2016年9月30日金曜日

ウロウロ・オロオロと 9月



N 家花壇  9/7


遊歩道の ベンチ   9/14   


住吉公園の 遊具 ( 9/14  


住吉公園の 遊具()  9/14 




おわび

ブログの 更新が おくれ、内容の 点でも、われながら 迫力の とぼしい 記事に なっていて、まことに 申しわけ ありません。妻 信子の 認知症が すすんで、家事を こなせなく なり、わたしが 主夫と 介護人の 役を つとめ なければ ならない ことに なりました。「これでは、ブログ どころ じゃない」、そんな 毎日が つづいて います。

 ケア マネ さん たちの 助言に したがって、夕食の 宅配を 受ける ことに したり、毎週 3回 ヘルパー さんに 来て いただいたり して、どうやら「ウエジニ」も せず、ネズミや ゴキブリとの タタカイに 神経を すりへらす ことも なくなり ました。

 ただし、認知症 からの 回復を 期待する ことは ムリの よう なので、このあとは「どれだけ たのしい 思い出を もって、その日を むかえるか」、「その ダンドリを どこまでできるか」と いう ことに なると 思います。ご本人が 病気 なので、その ダンドリをする のは、わたし しか いません。わたしに、それだけの 資格・能力が あると いう 意味では ありません。結婚生活 70年、家事・家計 などの すべてを 任せきり、その おかげで 自分の すきな ことを やらせて もらった わたしには、できるだけの ことを する 責任・義務が あると 考えて いる わけです。

 そんな 次第で、もう しばらく、ブログの ノロノロ運転が つづく かと 思います。どうか おゆるし ください。

 最近、シュウカツ[終活]と いう コトバを よく 耳に します。以前は、よその 人さまの こと だと 考えて いましたが、夫婦 とも 90歳を すぎた 今は、まさしく 適齢期。おそすぎた くらい です。年齢順に いえば、わたしが さきに ポックリ ゆく 計算 なので、わたしの 遺言書は 作成ずみ ですが、これ ばかりは 天の 配剤。こちらの 注文どおりと いう わけには まいりません。極端な 話、なにかの 事故で 二人とも 同時に ポックリという 事態に ならないと いう 保証も ありません。コドモの いない 夫婦と して、万が一の ことまで 想定した うえでの 対処法を、おくればせ ながら 準備中 です。

 いまの ところ、この ブログを 中止する 予定は ありません。ノロノロ運転 でも、ヨチヨチ歩き でも、「ミットモ ナイ」と いわれても、なんとかして つづける 予定 です。信子の 症状に ついても、わたし 自身の 認知症(もどき)  ついても、ご報告する つもりです。その 意味で、この ブログは「七ころび、八おき(20111025日に いちおう 完結)の 続編 みたいな 性格を もつ ことに なるかと 思います 



N家の 花壇

97日。9月に はいっても、あいかわらず あつい 日が つづきました。この 季節、いたち川の遊歩道を 歩いても、季節 はずれの アジサイが ひっそり さいて いる ぐらいで、めぼしい 花が 見あたり ません。その点、町内 N家の 花壇では、四季を 問わず、さまざまな 花が 登場して、通る 人たちの 目を たのしませて くれます。不勉強で、花の ナマエを 知らない ので、申しわけ ない 気が します。なお、この 画像で 背景が ぼやけて 見える のは、背景の 窓ガラスに 近所の 建物が 映りこんで いる ため です。

          

遊歩道の ベンチ

朝の 散歩の おり、遊歩道の ベンチに 腰を おろし、しばらく ボケーと して いました。アカ・シロ・キイロの 花は 見えず。サクラ 並木が 紅葉するのは まだ ずっと 先のこと。いまは まだ 夏の ミドリの 葉を つけた まま。その ミドリの カーテンの 向こうに、対岸の ビルの ピンク色が すけて 見えました。



東京の Atk さん 来富

東京 在住の Atuko さん(信子の 姪)が、高校の クラス会(9/11)に 出席した ついでに、912() 來富。Mioriさん(信子の 姪。富山在住)と いっしょに、信子の 見舞いに 来て くれました。こういう 場面では、フシギな くらい 元気で、よどみなく 話します。まるで 病気が なおったかと 思う ほどです。



