2010年8月31日火曜日

川にゆかりの地名


 いたち川は、常願寺川の分流。常願寺川は、日本全国でも有数の暴れ川。いたち川もまた、以前は、イタチの名に恥じない(?)暴れ川でした。いまのいたち川の風景からは、想像もつかないことですが。

 たびたび氾濫をくりかえし、災害をもたらす一方で、洪水のあとに、ニワカづくりのニワ[庭](=広大な美田)をのこしました。そこに農民たちが住みつき、つぎつぎ開墾して、村づくりをすすめました。やがて商人や職人、さらには役人・武士の住宅建設まで、町づくりがすすみました。

 いたち川流域には、たくさんの地名や町名があります。
中には、戦後の町村合併や都市計画などで、あらたに誕生した町名もあり、ぎゃくに消滅した町名もあります。もちろん、何百年という歴史や伝統を持つものもあります。

 「角川・荷本地名大辞典・富山県」(以下『地名辞典』と略称)をたよりに、いたち川流域の地名や町名の由来をたずね、そこの住民たちの「生活と意見」「判断や希望」などをさぐってみたいと思います。

<地形などからの命名>
タカヤシキ 
高屋敷 いたち川と赤江川にはさまれた平地。常願寺川下流の微高地。洪水が心配なので、住居を構えるのに比較的安全な地形と考えたのでしょう。江戸期~明治22年の村名。明治22年~現在の大字名。中川原に隣接。

クボ 窪 神通川下流の東側で旧赤江川の西岸に沿う平地。地名は窪地の開拓に由来する。低湿地で水田耕作には適していますが、住宅用には要注意。おなじ地形でも、他の地域では「久保」などと表記されることがあります。

ナカガワラ 中川原 常願寺川といたち川との中間地域の地名。常願寺川の古い河道あとにあたります。高屋敷に隣接。

シンカワラマチ 新川原町 江戸期~現在の町名。いたち川左岸のカワラ[川原]あとにつくられた町。「新-」というのは、もとのカワラ町と比較して新規に開発された町の意味か。

ムコウガワラマチ 向川原町 江戸期~現在の町名。イタチ川右岸のカワラ[川原]あとにつくられた町。新川原町のやや上流。「向-」というのは、「(富山城から見て)川の向こう側」の意味か。ただし、ある時期(昭和40年以前)、左岸の一部地域(現行の砂町・石倉町の一部)を含む。

コジマチョウ 小島町 江戸期~現代の町名。もとは、いたち川と松川(旧神通川)との間にあった小島。

 <水・泉などがつく地名・町名> 良質でゆたかな飲料水・灌漑用水を確保することが稲作農耕成功の前提条件。現在中心市街地となっている地域も、はじめは水田用地として開発されたものです。

イズミチョウ 泉町 [成立] 昭和40年。[直前]泉町・東田町の各一部。市街地の南東部。いたち川の右岸。東町・柳町・向川原町・清水町に接し、また川をはさんで石倉町と接する。

オオイズミ 大泉 神通川と常願寺川にはさまれた平坦地の中心部、いたち川左岸に位置する。地名は、大きな沼や泉があったため。大泉川原とも呼ばれた。江戸期~明治24年は大泉村。

オオイズミマチ 大泉町 明治24年~昭和47年の富山市の町名。昭和40~47年、現行の大泉北町・梅沢町・辰巳町・大泉町1~3丁目の各一部となる。

コイズミチョウ 小泉町 常願寺川西岸の平坦部。地名の由来は、低地が多く清水の湧き出る泉や沼が多くあったため。江戸期~明治22年の村名。明治22年~昭和17年の大字名。明治24年~現在の富山市の町名。

オクイマチ 奥井町 [成立]昭和44年。[直前]大字窪・奥井・稲荷・田地方・奥田の各一部。市街地の北東部。

シミズ 清水 神通川の支流鼬(イタチ)川の東岸に沿う。常願寺川伏流水であるショウズが湧き出る地であることからつけられた地名。江戸期~明治22年は清水村。明治22年~現在の大字名。

