2016年4月27日水曜日

観光地 能登の 経営 戦略

 
 
『古事記』を読む会、総会
 
 
気多大社 
 
 
総持寺祖院  
 
 
ショーを見ながら夕食 
 
 
のとじま水族館 
 
 
能登のサクラ 
 
 
いたち川 4/20 
 
 
 
『古事記』を 読む 会・総会
410日 午前、茶屋町 豊栄稲荷神社で『古事記』を 読む 会の 総会が 開かれ、会員各自が 研究中の、もしくは 関心を もっている テーマを もちよって 報告しました。
  「生死と 祭と 信仰」(五十嵐 顕房 さん)
  「ヒカゲノカツラ[日陰鬘](服部 征雄 さん)
  「大国主命に 関する 考察」(村上 悦子 さん)、など。
 10人 そこそこの ちいさな サークルですが、『古事記』に よせる 思いは、会員 ひとりひとり ちがって いる ことが よく 分かりました。自分 ひとりの 視点から では、どうしても 視野が かぎられて きます。さまざまな 視点からの 研究報告を 聞く ことができれば、それだけ 自分自身の 研究内容を 補強する ことに 役だつ かも しれません。
 会員の 研究テーマや、研究の 進行状況に あわせて、年間の 研修会での 報告・提案者の 予定が くまれる ことに なります。さしあたり 51日の 例会では、イズミが「k-t音語と  k-s音語の 系譜」に ついて 報告させて いただく ことに なりました。
 昨年96日の 研修会で、服部 征雄 さん(元 富山大学 和漢医薬学 綜合研究所長)が、『古事記』の 中の 医療関係記事と して、「カツラ[桂・楓・香木]」や「キサカヒ[𧏛貝・赤貝]」に ついて 解説された のを うけて、わたしが「日本語の 音韻組織」の 視点からカツラや キサ貝と いう 用語を とりあげる 作業を はじめた、という 経過が あります。
 カツラに ついては、植物と しての カツラ[桂・楓・香木・葛]の ほか、その 加工品としての カツラ[鬘・縵]も あり、かなり 複雑な 意味用法が 見られます。語音構造に ついても、「カツ+ラ」と 解釈するか、「カ+ツラ」と 解釈するか、という 問題があり、わたしは さしあたり「カ+ツラ」、つまり k-t音語の 線で とらえて います。
 また、キサ貝に ついては、「キサの 貝」(キサ・キザ・キダの ある 貝)と 解釈。つまり、k-s音語の 例と 考えます。あわせて、もとk-t音(キタ・キダ)から k-s(キサ・キザ)へと 変化した ものでは ないかと 推定して います。その推論の 過程に ついては、ブログ「コトダマの 世界」で 報告する 予定です。
 
能登めぐりの 旅
 ことしも 伊藤 広美・淳子 夫妻に さそわれ、能登めぐりの 旅行に いって きました。伊藤 さん 愛用の クルマに 便乗させて いただき、ほぼ つぎの ような 日程です。
12()…富山~気多大社~総持寺 祖院~和倉温泉(夕食・御陣乗太鼓)
13()…和倉温泉~のとじま水族館~宇宙博物館~富山
 信子は、能登島へ 2度ほど いった ことが ある そうですが、わたしは 千里浜 以外、能登半島は こんど はじめての 訪問です。それだけに、見るもの・聞くものが みな 新鮮で 予想外、よい 勉強に なりました。
 実は、なんの 予習も しない まま 旅行に 出かけた ので、帰って きて から あわてて地図を 見たり、ネットで たしかめたり して います。平生の 不勉強さを 思い知らされました。
 
