節分の日昼食 2/3
音を聞く会 2/6
タワーくずし 2/12
社会人大楽塾 2/14
『カード64』から
節分の日の昼食
2月3日(日)。きょうは「節分の日」ということで、ホームの昼食はこんなぐあいになっていました。まず節分を知らせるカードがかざられ、そのとなりに、「炒り豆」ならぬ「煮豆」の一皿が用意されていました。ホームでは、「一人だけの個室」、「冷暖房完備」、「三食昼寝付き」の生活がつづくだけで、季節の変化を感じる機会がめったにありません。一枚のカード、一皿の煮豆から、親兄弟そろって「豆まき」をしていた「コドモのころ」まで思いだしてしまいました。ありがたいです。
節分の日をむかえたということは、コヨミのうえでは、冬の季節がおわって春の季節にはいったということ。今月下旬には、わたしも満99歳になる計算です。もともと病身モノで、兵役検査丙種合格のわたしが、これだけ長生きできるとは、ユメにも考えられないことでした。現実には、まだ雪の日がつづくことでしょうが、とりあえずは一日一日をきっちり生きぬくこと、そしてやがて満99歳・100歳をめざすことにしています。時間はどれだけあっても、退屈しているヒマはありません。やりたいことが山ほどあります。
音を聞く会
2月6日(水)。午後、9fで開かれた「音を聞く会」に参加しました。今回披露された曲は「雪山賛歌」、「おさかな天国」、「いい湯だな」、「草津節」、「北国の春」、「春よ来い」など。むかしのなつかしい歌が多く、思いだせる部分はいっしょに歌わせていただきました。
『春よ来い』のタイトルの表記法について、『春よ、来い』かもしれないと考え、あとでネットでしらべてみました。いろいろなことが分かりました。
『春よ来い』は、大正時代後期に作曲された童謡。歌詞に登場する「みいちゃん」とは、作詞者・相馬御風(そうま ぎょふう/1883-1950)の長女「文子(ふみこ)」がモデルとされている。歌詞では、「じょじょ(草履)」、「おんも(表・外)」などの幼稚語をうまく取り入れつつ、「あるきはじめた」ばかりのみぃちゃんの視点を通して、雪に閉ざされた越後の冬で静かに春を待ち望む人々の強い思いが伝わってくる。作曲は、『鯉のぼり』、『浜千鳥』、『雀の学校』などで知られる弘田 龍太郎(ひろた りゅうたろう/1892-1952)。
おまけにもう一つ、これとは別に松任谷由実が歌った『春よ、来い』があることも分かりました。
『春よ、来い』は、1994年10月から翌1995年9月まで放送されたNHK連続テレビ小説の第52作。NHK放送開始70周年記念作品でもあった。 脚本 - 橋田壽賀子; 主題歌
- 「春よ、来い」(作詞・作曲・歌 - 松任谷由実、編曲 - 松任谷正隆)。
1994~1995年ごろといえば、わたしはまだ富山外国語専門学校非常勤講師として奉職中。中国語学会全国大会で「マグ[曲・覓・巫]・マジナヒ・MAGICの系譜」を発表(1995年10月、麗澤大学)していたころのことです。NHKの連続テレビ小説ぐらいは見ていたはずですが、まったく記憶がありません。
タワーくずし
2月12日(火)。午後2時から「機能訓練」に参加しました。ホームとしては、「寝たきり」予防のためにゼヒ実施しなければならないことですが、マジメくさった「機能訓練」だけでは、どうしてもマンネリ化して、参加者の気分がノッテきません。そこで「ゲーム感覚」で実施でき、しかも実質的に「機能訓練効果」を期待できるような方式をもとめて、試行錯誤がすすんでいます。
この日は、はじめに基本的な「機能訓練」をすませたあと、「タワーくずし」ゲーム(仮称)が実施されました(写真)。テーブルの正面に、紙コップ10個を積みかさね、4段・三角形のタワーをつくり、2基ならべます。その反対がわ正面にすわった人がポケット・ティッシュをすべらせて、タワーを攻撃します。一人5回まで攻撃し、2基合計20個のうち、たおれた紙コップの数で勝敗をきめます。
ただそれだけのことですが、紙コップ4段積みのタワーが2期ならぶ姿は、かなり壮大な感じですし、そのタワーがティッシュの攻撃でくずれおちる姿も、けっこう迫力があります。