塚本 医院、ただいま 工事中

 914() 午前、住吉町の 塚本 脳神経外科 医院へ 行って きました。10数年 まえ、ここで「右顔面 マヒ」と 診断され、「高圧酸素 療法」を うける ため 約 40日間入院した 病院です。その 流れで、いまでも 毎月 1回 通院、血圧の 薬を 処方して いただいて います。

 この 病院が、数カ月 まえから 改装 工事中で、足元が 不安定。高齢者や 身体障碍者に とって、いささか 不安・不便 ですが、改装工事は 9月中に 完成の 予定だ そうです。

 塚本医院の すぐ となりに さくら 薬局が あり、ここで 薬を 調剤して もらって から帰宅 します。この日、薬が できる までの 待ち時間に、すぐ 向かいに ある 住吉公園を 散歩して みました。



住吉公園の 遊具たち

 住吉公園は、ちいさな 公園です。高い 樹木が そろって いる わけでも ありません。子供たちの あそび場と して、デンシャ・キシャの 模型や シーソー などの 遊具が 設置されて いる だけ。この 時間帯(正午 まえ)、利用して いる人の 姿は 見かけ ません でした。

 わたしが 住吉公園を のぞいた のは、主として 時間つぶしの ため ですが、実は もう一つの 理由が あります。数十年 むかしの 話に なりますが、日本の 神社建築 様式に ついて、あれこれ 調べた ことが あります。そのとき、「住吉神社の 建築様式は、住吉造と呼ばれ、大社造神明造とは ちがった 様式 である」、「富山市の 住吉神社は、住吉町では なく、その となりの 音羽町に 鎮座している」などの ことが 分かり、興味を ひかれた ことを おぼえて います。

 住吉造に ついて ネットで 調べて みると、つぎの ように 解説されて いました

住吉造

住吉大社に代表される住吉造の特徴として、破風は古式の直線形であり、大嘗祭の際に造られる建物と似ていることが指摘されている。伊勢神宮に代表される神明造や出雲大社に代表される大社造と共に、神社建築の最古の様式とされる。

建築形式…回縁と御心柱はなく、内部は内陣・外陣に区切られる。間口は2間、奥行は4間(内陣・外陣各2間)の長方形である。切妻造・妻入であり、破風や垂木には反りがなく、直線的な外観となる。

屋根…茅葺、柿葺、檜皮葺など幅広い。 住吉大社の破風は直線形、妻飾りは交叉合掌型となっている。

…間口は2間、奥行4間とするが、中央の御心柱と正面中央の柱がない。

…正面中央の1か所に観音開きの扉による開口部が設けられる。

大社造や神明造に比べて、床は低い

  富山市 音羽町に ある 住吉神社は、この 解説に くらべて、ずっと 小型ですが、「切妻造で、破風や 垂木に 反りが なく、直線的な 外観」という 特色は 一貫して います。単純で、素朴な 姿 から、ぎゃくに「神社建築の 最古の 様式」という 印象を うけました。

 「住吉町に ある 公園 だから、住吉公園と 命名された」と 考えても よい のでしょうが、「住吉神社が、住吉町では なく、となりの 音羽町に 鎮座」という 事実に ついては、すこし 説明が 必要な よう です。『角川・日本地名大字典・富山県』の 解説が 参考に なります

おとわちょう 音羽町1~2町目 大字清水の一部 [世帯]198 [人口]642 [由来]東京の高級住宅街である音羽町にいた人の発議で、それにあやかる意味で名づけた ▽西は清水町、東は栄町、南は元町にに接する住宅地域。2丁目にある住吉神社は、天正年間の創建といわれ、第2次大戦での戦災も免れた。 



 すみよしちょう住吉町12町目 〒930 [成立]昭和4041日 [直前]1丁目は大字清水・舘出の各一部、2町目は清水の一部、[世帯]193 [人口]724 ▽北の1丁目は国道41号に面し、栄町の西側にある。ほとんどが住宅地。昭和34年に町内会遊園地が完成している。

