2011年7月19日火曜日

奥村さんのブログに思うこと

奥村さんのブログ

療養手帳

入院診療計画書

奥村隆信さんブログを再開
癌の手術で入院され、途切れがちだった奥村隆信さんのブログが再開されました。
6月28付ブログ「癌日記」は「ケータイからの記事投稿」で、「手術は無事終わりました」とのこと。その末尾に一句、「とほほわれ 六十四の梅雨 おむつかよ  胃無斎」
7月9日になって、「近況ご報告」として長文のブログを公開。そして五七五作品も。
半夏生ナースの二の腕なまめけり
梅雨空に放屁三発、 I Did It !
われもまた ホモサピエンス せみを聴く
奥村さんの、この生命力に脱帽しました。そして、すこし安心しました。
[追記]奥村さん7/15ブログ「今日から抗がん剤開始」に、こうありました。
手術後3回目の入浴
わが姿 理科室標本 夏日射す
バスタブで屈葬真似てる夏の風呂
ゆらゆらり 骨皮筋右衛門 散文の夏

ヒトとしてのイキザマ
奥村さんのブログを読んでいると、次回もつづきを読んでみたい気になります。それは、そこに奥村さんの人柄とか、イキザマみたいなものが見えてきて、引きつけられるからでしょうか。イキル[生]とは、イキ[息]をすること。イキザマとは、イキの仕方。どこで、どんな空気を、どんな方法で呼吸するかです。奥村さんは、生死を分ける手術を受けながら、そのときの自分のイキザマを客観的にながめ、記録して、見せてくれます。そのかげに、「最期まであきらめないど根性」、「底ぬけの楽天主義」が感じられます。
こんどの手術で「胃を全摘(脾臓・膵臓も)」されたとのことで、これからの食生活が大変だろうと思います。それでも、呼吸器官の方はご健在のようなので、「これを機会に1日1刻を大切に生きて」いかれること、そしてまた引きつづき「奥村流五七五」を量産し、読者を楽しませていただけるものと期待しています。

イキザマとイキガイ
奥村さんのブログのタイトルは「日本語教師・奥村隆信 ひとり語り」となっています。このことからも、「日本語教師」が奥村さんのイキガイになっていることが分かります。
わたしの勝手な想像ですが、奥村さんはまずご自身が日本語のおもしろさのトリコになり、やがて「日本語のおもしろさを外国人にも伝える」ことがイキガイとなったのでしょう。
いいかえれば、そのイキガイが奥村さんのイキザマを決めたということでしょうか。

入院40日間の思い出
奥村さんのブログを拝見して、ただただ感服するばかりでしたが、そのあと「自分はどうだったろうか」と反省させられました。
わたしは奥村さんとちがって、もともと胃腸がよわく、しょっちゅう病院に通っていました。それでも、なんとか91才まで生きのびてきました。自分で考えてもフシギなくらいです。死を覚悟したことは、何回もあります。ただ運よくすりぬけただけでしょう。その一つが、2003年、83才のとき、「右顔面神経麻痺」で40日間入院したことです。
12月29日朝、洗顔のときカガミの中の自分の顔を見てビックリしました。右目が垂れさがり、クチビルがひんまがっているのです。すぐさま脳神経外科塚本病院に駆けつけ、30日から入院、40日間療養することになりました。病院では、「高気圧酸素療法」を20回ほど受けました。この療法のおかげで命びろいしたのかなと感じています。

朝夕、カラスの渡りを見る
入院中は、毎日「高気圧酸素療法」、「点滴療法」、「物理療法」などのスケジュールが組まれていて、その途中に空き時間があります。個別にテレビを見る人も多数おられましたが、わたしはテレビを見ないことにしました。そのかわり、新潮文庫の1冊「隠された十字架…法隆寺論。梅原猛」を読むことにしました。「分厚い本で、数行読んだら眠くなりそうな本」。つまり眠り薬がわりに用意した本です。寝る子は育つ。入院中は、シャバのことは一切わすれて、ひたすらネムルことにしよう。あきるほど眠ったら、イノチがヨミガエルかもしれない。そう考えました。
病状が安定したころ、病室が2階から3階へと移りました。ベッドに寝ながら、ひろいガラス窓から空を眺めることができました。そのうち、あることに気づきました。雲以外は、ふだん何にもない空ですが、朝方と夕方のいっとき、カラスの群れが大空を渡るのです。朝方は、西の空から東の空へ。夕方は、東から西へ。どこか西の方に、ネグラになる森があるのでしょうか。童謡「夕焼け小焼け」の中の「カラスといっしょに帰りましょう」というフレーズを思いだしたりしていました

