2016年6月18日土曜日

『古事記』を 読む 会 研修会 



古事記』を 読む 会 研修会 6/5


木もれ日  6/5 


バラ 一輪  6/8 


ヒコーキ雲 6/8 


アジサイ 6/8 


ツツジ 6/8 



『古事記』を読む会
6月5日(日)午前、茶屋町 豊栄稲荷神社で『古事記』を 読む会の 研修会が 開かれ。会員の近藤 さんと 五十嵐 顕房 さん から 研究報告が ありました。

近藤 さんの 報告
安康天皇オホクサカ[大日下]を 殺し、その 妻を 皇后と した…」と いう 物語部分を とりあげ、その 問題点を 指摘され ました。すこし長く なりますが、当日 配布された 資料の 概略を 紹介させて いただきます。

物語概略
*安康天皇が 弟オ ホハツセ(雄略)の 妃に 叔父 オホクサカの 妹 ワカクサカを 求める。

*使者の ネノオミに 対し、オホクサカは 即座に 承諾し、天皇への お礼品を 使者に 託すが ネノオミは その 品を ネコババした 上、天皇には オホクサカは 不承知だったと虚偽の 報告。

*怒った 天皇は、オホクサカ[日下]王を 殺し、その 妻 ナガタノオホイラツメを 自分の ものに する。

*その後、連れ子の マヨワは、実父を 殺したのが 継父の 安康天皇と 知り、幼い ながらも スキを 見て 天皇を 殺す。

*兄天皇を 殺された 雄略天皇は マヨワを 匿った ツブラノオオキミを 攻め、マヨワとオオキミは 共に 自害。

*事件の 発端と なった ワカクサカは、のちに 雄略の 妃に なったが、子は なして いない。

古事記の 視線
書紀との 記述差。 心中自殺・焼き殺し・切腹・打ち首。書紀の 記述は 人格 否定。

王権側に 立った 視点を 持つ 書紀と 滅び去って いく 者たちに 視線を 合わせた 古事記

*大王家に 滅ぼされた 有力 古代豪族は 蘇我氏 及び 葛城氏で あり、蘇我 本宗家を 滅ぼした 鎌足の 息子 不比等が 責任編集した 書紀では、自然な 描きようか?

*約150年後、蘇我氏の 本宗家が 滅んだ 時でも、庶流の 倉山田家が その 後の 朝堂に重きを なして いる。

*葛城氏の 場合は 殆んど 無い。神祇に 関わる ものが 若干 あるが、それは 国造家 葛城の もの である。

雄略天皇の 人となり
*雄略の クロヒコ・シロヒコに 対する 所業 からは、英雄の 姿が 見えない。単なる

暴者では?

カラヒメ・ワカクサカを 求める 心境?

葛城山で 猪と 出会った 時の 慌てよう・赤猪子との 約束の 無責任・三重の 采女や 堅魚での 寛大さ。

*葛城山で 神(葛城族の 祀神)の 一行に 出合った 時は ひれ伏し、その 神に 本拠地 長谷まで 送られる。

大伴、平群、物部などの 有力 在地 豪族を 政権内に 取り込み、吉備氏 などの 地方 豪族を 服従させた。

半島へ 遠征した との 記録も あり、手工業者 なども 招
 いて いる。

■雄略天皇と その  一族
*兄…キナシカル…同母妹との 不倫を 咎められ 自死。

*兄…アナホ(安康)…后の 連れ子(従兄弟)が 殺害。

*兄…シロヒコ…オホハツセ(雄略)が 殺害。

*兄…クロヒコ…オホハツセ(雄略)が 殺害。

*叔父…オホクサカ(履中の 子)…アナホ(安康)が 殺害。

*従兄弟…イチヘノオシハ(履中の 子)… オホハツセ(雄  
 略)が 殺害。

葛城氏
*葛城氏は、系図的には 古い 国造系 葛城氏と、孝元天皇の 孫(書紀では 曽孫)竹内宿禰を 祖とし、襲津彦 宿禰、玉田 宿禰と 続く 中央政権で 活躍する 葛城氏との 2系統が あると 見られる。しかし、否定的な 見解も…。