このゲームは、片手でティッシュをすべらせる(ナゲダス)だけなので、手足や腰にかかる負担もちいさく、ホームの入居者どなたにも参加していただけるかと思います。
このほか、先日から2~3回やってみた「ホッケー・ゲーム」もおもしろくて、このさきの展開が期待されます。これは、「機能訓練」用テーブルをそのまま「ホッケーフィールド」に見立て、セロテープでセンターライン、「機能訓練」用のポール(新聞紙を巻いた輪)でサイドラインを設定(したつもり)。ボールはピンポン球を利用。スティックのかわりにテイッシュペーパーのアキバコを使用。ゲームは個人戦。双方椅子に着席したまま、ゲームを開始。アキバコでボールをはじき、敵のゴールを突破できれば得点1。途中でサイドラインを飛び出せば、失点1.さきに得点5になったほうが勝者となります。このゲームでは、アキバコをフリダス腕に負担がかかり、その動きをささえるため、足腰をフンバルことも必要なので、それなりの「訓練効果」がありそうです。
社会人大楽塾
2月14日(木)。午後2時から、9fで「社会人大楽塾」が開かれ、参加しました。きょうは、「どこかで春が」、「春が来た」、「うめぼしのうた」、「北国の春」、「川の流れのように」、「銀座カンカン娘」などの歌が披露され、ほかの人が歌うのを「聞いたり」、みんなといっしょに「歌ったり」、リーダーのフリツケをまねて「体を動かしたり」、歌がもつタノシサやヨロコビを「ワライ声として表現したり」しました。
このところ、めぐみでの「社会人大楽塾」もかなり定着してきた感じですが、このへんでいちど、その実態について考えてみたいと思います。とりあえずまず、ネットで「とやま・しゃかいじん・だいがくじゅく[富山社会人大楽塾]」のホームページを拝見しました。
…この塾は、従来の学習塾・文化芸術塾・啓発塾とは違ったコンセプトを持ち「個の確立」と「創造性の開発」をテーマに現代社会の問題点を解決しようとするものです。また、従来の学習を「楽修」に改め「楽しい関係をいかに作るか」を基本に運営します…「社会人の楽しく活力ある生き方」を考え実践する新しい試みの塾です。講師、塾生が同じ「目線」で考え「目からうろこが落ちる」を体験していただきます。
「中高年よ大志を抱け」、「社会貢献」などのコトバも見られ、すばらしいユメをもった集団だなと感心しました。ただ、すこしハイカラなコトバヅカイがおおく、わたしども半ボケ老人の頭では、いっぺん読んだくらいではあまりピンとこないところもあります。めぐみでの公演実態とあわせて、考えてみましょう。
たとえば、コンセプト(concept.概念・観念)という用語がつかわれていますが、日本人にはナジミのうすいコトバではないでしょうか?ガイネン[概念]といっても、カンネン[観念]といっても、どちらももともと漢語、もしくは漢語風の造語(翻訳語)であり、似たようなものだと反論されるかもしれません。まさにそのとおりですが、正確でムダのない議論をすすめるには、できるだけおおくの人たちが共通理解できているコトバを使うほうがよいかと思います。
また、「個の確立」と「創造性の開発」をテーマにといっていますが、基本テーマが二つあるのでしょうか、それとも「あわせて一つ」なのでしょうか?「個の確立」も「創造性の開発」も、いかにも漢語風で、抽象的なコトバです。半分くらい分かるような気もしますが、具体的に「ナニをドウする」ことなのか、どうもピンときません。
先生から正解を教えてもらい、それをガミ暗記するだけでは、まともな学力が身につかない。自分の頭で考え、独自の仮説を立てたうえで討論をすすめる。参加した人たちすべてを説得できれば、その仮説はやがて通説となる。そう考えれば、「個の確立」と「創造性の開発」は「あわせて一つ」のテーマと解釈できることになり、そのほうがスッキリした感じになりそうです。
