2010年9月21日火曜日

メヒ郡・ネヒ郡・ニヒ川郡

「イタチごっこ」の歴史

松川・イタチ川合流点

イタチ川は今木橋のすぐ下流(松川桜橋の下流)で、松川と合流します。ご覧の写真では、左側が松川、右側がイタチ川です。この白い突堤の水際に立っていると、60~70cmくらいのでっかい鯉がぞろぞろ集まってきます。

記念碑と常夜灯

 ここ「今木町」は富山城下の湊町。松川(神通川筋)を船で運ばれてきた木材を陸揚げした場所ということから、「木町・今木町・下木町」などの町名が生まれました。小公園の一角に記念碑や常夜灯などがあります。




「イタチごっこ」の歴史
松川・イタチ川の合流点に立って、いろいろ妄想をめぐら してみました。
イタチ川については、「元亀2(1571)年、上杉輝虎が椎名氏の富山城を攻略の際、イタチ川をはさんで戦った」との記録があります(上杉年譜)。これは、「国取り合戦」というイタチごっこです。
「天正年間富山城主佐々成政がイタチ川を開削した」という記録もあります(越中志微)。これは、洪水などの自然災害と治山・治水対策というイタチごっこです。

メヒ郡からネヒ郡へ
 いまのネイ郡は、歴史かなづかいではネヒ郡。万葉集の時代にはメヒノコホリ[婦負郡]と呼ばれていました。メヒがネヒに変化したのは、その時代に語頭子音のmがnに変化したためで、ミラ→ニラ[韮]、ミナ→ニナ[蜷]などとおなじ現象です。

母親が子どもをオンブする姿
 それにしても、メヒやネヒの語音に漢字[婦負]を当てたのはナゼでしょうか?[婦負]という漢語はありません。しいて漢字の意味をたどっていけば、「女性(母親)が子どもをオンブする」姿です。神通川(もしくは松川)が常願寺川(もしくはイタチ川)と合流する姿は、見方によっては、まさしく「メヒ=婦負=ネヒ」の姿です。

メヒ[姪]は、一族繁栄繁のシンボル
 メヒ[姪]は、「兄弟姉妹の生んだ女子。ヲヒ[甥]の対」。語源は不詳ですが、イズミ仮説では動詞メフ[芽生](想定)の連用形兼名詞形。植物の本体からメ[芽]やネ[根]がハエル[生]・フエル[増]姿です。それはまた、合流したり分流したりして、やがて海にそそぐ川の姿です。

「メヒ川」は、大河の称号
 メヒ[姪]やヲヒ[甥]は、一族の血統が「メ[芽]を出し、ネ[根]をハル」、栄える姿。とすれば、「神通川の一部」とされる「メヒ川」(万.)も、「合流したり、分流したりして、つぎつぎ勢力を拡大してゆく大河」につけられた称号かと思われます。

メ[目・芽]とネ[根・音]は大同小
 上代語の音韻感覚からいって、m音とn音には大同小異の面があります。たとえばメ[目・芽]とネ[根・音]は、いずれも「(本体から)ウム・ウマレルもの」であり、また「ナル[生・成]もの」です。

マフ[舞]とナフ[綯]
 2音節動詞のm-p音マフ[舞]とn-p音ナフ[綯]をくらべてみましょう。
「マヒ[舞]をマフ[舞]」、「ナハ[縄]をナフ[綯]」などといいます。この場合、マフが動詞基本形で、マヒがその連用形兼名詞形。同様に、ナフが動詞基本形で、ナハがその未然形兼名詞形と解釈できます(連用形はナヒマゼ[綯交]などのナヒ)。
 もうひとつ、マフとナフに基本的な共通点があります。マヒ[舞]はマヒ[幣](捧げ贈る物)とおなじ。身も心も神にささげる行為。キリキリマイして、マヰイル[参入]、神と合体する行為です。ナフ[綯]も、「よりをかけて多くのすじをまじえあわす」行為。ただ並べるだけでなく、マハ[舞]せ、マヰラ[参入]せ、合流・合体させる作業です。

n-p音のナワバリ
 m-p音にくらべて、n-p音のほうがよりおおくの派生語を生みだしているようです。2音節動詞だけでも、ナフ[綯]のほかにナブ[並・靡・隠]・ヌフ[縫]・ノブ[展・延・述]などがあります。n-p音は日本語の中でかなりひろいナワバリを持っています。
「上代語辞典」にネヒの項目は見あたりませんが、同族語と見られるネブ[合歓木]・ネブル[睡]やネバフ[根延]・ネハリアヅサ[根張梓]などの語がのっています。