*竹内 宿禰系と 称する 氏族は、他に 紀氏、平郡氏、巨勢、蘇我氏 などが あるが、中でも 葛城氏は 宗家的な 立場に あったと され、大王家との 姻戚関係を 強力に 推し進め、後世 葛城王朝とも 呼ばれる 程の 勢力を 拡大して きた。

葛城の 女性を 妃に している 天皇(応神・仁徳・履中・
 雄略)

葛城の 女性を 母に してい る 天皇(履中・反正・允
 恭・顕宗・仁賢。清寧

玉田 宿禰は、反正天皇 崩御の 殯宮 築造に ついて、允恭天皇から 不始末を 咎められ、誅伐されて いる。

*その 子、円 大臣は 国政に 参画する 立場では あったが、安康天皇を 殺害した 眉輪王を 匿い、オホハツセに 攻め滅ばされた。これで 葛城の 宗家は 滅び、 支流も 含めて、これ 以降、朝堂での 活躍は 殆んど 見えない。

葛城氏が 滅ぼされた 理由 ①
安康天皇(允恭系)は 存命中、オシハ(履中系)後事を 託す 意志を 示して いた。両統には 安康天皇後の 王位継承に 合意が あったと 思われる。しかし、それを 良としない オシハワケが 安康天皇 及び ライバルの オシハと 葛城を 排除した もの であって、眉弱王の 逸話は 挿入と 見る。

葛城氏が 滅ぼされた 理由 ②
*日向を 本拠と する 諸県君氏 出身の カミナガヒメを 母とし、仁徳天皇を 父と したオホクサカ 一族が、河内 日下を 拠点と した 『日下宮王家』を 築いて いたと 見る。そして 父を 殺害された 眉弱王と、同じく 父 玉田宿禰を 失い 勢力拡大を 目指す ツブラノオホキミとが 思惑を 一つにし、オホハツセに 立ち向かい、共に 滅ぼされた

*仁徳天皇が 王権を 確保したと 思われる 5世紀初頭には、日向地方の 古墳も 急激に ヤマト化し、巨大化して いる。仁徳天皇の 姻戚と して、日向の 諸県君の 権勢が 拡大した ものと 思われる。

日向系の 王族が 太陽信仰を 持って いるが 故に、敢えて『日下』を 拠地に した のかも…

*葛城 襲津彦の 『襲』は 熊襲に 通ずる のか? 日向系 集団と 繫がりが あった のか? 

*応神も 日向の 女性を 娶って いる。

*応神・仁徳朝には、それまでの 熊襲 から『隼人』に
 称が 替わって いる。

まとめ
*大王に よる 倭 統一の 経緯の 中で、この譚は ヤマトタケルと 同様、滅び去る 者たちへの 鎮魂の 意味合いが 強い。

*皇嗣争いが 続く 中で、継承 候補者が 次々と 斃されて
 いき、応神王朝の 崩壊に つながった。

オホクサカ 王家 から、応神天皇の 東征(神武 東 
 征?)が 読み解ける かも 知れない。



イズミ 所感
『古事記』を 読む ばあい、その 記事を そのまま「事実の 記録」と 考えて しまい やすい のですが、それだけでは。歴史の 真実を つかみとる ことが できません。『古事記』だけ でなく、『日本書紀』『風土記』などの 文献資料、さらには 考古学の 分野で 得られた 資料などと 比較対照する ことに よって、よりいっそう 客観的・合理的な「歴史の 真実」に せまる ことが できる わけです。

