2018年5月31日木曜日

カッコつけていますが、実はヨロヨロ 



高志の国文学館 5/16


三味線を聞く会 5/16 



 富山市民国際交流協会総会  5/24


日本海文化悠学会研修会 5/25 




散歩のつもりが熱中症に

516日(水)朝、散歩をかねて、高志国文学館まで出かけました。先日から中西進さんの『ひらがなでよめばわかる日本語』をよませていただいたこともあり、その中西さんが館長をつとめておられる高志国文学館に、わたしの作品『コトダマの世界Ⅱ』を1冊寄贈させていただきたいと願っていたわけです。

あるくのがニガテなので、本はカバンにいれて肩にかつぎ、左右2本のストックをつくことにしたので、これで万全を期したつもりでした。ところが、この日は、32度の真夏日

予想をこえたカンカン照りでした。ようやく文学館の事務所にたどりつき、本の寄贈を受けつけていただきましたが、帰り道がたいへんでした。松川の遊歩道までもどってきたところで、足の感覚がなくなり、一歩もふみだせなくなりました。2本のストックでも支えきれず、芝生にへたりこんでしまいました。

幸運なことに、すぐ近くにおられた女性の方が、心配して声をかけてくださいました。すこし落ちついたところで、ホームまで帰るタクシーの手配もしていただいたのですが、住所が「丸の内1丁目」と分かったとたん、「そんな近くなら」といって、タクシーの手配をキャンセル。すぐ近くの車庫からクルマを引きだし、わたしをのせてホームめぐみまで送ってくださいました。そして、わたしがまともにお礼のコトバをのべる間もなく、「つぎの予定があるから」といって、すぐ帰ってゆかれました。

おかげさまで、わたしはどうにか無事自分の部屋まで帰りつくことができ、水分を補給したり、しばらく横になったりしているうちに、すこし元気をとりもどし、昼食も、完食しました。それと同時に,命ひろいをさせていただいた方のナマエもうかがっていなかったことに気がつきました。

「体調が回復したら、さっそくお礼にゆかなければ」と思います。しかし、ナマエも住所も分からないままでは、どうにもなりません。

まったくもって、ドジマヌケな話ですが、これがいまわたしの実態だと思います。この年齢になってブログを公開したり、「日本語と漢語と英語に共通する音韻感覚」を提唱するなどなど、ちょっとカッコよさそうなことをする能力は残っているようです。しかし、毎日の生活に必要な実務的な能力がとぼしくなっています。モノゴトを認識・判断し、対策を考え、処理するなどの能力がほとんどゼロです。

 そこで、どうすればよいかが問題です。コマッタ・ヨワッタとナゲキ・カナシム方法もありますが、それで問題が解決されるわけではありません。グチをこぼすことは、自分自身ミジメな思いをするだけでなく、まわりの人たちに余計な心配をかけることにもなるでしょう。  

それくらいなら、ぎゃくに「ひらきなおる」方法がよいかもしれません。人間オギャーと生まれてきたときは、まったくの無一物。財産も生活力もゼロ。老齢で死ぬとき、赤ん坊とおなじく無一物なのはアタリマエのこと。そういう発想法です。

 わたしの場合、このさきどれだけの余命か分かりませんが、せっかく与えられた人生ですから、なるべくまわりに迷惑をかけない範囲で、自分のすきな生き方を楽しみたいと願っています。ミアラクモン無益任と思われるかもしれませんが、おゆるしください。



三味線を聞く会

 この日午後、9Fで開かれた「三味線を聞く会」に出席しました。出演者は、いつもの「三味線のお兄さん」と若い女性のお二人。曲目は、「といちんさ」、「こきりこ節」、「八尾おわら節」、「花笠音頭」、「そうらん節」など。民謡の音色にさそわれて、日本列島を一挙に縦断といった感じでした。また今回は、歌声と三味線だけでなく、民謡おどりのフリツケについても、実演・解説するというサービスつきでした。

 わたし自身は、午前中のショックがのこっていたようで、やっとの思いで見たり聞いたりしていました。



後遺症はなし

 518日(金)。美織さんがホームへ来てくれましたが、さしあたり衣がえのダンドリに追われ、熱中症の件はいいだせませんでした。21日夜、ようやく美織さんへ報告。27日にお礼にゆく予定をくみました。

 519日(土)。午前、内科検診を受けましたが、格別には異常なし。おかげさまで、熱中症の後遺症はないようです。。



冨山市民国際交流協会総会

524日(木)。午後3時からCIC3Fで開かれた冨山市民国際交流協会総会に出席。総会にひきつづき講演会があり、富山大学教養教育院教授ヨフコバ四井エレオノラさんが「日本語教師になって30」と題して、ご自身の経歴を中心に報告されました。

四井さんはブルガリアで生まれ、首都ソフィア大学古典および現代言語学部東洋語東洋文化学科卒業。日本東京大学、大学院で博士号取得。東京外国語大学大学院非常勤講師、東京大学非常勤講師などを経て、2018年から現職。

 四井さんは講演の最後の部分で、「外国から来た留学生に教える日本語」についても話題とされました。外国からの「留学生・研修生の日本語習得」については、ささまざまな問題が議論されていることなので、留学生の経歴を持つ日本語研究者として、どんな問題を意識しておられるか、ぜひおうかがいしたかったのですが、質疑・応答の時間が設定されていなかったのがザンネンです。



