2016年8月7日日曜日

地蔵祭りの 季節



いたち川遊歩道 7/24    


石倉町延命地蔵尊 7/24 


ムクゲの花 7/2 


志田延義先生を偲ぶ会 7/24 




地蔵祭りの 季節

 724()、朝の 散歩で、雪見橋の 上流、石倉町・泉町上流の 遊歩道を 歩きました。ちょうど 地蔵祭りの 季節で、「南無 延命地蔵尊」と 染めぬいた ノボリの 赤い 色が 木の ミドリと 対照的 でした。この日 夜には、恒例の 灯篭流しも 行われる との ことで、石倉町の 地蔵尊堂では、世話役の 人たちが 祭りの 準備を して おられました。対岸の 泉町でも 同様 でした。

<追記>25北日本新聞紙上に「いたち川の 川面を 幻想的に 照らす 灯篭24日夜)」の 写真が のって いました。



志田延義 先生を 偲ぶ 会

24() 午後2時から、市内 長柄新町の 長念寺で、「志田延義 先生を 偲ぶ 会」が 開催され、前 日本歌謡学会 会長(第1回 志田賞 受賞者)真鍋昌弘 先生の 記念講演が ありました。タイトルは「志田 歌謡史を 基盤として 『閑吟集』と 『田植え草紙』を 読む

 わたし 自身、歌謡学会の 会員では ありませんが、志田延義 先生に たいへん お世話に なりました ので、「偲ぶ 会」には できるだけ 出席させて いただいて います。わたしが とりくんで いる テーマが「日漢英の 音韻比較」なので、『古事記』や『萬葉集』などの 歌謡は 比較的 ナジミが ありますが、平安以後の 歌謡までは なかなか 手が 出ません でした。数年 まえ、たまたま「偲ぶ会」に 出席した ご縁で、書家の 藤原彰子 さん から 著作『閑吟集を 書く』、『梁塵秘抄を 書く』を いただく ことに なり、目から ウロコが 落ちる 思いが した ことを おぼえて います。

 真鍋 先生は、この日の 講演の ために B413枚に およぶ 資料を 用意し、出席者に配布 されました。その目次を ご紹介します。

1. 閑吟集』を 読む』、

1.1.肩書き「吟」173番・209番を 読む(吟=吟詩句、小=小歌)

1.2.酒宴歌謡

1.3.「うそ」を突く

2. 『田植え草紙』を読む

2.1. 鹿の歌

2.2.のうた

 当日の 講演では、真鍋 先生 一行が 平成209月、中国河北省 邯鄲市の 重要文化財、黄梁夢呂仙紫祠を 訪問した ときの 思い出から はじまり、まずは 『閑吟集』「吟」173に たどりつきます。

世事邯鄲枕、人情灩澦灘(セイジ[世事] 邯鄲の 枕、ジンセイ[人情] エンヨ[灩澦]の ナダ[])

  「邯鄲の 枕」とは、趙国の 邯鄲で 蜀国の 盧生が、導士(仙人)呂翁の 不思議な 枕で 眠り、人生の はかなさを 悟る 話。灩澦灘は、長江ク[-]塘峡に ある 巨石の 名。灩澦堆とも。1958年、航路整備の ため 取り除かれた。この地区に 残る 船曳を 収録して、「船頭や 牽引夫の 労働・俗信・生活」を 調査した との ことです。

 ついでに 209

鶏声茅店月、人迹板橋霜(鶏声茅店の 月、人迹板橋の 霜)

[口語訳] にわとりの 声を 聞きながら、寒々とした 空に 残る 冬の月を ながめて、田舎の 宿を 出立した。ふと 見ると こんな 早朝にも かかわらず、板橋の 上に 置いた 霜の 上には、だれかが、すでに 通って いった ので あろう、足跡が ある。

さらに もう 一つ、210番 小歌。

帰るを知らるるは、人迹板橋の霜のゆへ()

[口語訳] わたしが 帰って ゆくのを、人に 知られる のは、霜の上の 足跡の せいだよね。

 途中 省略して、『田植え草紙』鹿の 歌へ。

朝霧にさしこめられて小牡鹿が

  ゆくかたのふては和歌をよむ

さしやこめられ小歌もよまれぬ

鹿の腹毛をぬいては筆に結われた

筆に結ふてはみな法華経をかかれた(6)

資料・『万葉集ホカヒビト[乞食者]のウタ[]

…シシ[鹿]待つと わが居る時に さを鹿の 来立ち歎かく、タチマチ[]に われは死ぬべし 大君に われは仕へむ わが角は 御笠のはやし わが耳は 御墨のツボ[] わが目らは 真澄の鏡 わが爪は お弓のユハズ[弓弭] わが毛らは 御フミテ[]はやし わが皮は 御箱の皮に わがシシ[]は 御ナマス[]はやし わが肝も 御ナマス[]はやし わがミゲ[]は 御塩のはやし 老いたる奴 わが身一つに 七重花咲く 八重花咲くと 申しハヤ[]さね 申しハヤ[]さね(万3885

<参考>

峰に起き伏す鹿だにも、仏に成ることいと易し

己れが上毛を整へ筆に結ひ、一乗妙法書いたんなる功徳に(梁塵秘抄239) 
  この日、真鍋 先生の 解説を うかがった おかげで、上代の 『古事記』『萬葉集』から 中世の 『閑吟集』『田植え草紙』を 経て 現代歌謡に いたる までの 流れが、すこしだけ 目に見えて きた 感じが します。それは、日本列島の 住民たちの 生活が、狩猟中心から イネ農耕 中心に 変化した こと、ヤオヨロズの神の 時代から アマテラス 中心、さらにはテラ[](屋根瓦で 周囲を テラス堂塔)を もつ 仏教信仰の 時代へと、しだいに 変化して きた ことの 反映と いっても よい でしょう。まさに、「歌は 世に つれ、世は 歌につれ」ですね。

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