『古事記』を読む会 6/4
デイケアの場 6/5
7Fからの風景 6/⒑
ホームでの祭壇 6/10
泉家の墓に納骨 6/14
『古事記』を読む会
6月4日(日)午前10時から、茶屋町豊栄稲荷神社で開かれた『古事記』を読む会の研修会に出席。前回(5/7)の研修会を欠席したので、その分の資料をいただく。
服部征雄さんから「常世の国を訪れた神・人」の例として、①少彦名の神、②山幸彦の海神の国訪問、③田道間守、④御毛命沼、⑤水江浦島子などをあげて解説されたあと、田道間守がもたらしたとされるタチバナの実態について、さまざまな視点からの討議資料を提供されたとのこと。わたしとしては、ここにあげられた項目の「歴史的事実」を議論するまえに、なによりまず「それら用語の意味について、共通理解を持つ」ことが必用だと考えています。そうしないと、せっかく議論しても、議論がカミあわなくなるおそれがあります。
たとえば、スクナヒコナ[少彦名]という呼び名には、どんな意味がこめられていたのか?スクナのナは、オホナ(ムチ)のナとおなじ意味用法と考えてよいか?このスクと動詞スク[鋤・好・透]、名詞スキ[鋤]・スクネ[宿禰]との関係をどう考えるか、など。
ヤマサチヒコ[山幸彦]についても、ヤマ[山・矢間]・サチ[幸・箭鉤]・ヒコ[彦・日子]などの語音を分析することによって、それぞれの語音がもつ「基本義」をたしかめたうえで議論をすすめる方が効率のよい議論にンなると思います。
ワタノカミ[海神]・ワタツミノカミ[綿津見神]なども、現代日本人にとって、かなりフシギなひびきをもつ語音です。ワタなど、w-t音のヤマトコトバはごく少数で、上代2音節動詞はワヅカにヲツ[変若](若返る。蘇生する)1語だけ。2音節名詞では、ワタ[海・腸・綿]・ワダ[曲](地形の入り曲がったところ)・ワチ(茅の類を外囲いにしたもの)・ヲチ[遠](遠方。遠い昔)・ヲヂ[翁・伯父・叔父]・ヲト(ヲチ[遠]の交替形)などがあります。海水のワタがどうしてモメンやマワタのワタとおなじ音形になったのか、分かりにくかったのですが、ミヅ(水・海水・water)の形態は、クネクネ・グニャグニャ、ハラワタやワタ[綿]とおなじ姿だといわれると、ナルホドそのとおりです。。雨水や海水は、地球の表面をワタリあるき、どんなに曲がりくねったところでも、スミ[住]こみ、シミ[滲]こみ、世界中スミからスミまでワタリをつけます。そこで、あらたな交流がはじまれば、それだけ、あらたな生活がはじまる(=若返る)ことにもなります。
この調子でヤマトコトバのワタの語源をたどってゆけば、やがて英語のwaterまでワタリつくかもしれませんね。
次回7月2日の例会では、五十嵐俊子さんから「素環頭鉄刀」について報告される予定。あわせて、イズミから「ヤ[矢・屋・谷・哉]の系譜」について提案させていただきます。「教育・文芸とやま」第22号(2016年12月)に掲載された小論について報告し、議論していろいろご教示を得たいと願っています。
日本では、縄文時代以来、武器や利器として、ユミ[弓]やヤ[矢]にたよる生活が長く続きました。そのため、弓と矢だけでなく、さまざまな事物についても、ヤ・ユ・ヨなどヤ行拗音で呼ぶようになった。このことを逆にいえば、ヤ・ユ・ヨなどの系譜をたどることによって、日本人の宇宙観をさぐりあてることができるだろうと考えています。やがては、英語のatom arrowなどとの対応関係も考えてみたいのですが、さしあたりは日本語だけで精いっぱいといったところです。
デイケアの場 6/5
5月中は、これまでどおり千石町のデイ・サービス「まちなか」へ通っていましたが、6月1日からは、「めぐみ」グループの施設でデイケアを受けることになりました。
そこで、ちょっと気になったのが、「デイ・サービス」と「デイ・ケア」という用語の意味についてです。それぞれ「ひるま1日分の奉仕」、「ひるま1日分の世話」ということかと思いますが、まだよく分かりません。
ケアとかサービスとか、呼び名の話はそれくらいにして、その内容・実態はどうなっているか、といわれるかもしれません。この種の施設は、介護保険制度と連動して運営されているので、いまはまだ試行錯誤の面も残っているようです。