懇親会の席で

 講演会のあと、東急15Fリコモンテで開かれた懇親会にも出席させていただきました。会場へ入ったとたん、ビックリしました。ひろい会場に、中華料理の大テーブルが3台並んでいるだけでした。

 最近1年ほど、信子の入院や葬式などに時間をとられ、わたし自身協会の活動に参加してこなかったことは事実です。しかし、それにしても、この日の懇親会出席者はすくなすぎます。ひょっとして、最近の社会(世界)情勢の変化を反映したものか、など。ついつい、余計なことを心配していました。

 こうした会合には、かならず出席していた内山恵美子さんの姿も見えませんでした。出席者の話によると、持病が悪化して一時入院、いまも自宅で療養中とのことでした。信子と女学校時代の同期生で、わたしどもとは家族ぐるみのおつきあいをしてきました。はやくにご主人を亡くされましたが、社交家で、その場のフンイキをにぎやかに盛りあげるのが得意。いくつも持病をかかえながら、協会の世話役をつとめていました。本来ならば、いち早く入手できたはずの情報が、こうした形でようやく伝えられたということ自体、わたし自身の環境変化をしめすものだと思い知らされました。

出席者がすくなかったおかげで、まわりの人たちとじっくりお話ができたともいえます。また、この席をかりて、持参した本(『コトダマの世界Ⅱ』)3を協会へ寄贈させていただきました(内、1冊は講師の四井さんへ)。

さらには、講師の四位さんと直接面談する時間もありました。わたしから「現代日本語がかかえている問題点」について、私見をのべさせていただきました。

*留学生だけでなく研修生などの場合、業務上やたら難しい日本語をおぼえることが要求される。この点では、いまの日本語そのものが改善されるべきではないか?

*日本の国語教科書の中にヨコガキの文がゼロというのも、現代日本語の実態を無視したものであり、世界の流れから見ても、まったくの時代おくれではないか?

*日本語が21世紀の競争世界で生きのこるためには、中西進さんの『ひらがなで読めばわかる日本語』に見られるような言語観が日本人一般の常識となることが前提条件と考えるべきではなか?

 ただし、イズミの私見を一方的にお伝えしただけで、具体的な回答を求めることはしま

せんでした。外国籍で、日本の国立大学教授という立場を考えれば、文科省の言語教育政

策を批判するような発言をすることは、かなりムリだと考えたからです。うっかりホンネ

はいた場合、たちまち「外国人による内政干渉」などと攻撃されるおそれもありますね。



日本海文化悠学会研修会

525日(金)。午後1時半から茶屋町豊栄稲荷神社で、日本海文化悠学会研修会が

かれ、4月に刊行された『悠学』第2集に掲載された2編について、補足的な研究報告がありました。

  出雲・古志国間の夢游談」…佐藤実さん。

 佐藤さんは『悠学』第2の中で、「出雲と古志の関係」を研究する方法の一つとして、「独人式ブレーン・ストーミング」を提案されました。すこしだけ具体的にいうと、「想定(仮説)」を明確にしないで、漠然とした出雲国と高志国の関係する情報を広く収集し、収束するという方法です。

 この日の補足提案では、もとの提案をかなり整理したうえで、あらたに「仮説と検証」などの例をあげるなどして、それだけ分かりやすく、説得力のある提案になってきた感じがします。

 情報量がおおいだけの、マンネリ化した研究報告ばかりでは、あまりおもしろくありません。奇想天外、目をみはるような仮説も歓迎したいという意味では、こうしたブレーン・ストーミングも必要だと思います。ただし、実際数人がこの方式で討論をはじめるとなると、なによりまず、(佐藤さんもご指摘のとおり)それなりのルールをまもることが必要です。そうしないと、ただストーム(あらし)をまきおこしただけになるおそれがあります。その手続きがめんどうだからといって、自分ひとりでストーミングをおこなった場合は、そこでたどりついた仮説を、ただの「おもしろそうな仮説」ではなく、だれがどんな視点から見ても納得できるような「客観性・合理性のある仮説」とするために、仮説の一言一句にいたるまでチェックし、ミガキあげる作業がもとめられます。たとえば;

*東地域の住民を「矢族」、西地域の住民を「谷族」と呼んでいますが、一方では住民の利器に着目して命名し、他の一方では地域の地形に着目して命名するという姿勢では、「客観性・合理性のある結論」を期待できるでしょうか?一方を「矢族」と呼ぶなら、他の一方も、「地域住民が得意としていた利器」にちなんだ族名で呼ぶべきではないでしょうか?また、地形にに着目しての命名ということであれば、「谷族」・「沢族」と呼んだ方がすっきりしないでしょうか?

*また、「この分布図の作成にあたり朝鮮・台湾・中国本土の五万分の一地形図を見分したがが、(沢)を語尾に持つ川の名は、いずれも見いだせなかった。それに対して、(谷)の語尾を持つ川の名は、朝鮮に多くみられる台湾・中国本土には見いだせない」とのこと。たいへんご苦労さまでした。敬意を表します。ついでに教えていただきたいことがあります。「朝鮮に多くみられる」「(谷)の語尾を持つ川の名」というのは、漢字の「字形」のことでしょうか?それとも、(漢語とは異系の)朝鮮語でしょうか?どんな語音(音形)でしょうか?

