2016年1月27日水曜日

富山に 雪が 来た 

 
 
石倉町延命地蔵尊 1/1
 
 
水仙  1/10 
 
 
N家花壇の雪  1/19
 
 
いたち川雪景色  1/24
 
 
雪見橋の雪 1/24
 
 
 
遊歩道の雪 1/24
 
 
悠学会新年会 1/22
 
 
 
年末年始は雪ゼロ
「東京で 積雪 5センチ。北陸は…」などと 報道され、ケイカイは して いましたが、富山の マチナカでは ずっと 雪 ゼロの 日が つづいて いました。
元日の 朝、石倉町 延命地蔵尊に おまいりした ときも、雪が なくて、足場も わるくは ありません でした。ただ、この 時間帯、平日なら「お地蔵さんの 水」を くみに くる ひとたちで にぎやかな はず なのに、これは また なんと しずかな ことかと、妙なところで 感心したり して いました。
110日、いたち川の 土手で 水仙が 咲いて いる のを 見つけ、うれしく なって、シャッターを 切りました。しかし、水仙は 太陽に むかって オジギして いる ので、このままでは セナカを 見せて いる 姿に なります。せっかくなら、もっと いい 角度から 写したいと 思った のですが、それには 土手の 石段を 下りて ゆかねば なりません。この ご老体では ムリと 判断。あきらめる ことに しました。
 
ついに 富山も 雪景色
 120()富山にも ついに 雪が やって きました。一夜に して、あたり 一面、雪景色の 出現です。雪の あいまを 見て、散歩に でかけ ました。
これまでの 数十日間、花が 枯れ、紅葉も 散り落ち、いつ 見ても くすんだ 色の 風景でしたが、まっしろな 雪を かむった おかげで、いっぺんに 元気を とりもどした ように 見えました。
 
悠学会の 新年会 
 122()午後、丸十さん 2F日本海文化悠学会の 研修会が 開かれ、中島 信之 さんが「将軍義材は なぜ 越中国に きたのか」と 題して 報告されました。
研修会の あと、ひきつづき 新年会が あり、割烹丸十の 経営者、経沢 信弘さんが、「万葉集に 登場する 食材や 献立」を 再現されました(この項、北日本新聞 123日号の 記事を参照)。
 「越中万葉料理の 献立 ()」の 一部を ご紹介します。
食酒…赤米の にごり酒(巻3-345
先付…ながらも(ほんだわら)(巻12-3177
前菜…あしつき・しただみ・菜の花・ゆり根(巻174021)(巻20-4455)(巻16-3880
(8-1418)
蒸し物…鴨ロース煮・からし(巻3-375
揚げ物…山菜の 天婦羅・藻塩(古代の 塩) (巻8-146 0(6-935)
炊き合わせ…猪・株・里芋・ふき (巻2-203)(巻16-3826)(巻16-3825)以下省略。
 
