サクラが咲きました
加藤恵明さん
天満宮
供養塔
「梅香庵」の扁額
お仏壇
ランちゃんもおまいり
おつかれさま
サクラが咲きました
2月22日、ニュージーランド地震で富山外国語学校生徒が被災。つづいて3月11日、東日本大震災、そして福島原発事故レベル7。「国破レテ山河在リ…」といいますが、こんどの大震災で、その「山河」もずいぶん痛めつけられました。
それでも、4月にはいってサクラが咲きました。恒例のチンドンまつり行事は中止になりましたが、いたち川べりの遊歩道は花見の人たちでにぎやかでした。
加藤恵明さん50回忌
信子の母加藤恵明さんには、2男5女、あわせて7人のこどもがいました。そのうち、いま生き残っているのは5女の数枝、6女の信子、7女の恵美子、3人だけです。
「加藤のばあちゃんの50回忌をやりたい」といいだしたのは、姉の数枝ちゃんです。
土地数枝、ことし92歳。数年まえ交通事故にあい、手足が不自由。いまも車いすでしか移動できませんが、目も耳も正常。入れ歯がきらいで、食事に時間がかかりますが、おしゃべりは達者です。
いい加減な計画
50回忌の話は出たものの、いつ・どこで・どんなふうにするか、具体的な計画がなかなか決まりません。そこへ東日本大震災が発生。富山でも、地震を感じました。これでは、法事どころでない。50回忌はしばらく延期しようかという話も出ました。しかし、ここで延期して、いつならできるというら保証もありません。せっかく思いたったことだから、はじめの計画にそって準備をすすめようということになりました。
期日は4月14日、または5月15日。場所は光厳寺、または馬瀬口の尼寺。
たしかに「いい加減な計画」ですが、それなりの理由があります。法事をつとめる3人の娘と3人の孫娘には、それぞれ「家庭の事情」があり、調整がむつかしい。適当にルーズな計画の方が「ちょうどよい加減」ということもあります。
馬瀬口の尼寺
加藤家は代々光厳寺の檀家ですが、じっさい毎月オトキ[斎]にまわってこられるのは馬瀬口の尼寺のアンジュ[庵主]さんです。
信子の話では、いまのアンジュさんは小さいころ、まえのアンジュさんにつんだって、檀家まわりに来ていました。だからいまでも、気がねなしに話ができるといいます。
光厳寺までは、歩いて10分ほど。馬瀬口の尼寺は、車でも20~30分かかります。
こんどの法事も、はじめは光厳寺でお願いする予定でした。ところが、だんだん話を聞いてみると、光厳寺の住職さんは能登の寺と兼務なので、とてもいそがしいご様子。よほど重要な法事でないかぎり、住職さんに時間をあけていただくのは無理らしい。お彼岸に、お墓まいりかたがたお寺をのぞいたときも、だれも人がいる気配がなかった…
もともと身内だけで、こじんまりした法事をと考えていたので、すこしとおくても馬瀬口の尼寺のほうがよかろうという結論になりました。
尼寺は天満宮わきに
4月14日、馬瀬口の尼寺「梅香庵」で加藤恵明さんの50回忌がつとめられました。
出席したのは、加藤富美(長男康正の妻)、土地数枝、泉信子、伊藤淳子(次男子規の長女)、藤木美織(数枝の長女)、それにわたし。「女の中に男がひとり」でした。
この日が法事の第1部で、このあと5月15日、西田恵美子さんが出席して第2部という2部構成です。
尼寺「梅香庵」は、天満宮のとなりにひっそりと建っていました。天満宮の方は、りっぱな鳥居や社殿があり、天然記念物に指定されたサルスベリ[百日紅]の巨木もあって、だれの目にもすぐわかります。尼寺の方は、寺院独特の高い屋根が反りかえっているわけでもなし、ここに寺があるとは気づかずに通りすぎる人がおおいかもしれません。
お仏壇と扁額
