2017年10月18日水曜日

『古事記』と鉄と祭り


『古事記』を読む会 10/1


『古代の鉄と神々』 


中秋の名月 10/4 


ハロウィンかざり 10/9 





『古事記』を読む会   

101日(日)午前、茶屋町豊栄稲荷神社で開かれた『古事記』を読む会に出席。はじめにKndさんが、「ヤマトのシンボル的な三輪山に何故イズモの大神が祀られているのか」と題して問題提起されました。『日本書紀』と『古事記』の記述を見ても、イズモの国譲りによってヤマト政権の基礎が確立されたはずなのに、現実には、「ヤマトがイズモに遠慮しているように見える」現象がおおいのはナゼだろうか? たとえば;

  ヤマトのシンボル的な三輪山にイズモの大神が祀られている。

  神武(初代天皇)は、オオモノヌシ(三輪山)の娘を正妃に向かえている。

  全国の神々が、勝者の伊勢ではなく、敗者のイズモに集まってくる。

  明治天皇が東京遷都の際、最初にあいさつされたのは、武蔵国一宮の氷川神社であり、その祭神はスサノヲ(出雲系)である。

 ナゼ、こうなったのか? Kndさんは、「国譲りなどの過程で、イズモに非道な仕打ちをしたので、祟られているとの認識があったから」という見解を示されました。



異文化と共存の道

 Kndさんが指摘された問題は、ヤマト政権、つまり日本という国の基本構造にかんすることなので、帰宅してからも、わたしなりに、いろいろ考えてみました。思いついたことの結論だけをしるします。

  議論をするまえに、まずどんな立場(視点)から議論するのか、確認したうえで議論に入るようにしたいと思います。『記・紀』などの文献資料を、文芸作品として鑑賞する立場での議論か、それとも歴史の真実を求めての議論か?複数の論者で議論するばあい、だれかが交通整理をしないと、議論がかみ合わなかったり、脱線したりするおそれがあります。

  Kndさんの提案は、ヤマト(王国)とイズモ(王国)との関係について、「歴史の真実を求める」という趣旨だと思います。もうすこし具体的にいえば、「ヤマトとイズモという異文化同士が遭遇したとき、それぞれどう対応したか」という問題です。たとえば、鉄器の製作・使用、稲作農耕の普及、仏教伝来などをめぐって。 敵対的? 謀略的?話しあいで?

  ヤマト政権成立まで、現実にはさまざまな対応方法がとられたと考えられますが、公式発表の文面では、「話しあいで解決した」と説明する方針がとられたようです。

  時代はすこし下がりますが、越中国守大伴家持が地元の豪族と接したときの記録が大量に残っているので、重要な参考資料となります。新任の国守として、まっさきに取りくんだ仕事が、地元の豪族(実力者)を表敬訪問して、相互の信頼関係を確保することでした。

  さらに具体的にいえば、豪族代表を国守官邸まで呼びだすのではなく、国守みずから越中国内各地まで足をはこび、新任あいさつのコトバを述べる。それも、ただの思いつきの散文ではなく、コトバをえらびぬいて和歌という芸術作品にまとめあげたもの。その中で、訪問先各地の国ツ神(山・川など)のすばらしさをほめたたえることで、相互の一体感・信頼感を盛りあげるようにしました。そのことが、やがてスイコ[出挙]などの事業を円滑に進めるうえで役に立ったと思われます。

  大伴家持流の対応の仕方は、ヤマト政権成立までの「歴史の真実」を学習したうえでの対応策だったのかどうか?そこまでは分かりませんが、21世紀の現代でも、A国の大統領やB国の最高指導者たちにも、ぜひ参考にしていただきたいと願っています。