2016年9月9日金曜日

芥川の「老いたる素盞鳴尊」を めぐって


豊栄稲荷神社


社務所 


「古事記を読む会」研修会 





「古事記を読む会」9月 研修会
 9月4日()午前、茶屋町 豊栄稲荷神社 社務所で、「古事記を読む会」の 研修会が 開かれました。この日の 講師は もと 富山県立図書館長 鷲本 義昌 さん。テーマは「芥川の『老いたる 素盞鳴尊』を めぐって」。


 当日 いただいた 資料には、つぎの 5項目が 示されていました;


◇「芥川龍之介大事典」より


 素盞鳴尊 すさのおのみこと


  小説。[初出]「大阪毎日新聞夕刊」大正9年三月三十日~六月六日。四十五回の連載。[収録] 『春服』(前半三十五回は単行本未収録。後半十回を「老いたる素盞鳴尊」と改題し収録。春陽堂、大正12年五月)。全集第六巻収録。


◇八雲立つ


◇炉辺の幸福


  「侮蔑と捨象の対象でしかなかった実人生が、ようやく生にかかわってもつ不可避の意味を作家に問いはじめた」(三好幸雄)


◇十風五雨


◇夏の終(わ)り  伊藤静雄


また、別紙として、小説「老いたる 素盞鳴尊」 全文(十回分)コピーが 配布 されました。


つまり、「日本最古の 古典『古事記』が、現代文学者たちに どんな 影響を あたえたか」、「例えば 芥川龍之介は、小説「老いたる 素盞鳴尊」の中で なにを いいたかった のか」考えて みようと いう こと でした。


 「大阪毎日(夕刊)」に 45回に わたって 連載しながら、後半 十回分だけを 老いたる素盞鳴尊」と 改題し 収録」と いう 事実経過の中に、小説家 芥川の 心情変化の 過程が 読みとれると いう わけです。


 スサノヲ命と いえば、すぐに 連想される ものの 一つに 「八雲 立つ…」の歌が あります。


   八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を


  この歌は、「スサノヲ命が 作った」と されて いますが、実は 当時 いっぱんに 歌われて いた 祝婚歌の 一つだと いう 説も あります。アシハラシコヲ[葦原色許男](大国主命)と スセリヒメ、あるいは その 応援団の 人たちが 歌っても よい わけです。


 「八雲立つ 出雲八重垣」とは「スゥイート ホーム」の こと であり、「ロバタ[炉辺]の生活を 楽しむ」姿 です。漢語で「十風 五雨」と いう のも、「十日に 一度 風が 吹き、五日に 一度 雨が 降る」という 現実生活の 楽しみを うたった コトバです。


 ただし、文学者・小説家とも なれば、『古事記』の 記事を ただ 現代語に 訳した だけでは どうにも なりません。なんとか して 独自の「小さな説」を 立てる 必要が あります。芥川が『古事記』の 「スサノヲ命」を 題材と して 小説を 書きはじめ、やがて 後半 十回分だけを 改題して 収録した ことは、さきほど 紹介した とおり ですが、そのことは 彼が それだけ 真剣に スサノヲと とりくみ、七転八倒 させられた ことを 示しています。


 小説「老いたる 素盞鳴尊」の 中で、作者の 目は スサノヲの 目と 同調して います。最愛の ひとり娘を もつ 父親が、娘の 恋人を 見る、その目です。娘の 恋人・アシハラシコヲを 「ハチの ムロ」,「オロチの ムロ」へ 閉じこめる。さらには 枯草に 火を はなち、その 炎と煙で 焼き殺そうと する。しかし、スサノヲと スセリヒメと アシハラシコヲとの 人間関係に、やがて 転機が おとずれる。若い男女の キズナが 父と娘の キズナを ふり切って、スサノヲの 家から 脱出計画を 実行する。   