近藤 さんの 報告を きいて、歴史学には 門外漢の わたしにも、オホクサカ 王家 滅亡」の 真相が すこしだけ 見えて きた 感じが します。ありがとう ございます。わたし 自身、これまで クサカ(kusaka)の語音に こだわり、クサカの 表記法([日下][草香])の 問題を とりあげて きました。クサカを [日下]と 表記した のは、「ク[日]の サカ[]の 意味と 解釈されます。日本語では 漢字 ジツ[]と 読むのが 普通ですが、「二日・十日」の ように、と 読む ことも あります。コヨミ[](日数をヨム)の や、「君が 行き []長く なりぬ」(記允恭)も、「日。日かず。ひるま」(もともとは、太陽光線、ヒザシ)の 意と 考えられます。したがって、クサカ[日下]は 「ヒ[]の シタ[]」、「ヒ[]の モト[]」、「ヒ[]の モト[]」に 通じる ことに なります。つまり、いまの 日本(ヒノモト)と いう 国号の 起源に かかわる 呼び名と いう ことに なります。

日本の 国号の 起源と いう ことに なると、クサカ・ヒノモトと ならんで、ヤマト[日本・大和・倭・山門]と いう 呼び名の 由来も チェックして みなければ なりません。このあと、ヤマトの ナノリを もつ 人たち (大王・豪族)の 実態が 分かって くれば、日本 古代国家の成立・発展の 経過に ついても、また 日本国号の 由来に ついても、さらに あらたな 発見が 期待 できそう です。



五十嵐 顕房 さんの 報告
 当日 配布された 資料から、要約して 紹介させて いただきます。

古事記に 書かれて いる 死生観

1.生

1.1.神の 結婚…「汝が 身は 如何に 成れる。この 吾が身の 成り余れる 処を 以って、汝が 身の 合はぬ 処を 塞きて、国生み 成さむと おもふ」

[漂って いる 国を 固めよ]との 天神の 命令を 受けた イザナキ・イザナミ 二神は、オノゴロに 降りて 結婚し、国を 生む ことに する。

*神同志の 結婚でも、神と 人との 結婚でも、異界との 交流を 目的と して いた。多くは、寄り付く 男神と それを 迎える 巫女(玉依姫)との 結婚と いう 形式を とる。

*個々の 共同体は、それぞれの 神婚伝承を もって いた。たとえば、オオクニヌシと スセリヒメでは、オオクニヌシ根の国の 呪術性が、ホオリ(山幸彦)と トヨタマヒメでは、ホオリに 海神の 国の 呪術性が 付与され、異界との 交流が 語られて いる。

1.2.国生み・・・「女の 先づ 言ひしに 因りて、良く あらず。また 還り降りて 改め 言へ」、
「淡路之穂狭別島、次に…大倭豊秋津島を 生みき」大八島国。計14島。  

神生み…「安曇連等は 綿津見の 神の 子…底・中・上の 筒男命は 墨江の 三前の 大神ぞ」 三貴子(天照大神、月読神。建速須佐之男命)の 誕生。計35柱。

2.死

2.1.伊邪那美命の 死…「火之迦具土神と 謂う。此の 子を 生みしに 因りて、みほと やかえて 病み臥して あり。かれ、伊邪那美神は、火の 神を 生みしに 因りて、遂に 神避り 坐しき」

*この 神話が 火の 起源、また 死の 起源を 伝えて い
 る。

2.2.黄泉の 国…「ヨモツヘグイ[黄泉戸喫]を 為つ…一つ火を 燭して 入り見し 時に、うじ たかれ こうろきて,穢き 国に 到りて 在りけり。(*場面は、か、横穴式)古墳か」

ももの み[桃子]を 取りて…悉く 坂を 返りき…事戸を わたす」、「一日に チガシラ[千頭]」くびり 殺さむ」、「一日に チイホタリ[千五百人]の 産屋を 立てむ」

*黄泉の 国と 葦原中国との  関わりの 中で、人間の 生死
 が  語られる。

3.根の 堅州国 訪問…「大穴牟遅神を 殺さむと おもひ…石に 焼きつけらえて 死にき…つくり 活け しめき…麗しき 壮夫と 成りて、出で 遊びき…」

4みそぎ…「穢き 国に 到りて 在りけり。かれ、吾は 御身の ミソギ[]を せむ」…[神直毘神、大直毘神]