*わたしが漢字の字形よりも音形にこだわるのは、コトバはもともと音声信号であり、音形のちがいによって意味のちがい表現され、伝達されるからです。モジはコトバを記録する道具(視覚信号)にすぎません。

*民族言語は、それぞれ独特の音韻感覚によって組織され、異質の言語をとりいれることはめったにありません。しかし、たとえば金属利器の発明などにともなう先進技術用語などについては、国籍や民族のワクをのりこえ、地球規模でひろがることがあります。

*くわしく説明する時間がないので、一つだけ例をあげます。漢語コク[谷]は、t-tタイプの語音。漢字の字形としては「水源の穴から水が分かれ出る(=岩盤にカコマレ、シゴカレ、クグル)姿。k-k音の日本語でいえば、音義ともコク・シゴク[]に近い語音です。現代漢語では、このコク[]コク[]の簡体字として使い、コクモツ[谷物]と表記しています。日本人がみたら「まさか?」と思われるかもしれませんが、漢語の音韻感覚としては、コク[谷・穀]は「まわりを固いカラ[]でカコマレたもの」として同じ姿。なんの違和感もないようです。コトバとは、そういうものなんですね。



  日本人のルーツ、高林英紀さん

【おわび】

 わたしの学習不足で、この項の原稿をまとめきれぬまま、「時間切れ」状態になってしまいました。まことに申しわけありませんが、どうかおゆるしください。



お礼のごあいさつ

527日(日)午前、長念寺志田常無住職さんが来訪、故信子月命日のお経をあげて

いただきました。そして午後、美織さんといっしに、先日お世話になったお宅をだずねることにしました。

ナマエも電話番号も不明。記憶しているのは、クルマの車庫だけ。とりあえず現場付近のお宅で、車庫利用者の所在をおたずねしてみました。「案ずるより産むが易し」。「車庫とおなじ棟のMrkmさんですよ」と教えていただきました。そのナマエを聞いたとたん、美織さんが「ここは藤木家と縁つづきの家にまちがいない」といっていました。玄関の戸はカギがかかっていましたが、チャイムをおすと、年配の女性が応対してくださったので、わたしから先日お世話になった件について報告し、お礼のごあいさつがおくれたことのおわびを申しあげました。クルマの持ち主(車庫の利用者)はMrkm家の娘さんであり、先日の件についても、本人から話を聞いているとのことでした。

 おくればせながら、お礼のごあいさつをすますことができ、一つだけ宿題をはたしたような気分になりました。それにしても、イズミ~藤木~Mrkmなど、人間同士どこでどんなふうに縁がつながっているのか、フシギなものですね。



ヤ[矢]の系譜とワ[輪]の系譜

 わたしはこの数年来、yaという語音に注目し,ヤ[矢・屋・谷・哉]の系譜…日本人の宇宙観をさぐる』という小論を発表してきました(『コトダマの世界Ⅱ』第19)。それは、日本人が長い間、弓矢にたよって衣食住ににわたる資材を調達してきたという歴史上の事実があり、その結果として、多くの分野にわたる用語にヤyaが使われるようになったと考えているからです。

 このような現象は、日本語だけでなく、漢語(中国語)や英語にも見られるようです。ただ、ya(ヤ行音)とワwa(ワ行音)はそれぞれ一種の「拗音」だということもあり、それぞれ民族語内での分布状態は一様ではありません。今後、日本語(ヤマトコトバ)と外国語との音韻比較作業を進めるに当たっては、このヤya(ヤ行音)音、ワwa(ワ行音)

がキーポイントの一つになるだろうと考えています。

 そのわたしが、ヤ音とならぶフシギな語音として、ワ音ととりくむようになったのは、ごく最近のことです。

 ワwaは、母音同士uからaに移行するときに生まれる語音。口形が変化し、音形も変化することから、ヤ行音とともに「拗音」と呼ぶことができます。ワ行単音節の上代語として、[輪・曲・勾]・ヰ[井・猪]・ウ[卯・鵜・居・得]・ヱ[絵・画・餌]・ヲ[雄・男・夫・峯・尾・緒・麻・小]などの用例が見られます。ただし、[絵・画]については、編集者から「字音語か」との注釈づきです。このことは、日本語(ヤマトコトバ)が初期の時代からまわりの住民の言語を取りこみながら発達してきたこと、つまりチャンポン語の性格を持っていることを示すものと考えてよいでしょう。チャンポン語ということになれば、当然さまざまなムジュンを抱えこむことになりますが、ぎゃくにそれをバネにして、日本語がさらに大きく成長することができたと見ることもできます。



ワタ=ワタルもの=water!?

 という語音(音形)とワ[輪]という意味(事物の姿)との対応関係などについては、前回のブログ(「三輪山伝説のナゾをとく」の項)でもとりあげましたので、ここでは省略します。わたしがあらためてワwaの語音ととりくむことになったのは、ワとワタの関係、ワタとワタル・ワタスとの関係、さらにはワタ・ワタルとwaterとの関係に気づいたからです。

 上代語の段階で、ワタ・ワタル・ワタス・ワタリなどのコトバがすべて成立しています。しかも、ワタという同一の語音3種類の事物[海(水)・腸・綿]の呼び名としています。