わたくしがこれまで利用させていただいたのは、千石町のデイ・サービス「まちなか」と、こちら「有料老人ホームめぐみ」グループだけですが、前者は、はじめからデイ・サービス施設を目標にして敷地を確保し、入浴・歩行訓練・マッサージ・体操・リクレーションなどの施設・設備を整備し、また各種資格を持ったスタッフがそろっているように見うけられました。後者は、「有料老人ホーム」が母体。「個室で、3食付き」、「毎週1回内科検診」など、基本的な心配ごとを解決したうえで、おなじ「めぐみ」系列の施設でデイ・ケア(介護・支援)」を受けることができるようになっています。そういった総合的な安定感・安心感を持っていることが強みのようです。こまかく見てゆけば、「既設のビルを改造したものなので、新式機器の設置が不自由」などの問題が出てくるかもしれません。しかし、そうしたマイナス面をかるく吹き飛ばすような雰囲気が、ここにはあります。それは、スタッフのみなさんが通所者に接するときの態度からも、はっきり感じられます。
デイ・ケアに来られる方の中には、たまに「大声を出す」、「スタッフの勧めに応じない(服薬・トイレなど)」など、スタッフを困らせるような人もいます。そんな時でも、けっして腹を立てず、「ダイジョウブ」、「ソイガヤチャ」などいいながら、まるでコドモをなだめすかすようにして、いつのまにか「必要なことだけはやってしまう」。さすが、その道のプロはちがいますね。
この「人権尊重」、「誠心誠意」という作風は、「めぐみ」系デイ・ケアの場にかぎったことではありません。千石町のデイ・サービス「まちなか」のスタッフもそうでしたし、老人ホーム「めぐみ」のスタッフも、みなさんそうです。あるいは、これが「この業界での常識」になっているのかもしれません。
デイ・ケアの場での人間関係については、ほかにもいろいろ工夫されていようです。デイ・サービス「まちなか」では、リクレーションの時間に「書道」が組みこまれ、そこで書かれた作品をあとで壁に展示していました。そのとき講師役をつとめたのが通所者のⅯさん(イズミの旧同僚。国語科教諭)でした。
「めぐみ」系デイ・ケアでも、テーブルに飾られている花は、通所者の方が自宅から持ちこんだものだそうです。壁に飾ったワッカ・リボンや花も、通所者みんなの合作によるもの。わたしも、イロガミで花づくりの作業に参加させていただきました。保育園児になったつもりで作業に熱中。けっこう楽しかったです。
7Fからの風景 6/⒑
砂町の自宅にいたころは、ほんの100㍍たらずのところで、いたち川の遊歩道に出ることができましたが、丸の内のホームからは、すこし遠すぎます。ここからは、松川が近いので、「松川散歩」ならできるはずですが、葬式につづく引っ越し、納骨法要などで時間をとられ、まだ実現できていません。
ホームは9階建て。7Fの窓からまわりをながめて、「見晴らしがよい」ともいえますが、じっさいに見えるのはビルのヤネとカベと空とクモばかり。いささか殺風景な感じです。諏訪神社の池も期待はずれでしたが、このあとは、なるべくはやく「松川散歩」に挑戦してみたいと思います。
ホームでの祭壇 6/10
砂町の自宅には仏壇がありますが、老人ホームには仏壇をおくスペースがありません。月命日にお寺さんに来ていただくことも考え、「厨子」タイプのものなど、いろいろ考えていたところ、甥のSigekiさんが、さっそく用意してくれました。台用の板に、カベ用・タナ用の板をとりつけただけですが、ホームの壁などにキズをつけず、浄土真宗の絵像だけは掛けられるように、という条件はかないました。ホトケさまには、しばらくこれでカンベンしていただくことにします。
泉家の墓に納骨 6/14
6月14日(水)、いよいよ信子の納骨法要の日をむかえました。天候のことが心配でしたが、朝からのよいお天気です。10時半から長念寺さんで法要。そのあとお骨をいただいて立山町沢端のお墓へ。俊光さん、古川さんのおはからいで、お墓のまわりは除草剤をまくなど、きれいになっていました。
お墓の中は、まず地面の下に、先祖代々のお骨が納められてあり、一段高く渡した板の上は、父・母・弟と中山叔母さんの4人分で満杯の状態。お寺さんの指示にしたがい、いちばん先に亡くなった弟の骨壺を地面におろし、空いたところへ信子のお骨を納めました。
わたしは次男で、分家ということになりますが、戦後しばらく砂町で父母と同居していました。父は、ながらく北海道で裁判所の書記や、登記所勤めをしていましたが、さいごは故郷の富山へ帰ってきました。長男のタケヨシ[長嘉]が東京にいましたが、父はせっかく帰って来た故郷を離れがたく、妹の中山テイさんといっしょに寺参りにいくなど、富山の生活を楽しんでいました。父が一人で別院へお参りしての帰り道、迷子になってしまい、信子が迎えにいったこともありました。
信子もいまごろは、お墓の中でととなり同士、むかしの思い出話などをしているかもしれません。いずれ、そのうち、わたしも仲間に入れてもらいます。