*身に ついた 穢れを 水の 霊力で 除去しようと して 行う 呪的 行為。祓えと 混同される ことも 多いが、祓えは、罪を 物に よって あがなう 意。イザナギは ミソギをしようと いって、杖・帯・袋・衣などを 投げ すてた。すると、それらに 次々と 神が なった。

*罪には、天津罪と 国津罪が ある。

 天津罪 ①畔放ち。②溝埋め。③樋放ち。④頻蒔き。⑤串刺し。⑥生はぎ。⑦逆はぎ。⑨クソヘ[屎戸]

 国津罪 傷害罪・殺人罪・疾患・近親相姦・獣姦・災禍。



イズミ所感

  ごらんの とおり、古代日本人の 死生観に かんする 用語を ひととおり 解説して いただきました。私と しては、これを 一つの 資料と して、わたしなりの 方法で、音韻の 面から 分析・比較・分類などの 作業を こころみたいと 思って います。

*たとえば、イザナキ・イザナミの 「国生み・神生み」の ウムと いう コトバ。日本語の 動詞 ウムには ウム[生・産](ウミ出す)・ウム[](ウメ込む)などが あり、ニュアンスの ちがいは ありますますが、客観的には おなじ 姿と 見る ことが できます。夫婦の 間に 赤ちゃんが ウマレル[] いう ことは、家族の 人数が 一人 マス[] こと です。また、狩猟や 採集の 場面では、エモノを ミル・ミツケルことが やがて「エモノをウミダス」ことに つながり ました。さらに いえば、ウミ[]も また、「万物の イノチをウミ[生・産]育てる」存在です。

*「ももの み」も、m-子音が 多用された コトバです。モモ[]は、イバラ科の 落葉小高木で、「上代に 中国大陸から 伝来した」と されて います。イザナキが 黄泉の 国から 脱出した とき、「桃の実を 投げて 防戦した」と いう 話は、中国の 伝承を ウケウリした もの かも しれません。それよりも、わたしは、「ウメ・モモ・モム・ケモモ・モモチ」などの m-音が あらわす 意味(事物の 姿)に 注目したいと 思います。ウメ[]・モモ[桃・百・股]・サクラ[]は、いずれも イバラ科の 落葉小高木。その 実は食用に され、その タネ(サネ)は かたくて、楕円形。サキが とがって いて、ヤジリ(利器・武器)と して 使えます。ウメも モモも たくさんの 実が なるので、数詞 モモ[]も おなじ 発想に よる コトバと 考え られます。また、モモの 実 には、こまかい 毛が 生えて いる ので、ケモモと 呼ばれた との こと。漢語 モウ[]は、上古音mog、現代音maoで、モウ[](ほそ目)・ミョウ[](細いなえ)・[](かぼそい)と 同系と 解説されて います。動詞 モムは m-mタイプ 唯一の 2音節 動詞ですが、ウツ・タタク・ツク・キル・サク・ソグ・ナグル・ハグ などとは 対照的な 姿を 表わす 動詞です。桃の実や 人体の モモ[]が イタミを 感じない ように、こまかに 気を 配って、やわらかな 手で さわり、モミホグス 動作です。

*「海は、万物の ウミ[生・産]の 親」と いいましたが、海水も ミズ[]。水が なければ、動物も 植物も 生きて ゆけません。ところで、水は どうして ミズと 呼ばれた ので しょうか?国語辞典には、「ム[]動四。産む」、「ミ[] 水」と解説されています。そこで、わたしは動詞ム[]の連用形 兼 名詞形が ミ(うみだすこと)と 解釈します。つまり、ミ[水]は「命を ウミだす ハタラキ(機能)」を 表わす コトバと 考えます。また、ミズ[水]の 歴史カナヅカイは ミヅ。この ヅは ツと おなじく、四方八方 どこへ でも ツキデル 姿を 表わす 語音と思われます。