ニヒ[新]川はニフ[丹生]の川
 ニイカワ[新川]は、ニヒ川ともニフ川とも呼ばれました。ニフといえばニフ[丹生]。「上代語辞典」は、「ニ[土・丹]は①土。②赤色の顔料。赤土。辰砂(硫化水銀)や鉛丹(酸化鉛)を含む赤土が、顔料として使われた」、「フ[生]は草木が生え茂ったり、物を産したりする場所」と解説しています。

 「広辞苑」には、「ニフ[丹生]」の項目がないかわり、「ニブノカワカミ[丹生川上]」という項目があります。それは、古代から有名な辰砂の産地です。そういえば、奈良時代から神通川の川上でも水銀が発掘されており、現代も神岡鉱山の鉱毒とイタイイタイ病の関係が問題になりました。

ニフの川がニハカに作るニハ
春になると、川上のニフ[丹生]のあたりに積もっていた雪が解けだし、まわりのニフ[丹生](土砂)を巻きこんで流れ出し、平野部に出たとたんに大洪水をおこします。これが「ニフ[丹生]の川」。水の色はニブ[鈍]色。大洪水のあとに、丹色の羽を広げたような美田=ニハカ[俄]づくりのニハ[庭・丹羽]をのこします。⇔ニハ[丹羽]郡・ニヒタ[新田]・ニフタ[新田]。

n-p音の漢語
 n-p音の漢語には、ヤマトコトバと同族語かと思われるほど、よく似た音韻感覚のコトバがあります。(以下、日本漢字音(新・旧)・漢字・現代漢語音・上古漢語推定音の順で発音(概略)を表記します)。

ニュウ<ニフ[入] niep>ru4 ネ[根]がノビル、大地にシノビ入る姿。また、ニ  フ[丹生]が川にシノビ入る姿。
ナイ [内] nueb>nei4 ワクの中にシノビ入る姿。シノビ入る場所。
ノウ<ナフ[納]nep>na4 ワクの中にシノビ入らせる姿。結果として、元の 姿は隠れる。⇔ナフ(なえる。しびれる)・ナブ[隠](かくれる。こもる)・ナブ  [靡](なびかせる)・ナブ[並](並べる)。

n-p音の英語
 ついでにいえば、英語のnephew(甥)とniece(姪)は語根nepot-(孫や甥)の派生語とされています。日本語のメヒ[姪・婦負]やネヒ[婦負]・ ネバフ[根延]・ネハリアヅサ[根張梓]などと同族語でないかと考えられるほど、音義ともよくよく似ています。Nepotism(縁者びいき)なども「ネをハリめぐらす」姿です。




















2010年9月14日火曜日

カモちゃん と アオサギくん

ウオーキングコース

いまどきのイタチ川べりに、イタチは住んでいないようです。しかし、戦後でもタヌキが住んでいたことは事実です。まだ遊歩道が整備されていなかったころ。町内のKさんのお宅のうらが、そのままイタチ川の堤防につながっていた時代の話。夏の日、あたりがくらくなってから、親子づれのタヌキが3匹、Kさん宅の縁の下から顔を出したというので、数日間おおさわぎしたことがあります。

 それから半世紀。イタチもタヌキも、すっかり伝説の世界にとじこめられてしまいました。ネズミやモグラくらいは、いまでもいるのでしょうが、鉄板とコンクリートで護岸工事されたせいか、じっさいに見た記憶がありません。ただいちど、この夏のはじめ、1匹のヘビの死骸が歩道に転がり、太陽にさらされているのを見たことがあります。

 わたしのいつもの散歩道は、雪見橋から上流へ泉橋・久右衛門橋・清辰橋あたりまで。下流では、月見橋・花見橋・今木橋あたりまでです。

こんなせまい範囲ですから、そこで見かける野生動物の種類は、ごくわずかです。もっと上流もしくは下流までゆけば、もうすこしちがった種類の動物が見つかるかもしれません。