ブログへの コメント
 話が すこし 前後しますが、121()の 朝、ブログ「七ころび、八おき」に読者のAtm さん から コメントが 入って いる ことに 気づきました。コメンㇳが 発信された のは 20151022日。わたしの 不注意で、3カ月 ほども 放置して いた ことに なります。申しわけ ありません。連絡先の 電話番号が 書いて ありました ので、とりあえず こちらから おわびの 電話を 入れました。Atm さんの ご用件は、こつぎの とおり。
 祖父が、たしか 「華北交通()」の 社員 だったと 聞いて いる。敗戦で 帰国し、2年後 祖父が 病死。父は 当時 3歳。父も 母も、華北交通時代の 祖父に ついて、具体的な 状況は なに 一つ 分かって いない。都内に ある 「満鉄会」で だずねて みたが、「華北交通へ 出向した 社員の ことは 分からない」と いわれた。たまたま ブログで 華北交通の 記事を 拝見した ので、なにか アドバイスを お願い したい。
  せっかく ご相談を 受けた ので、できるだけの ことは お手伝い したい のですが、はたして どれだけ お役に 立てる のか、自信は ありません。いちばん おおきな カベは 「戦後70年」という 時間の カベ。せめて 10年~20年 まえ でしたら、直接の 関係者が おおぜい いた はず です。いまと なっては、その 関係者が 生存して おられる 可能性が とぼしく なって います。
 「満鉄会」「華交互助会」「長安会」などの 組織が 解散したり して 当てに ならないと なれば、あとは まったく 個人的な 人脈を たどる ほか なさ そうです。ただ、祖父 さまが 東大 出身で、(理科系で なく)文系だと すれば、さがす 範囲は かなり かぎられて きます。満鉄や 華北交通の ばあい、理系と 文系とで、はっきり 職場も ちがって きますし、人脈も ちがって きます。それだけ 焦点を しぼる ことが できます。
 まずは、Atm さんが もって おられる 情報資料と わたしが もって いる 資料(「華交互助会」「長安会」などの 会員名簿、その他)を つきあわせ、「東大(文系)」の 該当者 リストを つくる こと。あとは、この リストに したがって 個別に 連絡し、協力方 おねがいする こと。わたしの 計算 では。該当者は 約30名。そのうち、生存者が 何人 おられるか?また、その お方が Atm 祖父さまに かんする 情報資料を もって おられるか?そこで 勝負が きまります。
 気が 遠く なる ほど むづかしい 仕事ですが、可能性が ゼロと きまった わけ では ないと 思います。
 
 
 


2016年1月7日木曜日

あけまして…

 
 
年賀状、A




年賀状、B



年賀状、Ⅽ 



年賀状、D


年賀状、E
 
 
 
あけまして おめでとう ございます
  いろいろ ありましたが、どうやら 無事 2016年を むかえる ことが できました。このまま いけば、2月には 満96歳に なる 計算です。じぶんの 親・兄弟 など、だれも たどりつけ なかった 年齢。じぶん 自身、これまで 考えても みなかった 年齢です。
 ここまで 長生き させて いただいた ので、あとは いつ 死んでも かまわないと いう覚悟は できて いる つもりです。また、せっかく いただいた イノチだ から、死ぬ まで自己流の イキザマで ゆきたいと いう 思いも あります。
  そんな ふうに「カッコ つけた」ものいいが できる のも、客観的に いえば「環境の なかで そんな ふうに 生かされて いる だけの こと」と 気づかされる ことも あります。
さて、2016年も いろんな ことが ある ことと 思います。どうか よろしく ご指導の ほど、お願い 申しあげます。
 
ことしの 年賀状 から
年賀状に ついては、これまで いろいろ 経過が ありました。じつは 数年 まえ、いささか 考える ことが あり、「ことし かぎり、年賀状は やめさせて いただきます」と 一方的に 宣言して しまいました。それで 翌年の 年賀状は ガタッと へりましたが、それでも これまで どおり 年賀状を 送って くださる 方が 数十人 おられました。こちら からの「賀状打ち切りの ご案内」に 気づかれ なった ため かも しれません。あるいは、それは 承知の うえでの こと かも しれません。いずれに しても、いろいろ 反省させられ ました。たった 1枚の ハガキと いう 小さな 存在に すぎませんが、発信者と 受信者との あいだに「万感の 思い」が 伝えられ、共鳴を おこす ことが あり、その 意味では、スミに おけない、大きな 存在でも あります。
それでは、ことし いただいた 年賀状の なか から、いくつか ご紹介 させて いただきます。ご本人の みなさんに 無断の ままの 借用に なりますが、どうか お許し ください。
 
.「横浜港からの眺め」(切り絵) 福田 温旦 さん。わたしが はじめて 富山市の 中学校教員として 勤務した 学校の 生徒さん です。毎回 切り絵の 賀状を 送っていただくので、楽しみに して います。
         
. 「赤い顔のサル」川述 昌子 さん。「12年前の絵を使いました」との こと ですが、この赤い顔の サルの 表情が、なんべん 見ても カワイーと 思います。俳句を なさる 方で、この 賀状の 表面に「生も死も釈迦のてのひら初御空…昌子」と ありました。
 