*ミソギ[禊]の ミは ミ[水](甲類カナ)か、ミ[](乙類カナ)か? おもしろい 問題だと 思いますが、やがて 「上代語 カナヅカイ、甲類・乙類の 区別とは なに だった のか?」と いう 議論に なります。ブログの 公開予定 期限を おおきく はみだして いますので、ざんねん ですが、また つぎの 機会にと させて いただきます。

  この日、休憩時間に 社務所の 窓から、外の 風景を ながめて いました。高い 木も あり、ミドリに おおわれた、しずかな 空間に、木もれ日が さして いました。



68()、晴。しばらくぶりに ゆっくり 散歩。遊歩道 ぞい G家の 花壇に まっかな バラが1咲いて いるのが 見つかり ました。毎年 この 季節に 咲いて くれる ので、「ことしも この 季節に なったんだ」と 教えられる 思いです。

 雪見橋に さしかかり、視界が ひらけたと 思ったら、青い 空に 二すじの ヒコーキ雲が 走って いる ことに 気づき ました。ヒコーキの 機体は とうに 消えて いました。

  しばらく サップウケイだった 土手ですが、きょうは あちこちで アジサイが 花を つけて いるのを 見かけました。もう すぐ ツユに はいると いう こと でしょう。
 ツツジの 花は、「最後まで がんばって いる」姿に 見えました。



2016年5月31日火曜日

目線の はなし



ちいさい花 5/15


「小竹貝塚から見えてきた…」 5/16



シャクナゲ 5/19 


絵本 5/20 


高岡市万葉歴史館 5/21 



 天晴海岸 5/21


[亀清]若旦那の講演会 5/26 


ちいさい 花
515()、晴。いたち川の サクラ並木は ミドリ 一色。遊歩道を 歩いて いても、めぼしい 花は 見あたり ません。そう 思い ながら、ふと 足元を 見ると、ちいさな アカムラサキの 花が いっぱい 咲いて いる ことに 気づき ました。あまり 日当たりの よくない 場所ですが、せいいっぱい がんばって、これだけの 花を さかせた のでしょう。先日から ずっと 咲いて いたのに、こっちが 気づか なかった だけの こと。気が ついても、ナマエが 分からず、ナマエで 呼んで あげる ことも できません。ごめんなさい。



「小竹貝塚から 見えて きた…」
 516()午後、高志会館で 県教職員厚生会 退職厚生部 富山支部の 総会が あり、町田 賢一(埋蔵文化財 調査事務所 調査課主任) さんが 「小竹貝塚から 見えて きた、6000年前の とやま」と 題して 講演され ました。

小竹貝塚 とは?

いつ…縄文時代 前期 中葉から 末葉(6.2005.600年前)で、前期後葉(6.000)を 中心と する“縄文海進期に あたり、今より2~3度 気温が 高く、海面が 上昇して いて、全国的に 平野部の 多くには 水域が 広がって いた。

2.どこ…富山市 呉羽町北・昭和町で、あいの風 富山鉄道の 呉羽駅 北側。標高 約3mの 低地。

3.なに…低湿地性 貝塚(地表下 深くに ある 貝塚)で、日本海側 最大級の 貝塚と 呼ばれる。

4.発掘調査…北陸新幹線 建設に 先立って、20092010年に 公益財団法人 富山県文化振興財団 文化財調査事務所が 行った。遺跡の 範囲は 53.000m²にも 及ぶが、発掘した のは 約1.000 m²で、1割にも 満た ない。

  ついで、「小竹貝塚から わかる こと」に ついて

  縄文時代 前期(7.0005.500年前)では、国内最多と なる 埋葬人骨が みつかった。人骨には アクセサリーを 身に つけて いたり、生前の 持ち物を 供えて いる ものがあり、個人の 所有物が あきらかに なった。