シミズマチ 清水町 明治22年~現在の富山市の町名。 昭和40年東町・元町清水町・旭町・於保田町の各一部となる。

[イズミひとりごと] ここまで『地名辞典』をたよりに、要約・引用しながら話をすすめてきました。シミズ[清水](富山市)の項で「神通川の支流鼬川の東岸」と解説されているのを見て、ハテナと思いました。
まえに引用したとおり、「イタチガワ[鼬川]」の項で「水源は常願寺川…分流されて、鼬(イタチ)川となる」と解説されています。ここで「鼬川­=神通川の支流」ということになると、イタチ川は「常願寺川の分流」でもあり、また「神通川の支流」でもあることになります。イタチ川の生態(?)は神出鬼没、なかなか正体をつかめないですね。

田のつく地名> 日本の地名には「田」のつく地名がたくさんあります。なぜでしょうか。ツキデル地面がタ[田]。胴体からツキデルものがタ[手]=テ。テをツキダシ、タをタガヤス。それが農地開拓や町づくりの原点です。

オオタ 太田 昭和17年~現在の富山市の大字名。[直前]上新川郡太田村大字太田本郷。市の南東部。西は本郷町、南は太田南町、東は大宮町に接する。的場(マトバ)清水(ショウズ)という池があり、池の水は眼病によく効く霊水として有名でした。

オオタノホ 太田保 鎌倉期から見える保名。新川群のうち。南北朝期以降は太田荘とも。おおよそ富山藩領で、富山市街の東を流れるいたち川の西、松川(旧神通川)の南、熊野川の東の72か村。

オホタマチ 於保多町 [成立] 昭和40年。[直前]柳町・清水町・館出・清水の各一部。[由来] 於保多神社名による。於保多神社は天神様として有名。菅原道真とその子孫とされる前田家富山藩主利次・正甫・利保公をまつる。

オオタグチマチ 太田口町 江戸期~昭和40年の町名。江戸期の城下中心部に位置した。地名の由来は往古新川郡太田荘への往来の町端であったため。昭和40年現行の大田口通・山王町の各一部となる。

オクダ 奥田 神通川下流東側の平地。地名の由来はかっての奥田荘の名にちなむという。天正10年(1582)上杉景勝が神保信包に与えた所領の一つ。江戸期~明治22年の村名。以後は大字名。昭和10年富山市に編入。昭和46年、一部が奥田町の一部となる。

トヨタ 豊田 神通川下流東方、常願寺川の堆積土による台地上に立地する。地名の由来は周辺低地の集落に比し、標高10mの地にあって、常願寺・神通両川の氾濫を避けやすい米所の意、また豊穣を祈念する意から。江戸期~明治22年の村名。以後現在まで市の大字名。

<城下町ゆかりの地名>
イマキマチ
 今木町 江戸期~現在の町名。富山城下田地方町分二十九町の一つ。富山城の東、松川(神通川筋)といたち川との合流点に位置する。昭和40年一部は現行の本町・八人町・新川原町の各一部となり、同時に下木町の一部を編入。

キバマチ 木場町 昭和11年~現在の富山市の町名。国鉄と山駅の北西、神通川といたち川が並行して流れる右岸に位置し、富岩運河にはさまれた形。神通川廃川地が富岩運河掘削の土砂を利用して埋められた地域。

キマチ 木町 江戸期~昭和40年の町名。富山城下本町分三十五町の一つ。町名の由来は城下本町で販売される木材の陸揚げをしたことによる。木町の浜として佐々成政の時代から渡船場として使われ、藩祖前田利次が入城後も神通川を利用する貨物の荷揚げ・船積みなど海運交通の要点としてにぎわった。昭和40年現行の総曲輪・本町・桜木町・八人町の各一部となる。