現代人の感覚でいえは、海(水)と腸と綿とのあいだに、ナニ一つ共通項が見あたりません。しかし、漢字もカナもなかった時代、音声言語だけをたよりに意志を通じあっていた時代の話ですから、命名者の視点から見て、「おなじ姿に見えた」から「おなじ語音で呼んだ」にちがいありません。そういわれてみると、海の水や、腹のワタや、メン[綿]のワタなどに共通な姿が、すこしずつ見えてきます。どれもみな「安定した形」がありません。両手でつかまえようとしても、クネクネ・グニャグニャしているだけで、つかまえどころがありません。容器に入れると、容器の形にあわせて安定した姿になりますが、容器にアナが空いたりすると、すぐにモレだし、あたり一面にシミワタルことになります。とりわけ海水のワタの場合は、雪・氷(固体)や水蒸気(気体)と姿を変え、宇宙空間を自在にワタリつくすことができる、フシギな存在です。

 そのワタ(海水)英語のwater()と音韻対応の関係を持つコトバでないかと気づいたとき、わたしは音韻比較のおもしろさにシビレました。念のため、英語の辞典で」waterの単語家族をしらべました。語根・基本義・派生語の順で、次のとおり解説されています。

 語根wed-1//. 基本義water, wet湿った//.派生語water, wet, wash洗う, winter,whiskeyウイスキー, vodkaウオッカ.

 こんなふうに見てくると、ワタル[渡]は「ワタ(水)の姿になる」、「ワタのハタラキをする」ことであり、ごく自然な造語法だということが分かってきます。

 さて、日本語のワタが英語のwaterと対応関係にあるとすれば、漢語についても対応関係を持つコトバがあるのではという気がしてきます。しかし、残念ながらこれまでのところ、「ワタ(水):water」と肩を並べられるような漢語音が見つかっていません。このあとの課題とさせていただきます。

2018年5月18日金曜日

「三輪山伝説」のナゾ、など 



音を聞く会     5/2


みどりの日 5/4


訪問販売  5/10 


『古事記』を読む会 5/13



講演「富山の文学者たち」 5/14




を聞く会

52日(水)。午後、9Fで「音を聞く会」。いつものとおり「歌のお姉さん」が出演。大判の歌詞カードを、つぎつぎ白板に張りつけて、歌唱指導。この日の曲目は、季節にあわせて「 鯉のぼり」、「鐘の鳴る丘」、「ちゃっきり節」、「みかんの花咲く丘」など。みなさん、昔なじみのメロデイーにさそわれ、歌詞カードを追いかけながら声を出していました。



みどりの日

54日(金)。「みどりの日」ということで、昼食は写真でご覧のようなメニューでした。

もちろんお金をかけた豪華版というわけではありませんが、まずは「みどりの日」のカードをそえてフンイキをととのえ、ご飯はちょっと目先を変えた混ぜご飯。食後のデザートとして静岡産のお茶プリンをセットするという演出。なんとなく楽しい気分になりました。



訪問販売

510日(木)。午後、9Fで訪問販売。品目は、イチゴ・バナナ・ミカン・トロロこぶ、など。それらにまじって、アズキとキナコを1個ずついれてワンパックにした「おはぎ」が並んでいました。「きょうはこれにしよう」と思い、それだけ買って、部屋へかえりました。べつに、腹がへっていたわけではありません。ホームでは、毎日「三食・ヒルネつき」、めったに外出せず、カイモノもしない生活がつづくことになります。たまにも自分のサイフをさらえてカイモノすることによって、しばらく童心にかえることができ、よい気分転換になります。こんなお客さんばかりででは商売にならんといわれるかもしれませんが、こんごともよろしくお願いします。



『古事記』を読む会

513日(日)。午前10時から茶屋町豊栄稲荷神社で開かれた『古事記』を読む会に出席。今月のテーマは,「【崇神】三輪山伝説」。たまたまこの会の有志一行が5月下旬に、23日の日程で、三輪山を中心に研修旅行を予定しているということもあり、その事前研修をかねて、さまざまな意見。提案が出されました。

五十嵐俊子さんが『神社の起源と古代朝鮮』(岡谷公二著、平凡社新書)および『出雲と大和』村井康彦著、岩波新書)を紹介。「大和の三輪山に出雲の神がまつられていること」のナゾをとく参考にすることを提案。

また、三輪山伝説に登場する「ヲ[麻]」に関連して、服部征雄さんから「前回の補足」説明がありました。

魏志倭人伝では、邪馬台国では「稲・からむしを植え」と読まれている。しかしの時代の図巻には「稲・あわ[禾]・麻・からむし[苧]を植え」と記されている。つまり邪馬台国では大麻が栽培されていたと解釈できる。後漢書の東夷列伝でも禾・稲・苧・麻となっている。

古代日本の植物繊維としては、大麻が主であったと思われるが、次第に苧麻に代わってきている。上杉謙信アヲソ[青苧]の栽培を奨励して、現在でも越後上布として受け継がれている。

アサヲ[麻苧]麻の別称。玉串や大麻の麻苧を木綿と呼ぶ。

アヲソ[青苧] カラムシの別名。原料としてつくった衣料。大麻と苧麻を組みあわせた布もある。

カラムシ[苧麻]

