2018年8月3日金曜日

猛暑つづきですが、なんとかイキをしています



富山社会人大楽塾 7/21



入居者作品展示コーナー  7/24 


松川の遊覧船 7/26 


常夜灯 7/26 


悠学会例会 7/27 




猛暑富山35

720日(金)午前中に入浴の予定でしたが、「都合により、午後からに変更」と案内がありました。昼食後、北陸銀行丸の内支店まで行ってきました。アスフアルトの照りかえしで、猛烈な暑さとむせ返るようなニオイにおそわれました。ほんの100㍍足らずの距離だから、なんとか無事すみましたが、この調子で歩きつづければ、10分か20分以内でまちがいなく熱中症で倒れるだろうと思いました。ふだん、ホームのビルの中で生活しているので、実感できなかったのですが、たまたまちょっと外出したことで、たちまち「猛暑富山35℃」の実態を思い知らされました。



内科検診

721日(土)、午前、内科検診。尿検査・血液検査も受けましたが、総合的に見て、格別問題はなさそうだとのことでした。あいかわらず小便の回数が多く、毎晩34回トイレに通わねばなりませんし、左右両足の指先のシビレ・イタミも、昼夜を問わずおそってきます。薬をぬったり、両手でマッサージしたりしていますが、おさまる気配は見えません。

 タイへンだといえば、たしかにタイヘンですが、そんなグチをいえるのも、長生きしたおかげです。また、いまになって足の指先がシビレ・イタムのも、わかいころに体の養生をおこたったため、つまり「自業自得」だということもわかっています。

 ここまで来たら、グチを並べるのはほどほどにして、せっかくいただいたイノチを1日でもサキノバシにして、自分のすきな生き方をつらぬきたいとねがっています。



富山社会人大楽塾 

721日(土)。午後、9Fで「富山社会人大楽塾」代表柳原正年さんのお話を聞かせていただきました。わたしが柳原さんのお話を聞いたのは、今回がはじめてですが、「何事も、楽しくなければ、本物ではない」という感覚に、たちまち共感させられました。あとで、ネットで塾のホームページを拝見しましたので、その一部をご紹介します。 

中高年よ大志を抱け」をキャッチフレーズに荒廃する教育と人間関係を修復し「生きる元気を取り戻す」新しいコンセプトの社会人塾です。日本レクレーション協会・余暇生活開発士の柳原正年が中心となり、富山で初めての社会人向け民間塾です。

この塾は、従来の学習塾・文化芸術塾・啓発塾とは違ったコンセプトを持ち「個の確立」と「創造性の開発」をテーマに現代社会の問題点を解決しようとするものです。また、従来の学習を「楽修」に改め楽しい関係をいかに作るか」を基本に運営します。

 教育の自由化と民間活力の流れを受け、一般市民が中心となって「危ない社会」を変え「希望の社会人を作ろう」と「生涯楽修と癒しと志」を組み合わせ「社会人の楽しく活力ある生き方」を考え実践する新しい試みの塾です。講師、塾生が同じ「目線」で考え「目からうろこが落ちる」を体験していただきます。

 ちなみに塾の名前は、「大楽塾」と書いて、ダイガクジュクと読んでいるようです。念のため,学研・漢和大字典』でしらべてみると;

楽 日本漢字音ガク・ラク。上古漢語音glok, 現代漢語音yue, le, yao意味 ①音楽

かなでる。②たのしむ。解字 木の上に繭のかかったさまを描いた象形文字で、山まゆが繭をつくるレキ[櫟](クヌギ)のこと。そのガクの音を借りて、ギャク[謔](おかしくしゃべる)、ゴウ[嗷](のびのびとうそぶく)などの語の仲間に当てたのが音楽の楽。音楽で楽しむというその派生義をあらわしたのが快楽の楽。

ついでにいえば、漢語の音節はgok, lokのように単子音で構成するのが原則で、glokのように二重子音を当てるのは、きわめて異例。このことは、glokという語音が純粋な漢語ではなく、外来の語音であり、やがて漢語の伝統にしたがって、⓵ガク,gok>yue、②ラク、lokle, yaoに分化したものかと推定されます。例外のワクをもうけて二重子音を採用したのは、それなりの理由があったはず。ひょっとすると、世界規模での先進技術導入を意味する語音だったかもしれません。インド・ヨーロッパ語と日本語。漢語との音韻比較を進めるうえで、ひとつのテガカリになりそうな語音だと思います。

<参考>

k-r音の日本語:クルクル・クリカエス・クルム・クルマ・コロコロ・コロガル。

k-r(l)音の英語car, course, carry, career, cargo, carpenter,cult, cultivate, culture, wheelcyclebicycle.