ソウガワ 総曲輪 明治初期~下内の町名。惣曲輪とも書く。市街地の中心部。町名の由来は、富山城外濠の意の総称からという。江戸期の町名書に総曲輪の名は見えないが、通称名としては見える。役所および役人の屋敷用地。明治4年、場内の旧藩庁が県庁となる。以後、城跡を中心に各種公共施設の建設がつづく。第2次大戦で被災したが、戦後の復興はめざましく、富山の中心的ショッピング街として繁盛をつづける。昭和40年現行の総曲輪・旅篭町・平吹町・丸の内・西町・一番町・桜木町の各一部と本丸・大手町となる。

ナガエマチ 長柄町 江戸期~現在の町名。町名の由来は富山藩の長柄の槍組が住んでいたことによる。町内には、塩硝蔵や牢屋も建設された。また明治時代、しばしば神通川の洪水で被害をうけ、時には浸水が天井に達したことがあるという。

ニシアイモノチョウ 西四十物町 江戸期~現在の町名。町名の由来は当地に城下西の魚市があったが、魚屋のことを「あいものや」ということから名付けられたという。魚市は東四十物町と隔番に立てられていたが、天保2年(1831)の大火災で類焼。魚問屋の分立は廃され、二番町1か所に設置。明治40年、一部が現行の桃井町・旅籠町・越前町の各一部となる。

ヤナギマチ 柳町 江戸期~昭和40年の町名。城下のほぼ中央部で、いたち川の東岸。町名の由来は、富山最古の町で、いたち川の縁にあり、柳が多かったからという。通称柳町天満宮は明治6年オホタ[於保多]神社と改称。
 
 [イズミひとりごと] 現代の生活では「なんだ、ヤナギか」と無視されがちですが、古代の生活では、ヤナギは重要な資源でした。ヤナギ=ヤ[矢]のキ[木]。矢のようにツキデル枝。しなやかに流線型をえがく枝。ヤナギの枝は、製材機械などなかった時代、そのまま手作業だけでカゴ・ザル・タル・ハコなどをつくることができました。

<まぼろしの町名> かずある町名の中には、町名そのものが消えたり、命名の由来が不明になったりしたものがあります。

エサシマチ 餌指町  江戸期~昭和40年の町名。富山城下田地方町分二十九町の一つ。餌差町とも。城下のほぼ中央部、鼬川の左岸に位置する。町名の由来は富山藩の餌差(小鳥をモチ竿で捕えるのを業とする者)が居住していたことによる。昭和40年現行の中央通・堤町通の各一部となる。

ヒガシアイモノチョウ 東四十物町 昭和40年、仁右衛門町などとともに現行中央通の一部となる。

[イズミひとりごと] 西四十物町は現存しますが、東四十物町の名は消えました。町内にあった郵便局がとなりの豊川町に100mほど移動して、「富山四十物町郵便局」を名のり、アイモノ町の歴史を伝えています。

ニエモンマチ 仁右衛門町 江戸期~昭和40年の町名。富山城下中央部に位置する。町名の由来は川のほとり仁右衛門という船頭が住んでいたということによるという。昭和昭和40年、現行の中央通2丁目・豊川町・白銀町・常磐町の各一部となる。

[イズミひとりごと] 漢字で「仁右衛門」と書くと、いかにも武士や役人の名前のように見えますが、ほんとうは「ニエモノ」というヤマトコトバを漢語風に当て字したもの。ニエは、食糧。特に神に捧げる食糧。イケニエ[生贄]・ニエヒト[贄人](天皇や貴人の食糧にする魚や鳥捕える人)などのニエです。
 船頭さんは、魚をとる漁師でもあり、加工する調理師でもあり、また人や物を運ぶ運送業者でもあります。神武天皇が吉野川の上流で出あったという「ニエモツの子」なども、まちがいなくニエモンの仲間です。

2010年8月24日火曜日

いたち川命名の由来




いたち川は、どうしてイタチ川と呼ばれたのでしょうか?動物のイタチとは、関係があるのでしょうか、ないのでしょうか?