気多大社の ナゾ
ケタ[気多]大社と いう ナマエは、ずっと まえから 気になって いました。ネットで見ると、
石川県羽咋市寺家町にある神社で、式内社(名神大社)、能登国一宮。旧社格は国幣大社で、現在は神社本庁に属さない単立 神社。旧称は「気多大神宮」。(中略)
社伝(『気多神社縁起』)によれば、第8代孝元天皇の御代に祭神の大己貴命出雲から300余神を率いて来降し、化鳥・大蛇を退治して海路を開いたという[1]
また『気多社島廻縁起』では、気多大菩薩は孝元天皇の時に従者を率いて渡来した異国の王子とし、能登半島一体を巡行して鬼神を追放したと記される[1]。『気多社祭儀録』では、祭神は第10崇神天皇の御代の勧請とし、神代からの鎮座とする説もあると記される[1]
一説として、孝元天皇の御代には七尾市に鎮座(現・気多本宮、位置)し、崇神天皇の御代に当地に遷座したとも伝えられる[1]。(中略)
奈良時代には北陸の大社として京にも名が伝わっており、『万葉集』に越中国司として赴任した大伴家持が天平20年(748年)に参詣したときの歌が載っている(文献上初見[2])。
 歴史学・考古学 など からの 根拠は とぼしい ようですが、「現在は 神社本庁に 属さない 単立 神社」と いう あたりから みても、普通の 常識とは「ケタはずれ」の 神社のようです。「気多神社命名の 由来を どう 考えれば よいか?イネ 農耕以前の 日本列島へ、異質先進的な「ケタ文化」が 伝来した ことを 記念する 命名と 解釈しては どうで しょうか?ケタは、直接には 動詞ケツ[]・ケヅル[]に つながるk-tの 名詞ですが、動詞 カツや 名詞 カタ・カチ・カテ・キダ・コト などとも 同系の k-t音語です。ハシケタ[橋桁]と いえば、土木建築の 技術用語.ハキモノの ゲタ[下駄]は、家屋や 橋の ケタ[]の 姿。動詞 カツ[合・搗・勝]は、もともと「カツカル・カチワル」姿。漢語カツ[]英語cutも、おなじく k-t音語です。
カツ(カチワル)作業の 結果が カタ[]・カテ[]。その 道具が カタ[]cutter。大地を 両足で コンパスの ようにして カチワル 姿が カチ[徒歩]。ハモノでcutして できた キズ・キザが キダ[分・段]。モノゴト・モノガタリを バラバラニ ブンカツ[分割]した、その ワン カットカタ[]コト[事・言] です。そして、コトと いえば、「コトシロヌシ[事代主]](大国主神の子)、「ヒトコトヌシ[一言主]大神」(雄略天皇を 平伏させた 託宣の 神)の 神名にも 用いられる k-t音語。英語でも、みごとな カタチに 仕上がった 作品を goodと いい、超ミゴトな シゴトを する 存在を Godと よんで います。「気多神社 = k-t文化の ヤシロ[]]と 考えて よい でしょう。
 
総持寺 祖院の こと
 総持寺 祖院は、輪島市 門前町門前に ある 曹洞宗の 寺院。山号は 諸岳山。通称、能山(のうざん)あるいは 岳山(がくざん)。曹洞宗の 大本山と して 瑩山紹瑾 禅師に より、1321(元亨元)年に 創建され ましたが、1898( 明治31)年の 大火で 境内が 焼失、本山は1910(明治43)年、神奈川 横浜市 鶴見に 移り、以後 祖院と 呼ばれて いるとの こと。
 能登地方は、現在 石川県の 一地域 ですが、かって 「能登国」と 呼ばれた(『和名抄』)時代も あります。日本列島の 歴史の 中で、この 地域が その 地勢・地形・地質 などを ふくめて、一定の 役割を はたして きた という 経過が あり、気多大社や 総持寺 祖院 などは、その 記念碑と いう こと でしょう。
 