入居者作品展示コーナー

ビルの3Fに、老人ホームめぐみの事務室があります。そのカウンターや壁の一画に居者たちの作品展示コーナーがあります。ハガキ大の水彩画折り紙などの作品にそえて、先日からわたしのブログ(コピー)「悠学」第2集(日本海文化悠学会機関誌)を展示していただいています。めったに反応はありませんが、ときたまスタッフの方などから「読んでみた」と声をかけていただいたことがあります。一人でも二人でも、自分の作品を読んでいただいたこと、そしてわざわざ声をかけていただいたことは、うれししいことです。ありがたいことです。



松川の遊覧船 

726日(木)。午前、信子の月命日のおつとめ。もともと27日が月命日なのですが、あいにく「悠学会」の月例会と重なりましたので、長念寺さんにお願いして、くりあげ実施しました。午後、美織さんといっしょに砂町自宅へ。台所やトイレの水回りを点検。すこしずつ故障がでてきています。2へも上がってみましたが、あまりの暑さで熱中症になる恐れもあり、すぐに退散。1階のクーラーのある部屋にもどりました。

このところ、しばらく散歩もしていないので、帰り道の途中、もういちど松川・いたち川の合流点を目ざすことにしました。前回は「工事中」とのことで、あきらめたのですが、こんどはなんとかたどりつきました。川の水がかなりにごっていましたが、それでも50㎝以上の鯉がつぎつぎ姿を見せてくれました。ひょっとしたら、人間がえさを与えるのを期待していたのかもしれません。

ひさしぶりで鯉の姿を見て楽しんでいたところ、こんどは松川の上流から遊覧船が下ってくるのが見えました。炎天下、川岸のサクラの木のこい緑色と遊覧船のマアカ色が対照的でした。遊覧船はいたち川との合流点でÙターン、また上流へ向かいましたので、わたしたちは、それだけじっくりと観察し、何回もスマホのシャッターを切るチャンスがありました。前回「振られた」経験があるだけに、あきらめないで、よかった。「待てば海路の日和あり」大満足のひとときでした。



「常夜灯」の由緒

ついでに、富山市が設置した「常夜灯」と「由緒」(掲示板)を見学しました。このあたり一帯は、佐々成政が富山城主だった時代から「木町の浜」とよばれ、「やがて水陸物流拠点となった」と解説されていました。

ただ、せっかくの「由緒書き」ですが、この「由緒」を設置した時期については「昭和63年7月」と明記されていますが、この「常夜灯」を「ダレが、イツ」設置したかについては、明記されていません。すこし、ザンネンです。



日本海文化悠学会例会

727日(金)、午後。茶屋町豊栄稲荷神社日本海文化悠学会の例会が開かれ、「悠学」第2について、執筆者二人から補足報告などがありました。

五十嵐顕房さん「南北朝時代の様相と越中の伝承

文山順子さん「美女平の巨木とかわいい花々

  ここでくわしい感想をのべる時間はないのですが、とりわけ五十嵐さんの報告をきかせていただいて、いろいろ考えさせられました。それは、天皇制をふくめて日本の歴史をどう見るかという問題です。

五十嵐さんは「南北朝の動乱の大本は、後醍醐天皇の政治姿勢にあった…自己のカリスマ性に対する過信と慢心があって・・・そのことが、尊氏との妥協を難しくし、建武の親政を崩壊に導いた・・・以前の他の天皇のように幕府の設立を認めていたら、このように不毛な動乱は起きなかった」と結論づけておられます。学習不足のわたしには、日本の歴史学会での通説がどうなっているのか、よくわかりません。。わたしにとっていちばんの関心事は、いまの日本人、とりわけ政治権力をもつ人たちの世界観・歴史観がどうなっているかということです。

 第2次世界大戦から70年以上の年月がすぎました。「大日本帝国敗戦」の結果、日本人の世界観・歴史観はどれほど変化したでしょうか?さすがに「大日本帝国」というコトバをふりかざす人は見あたらなくなりましたが、「敗戦」とはいわず、「終戦」とよぶなど、コトバヅカイで、なんとかごまかしてきました。また、広島の原爆慰霊碑の文面でも、「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」と書かれていますが、ここでいう「アヤマチ[過]とは、いったい「ダレがイツ・ドコで、ドンナ・アヤマチをおかしたのか、特定されていません。さらにいえば、「過ちは繰返しませぬから」と宣言した人たちの実態がよく分かりません。「反核の平和を誓うのは、全世界の人々でなくてはならない」というのが趣旨だとすれば、それはあくまで「宣言者たちの願望・目標」を示すだけのものであり、「全世界の人々」という「目標」を達成するまでのミチノリの遠さを覚悟しての宣言ということでしょうか。