  ヤマトシジミに よる 厚さ 2mに 達する 貝層が みつかった。潮干狩りの でき ない富山県を はじめ、日本海側には、貝塚は ひじょうに 少ない。その中での 大規模な 貝塚だと いう ことが わかった。

  低湿地性 貝塚なので、後世の 攪乱や 土壌に よる 分解が 進まず、多くの 貴重な 遺物が みつかった。福井県 鳥浜貝塚と 似た 木製品、東北地方の 影響を 受けた 土器、南海産の 貝で つくった ブレスレット、精巧な 漆製品など、全国的にも 数少ない モノが 多く 見つかった。

 さらには、竪穴建物が 10棟 見つかり、遺跡は お墓(埋葬人骨)、貝層(ゴミ捨て場) だけでなく、すまい(竪穴建物)も ある ことが わかり、低地にも 大きな 集落を かまえて いた ことが わかった。県内の 縄文時代研究 だけで なく、日本海側の イメージを 変える 遺跡で あり、古い 時期の 人骨は 人類学でも 研究対象として 貴重な 資料と なっている。

 町田 さんには、たくさんの 映像を つかって、分かりやすく 解説して いただき、ありがとう ございました。

 お話の 中で、「富山の 人は エンリョ ぶかく、身内の ことを 自慢したり しない」という 指摘が ありました。実態は、どうで しょうか?自分で よく 調べてみて、ほんとに スバラシイと 感じたら、まわりの 人たちにも 紹介したいと 思う のが あたりまえ。勉強不足で、他人に 説明して 納得して もらえる 自信が もてない ので「エンリョして みせる」と いう ことは ないで しょうか?「北陸新幹線」の 時代です。日本各地から、また 世界各地から、富山を 訪れる 人たちが おおく なる ことで しょう。そのとき、「小竹貝塚」や 「あいの風」などに ついて ヒトコト 説明できれば、旅行者たちに とって、富山の 印象が よく なる かも しれません。



シャクナゲ
 519()。今月から、週2(月・木) ディ ケアに 通う ことに なりました。妻の信子は ことし 92歳。家で フロに はいるのは よいと して、そのあと フロ場の 掃除を する 体力は なく なって います。その点、ここで 週2回 フロに はいる ことが できる ように なった ので、まずは ひと安心と いった ところです。

 施設の 一画、大型の 窓ガラスを へだてて、ちょっと した 庭が あります。そこに 先日から シャクナゲが 花を 咲かせて います。この日 入浴を すませた あと、しばらく ガラスごしに ながめて いましたが、せっかく ならと 思い立ち、許可を いただいて、靴をはきかえ、庭に でて スマホの シャッターを 切りました。



1枚の 絵に イノリを こめる
520() 午後、茶屋町 豊栄稲荷神社で、日本海文化 悠学会の 研修会が あり、佐藤 芙美 さんが「美の 力」と 題して 報告され ました。佐藤 さんは、悠学会の 会誌 『悠学』第1の 表紙デザインを 担当された だけ でなく、各作品や 記事に 使われる 画像や 写真などの あつかい(白黒か、カラーか など)に いたる まで、「一人でも 多くの 人たちに 読んで いただく ために」、「最高の 演出効果が あらわれる ように」、さまざまな提案を されたと きいて います。

 この日は、「日本美術家連盟 会員・洋画家と しての 経歴」、「会報『悠学』の 装幀」、「福音館の 絵本 づくりに 参加」、「南ミシシッピ大学 美術館で 個展」などに ついて 報告され、あわせて「絵に よせる 思い」、「美の力への 信念」を 語られ ました。当日 いただいた 資料にも、「美の ちから…社会が 美を はぐくむ のでは なく、美こそが 社会を 育んで きた のだ」と いう コトバが 引用されて いました。佐藤 さんの この 信念は、どこから 生まれた ので しょうか? 門外漢の わたしが いうのは 失礼かも しれませんが、それは1枚の 絵を 描く とき、その 素材(1輪の 花、1篇の 童話、1群の 作品集)と 向きあい、対話し、共鳴・共感する ものが あった から 筆を とったと いう ことで しょう。それは 対象を 精確に 写しとろうと する 作業で あると ともに、自分自身の 思いを 精確に 表現し、見る 人に 伝えようと する 作業 です。つまり、1枚の 絵が できるまでに、さまざまな 手順が ふまれ、その 絵に 作者の イノりが こめられる と いって よいで しょう。