ジョウフ[上布] 会津上布。越後上布。能登上布。近江上布。宮古上布。八重山上布。薩摩上布。

五十嵐さん、服部さんにつづいて、イズミから「ミワ・ミモロの系譜…地名にこめられた情報をさぐる」と題して、自己流「ナゾとき法」を提案させていただきました。

伝説記事の中から「ミワ・ミワ山・ミモロ山」などの用語を採集し、これをキーワードとして、当時の社会生活の実態(=歴史の真実)をさぐり出す方法です。結論だけいいますと:ワは[輪]であり、ワ[吾]・ワラ[]・ワリ[]・ワル[割・悪]・ワレ[吾・割]などの語根に当たる語音。ミは動詞ム[生・産]の語尾母音が-iに変化して、「ウム[生・産]こと」を意味する名詞形となったもの。[水・神・見・三・御]はもと1。土器づくりとは、まず粘土ヒ[]をつくり、その輪をつみかさねる、つまり「モノをウミだす」作業。

イクタマヨリヒメの親が「スヱツミミ命」だったとの記事とあわせて、当時「ミワ一族が三輪山のあたりで、スヱキ[須恵器]を生産していた」という「歴史事実」を想定することができるという発想法です。

 この種の話は、論理性や精密さが求めれれるので、それだけ話がややこしくなります。くわしくは、つぎの項目をご覧ください。



三輪山伝説のナゾをとく

『古事記』中巻、崇神天皇のくだりに「三輪山伝説」と呼ばれる記事がのっています。現代文に直してみると、ほぼこんなお話です

活玉依姫(いくたまよりびめ)という美しい娘の元に、夜になると立派な男性が訪れ、姫は身ごもった。しかし、男性の正体がわからなかったため、着物の裾に麻糸のついたを刺し、翌朝たどることにした。すると、麻糸は戸の鍵穴から通り抜け、たどってみると、三輪山の大物主神(おおものぬしのかみ)の社に留まっていたので、おなかの子は大物主神の子とわかった。この時、麻糸が3残っていたので、この地を三輪と名付けたとされる。

(2012-04-26 朝日新聞 )

 伝説とか物語としては、けっこう楽しめるお話だと思いますが、さて歴史研究の視点から読む場合、どれだけの「歴史の真実」を読みとることができるでしょうか?まったくの自己流ですが、わたしも「三輪山伝説」のナゾときに参加することにしました。

 伝説の内容は、その伝説が生まれた時代の社会状況の反映であり、その範囲をハミダスことはありません。「三輪山伝説」についても、これを精確に読みとくことで、当時の日本社会がどこまでの発達段階にあったのか、判断材料を見つけることができるはずです。

 具体的なナゾとき作業として、まず伝説記事の中からキーワードを採集し、その意味(情報)を追究することにします。オホタタネコ[意富多多泥古]・イクタマヨリヒメ[活玉依毘]・ハニ[赤土]・ヘソヲ[巻子紡麻]・ハリ[]・カギアナ[鉤穴]・ミワ[]勾・ミワヤマ[美和山]など。これらのコトバは、「伝説」を語るための意味用法になっているので、これを「歴史の真実」を語るための意味用法にホンヤクする作業が必要になってきます。それには、「三輪山伝説」直前の項目「神々の祭祀」の中の用語、とりわけ「イクタマヨリヒメ=スヱツミミ命の女」、「ミモロヤマオホミワの大神の前を拝き祭り…天のヤソヒラカを作り、天神地祇の社を定めまつり」などの記事もチェックしなければならず、さらには考古学上の資料も参考にすべきでしょう。

 以下、いろいろ作業をすすめ、これまでにえられた結論(試論)をご報告して、みなさまのご教示をいただければと願っています。

*「三輪山伝説」は、当時の住民たち(客観的には権力者たち)の「モノの見方」(宇宙館・世界観・生命観)を語ったものと考えてよい。

*「三輪山伝説」のナゾをとく、いちばんのキーワードはミワ。さらにいえば、ワ[輪]そのもの。waを発声するとき、口が大きく開かれ、クチビルが[](マル)の姿になる。そこで、ヤマトコトバでは、ワという語音(音形)がひとりでにワ[輪]という意味(事物の姿)をあらわすことになる。このワ音は、ワク・ワル・ワラ・ワタ・ワタツミ・ワタルなどのワ(やがて英語waterに通じる語音)。男性マラ・マロは女性のワ[輪]にワケ入り、精子をマル[放]ことにより、やがてあらたなイノチが生まれ,ワ[輪](子宮)からワキデル、ワカレルことになる。ミワ・ミモロのミは「敬語の接頭辞」とされているが、もともとム[生・産](ウム・ウマレル)の基本義をもつ語音である。

*決定的なキーワードは、スヱツミミ命(タマヨリヒメの親)。以上のキーワードを総合して、当時「ミワ一族が三輪山のあたりで、(弥生土器・土師器以上製作以上に高度な技術による)スヱキ[須恵器]を生産していた」という「歴史事実」を想定することができる。



講演:「富山の文学者たち」

514日(月)午後、市内13高志会館で開かれた県教職員厚生会富山支部総会に出席。総会のあと、講演「富山の文学者たち」を聴講。高志の国文学館主任学芸員綿引香織さんが同館常設展で紹介している文学者たち23人の代表作などについて解説・紹介されました。その中に、わたしと縁のある3人の方の名前があることに気づき、あらためて「人間の縁のフシギ」について考えさせられました。

  翁久允さん:わたしの兄タケヨシ[長嘉]の奥さんが翁一族だったこともあり、わたしが富山市の中学校に勤務しながら、友人仲間とともに文芸サークル「ちんぐるまの会」を立ちあげ、機関誌「ちんぐるま」を創刊したとき、むりやりお願いして、会長になっていただくなど、たいへんお世話になりました。