橘の自生地をたずねて

 Kndさんの提案につづいて、服部征雄さんが「橘の自生地をたずねて」と題して報告されました。要約してご紹介します。

 我が国の固有種であり、絶滅危機種に指定されているタチバナ(Citrus tachibana)が伊豆西海岸のヘダ[戸田]に自生し、今、開花しているとの伝言があり、急いで富山から沼津市戸田に向かった。タチバナの自生地は戸田港からやや北上した井田地域にあり、現在では保護地区とされ、一般の観光客が容易に見学できなくなっている。

橘については、中国戦国時代の詩人屈原の楚歌「橘頌」にも歌われているが、タチバナは中国・韓国では自生しないことから、今問題にしているタチバナとは無関係と思われる。

古事記・日本書紀には、垂仁天皇の御代にタジマモリ[田道間守]をトコヨノクニ[常世国]に遣わし、トキジクノカグノコノミ[非時香菓]求めさせ、10年の苦難の旅の末、持ち帰ったものが橘とされる。その橘は以来、神社や天皇の紫宸殿の「右近の桜、左近の橘」として有名になっている。万葉集には、花橘を詠んだ歌が71首もあり、大伴家持の歌が1/3を占める。

 魏志倭人伝には倭人は生姜・橘・山椒・茗荷」などの食べ方を知らないと書いていることから、その橘は食用にならないタチバナ(C. tachibana)だったと思う。

 井田神社周辺に自生しているタチバナは、幹の直径が1020センチ、背丈は数メートルにおよび、鬱蒼とした自然林の中に生き続けていた。これも、きんちゃく型の入江の三方をけわしい山に囲まれ、人に触れることの無かった自然の好条件から、数少ないタチバナの自生地として残ったものである。

 済州島には、よく似た種のコウライタチバナ(C. nippokoreana)が自生しているようだから、新羅の王室が出自とされるタジマモリはタチバナよりやや大粒の実がなるコウライタチバナを持ち帰ったのではないかと想像している。そうすると、常世の国は済州島となる。韓国の若いカップルが多く訪れる済州島を理想郷と考えてもおかしくない。ヤシが茂り、黒潮が浜辺に打ち寄せ、神話の国出雲にも近く、海に面した島の岸壁を少彦名の石像に見たててもおかしくない。

 実は、コウライタチバナは日本にも自生しており、国の天然記念物となっている。山口県萩市の笠山に自生する柑橘植物は当初、タチバナと同定され、大正13年国の天然記念物に指定され、石碑が建立された。しかし、コウライタチバナの命名者田中長三郎は昭和25年、この自生地にはタチバナとコウライタチバナが混生していることを明らかにした。現在でも、コウライタチバナ4本に混じり、1本のタチバナが観察できる。コウライタチバナの実はタチバナより大きく、、表面がごつごつしている。タチバナに較べ、葉柄にせまい翼があり、枝にとげがある。

 一体、どのようにしてこのコウライタチバナがこの火山灰に覆われた半島にもたらされたものか、興味は尽きない。

 服部さんは、薬学・生物学などの視点から『古事記』の(タチバナ関連の)記事を読み、またタチバナの自生地まで足をはこんで実態を観察するなどの作業をしたうえで、こんどの報告をまとめられたとのこと。それだけ、客観性・合理性があり、だれが聞いてもナットクがゆく報告だとおもいます。

『古事記』には、政治・軍事・宗教・経済・文芸など、さまざまな分野にわたる記事が含まれています。『古事記』を読む会は、会員数10人そこそこのサークルですが、一人一人の会員が自分の担当分野にネライを定め、効率のよい研究手法を準備できれば、やがて全体としてかなりの研究成果があがることが期待できそうです。そこでは、20世紀までの「古事記の世界」とはち一味ちがった、21世紀版「古事記の世界」が見えてくることと思います。



『古代の鉄と神々』  

 先日(9/27)、五十嵐俊子さんから『古代の鉄と神々』という本をお借りしました。7月研修会の席で五十嵐さんが配布された資料メモの中に、「日本では、弥生時代から鉄の生産がはじまっていた」、「鉄の古語には複数の系統がある。①テツ・タタラ・タタール・韃靼。②サヒ・サビ・サム・ソホ・ソブ。③サナ・サヌ・サニ・シノ・シナ。④ニフ・ニブ・ニビ・ネウ。⑤ヒシ・ヘシ・ベシ・ペシ」などの記事があり、その出典がこの本だということでお借りしました。