佐藤 さんの お話を きいて いて、わたしは 絵と コトバの 役割に ついて 考えて みたいと いう 気に なりました。そう いえば、絵も コトバも、もともと「思いを 伝えるための 手段」と して くふう された もの。絵は、一貫して 人の 視覚に うったえ、形状(点と 線と 面)や 色彩 などを 表現する ことが できます。コトバは、もともと 人間や 動物の 聴覚に うったえる 信号と して 生まれた もの。トリ・ケモノを 呼びよせたり、おどしつけたり する 信号と しても 使われ ました。発達の 途中で モジが 発明された ことで、音声言語と 書面言語との ちがい などの 問題も おこりましたが、基本的には 音声言語と して 考える べきで しょう。人類の 言語は、民族などの ちがいで 数百種類に 分かれるとの こと ですが、どの 民族言語 でも、文>句>単語>音節>音素 まで 分解する ことが でき、音素段階では、その 基本義は ほぼ共通 (この30年来、わたしが 日漢英の 音韻比較を つづけて きた 結論) の ようです。

 なお、私事に わたりますが、いただいた 資料 (p.3)に のって いた「作者紹介」記事を 読んで びっくり しました。佐藤 さんが 福音館の 絵本 づくり(「日本の 昔話」)に参加した ときの 再話 作者「小澤 俊夫」さんに かんする 記事です。「1930年、旧満州 生まれ。筑波大学 名誉教授。グリム童話の 研究から 出発して、日本の 昔話研究や 昔話の比較研究を 行って いる]と 紹介されて いました。あとで ネットでも 確認しましたが、小澤 征爾 さんの お兄さんで あり、お父さんが 小澤 開策 さんと いう ことです。

 1939年夏、わたしが 東京外語(中国語部)3年生の とき、夏休みを 利用して 中国旅行に 出かけた ことが あります。当時は 一般の 中國渡航は 禁止されて いた のですが、わたしは 新民会の 東京事務所に 頼みこんで、「新民会の 要員」と いう お墨付きを いただき、ようやく 中国旅行が 実現しました。この 旅行では 旧満州の 新京(長春)で 学校の 先輩を たずね、「ノモンハン事件の 真相は、公式発表とは 正反対、全面的な 敗北だった」と 聞かされる など、あちこち寄り道した あと、北京へ 到着。さっそく 三条胡同の 小澤公館(小澤 開策 さんの 自宅)を たずね、数日 滞在。そのあと、北京郊外の 農村実験区で 実習。旅行を 終わって 東京へ もどった のは、9月に はいって から でした。ワカゲの イタリと いうか、大陸ボケと いうか、とにかく ムチャな 旅行でした。そして ムチャクチャ 勉強にも なりました。

 そんな 経過も あり、1941年 春、華北交通(株)へ 就職した ときも、三条胡同の 小澤公館へ ごあいさつに うかがい ました。四合院の 中庭で うつした 白黒写真(就職後なので、セビロ姿)は、いまでも わたしの タカラモノです。

 この 項、くわしくは ブログ 『七ころび、八おき』の 「東京外語の ころ(中)」(2010-12-21// 華北交通の ころ①」(2011-1-25)を ご参照 ください。



