど かけて、見ごろの 植物について 解説付きで まわって くれました。

めずらしい 形を した 葉っぱの 木を 見つけ、ナマエも 教えて いただいた のですが、ノートして おかなかった ので、あとで 写真を ながめて いても 思いだせ ません。健忘症が ここまで 進んだか という 感じです。

なお、植物園 関連 3枚の 写真は 伊藤 淳子さんが 撮影した ものを 利用させて いただきました。

 

夏が 過ぎ…
825()。アピアの フィットリハは 先週 欠席しました ので、2週間 ぶりの 出席です。まだ 盆休みの 流れ という ので しょうか、いつもの 顔ぶれの うち 34人が 欠席でした。

レッドコード(赤い ヒモ)を つかう コースの 最後に、ステップ(踏み台)を 踏む 動作が組みこまれて います。足腰が 弱って くると、わずかな 段差でも つまづいて しまう ので、その 転倒防止 効果を ねらっての 動作です。そのとき 流される 音楽が、まず 「涙そうそう」、そして シアゲが「夏が過ぎ…」の2曲。

この日は ちょうど 高校野球 決勝戦の 日。甲子園球場で、大阪の 桐蔭高校が 三重高校と 熱戦を 繰りひろげて いた 時間帯です。

「高校野球が 終わった」と 口に だした あと、すぐ「夏が 終わった んだ」と 気づかされる ことに なりました。

夏が 過ぎ 風あざみ  誰の あこがれに さまよう
青空に 残された 私の 心は 夏模様…

アピア からの 帰り道、雨が しとしと ふって いました。毎日 アツイ・アツイと ぼやいて いましたが、ついにですか。

2014年8月25日月曜日

「敗戦記念日」に 思った こと

 
 
海自が靖国集団参拝
 
 
在日米軍靖国訪問を自粛 
 
 
戦没者追悼式 
 
 
法王元慰安婦に寄り添う 
 
 
黒人青年射殺1週間 
 
 
 

画像について
最近の 北日本新聞記事の 中 から、「815日」、「歴史認識」、「従軍慰安婦」、「民族差別」などに かんする ものを えらんで、かかげさせて いただきました。

それぞれの 記事を てがかりに、ここで あらためて 自分自身の 問題として 考えて みたいと 思います。

 

  海自が靖国集団参拝、8/13
遠洋航海前に毎年100人以上。公務との指摘も。…防衛省はことしの参拝について「歴史学習目的で遊就館を訪れた際、休憩時間中に自由意思で行った」としているが…政教分離を定めた憲法20条との兼ね合いが問われそうだ・・・

毎年 この 季節に なると、年中行事の ように この種の 問題が 話題に なります。ということは、長年に わたって 問題が 提起され、議論されては いるが、決着は ついて いない ということ です。すこし 見方を 変えれば、日本人は「議論して、シロ・クロ はっきり させる」のが キライ という こと かも しれません。

そもそも 靖国神社とは どんな 性格の 存在か?ほかの 神社 (伊勢神宮・住吉神社・出雲大社・八幡宮など)と どこまで 共通で、どこが どう 違って いるか?分かって いる ようで、正確には よく 分かりません。わたしが いちばん 知りたい のは、戦前の 靖国神社と 戦後の 靖国神社は おなじ 性格の ものか、それとも 変化した ものか という 1点です。それは「歴史認識」の 問題とも 関係して きます。

「大日本帝国 敗戦」、「新憲法 制定」で、日本の 国の かたちは おおきく 変わった と わたしは 考えて います。天皇の 地位に ついても「統治権の 総攬者」から「国民統合の 象徴」に 変化して います。ただし、「象徴天皇」とは 具体的に どう いう 意味 なのか、いま 一つ よく 分かり ません。

いまの 日本は、「天皇」を いただいて いる という こと から「立憲君主制」国家に 分類されて いる よう です。敗戦後 新憲法制定に あたり、「民主制」か「君主制」かに ついて 議論された 結果、象徴天皇」という ことで 双方が 妥協した との こと。「国体護持派」に とっては、「象徴天皇」が さいごの トリデで あり、できれば 天皇を「元首」に 復活したい という のが ホンネの ようです。しかし、一国の「元首」とも なれば、「統治権の 総攬者」で ある ことが 要求され、失敗したら 国の内外 から 責任を 問われるのが 当然と いう ことに なります。いまの「象徴天皇制」は、「政治上の 責任は 総理大臣が とり、天皇には およばない」とする 制度ですが、理論的には それだけ ムジュンが のこって います。