もう一つ。従来の学習を「楽修」に改めるというのは、おもしろい提案だと思います。ただし、シャレとして通用するのはむつかしいでしょう。もともとシャレというのは、まず同音で意味がちがった二つのコトバが世間に通用しており、それがたまたまハチアワセしたときにおこる現象です。ほんの一瞬混乱しますが、すぐナットク。事情がよくワカリすぎて、緊張がとけ、思わずフキ出してしまうわけです。それが「学習」と「楽修」のばあい、ガクシュウ[学習]というコトバはたしかに世間で通用していますが、ガクシュウ[楽習]というコトバはまだ世間で通用していません。国語辞典にものっていません。この状態で、みなさんにわらってもらおうとしても、すこしムリかと思います。
ワラウことが、健康長寿のために効果があるということはわかりますが、さて具体的に
ナニをドウしたら、「人に笑ってもらえる」のか?考えれば考えるほど、たいへんむつかしいワザということになります。その至難のワザにあえて挑戦しておられる「大楽塾」の方たちに敬意を表したいと思います。
a-a音語の系譜…日本語の系譜(第2回)
擬声・擬態語
まずa-aタイプ(ア行母音およびヤ行・ワ行拗音)の擬声・擬態語をひろってみました。擬声・擬態語と品詞語との区別も、擬声語と擬態語との区別も、きわめて複雑・微妙、困難です。しかし、擬声語のおおくは、そのまま擬態語としてもはたらき、擬声・擬態語からたくさんの品詞語が生まれていることも事実なので、ヤマトコトバの音韻組織をしらべるうえで重要な資料になると考えられます。以下、これまで採集したa-aタイプの擬声・擬態語を列記します(主として『広辞苑』から採集。下線を引いた語は、上代語の段階で成立)。
アア[嗚呼]・アアン
イヤ・イヤイヤ[否否・嫌嫌]・イヤア・イヨ。
ウヨウヨ・ウヤムヤ[有耶無耶]。
エイ・エイヤ・エイヤア・エイヤッ・エエ。
オイ・オイオイ・オオイ・オヤ・オヤオヤ。
ヤア・ヤイ・ヤイヤイ・ヤヤ・ヤヨ。
ヨイサ・ヨイショ・ヨイヤ・ヨイヤサ・ヨワヨワ[弱弱]。
ワイワイ・ワヤ・ワヤク・ワヤワヤ。
ヲヲ[唯唯]。
さて、これらの擬声・擬態語の用法から、a-a音(ア行母音およびヤ行・ワ行拗音)が表わす意味(事物の姿)をさぐりたいのですが、漢字で表記されたものがすくないので、それだけテマ・ヒマがかかります。また、漢字表記された用例のうち、ウヤムヤ[有耶無耶]はあきらかに漢語ですから、ヤマトコトバの擬態語用例としてあつかうのはムリです。それでも、漢字音ウやムとヤマトコトバのウ[鵜・得・居・座]やム[産・牛鳴]とのあいだに、どんな対応関係があるか考えるうえで、参考資料になると思います。
また、ヨワヨワのヨワに漢字ジャク[弱]niok>juoが当てられていますが、この字形は「弓二つ+二つの彡印」の会意モジ。模様や飾りのついた柔らかい弓。ジャク[若](柔らかいクワの木)やコンニャク[蒟蒻]のニャクなどと同系の語音で、ヤ行拗音が「ヤワラカでシナヤカな姿」をあらわすことの例証と考えることができます。
ヲヲに当てられた漢字はヰ[唯]diuer>wei, この字形は「口+音符スイ隹」の形声モジ。スイ[隹]は、もともと「尾が短く、ずんぐり型」の鳥の意味で、じゃク[雀](スズメ)・シュン[隼](ハヤブサ)・ケイ[鶏](ニワトリ)などの字形にもトリこまれていますが、ヰ[唯・誰・惟・維]などでは、トリ[隹・鳥]ではなく、「コレだけに熱中する」姿を意味する音符としてトリこまれています。ワ・ワク・ワナなど、ワ型の道具は、神さまからの贈りもの。コレを使いさえすれば、生活がゆたかになる。そう確信し、コレを神さまとしてまつり、春になれば神さまの指示に「ハイハイ」とこたえ、コレを使わせていただく。ほぼこのような世界観・人生観がもたれていた時代社会の中で生まれた語音・用法だと考えられます。
ここまでくると、イヤイヤ・ヤアヤア・ヤイヤイなど、ヤ行音だけで構成された語音は「ヤ[矢]をイル[射]」姿をあらわすものであり、ワア・ワイワイ・ワヤワヤ・ヲヲなどワ行音をふくむ語音は「ワ[輪]を使う」姿を表わすものだと分類することもできそうです。
イヤというコトバは、上代語の段階で「イヤ[弥]年さかる」、「イヤ[射矢]遠ざかる」など、形状言としての用例があり、これを擬態語と見ることができるかと思います。イヤイヤ[否否・嫌嫌]が感動詞として成立したのは、ずっと時代がさがるようです。