まず「角川・荷本地名大辞典・富山県」から引用します。
いたちがわ[鼬川]  水源は常願寺川で、上新川郡大山町上滝で取水された常西合口用水が…馬瀬口付近で分流されて、鼬(イタチ)川となる。用水合口化以前は、清水又用水として常願寺川から分水され、のちいかだ[筏]川と合流してから鼬川と称した…常願寺川扇状地面の一部を灌漑しながら富山市内中心部に入り、松川や赤江川を集め…北上して神通川に入る…
佐々成政は治水の技術にすぐれ、刀(タチ)雄(オ)神社(富山市太田本郷)の境内にある名木菩提樹の碑文に「天正年間富山城主佐々成政城下の治水灌漑を計って鼬川を開削す云々」

この「地名辞典」は、おおくの地名について語源や由来を解説していますが、ここでは「イタチガワ=鼬川」とするだけで、イタチの語源には触れていません。

「イタチ [鼬] が住んでいたからイタチ川」といわれると、なんとなくナルホドと思わないでもありません。しかしそれでは、動物のイタチ[鼬]は、どうして「イタチ」と呼ばれることになったのでしょうか?

動物のイタチ[鼬]は、その生態から命名された可能性があります。イタチ川は動物ではありませんが、「流れる」「あふれる」「泥田(可耕地)をのこす」など、いろんな表情や運動をしてみせます。イタチ川という呼び名もまた、その生態(状態)からの命名かもしれません。

そんな思いで、ネットで「イタチ川」を検索しているうちに、(前回ご報告したとおり)横浜市にも「イタチ川」が流れていることに気がつきました。「秋のいたち川小景・生涯学生気分・Yahoo!ブログ」に出会ったからです。

このブログは「この川の名前は動物のイタチでなく、『出で立ち』に由来しているとの説が有力」とのべ、その論拠として、徒然草の兼好法師が五七五七七の頭に「イタチカハ」をよみこんだ歌を紹介しています。
 いかに わが ちにし ひ より りの きて 
        かぜだに ねやを らはざる らん

[大意]
 カにも矢が飛んでイク姿で、私は旅にチました。その日からあと、(住人のいないわが家に)リが飛んで来て、たまるばかり。ゼが吹いたとしても、ねや[寝屋・閨]のチリを吹きラウことはないでしょう(イズミ訳)。

 こうしてみると、兼好法師は「イタチ川が流れゆく姿」を「旅人が旅にイデタツ姿」に見立てています。わたしも、この解釈に賛成です。

「イタチ川=イデタツ姿の川」という解説は、すっきりしていて、説得力があります。しかし、「イタチ川のイタチはイタチ[鼬]ではない」となれば、イタチ[鼬]はどうしてイタチと命名されたのでしょうか?

富山市を流れるイタチ川は堂々の1級河川。動物のイタチ[鼬]も、上代語辞典にのっているヤマトコトバの1級品。イタチ川が、その生態(状態)からの命名だとすれば、動物のイタチも、その生態からの命名と考えてよいはずです。

わたし自身の解釈(仮説)では、イタチ[鼬]もイタチ川も、ともにイタチ[射立]の姿をもっているからこそ、イタチと呼ばれたわけです。

ヤマとコトバの原理原則からみて、動詞イタツ[射立]が基本形で、イタチが連用形、兼名詞形と考えられます。この語形の役割は、英語動詞の分詞形、たとえばstand> standing, start>startingなどと よく にています。