 

  在日米軍 靖国訪問を自粛8/17
大統領訪日前、外交的影響懸念か…在日米軍司令部(東京・横田基地)がオバマ大統領の訪日を控えた今年4月上旬、米軍人による靖国神社訪問について「いまは望ましくない」との見解を示し、20人以上の訪問予定が取りやめになっていたことが16日、分かった…中韓などへの外交的な影響を懸念し、自粛したとみられる…<解説>歴史認識のずれ同盟に影…在日米軍司令部が米軍人の靖国神社訪問に自粛を促した事実は、阿部政権の歴史認識をめぐる日米間のシコリが同盟運営に落とした影を改めて浮き彫りにした…

日本の 自衛隊も、ムジュンの かたまり です。創設当時は「軍隊」でも なく、「戦力」でも なかった はず ですが、最近では 実質的に「軍隊」「戦力」を 目ざして 変化して いる よう です。

「軍隊」では、「上意下達」が 大原則。最高司令官が 総理大臣です から、その 意向が そのまま 自衛隊の 動きに 反映される のは アタリマエ。今回の報道は、日本國 総理大臣の 歴史認識同盟国 アメリカ 大統領の 歴史認識と すこし ズレて いる ことが、ここで あらためて 問題と された ものです。

思想・信条は 個人の自由 です から、日本国内で だれが どんな 歴史認識を もって いても 問題に なりません。ただし、公職に ある ものが 個人的な 歴史認識に もとづいて行動すれば、十分な 説明を 求められる のは 当然です。国内でも そうですが、まして 外国相手と なれば、さらに 気を つかわ なければ なりません。「アメリカは 同盟国なんだ から、日本に 同調して くれる はず…」という のは、一方的な アマエです。

どうして こんな ミットモナイ ことに なった ので しょうか?それは、日本がわの 責任です。外国 から 問題を 指摘される まえに、まず 国内で 自分たち 自身の 問題として 議論を つくして おくべきでした。いいかえれば、平生 日本国内で おこなわれて いた 議論の レベルが、国際的に 通用する レベルに 達して いなかった という こと です。

 

  戦没者追悼式、8/16
終戦から69年がたった15日、政府主催の全国戦没者追悼式東京都千代田区の日本武道館で開かれた。集団的自衛権行使容認の閣議決定で懸念が広がる中、安倍晋三首相は式辞で「今日は平和への誓いを新たにする日」と述べ、平和路線を強調。歴代首相が盛り込んできたアジアへの加害と反省については、昨年に続き今年も言及せず、同様に「不戦の誓い」との表現も使わなかった…

ここでも「歴代首相が盛り込んできたアジアへの加害と反省について…昨年に続き今年も言及しなかった」点が 問題と されて います。この あとに 紹介する「従軍慰安婦」問題と あわせて、日本国 総理大臣の「歴史認識」が  問われて いる わけ です。

 

法王元慰安婦に寄り添う、8/19
…韓国を訪問中のローマ法王フランシスコは最終日の18日、ソウルのミョンドン[明洞]聖堂で朝鮮半島の平和と和解を願うミサを行った。法王はミサの冒頭で23分にわたり、最前列に座った旧日本軍の従軍慰安婦だった韓国人女性7人全員の手を握り、うち1人の話に耳を傾けた…世界的に影響力を持つ法王が元慰安婦の女性らに共感を示したことで、国際世論に影響を与えそうだ…

問題は、いま すっかり 政治問題に なって いますが、もともと「性差別」や「人種差別」に 通じる 問題 であり、また「職業差別」にも 通じる 問題 だと 思います。

「性」の 問題は、根源的には「生」の 問題、つまり「イキル」「イノチ」「イノチを伝える」という 神聖な 問題 なの ですが、現実には 腕力や 財力・権力などに よる 強制的な 性行為も 生じて います。日本人も 韓国人も アメリカ人も、毎日 たくさんの 植物や⑤いる という のが 実態です。