イヤに近い音形のイヨは、上代語の段階ではやし詞として成立しており、ついでにイヨヨ[弥](副。いよいよ。ますます)・イヨヨカ[森然](形状言。樹木が高くそびえるさま)なども成立しています。
ほんとうは、もっと正面から議論をすすめたいところですが、いまはそこまでの余裕がありません。次号で漢語や英語とも比較し、民族のワクをこえて共通する「音形と意味との対応関係」をさぐる予定なので、そこですこしでもこの種の議論ができればと考えています。
2音節の動詞・名詞など
まず上代語の段階で成立していたa-a2音節の動詞をしらべてみると、アユ(下二。①こぼれ落ちる。②[肖]似る。あやかる)・イユ(下二。①[癒]癒える。②[射]射られる)・ウウ(下二。①[植]植える。②[飢]飢える)・オユ[老](上二。老いる)・ヲユ[瘁](下二。衰弱する)など、案外多数成立していたことが分かります。
ついでに動詞以外の2音節語(名詞など)をひろってみると、アヤ[漢]・アヤ[綾・文]・アユ(風の名)・アユ[鮎・年魚]・アワ[沫]・アヰ[藍]・アヲ[青]・イヤ[弥](形状言)・イヲ[魚]・ウヤ[礼]・ウヱ[飢饉]・ウヲ[魚]・オヤ[親・祖]・ヤヤ[稍・漸](副)・ユヱ[故・所以]・ヨイ(夜の眠り)・ヨワ[弱](形状言)・ヰヤ[礼]などが成立していたことが分かります。
いまここにご紹介したa-a音語はすべて母音か拗音(ヤ行音、ワ行音)だけで構成されており、子音は一切ふくまれていません。その点で、「a-a音語の共通基本義」をさぐるうえで絶好の基本資料として利用できるはずです。
さて、これら2音節語(動詞・名詞・形状言など)を並べてみて、そこからどんな共通基本義(事物の姿)を引き出すことができるでしょうか?わたしがたどりついた結論(仮説)では、これらの語音を発声するときの「口形」や「発声器官に生まれる感覚」などから考えて、「ヤ[矢]をイル[射]・ヤル[遣]姿」、「ユミ[弓]でイム[忌]姿」、「オイ[老]のため、ヨリ[寄・依]かかる姿」、「ウ[鵜]のようにウズクマリ、ヱサをウル・エル[得]姿」などが推定されます。
さらに一歩ふみこんで、「音形と意味との対応関係」から分類してみましょう。名詞アヤ[漢]・アヤ[綾・文]・ウヤ[礼]・オヤ[親・祖]・ヰヤ[礼]、形状言イヤ[弥]および副詞ヤヤ[稍・漸]などは、アユ(風の名)・アユ[鮎]と音義とも近く、同根・同系のコトバと考えられます。
たとえばアヤ[漢]の漢字音はカンで、国名や民族名にもなりますが、もとはヒト[人](門外漢など)を意味するコトバです。この漢字をアヤと読んだのは、アヤ織物の先進技術をもたらしたヒト[人]たちだったから。また、そのリョウ[綾]やモン[文]をアヤと読んだのも、その文様がヤ[矢]・アヤ[綾]の姿だったからと考えられます。
さらにいえば、ヤ音語にはヤ[矢・八・弥]・イヤ[弥]・ヤヤ[弥]など、いろいろありますが、いずれも「ヤ[矢]のハタラキ」を表わすコトバとして生まれたことが推定されます。矢は平生多数そろえて準備されていたことから、やがて「漠然多数」を表わすヤ[八]となり、さらにヤソ[八十]・ヤホ[八珀]などの数詞に変身します。また、1本の矢がイク[射来・行]・ユク[ユク]時間はほんの一瞬のことですが、イヤ[射矢・弥]の作業がくりかえされるにつれて、「イヤマシニ[弥益]」、「ヤヤヒサニ[良久]」などの感覚を表わすことになります。ヤヤ[良・梢・漸]については、一般に「ヤ[弥・矢]の重複形」と解釈されているようですが、「ヤ[八]ヤ[矢]」と解釈することもできそうです。
ユyu音の基本義については、単音節名詞ユ[湯]をはじめ、動詞アユ(①こぼれ落ちる。
②[肖])・イユ(①[癒]。②[被射])、オユ[老]・ヲユ[瘁]、名詞アユ(風の名)・アユ[鮎]などの意味・用法から推定してみましょう。
ユ[湯]は、加熱した(忌み清められた)水。ユ[齋]・ユユシ[齋忌]に通じるコトバです。動詞アユ(①こぼれ落ちる。②[肖])は、釜の中で加熱されたユ[湯]がヤ[矢]のようにフキこぼれる姿。名詞アユ[鮎]は、これにアヤカル名詞用法で、川の中を自由自在にユク(イク・ハシル)小魚の姿をヤ[矢]に見立てた命名かと思われます。