ここであらためて、イタチ・イタツ関連のコトバを辞典でしらべてみましょう。
イタチ[鼬]=食肉目いたち科の獣。口吻から尾端まで、約50センチ。体は細長く、赤褐色。  

 尾は長く太い。窮すれば悪臭を放つ。夜間出て、鼠、鶏などを捕えてその血を吸う。種々の迷信・俗信に関係している。
イタチウオ[鼬魚]=硬骨魚目いたちうお科の魚。別称うみなまず。
イタチグサ[鼬草]=レンギョウ[連翹]=もくせい科の落葉潅木。中国原産。早春、葉に先立って鮮黄色・四弁の筒状花を開き美しい。
イタチグモ[鼬雲]=積乱雲の異名。
イタチゴッコ[鼬事]=①二人互いに他の手の甲をつねって我手をその上に載せ、交互にくり かえす子供の遊戯。②一つ事をくりかえすばかりで無益なこと。
イタチノ サイゴッペ[最後屁]=鼬が窮した時、肛門付近の腺から悪臭を放つこと。転じて、  窮して最後に非常手段に訴えること。   
イタツ[イ立ツ]自四=「イ」は接頭辞。立つ。

イタツ[射立ツ]他下二=矢を続けて射る。

(以上、『広辞苑』による)。

イタチ[鼬]=ネズミより大きく、ムササビに似た動物。動作がすばしこく、細いスキマから抜出て,出入する。(『学研・漢和大字典』による)。

自動詞のイタツ[イ立ツ]について、「イは接頭辞」と解説されています。しかし、「接頭辞には、なにも意味がない」と考えるのはマチガイ。イには、イル[射]・イク[行]などのイメージがあります。イタチ魚・イタチ草・イタチ雲など、よく観察してみると、どれもみんな「イタツ[射立]・イデタツ[出立]」姿を持っています。

たしかに、動物のイタチも、イタチ川も、旅人兼好法師も、みんな おなじイデタチでした。

これでほぼ一件落着ですが、いつかこんどは、大阪市のイタチボリ[立売堀]との関連なども考えてみたいです。

2010年8月10日火曜日

お地蔵さんの水


 いたち川べりのあちらこちらに「延命地蔵尊」、「不動尊」、「神社」などのほこらがあります。たとえば、泉橋をはさんで両岸(石倉町と泉町)に「延命地蔵尊」があり、すこし下流右岸(向川原町)には、「福寿不動尊」と「慈母観音」、それに「神社」が並んでいます。
 
いちばん多いのが、やはり「お地蔵さん」。正式な呼び名は、大多数が「延命地蔵尊」。中には「長寿地蔵尊」(清町5丁目)、「子安地蔵尊」(室町通り2丁目)、「福徳地蔵尊」(辰巳町1丁目)などの呼び名も見られます。また、「釈迦牟尼如来」(辰巳町2丁目)の例もあります。

 いたち川べりに、どうしてこんなにたくさんの「お地蔵さん」がまつられているのでしょうか?それは、1858年(安政5年)におこった大地震の影響です。

マグニチュード7クラスの大地震でオオトンビ[大鳶]・コトンビ[小鳶]が山崩れをおこし、常願寺川の大洪にまきこまれて、いたち川一帯がたちまち一面の泥海となりました。そして、たくさんの人が命を失いました。

その人たちの冥福をいのり、あわせて生きのこった人びとの延命長寿や町の復興を願う気持ちが結集して、あちらこちらで「お地蔵さん」がまつられるようになりました。

 石倉町はじめおおくの場合、お地蔵さんのわきに「延命地蔵尊の由来」などの解説が掲示されています。また手ごろな解説書として、『幻の延命』((株)まちづくりとやま発行、延命を守る会制作)などもできています。

 「お地蔵像さんの」というコトバがあるとおり、「延命地蔵尊」があるところには、きまって「名」が湧き出ています。もともと「いたち川があったおかげで、たくさんの人が住みついた」のです。それが「いたち川の洪で、たくさんの人が死ぬ」ことになり、「たくさんのお地蔵像さんをまつって、死者の冥福をいのる」ことにもなりました。そのことは、「こんどこそいたち川の利点を生かし、大洪まえよりもっとゆたかな村づくりや町づくりを目ざす」ことを神仏に誓う行為でもあったわけです。

