いたち川の秋、A
いたち川の秋、B
いたち川の秋、C
シルエット
百塚ガラス出土遺構
百塚ガラス出土遺構
いたち川の秋
9月になっても、毎日あつい日がつづきました。それが10月にはいったとたん、いっぺんに秋の風を感じるようになりました。
いたち川の川べりもすこしづつ紅葉が目にはいります。ヒガンバナは、開花がおくれた分、まだ赤い花をおとさずにのこっていますが、ススキの穂が秋の到来を強調しています。夏日のヒザシがよわまった分、舗装道路にうつる人間のシルエットもうすれてきた感じがします。
百塚遺跡のガラス
10月6日午後、県民会館で、金沢学院大学文学部歴史文化学科の公開講座が開かれました。
はじめに「科学で探る百塚遺跡のガラス」という題で、中村晋也さんが「古代ガラスの材質分析」「材質の歴史的変遷」「百塚遺跡のガラス出土遺構」「ガラス小玉蛍光エックス線スペクトル」などについて解説されました。
老人のアタマでは、なかなかついてゆけない部分もありましたが、百塚遺跡のガラス玉は弥生時代、呉羽山古墳群のガラス玉は古墳時代後期に分類されることが分かりました。
これまで神話や伝説の世界としか考えられなかったものが、いっぺんに身近な存在になった感じです。
渤海と日本の航路
古代ガラスの話にひきつづき、小嶋芳孝さんが「日本から渤海へ渡航した人々が見た風景」と題して、「渤海の歴史」「渤海と日本の航路」「渤海の風景」「ポシェト湾の港湾施設」などについて報告されました。
渤海国は698年に勃興、926年に契丹の攻撃を受けて滅亡。810年、渤海使節が帰国。高多仏が残留し、越中で渤海語を教えるなど、越中とは深い縁がある国です。その渤海語とは、どんなコトバだったのでしょうか。語順は漢語や英語にちかいものだったのか。それとも日本語や朝鮮語・モーコ語にちかいものだったのか。質疑応答の時間に質問してみましたが、残存する渤海国にかんする記録文書はすべて漢文ばかりで、直接渤海語の実態を示す資料は見あたらないとのことでした。
あとでネットでも調べてみました(ウィキペディア・フリー百科事典)。
渤海国では、高句麗語と靺鞨語が混用され、やがて一つの渤海語が形成され、渤海の滅亡とともに衰退し、遅くても12世紀から13世紀には消滅したという説が存在している。
渤海語研究では資料的な制約のため詳細については不明である。僅かながら『新唐書』に渤海語と思われる単語が収録されている程度のものである…会話では靺鞨語(ツングース系の言語)を主に、表記などでは高句麗語を交える傾向が推察される。また、表記文字としては当時の東アジアで一般的であった漢字を利用していたものと考えられている。
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