  岩倉政治さん:わたしの住所砂町から約2㎞、自転車で気楽にゆけるところ(奥田町)に岩倉さんのお宅があり(奥さまが歯科医院を開業)、なんべんもオジャマさせていただきました。そこでナニがあったか?具体的なことは、あらかた「忘却の彼方」ですが、そこには、さまざまな分野の人たちがつぎつぎたずねてきて、「いま、この時代をどう生きるか」などについて語りあっていました。わたしは、自称「親鸞の弟子」として、「唯物史観と他力本願の接点」を求めてウロウロしていた記憶があります。

  遠藤和子さん:故信子の女学校時代の同期生であり、わたし自身とも、富山市立学校の教員同士として交流する場がありました。いまも、たがいに作品を交換したりする仲間関係がつづいています。

 講演会のあと、懇親会が予定されていたので出席しました。講師の綿引香織さんがおられれば、ぜひごあいさつしたいと思い、自分の本(『コトダマの世界Ⅱ』)も持参していたのですが、講演終了後すぐお帰りになったようで、ザンネンでした。

 懇親会の席では、悠学会の仙石正三さんにお会いしたほか、むかし中学校で同僚だった木澤隆さんとも、ひさしぶりにお会いでき、もと同僚mtsさんのことなど情報交換をしました。そのついでに、わたしが持参した本を1冊お持ち帰りしていただきました。また、わたしが98歳だと聞いて、わざわざわたしの席まで足をはこばれた女性の方お二人にも、1冊ずつお持ち帰りしていただきました。

 わたしの年齢では、こうした会合に出席するだけで精いっぱい。席を立って、まわりの人たちに酒をついで廻るほどの気力・体力がありません。それでも、どうにかして、せっかく会場まで持参した本を、人さまの手にお渡しすることができました。このあとも、この本が一人でもおおくの人の目にふれ、「この本を読んでよかった」と思っていただける人にめぐりあえるようにと願っています。








2018年5月4日金曜日

呉山飛天から「悠学」第2号刊行まで



呉山・飛天からの展望 4/26


和風レストラン「呉山・飛天」4/26  



 花束  4/27


日本海文化悠学会研修会 4/27 



「悠学」第2号 4/27



 
『ひらがなでよめばわかる日本語』




物干しセットを新調

4月18日(水)泉公美さんから電話あり。この23日ころ來富、泉家の墓まいりなどを予定していたのですが、ご本人が肺炎にかかってしまったので、予定を中止することになったとのことでした。こちらこそ、自分のことだけで精いっぱい、本家の法事に出席しておりません。いろいろ心づかいしていただいて、申しわけありません。

午後3時すぎ、美織さんが次男のZyunさんといっしょに顔をを見せてくれました。これまでの物干しセットが倒れやすく危険だということで、あらたな物干しセットを持参。Zyunさんが組み立ててくれました。こんどは4本足なので、ほぼ安心できそうです。



水野信利さんが来訪

4月25日(水)。午後、先日東京から電話してきた水野信利さんが来訪。わたしはまず(水野さんから贈られた)『学研・漢和大字典』について、あらためてお礼をいいました。

この数十年来、自己流で「日漢英の音韻比較」作業をつづけてきましたが、その土台となる語彙資料として、3冊の辞典を重視してきました。日本語については、『時代別・国語大字典・上代編』(三省堂)。漢語については、この『学研・漢和大字典』。英語については、A.H.D.(『アメリカの遺産、英語辞典』第3版)、とりわけ、そのフロク「インド・ヨーロッパ語の語根と派生語」(一覧表)1993年秋、アメリカのペンシルバニア大学・デユーク大学の兼任教授で京都大学へ交換教授として来ておられたV.H.Mairさんにすすめられて購入したもの)。もしこれら3冊のうち1冊でも欠けていたら、おそらく「象形言語説」を提唱することもなく、この年齢まで音韻比較をつづける気力も生まれなかったと思われます。

 水野さんが聞き上手で、だまって話を聞いてくれるので、ついついわたしの長談義がつづきました。あとでつくづく「教師というのは、ありがたい職業だな」と思いました。生徒さんに話を聞いてもらうと、そのことがハゲマシとなり、自分がかかえているテーマについてナットクゆくまで、真実を追究する気分になる。つまり、生徒さんのおかげで、教師がさらに一歩成長進歩できるのだと思います。

 

「呉山・飛天」で麦とろご膳

4月26日(木)。午前10時すぎ、長念寺住職志田常無さんに来ていただいて、故信子月命日のお経をあげていただきました。いろいろな事情で。一周忌の法事を410日にすませ、月命日も1日くりあげて、お勤めさせたいただきました。

 この日の昼飯は、美織さんの提案で、和風レストラン「呉山・飛天」でということになりました。呉羽山の一画ですが、茶屋町の豊栄稲荷神社から呉羽山展望台をすぎたその先、地図で見ると北代のあたりに、別名「和風カフエ」ともよばれるお店がありました。

 サクラの花は終わったあとですが、あたり一面黄緑の樹木にかこまれ、わかわかしい生命力が感じられました。立山連峰、新幹線、そして富山平野を一望でき、どの方向を見ても絵になりそうです。たまたま、富山駅を発車した新幹線列車の姿も見えました。