動物・植物の イノチ だけの 話では ありません。国際間の 文化交流や 貿易が ある という ことは、その 文物を 生みだした 人たちの イノチ(労働力)を ヤリトリして いる という こと です。

「従軍慰安婦」問題は きわめて デリケートで、対処の 仕方が むつかしい のですが、「ローマ法王が 元慰安婦の 女性らに 共感を 示した」という 報道は、マックラ闇の なかにひとすじの ヒカリが さしこんだ 感じです。「いちばんの 弱者・犠牲者」の 心に 寄りそう ことが、問題解決への 第1歩に なると 思います。

 

⑤米黒人青年射殺1週間、8/17
…米中西部ミズーリ州ファーガソンの白人警察官による黒人青年の射殺事件は、人種差別問題の解消が今なお遠い米社会の現実をあらわにした。また今回は、必要以上の重武装で「軍隊化」した警察が住民を刺激し、強い反発を招いた…住民の怒りの背景には、地元警察への根深い不信がある。人口2万人超のファーガソンでは3分の2が黒人だが、警察はほぼ白人だけ。自動車を停止させて行う職務質問やその後の逮捕の対照は、9割が黒人に集中していた。ニューヨークでも先月、適切に税金が支払われていないたばこを売っていた疑いの黒人男性(43)が、白人とされる警察官に背後から首を絞めて取り押さえられ、死亡した…

民主主義に かけては 世界一と 自信を もって いる はずの 米國 にも、宿命的な ヨワミが あります。白人に よる 黒人に たいする 人種差別の 問題 です。米國の 土地は もとイギリス・フランス などの 植民地 でしたが、そのご イギリス植民地が イギリス本国を相手に 独立戦争を 戦った こと から、やがて いまの姿の アメリカ合衆国が うまれた という 歴史経過が あります。第3者の 目で 見れば、植民地 からの 自主・独立 というヒカリの 面と ともに、「先住者 排除」「ドレイ 貿易」など, カゲの 面も 見えて くるのですが、ご当人の 米国人たちは その カゲの 部分は「見て みない ふりを する」傾向がある よう です。

ただしい「歴史認識」を もつ ことの むつかしさは、日本も 米国も あまり かわらないよう です。その むつかしい 課題を 解決 できれば、そこから あらたな ヒカリ かがやく 歴史が 見えて くると 思われるのですが…

 

<追記>
広島・長崎への 原爆投下に ついても、関係者の「歴史認識」の ズレを とりあげる 予定でしたが、別の機会に まわす ことに します。

2014年8月20日水曜日

敗戦 前後の 思い出

 
 
北京、小沢公館で、1941
 
 
万寿山で、1945 
 
 
青年隊舎で菅原医師、1945 
 
 
居庸関あと、1981 
 
 
八達嶺周辺、1981 
 
 
 

画像に ついて
敗戦当時の 画像資料を かかげたいと 考えましたが、これはと 思う ような 資料が 見あたりません。とどの つまり、二番煎じ ですが、ブログ七ころび、八おき」の「華北交通の ころ」で 使用した ものを 再度 ごらんに いただく ことに しました。

 

  北京、小沢公館で、1941
東京外語(現東京外国語大学)3年生の 夏休みを 利用して 中国旅行を こころみ、北京市三条胡同小沢公館で はじめて 小沢開策さんに お会い しました。1941年 春、華北交通に 入社した ときも、まっさきに 小沢公館を たずねました。「四合院」と よばれる 典型的な 中国風 建築様式で、政治・経済・文化 各方面の 人たちが 出入りして いました。当時、小沢さんは「新民会(旧「満州国」の「協和会」と 同系)の 世話役で、雑誌「華北評論」を 発行して おられました。

ごく 最近に なって、世界的な 音楽指揮者 小沢征爾さんが 開策さんの 息子さんで、俳優の 征悦さんが お孫さんに あたると 分かって びっくり しました。なお、わたしの記憶では「開策」ですが、最近 ネットで 見た 資料では「開作」と 表記されて いました。

 