カモ一族 

 イタチ川を散歩するようになって、はじめて「ご対面」できたイキモノたちがいます。先日からケータイのカメラで追いかけている「カモちゃん一族」や「ひとりぼっちのアオサギくん」たちです。

 渡り鳥のカモがイタチ川にも飛来することは、まえから見たり聞いたりしていました。ふつうカモは冬に渡来し、春になるとまた北国へ帰ってゆくのですが、このカモちゃん一族はちょっと変わっています。7月になっても、9月になっても、イタチ川に住みついたままです。  

 五番町公民館まえの橋の上から、カモたちにパンをちぎって投げていた男の人が解説してくれました。
「このカモが母親で、すぐ横にいる3羽がその子ども。あとの3羽は家族ではない。カモなかまとして、いっしょに行動しているだけ。」

 なるほど、パンくずを取りあっている姿をみているうちに、カモ社会にも「親と子」「親分と子分」みたいな関係調整ルールがはたらいていることに気づきました。あたりまえといえば、あたりまえ。あらためて感心するほどのことではありませんが。


アオサギくん   

いつも群をなして行動するカモたちとは対照的に、親愛なるアオサギくんは、いつ見てもひとりぼっちです。

 まえに見たときは、川の流れにはいりこんで、いつまでもじっとたたずんでいました。いっぺんだけ、魚をつかまえる瞬間を見たことがあります。ことしは、水ぎわ(護岸コンクリート)にたたずむ姿ばかりです。

いまイタチ川遊歩道で見かけるカモは、1グループだけのようです。アオサギも、このアオサギくん1羽だけだと思います。

カモちゃんたちは、人間が投げたパンくずを取りあうくらいですから、だいぶ人間になれています。ひとりぼっちのアオサギくんは、以前はちょっとヒトの気配を感じると、すぐさま飛び去ってしまったものです。しかし、ちかごろはこちらが数回シャッターを切るあいだ、ポーズをとりながら待っていてくれるみたいな感じです。それだけ、人間の視線になれてきたのでしょう。












2010年9月7日火曜日

イタチごっこの川

婦負郡・新川郡絵図(石黒信之)をよむ



 8月27日、共寿会の見学会に参加したついでに、射水市新湊博物館をたずねました。共寿会というのは、富山第一銀行に縁のある教職員OB, OGの親睦団体。毎年1回、日帰りの見学会を実施。ことしの見学先はヘルン文庫(富山大学)、富山福祉短大(浦山学園)、大島絵本館の3箇所でした。

 新湊博物館をたずねるのは、ン十年ぶり。道の駅新湊で昼食を食べたあと、自由時間を利用しての見学です。ここは比較的小型でローカルの博物館ですが、伊能忠敬と並ぶ地理学者・測量家石黒信由にかんする資料が展示されているなど、特色のある博物館です。

 石黒藤右衛門が制作した絵図の複製があるというので、おみやげに買ってきました。婦負郡と新川郡の2枚です。わたしの計算では、この2枚をつなぎあわせれば、いまの富山市全体をカバーできるはずでした。

 うちへ帰ってから、さっそく地図をひろげて比べてみました。ともに石黒信由の孫信之、天保9(1838)年の制作。古地図は、いまの地図とちがって南と北がぎゃくになっているので、比較対照するのにテマヒマがかかります。

 いちばんの関心は、当時の地図に神通川・常願寺川・イタチ川などがどんなふうに記録されているかです。

 神通川と黒部川は、川幅をしめす2本の黒線で縁どりした大河としてえがかれています。「神通川」という名前は記入されていませんが、「神通・中神通・西神通」の村名が記入されているので、当時すでに「神通川」と呼ばれていたことがわかります。黒部川については、中流部に「黒部川」と明記され、下流部でほぼおなじ川幅を持つ二筋の川に分流していたこともわかります。

 それにくらべて常願寺川には、2本の黒線の縁どりがありません。中流部で「常願寺川」と記入され、また「常願寺」の村名も見えます。しかし河口部などは、上市川より細い青線でえがかれ、どこで日本海にそそぐのか判定しにくいほどです。常願寺川フアンとしてはガックリ。まさに「信ジラレナイ」感じ。
 
 いたち川については、イタチのイの字も見あたりません。それでも川筋をしめす青色の線は明確で、上流、常願寺川からの分流地点から下流、神通川へ合流するまで、周囲の村名をたどることもできます。