ディナー ショーの 感覚
 12日の 夜は、七尾市 和倉温泉の「あえの風」で 一泊 しました。伊藤 さんの 解説では、「加賀屋は 有名 だけど、料金が 高くて 手が 出ない。ここは 加賀屋の 姉妹館と して、格安料金で 加賀屋流の サービスを 提供と いう のが 売り」だ そうです。
 夕食の 場所が、ちょっと ディナー ショー みたいな 演出に なって いました。「花舞茶寮」と よばれる 一画で、中央に ステージが あり、「御陣乗太鼓」の ショーが おこなわれ、その まわりの 席で 食事を する 人たちも います。さらに その 外側が 桟敷ふうの 個室に なって いて、わたしたちは その 個室で 食事を しながら、窓ガラス ごしにショーを 楽しむ ことが できました。
 考えて みると、日本全国 いたる ところに 温泉が あります。と いう ことは、そこに競争原理が はたらくと いう こと。温泉の 魅力 だけでは 生きのこれ ない。そこで、食事や ステージ ショー などに 工夫を こらす ことにも なります。さらには、まわりの 歴史遺跡や 観光施設 などとの 連携 プレーも 必要に なって きます。一見 のどかに みえる 能登の 風景 ですが、その かげに「21世紀を 生きのこる ための 戦略」が めぐらされて いると 感じました。富山の 温泉地 宇奈月 なども、負けて いられ ませんね!
 
のとじま 水族館
13日は、のとじま 水族館や 羽咋の 宇宙科学 博物館 などを 見学しました。最近の 観光施設 などでは クルマいすを 用意して ある ところが おおく、水族館では ごらんの とおり クルマいすで 「ペンギンと ご対面」と いう 場面も ありました。自分の アシでなんとか なると いう 気も しますが、万が一 ころんで ケガでも したら、たいへんな メイワクを かける ことに なります ので、あえて ラクを させて いただき ました。乗って いる ほうは ラクチン ですが、途中 坂に なった ところも あり、押す ほうは たいへん だったと 思います。ごめんなさい。
  それに しても、この 水族館は 日本でも 有数の 規模を ほこる 水族館の ようです。この 地域で これだけの 施設を 運営して ゆく その かげで、どんな 人たちどんな 体制を組んで いる のでしょうか?そんな ことが 気に なりました。
 
能登の サクラ
  こんどの 能登めぐりは、もともと「能登の サクラめぐり」と しての 企画 でした。ところが、富山の サクラは 予想を1週間 ほど 早く 満開と なり、富山を 出発した ときは すっかり 葉桜の 状態に なって いました。それで、能登路の サクラも おなじ 状況だろうと 考え、寺社 めぐりや 水族館 見物 などに 重点を おくことに しました。それが 意外な ことに、ゆく 先々で 能登路の サクラは 満開の 姿で わたしたちを むかえてくれました。
 あとで 地図を 開いて 見て、よく 分かりました。平生の 感覚で、「能登は 石川県の 一画。金沢と ほぼ おなじ」と とらえて いたのが マチガイ。金沢は 富山 よりも 緯度が 低い ですが、能登は 富山 よりも はるかに 緯度が 高い 位置に あります。自分が「常識」と 考えて いた ことが、まったく デタラメ だった ことを、またしても 思い 知らされました。
 
ノト[能登]の 語源は?
さて、ノト[能登]の 語源は どんな こと でしょうか?ノト[能登]と いう 漢字表記は、その 地形 から「ノボル[] ことが デキル[]」と いう 好字(かっこいい漢字)を 当てた だけの もの。問題は、日本語(ヤマトコトバ)と しての 「ノト」の 意味です。上代語に「ノト[能登](国名」や「ノド[]ニ」(のどかに。ゆったり)などの 用例が あること から(ノ・ト いずれも 乙カナ)、「ノ[][](矢竹の アト。ゆるやかな 斜面)」が 原義では なかったかと 考えて います。
 もっと はっきり いえば、ノト[能登]と ノド[]もともと おなじ 音感覚の コトバだったろうと 思います。上代語に ノミド[](ノは 乙カナ。ドは 不明)の 用例が あり、ノド[]の 用例が ない こと など から「ノト[能登]=ノド[]」説は 少数派の よう ですが、それは 「上代 甲乙 カナヅカイ」に とらわれすぎた 結果だと 思います。甲乙カナの 区別は たしかに 参考に すべき ですが、とりわけ コ・ト・ノ などの 用法に ついては、疑問が 出されて います。上代語辞典 でも、「アト[足・跡]の トは もとは 甲類だが、トの 両類の 別は やや 早く 失われる ので、乙類の 例も まじって いる」と 指摘して います。
ちなみに、和倉温泉の ワクラは、「湧く 浦」、つまり「湯の 湧く 浦(入り江)」であり、海の 中から 発見されたと 解説されて いる ようです。
 