. 「初日・富士・サクラ」寺尾 純 さん。わたしが 県立雄峰高校に 勤務して いた 時お世話に なった 方 です。英語専攻。賀状の 冒頭で「世界人類が 平和で ありますように」と よびかけて おられます。
 
. 「猿」(切り絵)湯 麗敏 さん。富山外国語専門学校の 中国語講師 など として ご活躍中の 方。ご主人の 応 広建 さんと ともに 中国語会話 テキスト(白帝社)も 出して おられます。
 
. 「新春福海…」(年画)姚 偉嘉 さん。昨年 3月まで 桜美林大学の 孔子学院に 勤務。3年間の 任期満了で、同済大学(上海)に 復帰された 方。この 賀状では、まず []の字を 大書し、その下に サルの 切り絵を 配置した あと、「新春福海 翔瑞兆…」、新春にあわせて めでたい コトバを ならべたて、七言絶句の 形に まとめて います。漢語(中国語)の 言語感覚の 一つの 典型と 見る ことが できると 思います。
 
姚 さん から 追伸
 姚さんが メールで 賀状を 発信した のは 元旦の 夕方。わたしが パソコンで メールを 開いたのは、2日の 朝。あわてて お礼の メールを おくる ことに なりました。例によって、姚さんは 漢語で、わたしは 日本語での やりとり です。
 姚さんの 賀状が めでた コトバで ねりあげた ものだった のに たいして、わたしは 自分の 近況を 報告する 形式に しました。そして、姚さんが 関心を 示されるか どうかわからない まま、わたしが いま のめりこんで いる テーマ、「日漢英3言語の 音韻比較」、「クネクネ・クネル 姿が クニ[]」、「クニ[]country」、「カナフ[]can」、「クネルとカンセツ[関節]knee, kneel」などの 対応関係の 話 まで 提案して しまいました。
 すると、あくる日の 3日、さっそく 姚さん から おりかえし メールが とどきました。「(姚さんの)祖母が ことし 92歳で、白内障の 手術を すませた ばかり だが、たいへん 元気。よく 食べ、よく 眠り、毎日 仏さまに お経を あげて いる」など、ご家庭の こと まで おしらせ くださった あと、わたしの ぶしつけな 提案にも、ていねいに こたえて いただき ました。
 気をつけ さえ すれば、いたる ところで 新発見が できるも のですね! 語音現象にかんする あなたの 解説や 結論は、新鮮な 感じで、おもしろい です。ただし、日本語の起源は たいへん 古いのに たいして、当時の 英語は はたして どんな 状況 だった のか? また、どうして このような 語音の 一致 という 現象が おこった のか? このあと さらに 研究すべき 問題です。
 いま わたしの 教室には、10ヶ国 から 来た 学生が います。いちど [労駕laojia](ご苦労さま)の [jia]に ついて 解説した ついでに、「中国人は 馬を 速く 走らせたい とき、“駕jia”と いう ことが ある」と 話しました。すると、いくつもの 国の 学生たちが「自分たちの 国でも その ような いい方を する」との こと でした。わたしは この方面の 研究を した ことが ない のですが、たいへん おもしろ そう ですね! 泉さんの成果を 期待して います!
  わたしは、姚 さん から ここまで つっこんだ ご意見を きかせて いただける とは 期待して いなかった ので、たいへん 恐縮して います。“駕jia”に 当たる 「いくつもの国の 言語」と いう のは、おそらく 英語のcheer, cheerful, cheer-leaderなどと 同系の コトバ かと 思われ ますが、わたしは まだ そこまで チェック できて いません。
 姚 さんが 指摘される とおり、多言語相互の 音韻比較に あたっては、判定の 客観性・合理性を 保証する ための ルールが 必用 であり、なにより まず 等質の 比較資料を 準備 しなければ なりません。日漢英の 音韻比較は、本来ならば、3言語の 研究者たちが みんなで 協力し、それでも 数年 かかる 仕事 です。わたしが いま すすめて いる 作業は、その 前座の 前座と いう 段階かと 思って います。