 「禍福はあざなえる縄のごとし」といいます。災害をもたらすのも。延命・長寿・福徳をもたらすのも。お地蔵さんと名をセットで売りこむところに越中人のど根性が見られます。

「天下の名」、「お地蔵さんの霊水」も、いまはみんなポンプでくみあげています。むかしはほんとに自噴していたのですが、位がさがったのでポンプに切りかえたのです。いまでも数ヶ所、ちょろちょろですが、むかしながらのワキミズをのこしたところがあります。

「お地蔵さんの」だけではありません。むかしはどこを掘っても、地面からがふきだしてきました。わたしのうちでも、戦後しばらく、井戸からがふきこぼれていました。まわりにビルが建ちならび、冷暖房に大量のを使うようになり、井戸がかれてきたので、やむをえずにきりかえた記憶があります。

さて、じぶんでブログをはじめることになって、ひとさまのブログものぞかせていただくようになりました。おかげさまで、毎日が新発見の連続です。

 「いたち川散歩」というタイトルは、めったにないだろうと考えていたのですが、案外あちこちのウエブサイトやブログで「イタチ」がみつかりました。

まず、「いたち川そぞろ歩き」というタイトルのウエブサイトがありました。これがなんと、すぐとなりの「石倉町延命地蔵尊」を中心に観光まちづくりを進める情報サイトでした。

もうひとつ、「いたち川ランニングクラブ」というサイトがありました。これも、富山を根拠地にして活動しているグループのようです。

 ブログめぐりをしているうち、富山市だけでなく、横浜市にも「いたち川」があることに気がつきました。「秋のいたち川小景・生涯学生気分・Yahoo!」というブログに出あったからです。そこでは、「イタチ川」命名の由来についても、重要な証言が出てきます。

ただし、きょうはここまで。話のつづきは、次回のお楽しみといたしましょう。このあとお盆にはいりますので、次回は8月24日くらいになると思います

2010年8月3日火曜日

はじめまして


 ことし90歳の新参者です。どうぞよろしく。60歳でワープロをはじめ、80歳でパソコン、90歳でようやくブログに挑戦します。

北陸は富山市、いたち川のほとりに住んでいます。毎日が日曜日。朝食まえに川べりを散歩するのが日課です。
 ブログのタイトルを「イタチ川散歩」としたのは、「イタチ川」という名前がおもしろいと思ったからです。なぜ「イタチ」なのか? 命名の由来には、いろいろな説があるようです。おいおい、ご紹介する予定です。

 イタチ川は、もともと常願寺川の分流で、富山市の中心部をとおり、松川や赤江川と合流し、さらに神通川とも合流したあと日本海にそそぎます。
写真では、どこにでもある小川みたいですが、じつは堂々の一級河川です。立山を水源地とする常願寺川は、たいへんな暴れ川。富山平野で洪水をくりかえし、河道を変更した結果、現在の扇状地ができました。

 洪水は災難ですが、水が引いたあとには、天然の良田がのこされます。ナイル川の洪水とおなじ道理。常願寺川やイタチ川のおかげで「太田」や「柳町」などの村や町が生まれ、富山市発展の原動力の役割をはたしてきました。

 両岸に遊歩道が整備されています。4月はじめには、桜並木がみごとな花をつけ、おおぜいの花見客がたずねてきます。

 川の流れにそって、あちらこちらに「水神社」や「地蔵堂」などがあります。とりわけ石倉町の「延命地蔵尊」では、「お地蔵さんの水」をくみにくるひとが順番待ちの状態です。観光バスのコースにもくみこまれています。

 その他、「川べりの動植物」「沿岸の地名」「神通川・成願寺川との関係」など、とりあげてみたいテーマが山ほどあります。わたしの独断やら偏見やら述べさせていただきますので、みなさんからいろいろ教えていただければありがたいと思います。

 フロクとして「わたしのリレキ書」「コトダマの世界」「わが師、わが友」などのコーナーをひらく予定にしています。そちらの方も、ぜひいちどのぞいてやってください。