 著者の真弓常忠さんは、八坂神社宮司で、皇学館大学名誉教授。以下、この本の中から、わたしがもっとも興味をひかれた項目を中心に、要約してご紹介します。

<神話・祭祀と鉄との関係>・

日本古代の歴史と文化には謎が多い。たとえば銅鐸ひとつにしても、何に用いられ、なぜうめられているのか、いまだによくわからない。古代の謎をとくには、考古学と史学の立場があるが、古代の文化、とりわけ古代人の精神生活を知るには、神話や伝説があり、さらにその基底に、神々の祭りがあった。わたしは祭祀を通して日本文化の形成過程を明らかにしようとしてきた。

神話と祭祀の関係を研究している途中で、古代祭祀の背後に鉄が深くかかわっていることを知った。鉄とのかかわりという視点を持ったことで、古代の謎を解く端緒をえることもでき、鉄文化を無視しては、日本の古代を語りえないことにも思い至った。。

<弥生時代の鉄>

  考古学者の山本博氏らの教示によると、

  鉄鉱石から鉄を抽出する方法は、銅鉱から同を抽出するよりも簡単である。

  鉄鉱石は溶解しなくても、七~八百度の熱度で可鍛鉄を得ることができる。

  鉄の抽出には、特定の通風装置を必要としない。つまり、弥生式土器を焼成する程度の熱度でよく、タタラ炉を築いて特殊な送風装置を設けなくても、野辺にて製錬することができるということだった。

<三輪山>

  三輪山は秀麗な山容によって、大和一円の人びとに神の山としての崇敬をあつめてき

 た。この山を神体山とするオオミワ[大神]神社は、いまも拝殿はあるが本殿はなく、山そのものが神としてまつられている。しかもこの山の周辺には、崇神天皇の磯城の瑞垣の宮、垂仁天皇の纏向の珠城の宮をはじめ、古代の宮室が営まれ、また箸墓をはじめ柳本古墳群にみれれる前方後円の大古墳が多い。三輪山の秀麗な姿は、まさに神の坐す山として仰ぐにふさわしいが、そればかりではない、三輪山は、あきらかに鉄分の多いはんれい岩から成っている山である。

  樋口清之氏によると、この山の山麓扇状地は、はんれい岩の風化によってできた灰黄色粘土混りの細い砂からなり、中に多数の雲母と含鉄石英岩が混在し、鉄分の多いはんれい岩の部分は酸化発色しているが、これから鉄の製錬は可能といわれる。

  事実、三輪山西南麓には金屋遺跡があり、ここからは前期縄文土器が発見されていて、もっとも早く拓けたところと判明するが、注目すべきは、弥生時代の遺物とともに、同層位から鉄滓や吹子の火口、焼土が出土していることである。鉄滓が発見されるということは、その付近で製鐵が行われていたことを示す。だからこそ「金屋」と称したのだろう。また山本氏によると、三輪山の山ノ神遺跡からも刀剣片と思われる鉄片が出土し、穴師兵主には鉄工の跡がみられるという。

  大和の民が三輪山を神聖視したのは、その秀麗な山容もさることながら、その山麓に営む水稲耕作に不可欠な鉄製品の原料たる砂鉄を産する山だったからである。(以下略)

 ここまでは、まだ序の口で、このあと「スズ[鈴]とサナギ[]」」、「カナワ[鉄輪]と藤枝」、「倭鍛冶と韓鍛冶の神々」など、興味をそそる項目がつづきます。これ以上の引用はやめますが、ここまで読んできた中でも「目からウロコ・」の思いをさせられました。