イユ[癒]は、もと「ヤ[矢](ヤジリ。ハモノ)で手術する」姿。イユ[被射]は、「ヤ[矢]をイ[射]ラレル」姿。オユ[老]・ヲユ[瘁]は、加齢や疲労によって身体機能がオトロエ[衰]、ユミ[弓]のようにヲレまがり、オヨビ腰となる姿と考えられます。
これら語尾のユは、動詞をつくる接尾語のハタラキをしていますが、本来の意味は「腕力・日光・湯などの力でイム[忌]・イタメル」姿と考えられます。
イヲ[魚]は、ウヲと語頭母音が交替関係にあるコトバ。ウヲが「ウ[鵜・居・得]+ヲ[緒]」の構造だと考えれば、イヲも「イ(イキ[息]+ヲ[緒]」の構造かと考えられます。国語辞典には「ヨイ=夜の眠り」と解説されていますが、ヨイは「ヨ[夜]+イ(息)」の構造で、「ヨル[夜](睡眠中)のイキ[息]ヅカイ」を表わすコトバと解釈すべきかと思います。
イyi-音が表わす基本義をどう設定すればよいか、いろいろ議論が分かれるかと思いますが、ここでは、イ[忌・射]・イク[生・活・行]・イキ[息]・イフキ[息吹]・イノチ[命](イ[息]ノチ[道])などの意味用法から見て、共通基本義としてイキ[息](呼吸)をえらぶことにしました。
ついでにひとこと。イキ[息]はyik-音タイプの語で、「イキ[息]がユキ[行]キ[来]する」姿を表わすコトバですが、ネムリ[眠]は、上代語の用例がなく、上代語ネブ[合歓]・ネブル[睡]などn-p音語がやがてn-m音語に変化したものです。
ネブ[合歓]の意味構造は、「ネ[根・寝]+ブ(接尾語。~の姿になる)」、つまり「ネ[根]の姿にナル」=(ネッコの本数は多数でも、もともと本体から生まれたナリモノなので)、「昼はサケ[裂・割]ているが、夜はトジル[閉]・ネムル[眠]」姿(とじ目は一直線となり、イ音発声時の口形とおなじ姿)となるわけです。「イク・イキル」と「ネブ・ネブル」の双方に共通の語音がゼロということは、それぞれ独自の視点・発想法による別系統のコトバということになります。
このあと、ワ行音のコトバについて考えてみましょう。ワ行音では、上代語の段階で、単音節語としてワ[輪・吾]・ヰ[井・猪]・ウ[鵜・得・居]・ヱ[画・絵・餌]・ヲ[雄・男・夫]、2音節語としてヰヤ[礼]・ヲヤ[小屋]・ヲユ[瘁]などが成立しています。そこで、ワ行音の基本義とはナニか、その音形と意味(事物の姿)との対応関係はドウなっているか、考えてみましょう。
たとえばワ[吾]・ワレ[吾・我]・ワタクシ[私]・ワドリ[吾鳥]などのばあい、いずれも「ワ=第一人称のシンボル」のように見えますが、そもそもナゼ第一人称にワ音がえらばれたのでしょうか?そこには当時の人たちの世界観・人生観などが反映していると思われます。もちろん、当時は民主主義などという「モノの見方」は生まれていなかったのですが、弓矢にたよる生活がつづき、それだけ人々の生活がゆたかになった反面、弓矢を使用する生存競争は、勝ち組と負け組の対立という現象をもたらしていました。もともとは地域ごとに勝ち組・負け組の対立が生まれましたが、そのご勝ち組同士のあいだで競争がすすみ、やがて日本列島全体でただ1組だけの勝ち組が生まれました。その勝ち組がオホヤケであり、そのリーダーがオホキミ・ワガオホキミ・スメラミコトです。
そんなワケで、当時一般庶民の感覚では、「世の中は、ただ一人のキミとおおぜいのワレ・ワタクシで成り立っている」、「これが宿命」、そういった感じではなかったかと思います。
それにしても、「勝者のキミに仕えるワレ・ワタクシ」の姿を表わすために、どうしてワ音が必要だったのでしょうか?ここまできて、ワ音がもつ基本義をあらためてしらべあげることにしました。そして重大なことに気づきました。それは、弓矢とならぶ利器・武器として、ワ・ワナ・ワタなどが日本歴史上で重要な役割をはたしてきたという事実を再確認すべきだということです。