外見は普通の住宅のようでしたが、中はさすが尼寺、お仏壇はじめ部屋の照明装置まで金色にかがやき、まったくの「別世界」が出現していました。「梅香庵」と書かれた扁額も印象的でした。
供養塔
尼寺の入り口に、供養塔がひとつ建っていました。アンジュさんの話では、加藤平助さん(恵明さんの夫)が寄進されたとのことですが、くわしい話は聞きそびれました。
恵明さんは加藤家の次女でしたが、こどものころなにかの事情で、いちどこの尼寺にはいりました。「恵明」という僧名は、そのとき以来のものです。
長女のミキさんは、馬瀬口の田近家次男平助さんをむかえて結婚し、二人のこどもがいました。そのミキさん亡くなられたため、妹の恵明さんが呼びもどされ、後妻さんにおさまったということです。供養塔の建立はそのことと関係しているようです。
こんどの法事をとおして、忘れられていた加藤家の歴史の一部が見えてきた感じがします。
ランちゃんもおまいり
こんどの法事には、シーズ犬のランちゃんも参加しました。ランちゃんは、伊藤淳子さんのペット。外出するときは、いつも女の子らしい衣装を身につけます。住所は東京ですが、JRで、あるいはマイカーで、なんべんも東京と富山を往復。富山へ来ると、イズミ宅にあずけられるのが習慣です。人なつこく、甘えん坊。おとなしく、めったにほえません。
尼寺では、アンジュ[庵主]さんがお経をあげているあいだ、土間でじっとオスワリしていました。オツカレサマ。そのあと、たたみの上でゆっくりオヤスミでした。
マセグチ[馬瀬口]の地名由来について
わたしも信子も、馬瀬口の尼寺をたずねるのは初めて。興味津々でした。しかし実をいうと、わたし自身一番の関心事は、マセグチ[馬瀬口]という地名そのものでした。マセグチは、もともと地形名でしょうか?地形名だとしたら、どんな地形の名前でしょうか?
まず「広辞苑」でmase, maze音のコトバを調べてみました。
マセ[老成]ませていること。早熟。
マセ[籬・笆]①竹・木などで作った、低く目の粗い垣。ませがき。まがき。②劇場のマス[枡]の仕切り。
マゼ[雑・交]「まぜもの」の略。雑ぜ入れる物。
マゼ[接尾]間をおくこと。
マセゴシ[籬越]ませ垣を越えてすること。
マセル[老成]年齢の割におとなびて見える。
マゼル[交・雑・混]入れ合わす。まじえる。
地名辞典(「角川・日本地名大辞典・富山」)の解説も調べました。
マセ[馬瀬]ウマノセとも読む…地形が南北に細長く馬の背に似ているところから馬背と称したが、のちに馬瀬となった。
イズミ式解釈では、こうなります。基本になるコトバは動詞マス[座・坐・増・益]で、基本形そのままの名詞用法がマス[枡]=命の親(穀物・水・酒など)がマシマスところ。また、動詞マスの連用形兼名詞形がマセ[籬・笆](ませ垣)。マス[枡]の「仕切り部分」やマセ[馬背]とおなじ分水嶺型です。
マセ[老成]とは、男子席・女子席を仕切るマセ[籬・笆]を意識してふるまうこと。
マセ[籬]を越すことは、やがてマジル・マゼル[交・雑・混]こと。男と女がマジル・マゼルことは、やがてあらたな生命が生まれること、つまり家族が一人マス[増]ことにつながります。
用水の取り入れ口
マセグチ[馬瀬口]の地形に当てはめて、考えてみましょう。ここは、常願寺川扇状地の扇頂部。常願寺川から分流するいたち川や常西合口用水などの取り入れ口にあたります。
用水取り入れ口の事故は、氾濫という大災害につながります。必要かつ十分な量の用水を安全確実に取り入れるため、そこにどんなマス[枡](取水量計算装置)やマセ[籬](堤防など、防御装置)を設定すればよいか、綿密に計算し、設計施工されてきたはずです。
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