 日本では、『古事記』『万葉集』の時代から「コトアゲ[言挙](議論)」というコトバはありましたが、当初から「コトアゲすることはタブー」とされていました。「ケンカしないで、おたがい仲よくやろう」という趣旨だったのでしょうが、現実の社会では、競争の結果、強者と弱者が生まれ、「弱者が強者の意思をソンタク[忖度]し、合わせる」ことによって、「平和な社会」がもたらされた、と考えられます。そして、この「平和な生活」というシクミは、21世紀日本になっても、基本的におなじハタラキをしているようです。

たとえば、「東京裁判でA級戦犯とされた人物の靖国神社合祀」や「従軍慰安婦」などの問題についても、外国から追及されて、いろいろイイワケしていますが、そのまえにまず自分たちの問題としてドウ考えるか、議論をつくした形跡は見あたりません。ヘタにコトアゲすると、「天皇の戦争責任の問題にまで発展するおそれがあるから」というイイワケも見えかくれしますが、そうなると、さらに深刻な問題が出てきます。天皇というのは名目だけの権力者で、実際は内閣(総理大臣)が(天皇の名を借りて)権力を行使する、というシクミですから、「戦争責任」ということになれば、事実上の権力者が責任を問われるのは当然の話。そこで、ぎゃくに天皇の「責任」をアイマイにすることによって、実権者・

内閣への責任追及の動きを封じこめようとしたのではないか…マサカとは思いますが、最近話題の「加計学園」・「森友学園」にも通じる「体質みたいなもの」を感じさせられています。



志田延義先生を偲ぶ会

729日(日)、午後、長江新町長念寺で「志田延義先生を偲ぶ会」に出席。記念講演として根井豊さん(九州大学元教授、哲学)から「根底にはあるもの(サブゼクト)をめぐって」、お話を聞かせていただきました。

 「哲学」というと、「かたくるしい話か」と、ついつい身構えてしまいやすいのですが、根井さんは、わたしども初心者にも分かりやすいように解説してくださったので助かりました。正直なところ、せっかく解説していただいたお話の内容について、どれだけ「理解」できたかといわれると、まったく自信がありません。しかし、これを機会に、「哲学」の意味・役割を見なおす気持ちになったことは事実です。よい勉強になりました。

 「哲学」というコトバは、一見漢語のように見えますが、実は和製漢語(日本人が考案した漢語ふうのコトバ)だそうです。もとのコトバは英語philosophy(愛知)、さらにもとはギリシア語philosophia

 「哲学」そのものは、ゆたかな内容をもつ学問です。日本の現代社会においても、政治・経済・文化などあらゆる分野で重要な役割をはたすことが期待されるはずですが、現実はどうなっているでしょうか?第二次世界大戦当時、敗戦直後、そして現在、日本の政治権力者たちは、どんな哲学にしたがって権力を行使してきたのでしょうか?

 わたしの目には、西洋流の「哲学」が輸入されるまえから、日本古来の「哲学」(みたいなもの)があり、それが「哲学」の流行・定着をさまたげているように見えてきます。前記「悠学会」の項でもとりあげた「コトアゲ(議論)することはタブー」という「哲学?」の亡霊といった感じもしますが、おおきな問題なので、このあともおりおり取りあげてゆきたいと思います。

 ここでちょっと話が脱線しますが、当日いただいた「要約」の中に、日本の哲学者として斎藤忍髄さん(岩波新書『知者たちの言葉』の著者)の名前がのっているのを見て、ビックリしました。斎藤忍髄さんとわたしは、むかし北海道庁立旭川中学校)(旧制)の同期生だったからです。クラスがちがったので、直接コトバを交わすことはめったにありませんでしたが、当時から下の名だけで「ニンズイ」とよばれ、有名人でした。学識という点ではみんな一目おいていましたが、それだけ信頼感をもっていたということでしょう。

 講演のあと、懇親会の席で根井さんからうかがった話ですが、ニンズイ先生はお酒が好きで、後輩の根井さんといっしょに飲み屋へでかけることが、しばしばだったそうです。たまたま半端な時間帯で、まわりに客の姿が見えなくなったとき、ニンズイ先生が「我々の存在が、つぎの客が来るまでのツナギになるんだ」と解説されたそうです。ナルホド、ここまで来ると、生活と哲学が密着していますね。この調子で、政局や現代史などの問題について、おたがいナットクゆくまでコトアゲ(議論)してみたらおもしろいかと思うのですが、いかがでしょうか?

なお、この日持参した『コトダマの世界Ⅱ』5冊は、懇親会の席で、根井さんをはじめ、「読んでいただけそうな」方々に贈呈させていただきました。ありがとうございます。