ワ音は、母音ウu-を発声し、そのままa-音に切り替えることで生まれる拗音。すぼめた口もとから息がワッとフキダス姿になることから、その感覚がワ音の基本義を決定します。対面して聞いている相手は、そのときの口形の変化から語音の意味を感じとることができます。
ワ[輪]とは、発声時の口形どおり、まるくて、ひろがりのある姿。道具としてのワ「輪」は木・竹・ツル・ヒモなどを素材に構成し、必要に応じてアミやフクロをとりつけます。野原でめぼしい虫や小動物を見つけたときは、この輪をカブセルことで、たちまちこれをワガモノ[輪物・吾物]とし、ほかのモノからワケルことができます。
ワク音語には[沸・涌](四,自)・[別](四。他)・[別・分](下二。他)などありますが、もと「ワ[輪]+ク[来]」の構造。地下水や加熱された水がまわりをおしワケ、ワッとワキ出る姿と解釈できます。やがて、動詞ワク[別]の終止形が、そのまま名詞ワク[枠]に変身しています。
ワナ[罠]は、もと「ワ[輪]+ナ(ナリモノ[鳴物・生物]」の構造で、輪の加工品です。ワナク[絞・経](四。首をくくる)は、名詞ワナを動詞化したもの。ワナナク[慄・戦](四)は、ワナの威力をおそれて、ワナワナとフルエル姿です。
ヤ行音のヤ[矢]・イル[射]などが直線のイメージをもつのにくらべて、ワ行音のワ・ワナなどは、円・曲線のイメージをもっています。また、男性対女性のイメージでとらえることもできるかと思います。
ワタ・ワタル・ワタクシなど、wat-音語の語音構造をどう解釈すればよいか?かなりのテマとヒマがかかりました。上代2音節名詞としてワタ[海水・綿・腸]3語が成立しているが、ナゼ同音なのか?このワタの意味構造がドウやってワタルの意味構造までワタリつけるのか?分からないことばかりでした。
「ワタ=ワ型のタ[手](手段。方法。テ[手]の交替音)」と解釈することで、ようやく話のツジツマがあうようになり、ナットクできました。ワタ(海水。水)は液体で、特定の形をしていないので、手でつかまえようとしても、うまくゆきません。そのかわり、どんな形の容器にも、スミズミまでシミコムことができます。それどころか、固体・液体・気体と変身して、地球の北極から南極まで、さらには宇宙空間にまでシミわたっています。また、ヒトをはじめ、地球上のイキモノはすべて、この水がなければ、1日たりとも生きていることができません。
「水は独自の形をもたない」といいましたが、実は肉眼でも「水独自の形」をたしかめることができると思います。たとえば、たまたまテーブルにこぼれ落ちた1滴のシズクの形がそうです。小型ですが、きわめて自然な姿で、ワ[輪]の形」になっています。立体として見ればタマ[玉・球]とでも呼ぶところでしょうが、平面として見れば、やはりワ[輪]とよぶことになると思います。
そしてこのワ[輪]は、条件(温度など)によって変形したり、移動したりします。みずから移動するだけでなく、まわりのモノを体内にとりこんで、とおくまで運ぶことができます。その姿(ツキデル・ツクル・トリコム・トドケルなど)から、人のテ[手]を連想し、「ワ[輪]型のテ[手]」=「ワタ」と呼んだことが考えられます(タとテは、語尾母音が交替関係の語音)。つまり、この「ワ[輪]型のタ[手]」をつかえば、大海原をへだてた此岸から彼岸まで、みずからワタリ、まわりの人やモノをワタスことができるというワケです。
ワタクシ[私]というコトバも、考えれば考えるほど、意味構造が分かりにくいコトバですが、これも「ワタ[水]+クシ[串・櫛]の構造」と解釈してみたら、どうなるでしょうか?たとえばワタクシダ[私田]とは、「個人の私有を認められた田。また、ひそかに開墾して作る田」ですから、権力者の都合次第で、いつまで保有できるか、なんの保障もありません。いつ没収されるか、いつ蒸発するか、流失するか分からない。まさにワタ[水]の姿です。クシ[串]は、細長い棒で、その田の占有を宣言するシルシと考えてよいでしょう。このように見てくると、オホヤケ[公]対ワタクシ[私]の人間関係がすこし見えてきた感じがします。
