「こしのみちのなか」公開講座 3/11
カスミ堤
日本語ボランティア登録者研修会
3/19
3月11日(金)。富山市
千代田町の 丸十 2Fで 第21回「こしのみちのなか」公開講座が 開かれ、「明治期の 治水と 高田 雪太郎」と 題して、是松 慧美 さんと 針山 康雄さんが 報告されました。
是松 さんは 富山県
立山カルデラ 砂防博物館 学芸員の 立場 から、明治期の 治水事業に かんする 資料の うち、とりわけ お雇い 外国人と
して 有名な デ・レィケと 比較的 無名な 高田 雪太郎に 焦点を 当てて 報告。多数の お雇い 外国人を かかえ、高額の給料を
工面する ために 苦心した 政府の 財政事情 なども かいま みえて、わたしども門外漢にも 分かりやすい お話でした。
つづいて、針山 康雄さんが 、デ・レィケの 故郷 オランダを たずねた ときの ことを、スライドを 使って 報告されました。
わたしと
しては、治水工事の 話の 中で 出て きた「カスミ[霞]堤」と いう 用語にとりわけ
興味を ひかれ ました。コトバと しては 何回か 聞いた ことが ありますが、堤防工事の ナマエに どうして 「カスミ[霞]」と いう コトバ(語音)が 当てられた
のか、その 命名法に、興味と 疑問を もち つづけて いた から です。
霞堤命名の 由来を さぐる ため、あらためて
ネットの ウィキペディア などで 検索して みた ところ、予想以上に さまざまな
解説が 出て きました
◆霞堤…連続する 堤では なく、あらかじめ 間に 切れ目を いれた 不連続の 堤防が 主。不連続点に おいては、上流側の 堤防が 下流側堤防の
堤外(河川側)に 入れ込んで いる。不連続部周辺の 堤内(生活・営農区域)側は、予め 浸水を 予想されて いる 遊水地で、それにより 洪水時の 増水に よる 堤への
一方的負荷を 軽減し、決壊の 危険性を 少なく させた。
◆霞…靄・煙霧などで 遠くの 景色が ぼやけて いる(=かすんで いる)様。やや 文学的な 表現で、気象学用語では ない。春の 季語。
◆霧 は、微小な 浮遊水滴に より 視程が1km未満の 状態。 靄は、微小な 浮遊水滴や 湿った 微粒子に より 視程が 1km 以上、 10km未満と なって いる 状態。 霧と 霞は 同じ 現象の
別名 だが、文学的には 「霧立ち上る 秋の夕 暮れ」「春霞」と いう ように 霧は
秋、霞は 春に 主に 使われる。
◆気象観測では、霧、靄、煙霧に 分けられて います。霧は 視程1km 未満。靄と 煙霧は視程 1~10kmで、相対湿度が 50%以上の ときが靄、50%未満の ときが 煙霧と して います。
◆今回の うんちくは ひょんな ことから 靄(もや)と 霧(きり)と 霞(かすみ) の 違いなどを
テーマに 選んだ のですが、なかなか すっ霧とは いかず、 心は 靄靄、パソコンの前で 目は 霞、締め 霧が 迫り 霧霧舞いを しました。(^.^)
◆霞(かすみ)は、大日本帝国海軍の 駆逐艦。一等 駆逐艦
朝潮型の 9番艦である。この名を 持つ 帝国海軍の 艦船としては 暁型駆逐艦「霞」に 続いて 2隻目。
さいごに、わたしの
解釈を のべさせて いただきます。まともな 議論を して いると 長く なります ので、結論 (イズミ仮説) から さきに 述べて、ご教示を おまちします。
カスミ[霞]は、動詞 カスム[霞]の 連用形 兼 名詞形と 考えます。その カスム[霞]は、カスム[略・掠]と 同源で、もともと「カス[滓・粕]+ム[生・産]」の 音韻構造を もつ コトバ。
さらに いえば、その
カス[滓・粕]も、動詞 カス[貸]の 基本形 そのままの 名詞用法。カス[貸]の
基本義は「Aが もって いる モノの 一部を カット(ブンカツ[分割])して、Bに
もたせる」姿。日本語の カツ[搗・勝・且・合](カツカル・カチワル)は、漢語の カツ[割]や 英語の cutとも
共通の 音韻感覚を もつ 語音です。
k-t音語 カツの 語尾子音 t-が
s-に 変化して k-s音語と なった ものが カス[貸・滓・粕]と 考える ことが できます。カスム[霞]とは、空気中の 水分が こまかく カット されて「カス[滓・粕]の 姿に なる」、「ガス(gas.気体)の 姿に なる」こと。またカスム[略・掠]とは、「相手が もって いる モノの 一部を カット(分割)して おく」、「スキを 見て
(睡眠中、クラヤミ・カスミの 中 など) カスメとる」こと。カスミ網の ばあいは、「ごく 細い 糸で 編んだ 網を、小鳥の とおる 道に 張って
(鳥の目を カスメ)、飛ぶ 鳥を 捕える 装置)。カスミ堤の ばあいは、河川の 流れを 分割する ことに
よって、1か所に 集中する 水量を
カットし、総合して 洪水の 被害を できるだけ カットする ための 対策と いう ことに なります。
3月19日(土)。午前。CIC 3F。「日本語 ボランティア 登録者 研修会」に 参加させて いただきました。わたしは「登録者」では ありませんが、「コトバを 習得する こと」や「コトバ学習を
指導する こと」は、わたし 自身の 研究テーマでも あります ので、せっかくの 機会に 勉強して おきたいと 思いたった わけです。
今回の テーマは「日本語指導の 最新情報」。講師は 原 和子さん(日本語教師会 ゆうゆう 代表)。講演の
内容を、会場で 配布された レジュメ から 要約して ご紹介します。