その第1点は、「古代の謎をとくには、考古学や史学の視点にあわせて、神話や伝説の基底にある祭祀の研究も必要」という提言です。

 第2点は、「神話と祭祀の関係を研究している途中で、古代祭祀の背後に鉄が深くかかわっていることを知った。鉄文化を無視しては、日本の古代を語りえないと思う」という告白。この点については、わたしもまったく同感。中国語学会年次大会で、1992年のら3年連続、「スミ・シム・SMITH」と題して研究発表。1995年には「スミノエ神はSMELTINGMAGICIAN・・・スミ・シム・SMITH・・・古代日漢語音の中にインド・ヨーロッパ語根をさぐる」を自費出版(A4版、148)。さらに、2013年「教育・文芸とやま」第19号に「スミノエ7神はMr. Smithだった…日漢英s-m音語の分析から」と題して投稿。その内容をそのまま、こんどの『コトダマの世界Ⅱ』第16章に収録しました。そんな次第で、執筆した本人としては真剣勝負の気合をこめて書いているのですが、読んでいただいた人たちの感想としては、「話がうまくできすぎている」、「落語や漫才ではないのだから、もうすこし」マジメにやったら」という感じをもたれる方がおおいようです。むつかしいものですね。

 第3点は、「鉄鉱石から鉄を抽出する方法は、銅鉱から銅を抽出するよりも簡単。七~八百度、つまり弥生式土器を焼成する程度の熱度で可鍛鉄を得ることができる。だから、鉄の生産は弥生時代から始まっていたと考えるべきではないか」という指摘です。いわれてみると、なるほどそのとおりだと思いますが、そうなるとこんどは、『古事記』の記事をもういちど読みなおす必要がでてきます。ヤマトやイズモなど各地での製鉄について、また倭鍛治と韓鍛治との関係などについて、あらためて点検することによって、ヤマト政権時代の実態がより一層具体的に見えてくるかもしれません。

 あれや、これや、さまざまなことに気づかせていただき、勉強になりました。鉄の古語関連で「タタラ・サヒ・サナ・ニフ・ヒシ」などについてもご紹介したかったのですが、省略させていただきます。



中秋の名月 

 104日(水)。「中秋の名月ですよ」といわれて、9階の部屋へ行ってみまいた。いつも食堂として使っている部屋ですが、そこからベランダに出られるようになっています。ここは9階ですから、まわりのビルもほとんど気になりません。さいわいなことに、月の光りをさまたげる雲の姿も見あたりません。ほんのひとときでしたが、わたしとしては、これで十分「中秋の名月」を楽しむことができました。ダメモトで、スマホのシャッターを切りました。たしかに光量不足で、月がぼやけて見えますが、このまえ7階のガラス戸越しに花火(大会)をうつした時にくらべれば、ずっとうまくとれました。それで、ブログにのせることにしました。



ハロウィンかざり

109日(月)。デイ・ケアの日。きょうは、みんなでハロウィンかざりをつくりました。。「クリスチャンでもないのに、日本人のお年寄りがどうして外国のオバケづくりなんかしてるの?」そう考える人がおられるかもしれません。でも、そんなカタイことを言ってる時代ではないようです。デイ・ケアを受けるのは、たしかにすこしヨボヨボかもしれません。しかし、デイ・ケアの仕事を担当しているのは、ピチピチ・バリバリの若い人たちです。

「せっかく21世紀まで生きのびてきたのだから、できるだけ新時代の空気に触れる方が、さらに長生きすることにつながる」、そういった配慮からとも考えられます。
 そういえば、このハロウィン行事、祭りにはちがいありませんが、キリスト教正規の祭りではありませんね。キリスト教が伝来するまえから、その土地に先祖伝来の祭りがあった、そのなごりなんです。日本でいえば、仏教伝来以前の祭り=ヤオヨロズの神=自然崇拝。カボチャ=命をつなぐ食糧。当然、祭りの対象になります。ついでにいえば、三角帽をかぶった幽霊。たしか、日本の幽霊も、三角帽(頭巾)着用が定番でしたね。