ワタクシを「ワタ(水)+クシ(串・櫛)」の構造と考え、「水のクシでは、髪をトクこともできない」、「よわい」、「タヨリない」姿と解釈することもできます。また、ぎゃくに「 ワタ[水]のように、自由自在に変身、宇宙空間をシミワタリ、シメ[占]つくし、地球上すべての生物の生死を支配する」、「つよい」、「タヨリになる」姿と解釈することもできます。オホヤケもワタクシも、もともと現実の事実を表わすために生まれたコトバですが、このコトバを口にする人の主観のチガイ(有利と感じるか、不利と感じるか)によって、まったく正反対の感覚を表わす結果となっています。フシギといえばフシギ。まさにクシ・クスシ[奇]と呼びたい現象です。ただし、コトバの語源をたずねる作業をつづけていると、これとよく似た現象に気づくことがしばしばあります。そして、つぎつぎ変身するワタ(水)もフシギだが、そのモノをあらわすワタ[水]・waterなどというコトバそのものもフシギだと気づかされます。コトバの宿命とでもいいましょうか、無限にひろがるコトバのハタラキを見せつけられた思いがします。
ワタ・ワタクシにちなんで、もうひとこと。現代語でも、第1人称として「ワテ(私)」が使われている(関西)ようですが、これもワタクシやワタ[海水]と同源かもしれません。ワタと語尾母音が交替関係にあるコトバです。
ワラ[藁]・ワル[割・悪]・ワレ[吾・割]など、war-音のコトバについて考えてみましょう。動詞ワル[割]は、「ワ[輪]+ル(接尾語)」の構造で、「ワ[輪]の姿になる」と解釈できます。ワ[輪]は直線ではなく、曲線なので、マガルことになり、当事者にとって「都合がワルイ」とされることもあります。また、ヒト(人間)は、孤独な存在ではなく、まずは親兄弟など家族という名の輪の一員として生まれたものであり、やがて独立し、結婚して、あらたなワ(輪・家族)を構成することになります。
このように考えてくると、第一人称。ワ・ワレ・ワタクシなどに一貫して現われるワ音は、「自分は、社会というワ[輪]の中のカタワレである」ことの自覚から生まれた語音用法かと推定されます。これまで漢字ワ[倭]の語源解釈から、[倭人]=「しなやかでたけが低く、背が曲がった小人」などと解説されることがおおかったと思いますが、それは「漢民族の解釈」であり、日本人自身の証言ではありません。ワ・ワレなどの語音は、第一人称としては「謙称」だといえるでしょう。ただし、「尊大ぶった」、「たけだけしい」ナノリにくらべたら、「しなやかで」「つつましい」ナノリのほうが、はるかにオトナのコトバヅカイといえるでしょう。
名詞ワラ[藁]は、イネ・ムギなどのクキの切り口がワレている姿。動詞ワル[割]の未然形兼名詞形と解釈されます。代名詞ワレ[吾]と語尾母音交替の関係にある語音です。
動詞ワラフ[咲・笑]は、「ワラ+接尾語フ」の構造で、「ワラがフルエル」、「人の口からイキがフキダス」姿。ヱム[笑](にっこりホホエム姿)に対して、「ワハハ・ウフフ」、声を出してワラウ姿です。
ワラハ[童子]は、ワラベともいいます。もともと「ワラ[藁]ハ[葉]」の姿。ワラワラ・バラバラの髪の毛を束ねずに下げ垂らした姿からの命名です。
ワラビ[蕨]は、山野に自生する山菜、春になると、にぎりこぶしのような形をして巻いた新芽を出し、食用に供されます。その姿は、ワラベの髪型を連想させるものでもあり、口の中でかみしめていると、春をむかえてよろこぶワライ声ガきこえてきそうです。
アワ[沫]も、輪の一種。目に見えないほど小さい水のアワやツブのこと。虫メガネで見れば、ワ[輪]の姿をしていることが分かります。
ユヱ[故・所以] ・ヨワ[弱](形状言)などについては、「ヤ行音+ワ行音」の音形としておもしろいとは思いますが、音形と意味の対応関係をどう解釈すればよいか、よくわかりません。 ユヱ[故・所以]については、漢字音(ユ[由]・イ[依・以]・ヱ[会・絵]など)由来の可能性もあります。ヨワ[弱]については、「ヨ[夜・代・節]+ワ[輪]」の構造を仮設してみましたが、ヨの甲乙カナなどの問題があり、まだナットクがいく解釈ができていません。も教示をおまちします。
ウ音語については、ア行音のワクで考えることもできますが、ワ行音のワクで考えたほうが、ワ行音がもつ独特の感覚をとらえやすいかと思います。