 店の中はほぼ満席状態。どの席も外の景色を楽しめるようにくふうされています。天井は格天井。たしか、桜木町にあった奥田屋旅館が取りこわされたので、その古材を再利用したものだと聞きました。

 ここで「ジネンジョの麦とろご膳」をいただきました。はじめに出された「ナマ野菜」はきわめてシンプルなものでしたが、野菜がもっている本来のウマミを思い知らされるものでした。麦飯のご飯、ジネンジョのとろろなども同様。この自然環境に身を入れると、目・耳など五官にたまっていたゴミが洗い流され、イノチのみずみずしさがよみがえってくるのかもしれません。

 「故人の命日だというのに、生きのこった人間がこんなゼータクな思いをしていてよいのか」という考え方もあるかと思います。しかし美織さんの発想法は、そのギャクです。、「おばちゃんはいつも、おじちゃんが満足する食事づくりをイキガイとしていた。だから、こうすることが、おばちゃんの供養になる」と考えるわけです。いわれてみれば、結婚してから亡くなる直前まで、信子はずっとその基本姿勢で、わたしのイノチをささえてくれました。わたしが「食事がまずい」など、グチをこぼしてばかりいたら、信子は「何のために苦労したか」わからなくなり、いつまでも成仏できなくなるでしょう。

 そこで、わたし自身も「おいしく食事をいただくこと。それがホトケの供養になる」と考えるようにしています。

 さて、食事をすませたあとは砂町へ。Knkさんへ駐車場料金を納入、メガネのハラダで、先日注文したメガネを受領。

 ホームへ帰ってみると、水野さんからみごとな花束がとどいていました。昨日は、わたしの一方的な長談義を聞いていただいただけだったのに、こんな花束をもらったりして…ただただキョーシュクです。



「悠学」第2号刊行

4月27日(金)。午後、茶屋町豊栄稲荷神社で、日本海文化悠学会例会。この日、会誌「悠学」第2ができあがり、会員に配布されました、

 第1号発刊から3年、予定どおり第2号が刊行されたことは、それだけでもすばらしいことです。おめでとうございます。かぎられた予算、かぎられた期間で、これだけ内容のある会誌を作りあげた編集委員のみなさま、ご苦労さまでした。

 表紙の色をピンク色にしたこと、表紙うらを黄緑色にしたことなどについて、担当した佐藤芙美さんから、「第1号からの継続性とともに、新学期を迎えたような感覚も伝えたかった」との解説があり、なるほどと思いました。

 問題は、作品の中味ですが、このあと時間をかけて読ませていただくことを楽しみにしています。

 この日、五十嵐俊子さんと北河美智子さんから、掲載作品にかんする補足説明がありました。五十嵐さんのテーマは「越国の素環頭鉄刀」。北陸地方で出土した5遺跡6点の素環頭鉄刀について、綿密な調査報告をまとめておられます。

 また、北河さんのテーマは「発見!埋められた銅鐸」。わたしとしては、当日補足説明資料として配布された「銅鐸の絵」の方に興味をひかれました。銅鐸の画面には、「狩人・シカ・トンボ・カニ・イモリ・スッポン(カメ)・カエル」などがえがかれ、一つの画面が一つの物語を構成していると思われます。それをどう読みとくか?銅鐸制作当時、これらの事物がどんなヨビナをもっていたか、たしかめることが必要。とりわけ、トンボについては、上代語にトンボというコトバの用例は見あたりません。『古事記』・『萬葉集』などの用例から見て、アキツと呼ばれていたことが考えられます。アキツは、「ア[][][]」(威力のあるキ[]と呼ばれる利器)という意味構造を持ち、ヲノ・マサカリ・ツルハシなどの利器のヨビナ。イタヤグシ[痛矢串](『記』神武東征)なども同類の利器(武器)かと思われます。

さらにいえば、アキツは英語ax()などとの対応関係も考えられる語音です。ただし、いずれもイズミの仮説。学界の承認を受けたものではありませんが、さらに追究してみるのもおもしろいかと思います。



『ひらがなでよめばわかる日本語』

 先日西田規子さんからSatieさんを通して、『ひらがなでよめばわかる日本語』という本をプレゼントされました。中西進著、新潮文庫

 まず、裏表紙のキャッチコピーを読んでみました。

 (目・鼻・歯)も(芽・花・葉)も(め・はな・は)太陽も焚きも()…日本語はひらがなで考えると俄然面白くなる。漢字の影響を外すと日本語本来の形が見えてくる。言葉がわかれば人間がわかる。日本人の心はこんなに豊かだったのかと驚く。稀代の万葉学者が語る日本人の原点。『ひらがなでよめばわかる日本語のふしぎ』改題。

 まえがきの部では、ずばり著者の言語観が語られています。

 (日本人が日本人とは何かを真剣に考える場合)、知っていることばを洗いざらい取り上げて、日本人の正体をつきとめよう、ということでよいかというと、じつはそれは正しくありません。日本は歴史始まって以来、たくさんの外国語を受容してきたので、それらを

ごちゃまぜにして考えてみても、日本人の基本の考えは、出てこないからです。…そもそもの日本人の心を知るために、まず漢字を取り払ってみましょう。「は」とは、歯でも葉でもあるのですから、「漢字で書くと別だ」という考えを捨ててほしいのです。