いたち川 べりは 若葉 一色
  富山へ 帰って から、能登めぐりの 報告を まとめて いた ところ、16日 さっそく 伊藤 さん から 旅行中の スナップ写真が おくられて きました。その うち 「気多大社」と 「のとじま水族館」の 2を、この ブログの 画像と して 使わせて いただきました。
 20日、雪見橋で 定点観測の シャッターを 切りました。いたち川 べりの サクラは すっかり 若葉一色に なって いました。
 
 

2016年4月9日土曜日

いたち川 べりの サクラ 満開 

 
 
富山市日中友好協会総会3/4
 
 
日本海文化悠学会総会 3/25 
 
 
いたち川の サクラ 満開 4/3  
 
 
 いたち川 遊歩道 3/25 
 
 
大沢野の 風景 4/5  
 
 
 ゆーとりあ 越中 まえで 4/6  
 
 
 
324日(木)夜、ホテル グランテラスで 開かれた 富山市 日中友好協会 総会に 出席しました。出席者の 中に、むかし 日中国交回復運動に 熱中して いた ころの 仲間の姿は、ほとんど 見あたり ません。それでも、田添 等楊 さんと 同席できて、ほっと しました。田添 さん とは、むかし 富山市 中学校の 教員仲間で あり、当時 たまたま 中国 から 一時帰国して いた hsmtさんの 娘さんを 中学生と して 受けいれる ことに なり、その 学級担任が 田添 さん でした。田添 さんは、独特の 風格を もつ 洋画家と して いまも ご健在 です。また、そのときの 女子 中学生は いま 富山市役所の 文化・国際課に 勤務して います。
むかしなじみと いう 点では ,ひさしぶりで、栗三 直隆 さんに お会い しました。滑川市 光明寺 住職 さん ですが、この日は 県協会 副会長と して 来賓席に 着席。むかし、NHK 富山放送局に 勤務、労働組合の 運動を して おられた ころ からの 顔なじみ。最近は『浄土と 曇鸞…中国仏教を ひらく(桂書房)を 刊行する など、ますます ご健在の ようです。
 この日、記念講演と して 斎藤 大紀(富山大学 人文学部 教授)が「鳳凰県の 世界」と 題して 講演され ました。鳳凰県は、湖南省 湘西 土家族 苗族 自治州に ある 地方都市で、漢族とは ちがった  文化を 感じさせる 観光地と なって いる よう です。中国の 現代作家 沈従文の 故郷としても 有名です。ただし、わたし 自身 広西省の チワン族 自治州 桂林へは 2回 旅行した ことが ありますが、鳳凰県は まだ いった ことが ありません。これまで 10回 以上も 中国を旅行して きましたが、中国の 土地に ついても 人についても、知らない こと だらけ、分からない こと だらけ だと、あらためて 気づかされ ました。
 