  万寿山で、1945
19452月、張家口鉄路局文書科に 勤務して いた わたしは、結婚の ため 一時帰国 しました。富山(信子の実家)・松島湾(船舶兵として 召集された 弟ナガヨシ[長義]と 面会)、北海道上富良野(両親に 結婚報告)各地を かけまわり、すぐ 任地へ 引きかえしました。写真は、帰任途中 北京で 万寿山を たずねた ときの もの です。

 

  青年隊舎 まえで、菅原医師、1945
張家口では、会社の 寮、青年隊舎に 住みこみ、信子は「寮母」の 辞令を いただきました。青年隊舎の 住人は 独身、単身の 男子 ばかり。中には、2交替・3交替 勤務の 青年たちも いて、寮母室は 昼も 夜も にぎやかでした。

張家口鉄路医院 内科医師菅原恒有さんも 青年隊舎 幹事の 一人で、「青年隊舎の 居住環境」を調べあげ、「改善策」を 提案する など していました。写真は、青年隊舎 まえでうつした もの です(戦後は 郷里 岩手県庁に はいられ、厚生部長 まで つとめられました)。

 

  居庸関あと、1981
いまでも 中国旅行と いえば、まず 首都の 北京市を 訪問します。天安門・故宮・万寿山なども 訪問しますが、すこし 時間が あれば 八達嶺 まで でかけて、「居庸関あと」を 見学したり、「万里の 長城」を 散歩したり される でしょう。

わたしの ばあい、格別な オモイデが あります。その第1は、1945821、いっぱん 在留邦人の 張家口脱出を すませた あと、華北交通 従業員 にも 撤退命令が 出て、さいごの 列車(無蓋貨物車)に 乗車、北京へ 向かいましたが、途中 この辺(八達嶺~青竜橋)線路が 八路軍の 手で 破壊されて いて、いつもなら 数時間で 到着できる ところを45日 かかって しまった こと(この項、中公文庫、梅棹忠夫『行為と妄想…わたしの履歴書』を参照)。

2は、張家口を 脱出した あと 天津で 帰国船を まって いた のですが、「日本国再建の 道を さぐる には、アメリカ路線 だけで なく ソ連・中共路線に ついても 研究することが 必要」との 議論が あり、もと 青竜橋 地区 保線 担当の さん(軍と 連絡の上、線路の 安全に ついて 八路軍と 交渉の 実績あり)に さそわれ、張家口ㇸ もどる ことを 決意した こと。10月 なかば居庸関の 検問所では、無条件降伏した はずの 日本軍兵士(全員 幹部候補生)が 銃剣を かまえて、通行する 中国人の 身体検査を して いました。わたしは さんの お供を して この 駐屯隊を たずねた ことも あり、単独で 中国人に 変装し、日本兵の 検問を うけて 八路軍地区に はいった ことも あります。まだ25歳という 若さと、「日本国 再建の 道を さぐる ため」という 妄想に かられての 行動でしたが、いま 思いだしても フシギな 感じです。

この 写真は、1981年に 旅行した ときに 写した もの です。すっかり 観光地化して いて、むかしの おもかげは ありません でした。

 

  八達嶺 周辺、1981
居庸関あとや 付近の 長城線 あたりは たしかに 観光客で いっぱい でしたが、おなじ八達嶺の 北がわに 目を うつすと、そこは むかしながらの ながめ でした。「ここの 検問所を すりぬけて、あそこの 山かげに さしかかった ところで、たちまち 八路軍の 民兵に つかまった」など、なんべん 見ても たちまち 当時の 光景が 目に うかんで きます

 

<付記>
このあと、「敗戦記念日に 思う こと」の 項を 予定して いましたが、時間的に 間にあい ません。とりあえず きょうは ここまでと します。

2014年8月8日金曜日

志田延義先生を偲ぶ会

 
 
ムクゲ
 

カモ 
 
 
縁日の花屋さん 
 
 
志田延義先生を偲ぶ会 
 
 
 