高岡市 万葉歴史館
521() 午後、五十嵐 俊子 さんの クルマに 便乗させて いただき、高岡市 万葉歴史館へ 向かいました。ここを 会場と して 開催された「日本歌謡学会 春季大会」の「公開 講演会」を 聞く ためです。はじめに 高岡市 万葉歴史館坂本 信幸 さんが「歌謡と万葉歌」と 題して 講演。[1]記紀歌謡と 万葉歌の 関係、[2]記紀の 作者と 万葉の 作者との 関係、[3]「歌謡」と、文学と しての「歌」との 相違、などに ついて、くわしく解説され ました。

 ついで、立命館大学 藤原 享和 さんが「スメラミコト[天皇]の オホミハブリ[御大葬]に 歌ふ 歌」と 題して 講演。[1]『古事記』中巻[景行記]倭建命の 最期の 条、[2]古代に おける 大御葬歌…殯宮儀礼説とその 批判,[3]前近代の 天皇葬儀と 大御葬歌、[4]近代の 天皇大喪に おける 大御葬歌(誄歌)、などに ついて 解説。とりわけ「オホミハブリ[御大葬]の 歌」の 実態に ついて、ご自身の 修士課程の 論文作成当時の 失敗と 成功の 経験を おりまぜて 報告され ました。『古事記』や 『万葉集』を 読む ばあい、その 記事を そのまま 事実と して ウノミに する こと なく、その まわりに ある資料を チェックし、ウラヅケを とる ことの 必要性を 教えて いただきました。



天晴海岸
 万葉歴史館から 富山へ 帰る 途中、五十嵐 さんは「せっかくの 機会だ から」と、伏木一の宮・雨晴海岸・伏木高校・越中国分寺跡・勝興寺(越中国庁跡)などを 案内して いただき ました。五十嵐 さんは こちらの ご出身だ との こと でしたが、わたし 自身もむかし(高校に 中国語コースが 開設される 直前の ひと夏)、中国語講習の ため 伏木高校に かよった ことが あります。伏木 独特の あの 起伏に 富んだ 地形の 記憶が、ひさしぶりに よみがえって きて、なつかしい 思いを しました。



カメセイ[亀清] 若旦那の 講演会
 526() 午後、富山駅前 CIC fで、富山市民 国際交流 協会 総会が あり、そのあと 記念講演として タイラー リンチ さんが「国に よって 異なる 外国人 観光客の おもてなし」に ついて 語られました。

タイラー リンチ さんは、1970アメリカ 西海岸 シアトル市 生まれ。ワシントン 大学 国際学部 卒業後、長野県 上田市で 英会話の 講師を つとめる。千曲市に ある 旅館「カメセイ[亀清]」の 娘 さんと 知りあい、 シアトルで 結婚、貿易会社に 11年間 勤務。2005年、妻の 実家の 女将が 引退する との ことで、「この 昔風な 和の宿の 後継ぎを やらせて ください」と 家族を 連れて 日本に もどる。そのご、若旦那と して 活躍すると ともに、外国人の 目線で「地域の 魅力」を 国内外に 発信して いる、とのこと。

  これだけの 経歴を 聞いた だけ でも、新生「亀清」の「おもてなし」に ついて いろいろ 想像して みたく なります。日本の 人口減少 傾向 ひとつ 考えて みても、軍事力や 大量生産の モノヅクリで 日本が 世界を リードして ゆく ことは 考えられ ません。これからの 日本で、観光産業が 重要な 役割を しめる ことは あきらかです。観光産業の 原点は、観光客への 「おもてなし」で あり、「客の 気もちを 思いやり、その 期待に こたえる」こと。相手が 日本人でも、外国人でも、その 基本は 変わらないと 思います。問題は、日本人 同士なら その「期待」の 内容も ほぼ 見当が つく けれども、外国人のばあいは なかなか 見当が つかないと いう ことです。

 だれも 経験した ことの ない事業を はじめる ばあい、失敗するのが 当たりまえ。自分の 無知・不勉強を みとめ、いちから 勉強しなおし、万全の 策を 立てて もういちど チャレンジ すれば よい わけです。むかし ならった 孫子の コトバを 思いだしました。

敵を 知り、己を 知れば、百戦 殆(危)うからず。