325日(金)午後、茶屋町 豊栄稲荷神社で、日本海文化悠学会 総会が 開かれ、平成27年度の まとめ、および 新年度の 計画 などに ついて 協議 しました。まず、各自が とりくんで いる 研究 テーマ などに ついて 報告し、ついで その 提案・報告などの 希望に あわせて 新年度の 研修会日程に くみこむ 作業が おこなわれ ました。
この席で、会員の 関屋 克己 さんが「地名 サワ[]と タニ[]の 分布」に ついて 研究して おられる ことを 知り、さっそく ご教示を お願い しました。関屋 さんは、即日メールで、隈田 実 論文「日本列島に おける、地形用語と しての 谷と 澤の 分布 …古代民族の 文化圏との 接点を 探る」を おくって ください ました。ありがとう ごじます。
隈田 論文の要旨は「地形用語と しての 谷と 澤の 分布を見ると、日本の背骨と呼ばれる飛騨山脈を境として、西側は谷、東側は沢に、ほぼ統一されている。この地名の分水嶺は、地質学的には、糸魚川~静岡線(大地溝帯あるいはフオッサマグナ)の東側に平行して走っており、南端は御岳南麓まで続いている。谷と沢の分布状態から(本来は言語学・民族学・考古学などの諸分野が関連している問題であることを承知の上で)、古代民族の勢力圏や文化圏との関係を推理してみたい」と いう こと です。この 論文は「地質ニュース563(20017)に 掲載された もの ですが、ネットで 簡単に 閲覧・コピー できる ように なって います。ご都合の つく方は、ぜひ いちど 検索して みて ください。タニ[]と サワ[]の ミゴトな 分布図や ロマンに 満ちた 隈田仮説を たのしめると思います。
地質学には 門外漢の わたし ですが、タニ[]と サワ[]の 精密な 分布図を 見て おどろき、隈田 さんの 基本姿勢に 感動しました。また、タニ[]・サワ[]・カワ[]などと いう 地形用語の 音形・字形・意味用法 などに こだわる 姿勢にも 共感を おぼえました。
 「タニ[]と サワ[]の 分布図」から「古代民族の 勢力圏や 文化圏との 関係を 推理する」ことは、たのしい こと ですが、それには やはり「言語学・民族学・考古学 などの 諸分野」からの 証言が 必要に なります。その点で、隈田論文の 中で 提案されたいくつかの 仮説は、まだ 十分な 説得力を もって いない ように 思われます。
 ここで、わたしに ナニが できるかと 考えて みました。音韻比較の 面 から、地形用語(タニ・サワ・カワなど)の 音形を 音節・音素の 段階 まで 分析する と ともに、音形と意味(事物の 姿)との 対応関係(やがて、語形の 組織原則)を たしかめる ことに よって、なにがしかの「客観性・合理性」の ある 証言を 引き出す ことが できるかも しれません。
 これから 先の 話は、やや 専門的な 議論に なります ので、くわしい ことは ブログ「コトダマの 世界」でご報告する ことに します。
 
43()いたち川 べりの サクラも ほぼ 満開と なりました。ことしの チンドンまつり8日~10日に 予定されて います から、予想より 1週間 ほど 早く花見が できたと いう こと です。花見と いっても、いまの わたしの 体調では、朝食 まえの 2030分、スマホを ぶらさげて 雪見橋 まで 出かけ、まずは 定点観測で 両岸の 風景を カメラに おさめ、あとは 遊歩道の サクラを ながめて シャッターを 切る くらいの こと。カメラ アングルを 考えて、水面 ちかく まで 階段を おりようと しても、手すりが ないので ムリ。松川との 合流地点 まで 歩けば、またすこしちがった風景が見られるのですが、そこまでの 体力も 意欲も ありません。まあ、これで ヨシと 思って います。96歳の 春、ことしも 無事 サクラの 花を 見る ことが できました。それ だけで、ありがたい こと です。
 
44()西田 直・恵美子 夫妻の 來富に あわせ、藤木 美織 さんの クルマに イズミ 夫妻も 便乗して、-とりあ越中 まで 一泊旅行に 出かけました。西田 夫妻は、前回も ご紹介した ハルト[悠人] 君の おじいちゃん・おばあちゃんに 当たります。こんどの 富山訪問は、3日に 大津市で 琴の 発表会が あり、母親の 規子 さん だけでなく、ハルト君も 出演する ことと なり、やがて 祖父母の 西田 夫妻 まで 孫の 初舞台 応援にかけつける さわぎと なりました。千葉県 四街道 から 大津 まで きた ついでに、富山を まわって 北陸新幹線で 帰郷と いう ことに きまった そうです。
信直 さんは、旧制 富山高校の 出身で、東北帝大 工学部 卒業後、日鉄・釜石 製鉄所に 勤務。敗戦後も、日鉄 解体に よる 富士製鉄 時代1950年~)、八幡製鐵所と 合併して からの 新日鉄時代 まで、日本の 製鉄業界で 陣頭指揮を して こられた よう です。やや 難聴の ため、補聴器を つけて、じっくりと 思い出話を きかせて いただき ました。旧制 富山高校の 学生時代、寮生仲間で 食料買い出しに 行って、警察官の 取りしまりに あった 話 から、製鉄技術 関連の 特許権を めぐる 訴訟の 話 まで、まさに 現代史の 証言を 聞く 思いが しました。