ムクゲの季節
7月26日。ひさしぶりで 石倉町延命地蔵尊 あたりを 散歩しました。いたち川 遊歩道の 一画では、白や ピンクの ムクゲの花が 咲きほこって いました。そして 川面では、3羽ほどの カモが 朝の散歩(?)を していました。
泉橋を はさんで、泉町がわと 石倉町がわと 両方ともに りっぱな 地蔵尊堂が あり、水飲み場が できて います。その名水を くみに くる 人たちの クルマで、まいにち 朝から にぎわって います。とりわけ 土曜日の 朝は、縁日の 花屋さんが 店を だします。いちだんと にぎやかです。
「川面に うかぶ カモ…土手に さく ムクゲ…地蔵尊堂 わきで 名水をくむ 人、花を 買う人…」
すべて、いつも どおりの 風景。この「泰平無事」が いいです。ありがたい です。
最近 しきりに「積極的 平和主義」「集団安全保障 容認」など、いさましい コトバを きかされます。いつのまにか 第2次 世界大戦前夜に タイムスリップした 感じに おそわれます。
もちろん 石油資源も ほしいし、発電施設も ほしいです。しかし、それは ヒトの 生活を豊かで 楽しい ものに する ための ものです。
ところが「集団安全保障 容認」と いう ことは、具体的には「石油輸送 ルートを 確保する ため には、一部 国民の イノチを ギセイに しても かまわない」と いう 論法です。この ばあい、イノチを おとすのは 自衛隊の 兵士だけ とは かぎりません。さきの 世界大戦でも、ヒロシマ・ナガサキの 原爆投下は もちろん、東京・富山の 空襲でも、まったくの 無差別攻撃 でした。「この 攻撃に よって、より おおくの 人命が 失われる のを 防止できた」と いう ヘリクツが、いまでも まかりとおって いる ようです。
 
志田延義先生を偲ぶ会
7月27日 午後、長江新町の 長念寺で「志田延義先生を 偲ぶ会」が 開かれました。
はじめに 澤田友見さんが 琵琶で「井伊大老」を 演奏され、そのあと 参加者一同で「讃仏偈」を となえ、さいごに 富山県立大学教授 中川英佳さんが「ゲーテにおける、法律と文学の世界」と題して講演されました。
中川さんは ドイツ文学者で、とりわけ ゲーテの作品に おくわしい との こと。そういえば、数年まえ にも「偲ぶ会」の席で ゲーテの「野ばら」に ついて 講演されたことが あるのを 思いだしました。今回は その続編に あたる もので、ゲーテが 小説「若きウエルテルの悩み」を 発表した 時代の 社会状況や ゲーテ自身の 生育歴や 恋愛の遍歴 などについて くわしく 解説されました。
記念講演の あと、別室で 懇親会が 開かれ、有志 十数人が 出席しました。出席者 自己紹介の場で、それぞれ 志田延義先生との あいだで どんな 出逢いが あったか、いま どんな テーマを かかえて いるか などに ついて 報告しました。自己紹介の場が 途中で 討論の場に なって しまい、あわてて 自己紹介の 流れに もどす という 場面も ありました。
志田先生が 富山市の 住職で、山梨大学 名誉教授、国語審議会 委員、日本歌謡学会 名誉顧問、北日本新聞文化賞 受賞などの 経歴を もって おられた ことから、「偲ぶ会」出席者の 顔ぶれは 毎回 多彩です。長念寺 門信徒の 方、国文学、歌謡学、外国文学、その他 いろいろ。大阪市在住の 書家で『閑吟集を書く』『梁塵秘抄を書く』などの 著書を 発表された 藤原彰子さんも、その おひとり。数年 まえ、この「偲ぶ会」で 講演された 方です。
志田先生は いわゆる 正統派・学術的な 研究会 ばかり でなく、「和讃」や「歎異抄」などを 題材にした 生涯学習ふうな 研究会・読書会 でも、いつも 全力投球で 講義されました。そして、参会者から 多少 ピント はずれの 質問や 意見が 出されても、まともにうけとった うえで 討論を すすめる ように 指導されました。女性の 参加者が おおぜいいて、「偲ぶ会」でも 毎回 数人 出席して おられた のですが、ことしの 懇親会 出席者は いなかった ようで、すこし さびしい 感じが しました。
わたし 自身は、先生が なく なられる 直前 まで、じぶんの 書いた ものを 先生に 見ていただく など、たいへん お世話に なりました。ことしの 懇親会 でも、先生に 見ていただく 気持ちを こめて、最近の 作品「スミノエ神は Mr. Smith だった…日漢英sm音語の 分析 から」を 数人の 方に おわたし させて いただきました。