◆日本語教師が 知る べき こと
何を 日本語の 言語的 知識(文法・語彙・音声・語法)
どのように 日本語の 教え方の 知識と 実践
誰に・どこで・いつ・どうして コース デザイン(ニーズ 分析・レデイネス 分析)
教師に とって 必要な ものは、「何を 教えるか」と いう 内容項目でも、「どのように教えるか」と
いう 教授方法でも なく、学習者が 主体的に 表現する ためには 何が必 要か
と いう 環境設定に おける 組織化と 支援の ための「方法論」の 構築 である。(細川 2004)
「学習者の 学習を 支援する 上で、教師は 何が
できるかと いう ことが 教育方法論の立場 である。(細川2004)
◆学習 ストラテジー: 学習 ストラテジーは、日本語教育では もはや 無視 できない 領域に なりつつ ある。しかし 一部の 研究者が 占有する
トピックでは なく、学習者と 最も 接する 機会を もつ 日本語教師も 学習 ストラテジーを 自らの 教室活動の 中で きちんと 位置づけて いかないと、学習者の
日本語 習得は 達成できないと 断言できる(宮崎里司氏)。
◆自律的学習 支援: 語学教育は「学ぶ」学習者と「教える]教師に よって 成り立つと考える 教育者や 研究者は かなりの 数に 上るが、学習者
自信が 自らの 言語習得を どのように 管理すべきか(つまり 自らの 学習に どのように 働きかけるか)と いった 観点に 強い関心を 寄せる 者は 依然 少数派
であり、学習者の 自律学習能力の 開発に 積極的に 取り組んで いる 日本語教師は さらに少ない(宮崎里司氏)。
◆メタ 認知 ストラテジー とは、学習者が 自分の 認知作用を コントロールする こと,つまり 自分の 学習を 位置付け、計画し、評価すると
いった 機能を 使って 言語学習の過程を 調整する こと である(宮崎里司氏)。 以下省略。
こうして 文章に して 書くと、たいへん むつかしい 問題の ような 感じも するのですが、原 さんの 話しぶりは まったくの
ザックバラン。お茶の間で 世間話を する ときの ような コトバヅカイで 話を すすめられ ました。
「学習 ストラテジー」、「メタ 認知」など、ハイカラな 用語も 教えて いただき ました。おなじ 用語 でも、原
さん 流の いいかたで 解説 されると、「なるほど、その とおりだ」と ナットクした 気分に なれる よう です。
講演の 最後の 部分 では、「実際の 指導に ついて 考えて みましょう」と いう ことで、ベトナム・フィリピン 技能実習生の 「月1回。Ⅿ4日本語 能力 試験 対策 クラス」で
実施した 「宿題」の 例まで 解説して いただきました。これで、「日本語
指導の 最新情報」に ついて 1単位 取れた ような 気分に なりました。ありがとう ございます。
さて、ここで またしても 思いだす のは、日本の
国語教育・外国語教育の 現状 です。原 さん たち、民間の 研究者 たちの あいだで 「常識」と されて いる 「自律的 学習支援」の 考え方は、日本の 学校教育の 教師 たちの あいだ でも「常識」と
なって いる でしょうか?
母語と しての 日本語教育と、第2言語と しての 日本語教育と では、学習方法や
学習指導法に おいて、かなり おおきなチガイがあるのは当然です。しかし、日本語でも・外国語(漢語・英語など)でも、言語習得に かんする 原理・原則は 変わり ません。また、言語の
学習指導に おいて「自律的学習 支援」が 必用と される 点に ついても、おおくの 学校現場では「時代おくれの 態勢の まま」と いうのが 実態では ない でしょうか?「小学校 からの 英語教育」を 確実に 成功させたいと 考える なら、まず いちど
原さん(もしくは、その おなかま)から 「自律的学習」などの 話を 聞いた うえで、万全の
対策を たてられる よう おすすめ します。
わたしが こんな ことを いう のは、自分でも この 数年来、似た ような ことを 考えつづけて きた から です。とりわけ、ことし
2月、オイ[甥]夫妻が 長男 ハルト
君(3歳)を つれて 来富した おり、ハルト 君の 言動を 観察している うちに(実は、いっしょに なって遊んで
いた だけ ですが)、気が ついて、ショックを 受けた こと です。保育園
年少組の ハルト 君は、朝から 晩まで、あちこち 動き まわり、ブツブツ しゃべり どおし です。前回 会って から 2カ月 ほど しか たって いない のに、語彙の 数も 質も 格段の ちがい です。パパや
ママ から 教わった とは 考え られない コトバも あります。保育園の トモダチの 影響も ある でしょう。テレビで サンダーバードの 番組を 見て、自分が
スーパーマンに 変身した つもりで しゃべって いる らしい ところもあります。
そのとき わたしは、「これ こそ、言語習得の あるべき 姿」だと 思い ました。そして、ブログ(「春遠からじ」2016.2.23号)でも
ご報告 しました。ハルト 君は、だれ から 教え られる までも なく、自分 から(好奇心 から)、自分の 目で マワリを 見とどけ、自分の 耳で 他人の コトバを
聞きとり、やがて 変身して (他人に なりすまして)その セリフを しゃべり ました。原 さん 流の 用語に したがえば、「自律的 学習」の 「3歳児版」と いえる かも しれませんね。