ふたりが 乗った 舟が 遠ざかる のを 見て、スサノヲは すぐ 弓に 矢を つがえて ひきしぼるが、矢は ついに 弦を はなれる ことが なかった。


 やがて 弓矢を おいた スサノヲが、二人に むかって 祝福の コトバを おくる。


「おれよりも もっと タチカラ[手力]を 養え」


「おれよりも もっと チエを 磨け」


「おれよりも もっと し合せに なれ」





 あれほど 憎み、痛めつけて きた 若者に むかって、ある日 とつぜん 祝福の エールをおくる。この 豹変ぶりを どう 解釈すれば よいか?むつかしく 考えれば、たしかに むつかしい 問題ですが、じっさいには、現代社会でも よく 見たり 聞いたり する 現象だとも いえそう です。最愛の 娘の ムコ殿に たいしては きびしい テストを する。そのテストに 合格したと なれば、一転して、応援に まわる。そう 解釈する 人も いるでしょう。また、どれほど 強い 人間でも、やがて 老人と なり、死の 日を むかえる。最愛の娘に 恋人が でき、親の手が とどかない ところへ 立ち去る 日が 来る。そう 考える人も いるでしょう。





 時間の 制約も あって、伊藤 さんの 講話では、さいごの 項目「夏の終り…伊藤静雄」に ついて、くわしい 解説を お聞き できません でした。あとで ネットで しらべて いると、こんな 記事が 見つかり ました。


 夏の 終り


夜来の 颱風に ひとり はぐれた 白い 雲が


気の とほくなる ほど 澄みに 澄んだ


かぐはしい 大気の 空を ながれて ゆく


太陽の 燃え かがやく 野の 景観に


それが おほきく 落す 静かな かげは


……さよなら……サヤうなら……


……さよなら……サヤうなら……


いちいち さう うなづく まなざしの やうに


一筋 ひかる 街道を よこぎり


あざやかな 暗緑の みずた[水田]の おもてを 移り


ちひさく 動く 行人を おひ越して


しづかに しづかに 村落の 屋根屋根や


樹上に かげり


……さよなら……サヤうなら……


……さよなら……サヤうなら……


ずっと この 会釈を つづけ ながら


やがて 優しく わが 視野から 遠ざかる


  *昭和21年(40歳)『文化展望』10月号、後に『反響』に 所蔵。


 この「夏の 終り」は、1946年 つまり 戦後 間もない頃の 作品で、伊藤静雄が 40歳の 時の もの である。24歳から 詩を書いて 発表し 始め…1945年には 発表作品は ない…1949年に 肺結核を 患い、そのまま 入院生活を 送り、1956年に この世を 去って いる。





  以上、『古事記』スサノヲ命 から、現代の 小説家 芥川 龍之介・詩人 伊藤 静雄に いたる まで、いっしょに 考えあわせて みると いう ことで、わたしと しては めったに できない 勉強を させて いただきました。





『古事記』の 読み方に ついて
 『古事記』の 読み方に ついては、さまざまな 読み方が あって よいと 思います。自分の すきな テーマを えらび、得意と する 研究方法に よって 研究を すすめ ながら、まったく 別の テーマや 方法に よる 研究者の 報告を 聞く ことで、意外な ヒントが 得られる ことも ある でしょう。


 わたしの ばあいは、やはり コトバの 音声面に こだわって、『古事記』を 読みつづけたいと 思います。たとえば「スサノヲ命・スセリ姫・アシハラシコヲ」などと いう ナマエの 意味を さぐりたいと 思います。アマテラス[天照](大神)や オホクニヌシ[大国主]()などは 現代語との 関連が つかめますが、スセリや シコヲと なると、「それ、日本人の ナマエ なの?」と たずねたい 感じに なったり します。


 現代日本語の 実態は、ヤマトコトバ・漢語・カタカナ語 などの チャンポン語 ですが、ヤマトコトバの 実態も「ヤマト地区の コトバを 中心に、日本列島 各地の コトバを とりこんだ チャンポン語」だったと 考えられます。


 人名・地名など には、命名当時の 貴重な 情報が こめられて いると されて います。「テル[] ものが テラ[]」と いう ヤマトコトバの 原則が 分かれば、アマテラス派(神道グループ)テラ派(仏教グループ)の テラと いう 語音を 禁句と した 理由も わかって きます。スサノヲ・スセリ・シコヲ などが ヤマトコトバだと すれば、ヤマトコトバの 中に 同源・同系・同族の コトバが ある はずです。テマ・ヒマの かかる 作業ですが、まず ヤマトコトバの 戸籍台帳を できるかぎり 整備する ことが 必用。これが できれば、やがて 日本語と 外国語との 音韻比較の 道も 開けて くる でしょう。