2010年8月10日火曜日

お地蔵さんの水


 いたち川べりのあちらこちらに「延命地蔵尊」、「不動尊」、「神社」などのほこらがあります。たとえば、泉橋をはさんで両岸(石倉町と泉町)に「延命地蔵尊」があり、すこし下流右岸(向川原町)には、「福寿不動尊」と「慈母観音」、それに「神社」が並んでいます。
 
いちばん多いのが、やはり「お地蔵さん」。正式な呼び名は、大多数が「延命地蔵尊」。中には「長寿地蔵尊」(清町5丁目)、「子安地蔵尊」(室町通り2丁目)、「福徳地蔵尊」(辰巳町1丁目)などの呼び名も見られます。また、「釈迦牟尼如来」(辰巳町2丁目)の例もあります。

 いたち川べりに、どうしてこんなにたくさんの「お地蔵さん」がまつられているのでしょうか?それは、1858年(安政5年)におこった大地震の影響です。

マグニチュード7クラスの大地震でオオトンビ[大鳶]・コトンビ[小鳶]が山崩れをおこし、常願寺川の大洪にまきこまれて、いたち川一帯がたちまち一面の泥海となりました。そして、たくさんの人が命を失いました。

その人たちの冥福をいのり、あわせて生きのこった人びとの延命長寿や町の復興を願う気持ちが結集して、あちらこちらで「お地蔵さん」がまつられるようになりました。

 石倉町はじめおおくの場合、お地蔵さんのわきに「延命地蔵尊の由来」などの解説が掲示されています。また手ごろな解説書として、『幻の延命』((株)まちづくりとやま発行、延命を守る会制作)などもできています。

 「お地蔵像さんの」というコトバがあるとおり、「延命地蔵尊」があるところには、きまって「名」が湧き出ています。もともと「いたち川があったおかげで、たくさんの人が住みついた」のです。それが「いたち川の洪で、たくさんの人が死ぬ」ことになり、「たくさんのお地蔵像さんをまつって、死者の冥福をいのる」ことにもなりました。そのことは、「こんどこそいたち川の利点を生かし、大洪まえよりもっとゆたかな村づくりや町づくりを目ざす」ことを神仏に誓う行為でもあったわけです。

 「禍福はあざなえる縄のごとし」といいます。災害をもたらすのも。延命・長寿・福徳をもたらすのも。お地蔵さんと名をセットで売りこむところに越中人のど根性が見られます。

「天下の名」、「お地蔵さんの霊水」も、いまはみんなポンプでくみあげています。むかしはほんとに自噴していたのですが、位がさがったのでポンプに切りかえたのです。いまでも数ヶ所、ちょろちょろですが、むかしながらのワキミズをのこしたところがあります。

「お地蔵さんの」だけではありません。むかしはどこを掘っても、地面からがふきだしてきました。わたしのうちでも、戦後しばらく、井戸からがふきこぼれていました。まわりにビルが建ちならび、冷暖房に大量のを使うようになり、井戸がかれてきたので、やむをえずにきりかえた記憶があります。

さて、じぶんでブログをはじめることになって、ひとさまのブログものぞかせていただくようになりました。おかげさまで、毎日が新発見の連続です。

 「いたち川散歩」というタイトルは、めったにないだろうと考えていたのですが、案外あちこちのウエブサイトやブログで「イタチ」がみつかりました。

まず、「いたち川そぞろ歩き」というタイトルのウエブサイトがありました。これがなんと、すぐとなりの「石倉町延命地蔵尊」を中心に観光まちづくりを進める情報サイトでした。

もうひとつ、「いたち川ランニングクラブ」というサイトがありました。これも、富山を根拠地にして活動しているグループのようです。

 ブログめぐりをしているうち、富山市だけでなく、横浜市にも「いたち川」があることに気がつきました。「秋のいたち川小景・生涯学生気分・Yahoo!」というブログに出あったからです。そこでは、「イタチ川」命名の由来についても、重要な証言が出てきます。

ただし、きょうはここまで。話のつづきは、次回のお楽しみといたしましょう。このあとお盆にはいりますので、次回は8月24日くらいになると思います

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