 次に、とおもわれるもののなかにも外国語があるので、それも除きましょう。「」は、音がバイ、訓がウメといっても、ウメはバイの訛ったものだから、ともに中国語なのです…。

 (歯と葉と端は)、今日ではそれぞれ別物です。ところが、古代の日本人は同じものと考えたのだから、非科学的だ!といって怒る方もいるかもしれません。しかしそうではない。同じ立場や役割をもつものを一つの単語で呼び、ものとして、形態が違っていても区別しない、という考え方なのです。とかく、ものを分解したがる現代人にとってはびっくりするでしょうが、大事な考えではないでしょうか…本書を読まれる方々は、充分に挑発され,知の跳梁を求められるでしょう。どうか、そうしてほしいと願います。その結果、日本人の知のダイナミズムが見えてくるのですから。

 このあと、4部門にわたって、著者独特の日本語論が展開されています。ここではモクジの一部だけを紹介させていただきます。

  ひらがなで読めばわかる、自然界から生まれたことば

  第1章 体のパーツなぜこうよぶの?め・みみ・はな//ひたい・ほほ・かお//み・からだ・て//つめ//ち・ちち//

  第2章 人の一生は、草木の一生…もえる//さく・さいわい//さかり//なる//しぬ・しなえる//かれる (中略)

  もう一度考えたい、たましいと対話することば

   第1章 どうして命は尊いのだろういきる・いのち//いのちにむかう//たまきはる//たましい・こころ//いきのお//みたまのふゆ//ひつぎ (中略)

   第2章 神とともにある暮らし…かみ//ほとけ//いわう・ねがう (中略)

  知っていますか。日本人の考え方がわかることば

   第1章 具体からはじまって抽象へもの//こと//とこ・つね//とき・ところ//かげ//うつし (中略)

 4 誤解していませんか。日本語の基本ルール

   第1章 音と訓とはなにか (中略)

   第4章 失われた古代の発音

第5章 ことばは国境を越える

 走り読みていどですが、一通り読ませていただきました。そして正直な話、ビックリしました。基本的な言語観の面でも、また具体的なヤマトコトバ(単語)の解釈の面でも、共感させられる場面の連続だったからです。

 わたしは1970年に「象形言語説」を発表した後、仮説の検証作業や『現代日本語音図』(イズミ試案)作成作業などにおわれ、自分のまわりに「共通の言語観を持ち、連帯できそうな研究者」は見つかりませんでした。それが規子さんのおかげで、この本に出あうことができ、すっかりうれしくなりました。ありがたいことです。

 中西さんは、有名な万葉学者であり、日本ペンクラブ副会長でもあるとのことですが、実は富山県「高志の国文学館」の館長さんでもあります。場所は、富山市船橋南町。ホームめぐみからの散歩コースにもはいっています。



残された問題

本のタイトル「ひらがなでよめばわかる日本語」は、文庫本本体の表紙では「ヨコガキ、1」、背表紙では「タテガキ、1」。ベタガキなので、正直なところヨミニクイです。その点、ブックカバーでは「タテガキだが、3行に分割」、「『ひらがな』だけ赤色印刷」などの方法で、ワカチガキ効果を演出し、読みやすくなっています。このことは、日本の文書表記法時代おくれとなり、その場しのぎの状態になっていることを示しています。公式には、「文書はヨコガキ」と宣言しながら、新聞・雑誌・単行本の大多数がタテガキのまま。国語教科書もすべてタテガキ。部分的にでもヨコガキ教材をとりいれた国語教科書はゼロのようです。

 朝鮮半島では、南北とも漢字という表意モジからハングルという表音モジに切りかえました。世界のなかで、漢字にたよっているのは日本と中国だけです。その中國では、中国語教科書をはじめ、新聞・雑誌・単行本などすべてヨコガキが主流になっています。そればかりか、小学校で漢字を学習するまえに、まずローマ字(音素モジ)を習得し、そのローマ字つづりをたよりに漢字の発音を習得できるようになっています。論より証拠。この政策を実施した結果、南と北の方言のちがいをのりこえ、共通語を中国全土にひろめることができました。それにくらべて、日本語の文書の現状はあまりにも保守的。このままでは、21世紀の競争世界で生きのこれる見通しがつきません。ぜひとも改革が必要です。

  なにより、まず「言語観」を切りかえること。コトバはオト(音声)がイノチ。具体的にいえば、数千にのぼる漢字をおぼえるというムダな作業をやめ、カナ・ローマ字など表音モジをつかい、耳で聞いただけで意味が通じるようなコトバで文章を書くことです。

  国語教科書をはじめ、新聞・雑誌・単行本などのヨコガキを実行すること。

  ワカチガキを実行すること。ヨコガキ文書のばあい、ひらがなのベタガキでは「ヨミニクイのでワカチガキを」ということになります。ところが、「単語のどこでくぎるか」、「ワカチガキの公式ルール」ができていないのが現状です。

  パソコンや印刷機器の改善も必要。ワカチガキをするばあい、単語と単語の間隔を全角分あけると、かえって読みにくくなります。そこで英文用半角を利用してワカチガキの文書をつくることができます。しかし、そのさき、まだ問題がのこっています。たとえば、この原稿をブログへ転換しようとすると、途中で「全角」あるいは「改行」指示として処理されてしまうおそれがあります。これでは、ブログでのワカチガキは不可能となります。早急に改善を求められている問題であり、またやる気になれば、早期に解決できる問題だと信じています。