2011年7月5日火曜日

「ヒトと生まれて人間になる」

竹部俊恵さんの講演から

入場券

石像群

水面に浮かぶ美術館

記念講演

「言葉の花束」

いっぷく{百河豚}美術館を見学
6月30日(木)、宇奈月のホテル渓仙で開催された「第36回富退協総会」に参加しました。
富山からバスで宇奈月に向かう途中、下新川郡朝日町不動堂のいっぷく{百河豚}美術館を見学しました。
「いっぷく{百河豚}」という名前、一風変わっていますが、もとは創設者青柳政二の雅号だったとのことです。自分の体重が河豚百匹分だったので、ヒャクフグ「百河豚」。フク料理をタラフク食べ、美術品をながめてイップク{一服}できる時間が最高なので、「百河豚」と書いてイップクと読むことにしたそうです。
屋外にある石像群のまえに立っていると、遠い異国へのあこがれみたいなものを感じます。
本館は、ひろい水面にかこまれた島の姿。「宝島」のイメージです。睡蓮もうつくしい。
こんな場所に、これだけの作品をそろえた私立の美術館が存在すること自体が驚きです。

「第36回富退協総会」に出席
会場につくと、坂田勲会長・森田博事務局長はじめ役員のみなさんで会場づくり。午後3時から、総会がはじまりました。ことしの総会出席者は、計27名。さくねんの総会(ゆーとりあ越中)出席者19名にくらべ、大幅増です。
「富退協」は、昨年の総会で会長はじめ役員が交替したのを機会に、組織を点検し、あらたな組織づくりに取りくんでいるようです。ことしの総会では、議事の運び方や、記念講演の講師選定、また懇親会の進行など、いたるところで、あらたな企画や工夫のあとが見られました。

なぜか男性ばかりの「富退協」
「富退協」というのは、「富山県退職教職員協議会」の略称。つまり、富山県小中学校の元教職員たちの団体です。この種団体には二つの流れがあり、一つは(財)富山県教職員厚生会の「退職会員の組織」、つまり体制側の組織。もう一つが富山県教職員組合と連帯関係にある「元組合員の組織」、つまり「富退協」です。
わたしは都合がつくかぎり、どちらの総会にも出席するようにしてきましたが、最近は体調を第一に考えて、出欠をきめるようにしています。
ところで、この「富退協」という組織。じつは会員がすべて男性ばかりという状態がつづいています。「女性は天の半分をささえる」というコトバがありますが、いま小中学校の職場では、「天の大半」をささえている時代。「富退協」の組織実態は、あまりにも異常です。この点についても、こんどの総会で、あらためて話題にされました。

竹部俊恵さんの講演
温泉もよかったし、懇親会もたのしかったですが、わたしにとって一番の収穫は、竹部俊恵さんの講演を聞かせていただいたことです。竹部さんは「ヒトと生まれて人間になる」というタイトルで、ご自身の人生体験、イキザマを語られました。
前出町中学校長で、浄土真宗大谷派横浜別院輪番。「知った人から頼まれると、断れない性分なので」(もともとご近所同士の森田事務局長から頼まれたので)、はるばる横浜から飛行機を乗りついで、この「富退協総会」に駈けつけられたそうです。総会翌日も、朝の一番電車で富山へ、そして飛行機で羽田へ向かわれたとお聞きしました。頭が下がります。

「言葉の花束」
講演の資料として配布された「出中だより」の巻頭言「言葉の花束」から、一部引用してご紹介します。
「私たちは、自分が生きる時代を、自分では選べませんが、どのような時代に生きようが、その時代の中で、様々な人や出来事に出会い、その中から教えられていくことは変わりません。特に、人との出会いは、その人が発した言葉との出会いです。言葉は聞こうとすれば、言葉の花束として私に届けられ、私を育てます。これから、60年間に私がいただいた言葉の花束の中から、いくつかを紹介します。」
≪大学時代≫
「どこで学んだかじゃないんだ。何を学んだかなんだよ」(大学の先輩)
「人生は、やり直すことは出来ないが、見直すことは出来る」(金子大栄)
≪20代のころ≫
「流されて 行くにはあらず 我はただ 自ら流るる 我は河なる」(藤井一道)
≪最近≫
「どんな時も、人生には、意味がある…この人生のどこかに、あなたを必要とする"何か"があり、あなたを必要とする"誰か"がいる。そして、その"何か"や"誰か"は、あなたに発見されるのを"待って"いる」(諸富祥彦)