上代語の段階で、単音節語として動詞ウ[居・座]・ウ[得]、名詞としてウ[鵜]などが
成立しています。また、2音節語では、動詞としてウウ[植・殖]・ウウ[飢]、名詞としてウヤ[礼]・ウヱ[飢]・ウヲ[魚]などが成立しています。ここでウヤ[礼]をのぞいて、すべて食生活にかんするコトバだということに気づきます。
ウヤ[礼]について、国語辞典は「敬うこと、礼儀。ヰヤとも」などと解説しています。それでは、ウヤ・ヰヤとはどんな場面での礼儀作法(姿勢)だったのか?ウヤ=「ウ[鵜・得・居・座]の場面での姿勢」、ヰヤ=「ヰ[井・猪・居・坐]の場面での姿勢」という仮説をたててみました。イノチをつなぐためには、ウヲなどのウカ(食物)をウ[得]・ウケル[受]ことが必要。ウヤ・ヰヤは、この「ヱ[餌]をエル[得]」、「ウカ(食物)をウケル[受]」場面での礼儀作法(基本姿勢)を示すコトバだったと解釈することで、話のツジツマがあってくると思います。
ここで「水辺の一画に1羽のウ[鵜]がたたずみ、目をこらして水面を見つめている」場面を想像してみましょう。このときの鵜の姿勢がウズクマルです。基本的にはウ[居・座]の姿勢ですが、のんびりアグラをかいているわけにはゆきません。長時間にわたる作業なので、一方では体力の保全をはかりながら、一方ではウヲ[魚]の姿を見つけたらすぐにトビツキ、トリコムことができるように、水面をウカガフ[窺]姿勢となります。
人間のばあいは、食材を①探す、②見つける、③採集する、④調理する、⑤飲食するなど、それぞれ別の場面として展開され、さまざまなコトバヅカイが生まれています。時間系列で追ってみると、
①
ウカガフ[窺] 段階…ウ[鵜]のようにウズクマル
②
見つける段階…ワ行音の用例が見当たらない。採集経済の時代は、発見することがそのままウ[得]につながった。
③
採集する段階…ウ[得]
④
調理する段階…食べやすいようにウルホス[潤]・ワル[割]。
⑤
飲食する段階…ワル[割](カミクダク)・ヲス[食]
ウ音の2音節動詞としてウウ[飢]とウウ[植]の2語が成立しています。まったくの同音で、ともに四段活用でありながら、その意味はまるで正反対というのは、おもしろい現象です。どうしてそうなったのか、考えてみましょう。
ウウ[飢]は、ヱ[餌]がともしくなり、あらたなヱ[餌]をエル[得]ためにウズクマル姿。ウウ[植]は、将来ウエルことがないように、いま食材をウヱル(ウメコム)姿。そう考えれば、イノチをささえるヱ[餌]をエル[得]ときの基本姿勢という点で、ウウ[飢]とウウ[植]は基本的におなじ姿であり、コトバとしてもおなじ音形となるのが当然ということになるでしょう。
足を弓なりにして、アユム
画像として、「カード64」第1枚目を掲載しておきましたので、ご覧ください(2006年に作成。イラストの版画は、梶川之男氏の作品)。女の子が歩く姿を「足を弓なりにして、アユム」と解説してみました。古代日本人は(実は、世界中どこも似たりよったりですが)、弓矢にたよる生活が長期間つづくなかで、人間の骨格のハタラキを、弓矢のハタラキとおなじ姿ととらえ、そこから「アヤ・アユ・ユミ・アユミ・アユム」などのコトバを生みだしたことが推定されます。
手や足の直線部分は、それぞれが1本の矢の姿であり、ヒジやヒザの関節をはさんで屈折する骨格部分は弓の姿と見ることができます。つまり、「ウデやアシをフリダスことで、体を1歩ずつ前進させる姿」=「弓をしぼり、矢をユカセル姿」と考えるわけです。
アユム姿は、「2本の足をコンパスのように使って、1歩(円の半径分)ずつ地面をワル[割](ワギリ[輪切]にする)」姿と解釈することもできます。ワル[割]もワ音グループのコトバですが、そこまでゆくと、英語のwaltz, walkや日本語のアルク[歩]などとの対応間系なども気になってきます。機会があれば、しっかりチェックしてみたいと思います。
できるだけ簡潔にと思いながら、ついつい長たらしい文となってしまい、申しわけありません。漢語音・英語音との比較などは、次回にゆずらせていただきます。