 絵図では、いたち川が富山城の北で直接神通川へ合流しています。この点で、現行の地図とはおおちがいです。しかしそれは、この絵図制作後に神通川の河道変更工事が行われたためなので、問題ありません。

 わたしの思わくでは、「婦負郡と新川郡の絵図を2枚つなげば、富山市全体をみわたせる絵図ができる」ということでしたが、みごとに失敗しました。2枚の地図は、原図の段階で縮尺が一致していたものが、複製の段階で縮小率がまるでちがいます。これでは、つなぎようがありません。

 あきらめきれず、30日に博物館へ電話。富山県全体をカバーできる絵図があるとのことで、あらためて注文。9月1日、品物がとどきました。こんどは越中四郡図セットで、「文政8(1825)年石黒藤右衛門信由測量・作図」とあります。

 さきの「信之絵図」とこんどの「信由絵図」の制作年代のちがいは、13年しかありません。その間に、山や川の景観が大きく変化するとは、ちょっと想像できません。

 ところが たいへん!「信之絵図」で あれだけ影のうすかった常願寺川が、13年まえに制作された「信由絵図」では、神通川と同格の大河として えがかれていたのです。

 これは いったい どういうことなの?そこで もういちど絵図の標記を読みなおします。
「道程ハ一里ヲ以ッテ曲尺一寸二分ニ縮ス。山川道ノ屈曲オヨビ駅村等ハソノ大略ヲ図ス」とあります。

 なるほど、水田耕作地などとちがって、河川の規模などは課税割当てと直接の関係がない。だから、「ソノ大略ヲ図ス」だけでよい。神通川や常願寺川の姿を絵図の上でどう表現するかは、製図者の自由ということかもしれません。

 それにしても、信由の絵図を基礎にしてつくられたはずの信之絵図で、どうして常願寺川をこんな姿にかきかえたのでしょうか?信之が独断で変更した?あるいは、ただの手抜きだった?それとも、常願寺川自体になんらかの変化(氾濫など)があったため?

 大山鳴動シテ、ネズミ一匹。それでも、4枚の絵図のおかげで、この1週間ずいぶんとたのしませて もらいました。同時にまた、地名や人名にかんする<イズミ仮説>がいちだんとふくらんできました。しばしば「誤解と偏見による独断論」と批判されてきた「仮説」です。 

 神通川・常願寺川といたち川にかんする<イズミ仮説>は、ほぼつぎのとおりです。

①むかし、神通川と常願寺川は合流して日本海にそそぐ時期があった。また、それぞれ単独で日本海にそそぐ時期もあった。

②現状では、常願寺川から分流したいたち川神通川から分流した松川と合流し、やがてまた神通川と合流して海にそそぐ。これは、イタチごっこの関係といえる。

③「イタチ川」という名前は、そのイタチごっこの立役者につけられた愛称だと考えてよい。

④「神通川・常願寺川」などという名前は、もとヤマトコトバから漢語風の名前に改名したものにちがいない。まずはもとの呼び名をたしかめたい。

⑤「神通川」の古称については、「メヒ[婦負]川」できまりらしい。しかし「常願寺川」については、「流域の地名から水橋川・大森川・岩峅川などと呼ばれたが、出水なきを常に願うという住民の気持ちをこめて常願寺川の名が次第に定着した」(地名辞典)という。

⑥「神通川」と「メヒ[婦負]川」や「ネイ[婦負]郡」との間に対応関係があるとすれば、「常願寺川」と「ニフ[丹生]ノ川」や「ニイカハ[新川]」との対応関係を想定してもよいのではないか?

婦負郡・婦負河の婦負はもとメイからネイに子音交代したもの。ミナ[蜷]>ニナ[蜷]とおなじ現象。メヒ[婦負]=母親が子を負う姿=本流が支流と合流する姿。人びとは、神通川と常願寺川、また松川・いたち川との関係から、叔母とメイ[姪]の関係を連想したかもしれない。

 さて議論が核心にせまり、おもしろくなってきましたが、老人なので すぐ つかれます。ここらで一服して、こんどまた「メヒ[婦負・姪]・ネヒ[婦負]・NEPHEW」や「ニフ[丹生・入]・ニヒ[新]川」・NEW」などの対応関係などもさぐってみたいものです。