アジサイの花
ことしは カラツユ かなと 思って いましたが、いつのまにか ツユに はいった ようです。ツユ時の
花と いえば、やはり アジサイで しょうね。いたち川の ほとりにも、いたる ところで さいて います。
アジサイの 語源が 気に なって、しらべて みました。『時代別国語辞典・上代編』には
アヂサヰ[紫陽花] アジサイ。ゆきのした科の 落葉低木。夏、碧紫色の 小花が 球状に 群がって 咲く。
と解説して います。念のため ネット(ウィキぺディア)で しらべて みると、
アジサイの語源ははっきりしないが、最古の和歌集『万葉集』では「味狭藍」「安治佐為」、平安時代の辞典『和名類聚抄』では「阿豆佐為」の字をあてて書かれている[6]。もっとも有力とされているのは、「藍色が集まったもの」を意味する「あづさい(集真藍)」がなまったものとする説である[6]…(下線は引用者)
などと 解説。語源解釈が いろいろ 分かれる あたりも、「七変化」「八仙花」の 異名を
もつ アジサイの 名に ふさわしいの かも しれません。
ウメの 実 コロコロ
雪見橋 ぎわに ある ウメの 木が ことしも たくさんの 実を つけました。かわいらしい 小粒で、青梅の まま でも、梅干しに しても、さぞかし
おいしい
だろうと
おもいますが、いまどき
だれも
ひろって
いく
人が
いない
ようです。きいろく
ジュクして、コロコロ・ゴロゴロ
道路に
コロがって
います。これだけ
地面に
おちて
しまって
いながら、あおぎ
見れば、ほそい
枝に
きいろの
実が
スズナリに
なって
いるのが
分かります。ウメよ、増やせよ、地に
満てよ!
ウメの
木の
生命力に
脱帽です。
バラ いちりん
いたち川 遊歩道 ぞい、Sさんの 軒先に 1株の
バラの 木が あって、毎年 マッカな 花をさかせます。いつ 見ても、なんべん 見ても、「きれいだな」と 見とれて しまいます。
バラの 花の 色も スキですが、バラと いう コトバの ひびきも スキです。バラは p-r音の コトバ。ハル[開・治・張・春]や
ハリ[針・張] ・イバラ[茨]などと おなじ ナカマのコトバです。ハリ(トゲ)を もっている のは、それだけハリきって いると いう ことです。英語の 音韻感覚で いえば、prideに 満ちた 姿 こそ prettyに 見える という ことでしょうか。
スミノエ神とMister Smith
6月28日(金)。きょうは わたしに とって ハレの 日です。
昨年4月、日本海文化悠学会という サークルに
いれて いただきました。ナマエだけ 聞くと、ちょっと かたい 感じですが、常連10人 あまりの こじんまりした
学習サークルです。考古学・歴史学・郷土史 など、みなさん 一人ひとり 独自の テーマを もって 研究を すすめて おられる ようで、年に 数回 講師を よんで
学習会を ひらく ほか、毎月1回の 定例研修会では、会員が 順番に 自分の 仮説を 提案する ことに なって います。最近では、2月の 研修会で 経沢信弘 会員が「葦附きに ついて」、3月には 五十嵐俊子会員が「宮河莊に
ついて」、5月には 中島信之会員が「彦姫神社に 見る 能登と 越中 考」という タイトルで 提案されました。そして
6月の 研修会で、新参者の イズミが「スミノエ神は Mr. Smith だった…日漢英の s-m音語の 分析 から」(仮説)を
提案させて いただく ことに なりました。
常識はずれの提案
おかげさまで、この日、わたしは 1時間半ほど
かけて「スミノエ神は Mr. Smith だった』との 仮説を 提案し、討論に かけて いただきました。わたしは これまで、中国語の
学会など でも この種の 提案を したことが ありますが、これほど まじめに 討論して いただいたのは はじめて です。出席された 会員の みなさんに とって、時間の
ムダヅカイに ならなかったか どうか、いまでも 心配ですが、なんとか 無事 提案を すませ、かなりの テゴタエを 感じる ことが できました。ありがたい こと です。
「スミノエ神は Mr. Smith だった」説は、わたしに
とって20年来の 仮説 です。論理構成に ついても、いちおう 自信を もって います。しかし、わたしが 1度や 2度 説明した くらいで、みなさんが すぐ 賛成して いただける とも
思って いません。ナゼなら、それは世間の 常識から はずれた 提案だから です。
「スミノエ神は、スミ[炭]に よる 金属精錬の 神 だった」という だけの 仮説 なら、いまの 世間の
常識 からも すこしは 支持して もらえる かも しれません。しかし、スミノエ神の スミが 金属精錬の スミ[炭]に 通じる だけで なく、英語smith(鍛冶屋)の スミに まで 通じる という 議論は、いまの 日本の
常識 からは ゆるされない ことで しょう。ただ 落語・漫才 などを やる 人たち には、「これ、話の ネタに もろとくわ」と よろこんで もらえる かも しれません。
あれこれ 考えた うえで、あえて ま正面 から こんどの 提案を させて いただきました。
日本の常識、世界の常識
常識と いうのは、もともと 一種の 仮説 です。地域・職域 など、所属する 社会に よって、それぞれ
独特の 常識が 成立して います。常識に したがって 行動して いれば、その 社会での 人間関係で トラブルを おこさずに すみます。その 点では、たいへん 便利な
もの です。
しかし、その 常識も、時代と ともに 変化します。旧石器時代 から 新石器時代・青銅器時代・鉄器時代へと
変化するに つれて、人々の 常識も 変化して きました。ふるい 仮説に かわって、あらたな 仮説が 常識として 承認された わけ です。
たとえば 人類の コトバの 類型の 問題。数 おおく ある ヨーロッパの 民族言語に ついて、それらを
まとめて ヨーロッパ語族と みとめ、ほかの 地域の 民族言語と 区別するのが 言語学の常識 でした。その常識が くつがえされ、インド語を ふくめて インド・ヨーロッパ語族と
よぶように なった のは、わずか 200年 あまり まえの こと です。
いまは まだ 日本語や 漢語の 音韻研究が 不十分で、インド・ヨーロッパ語と 比較するために
必要な 「共通の 土俵や モノサシ」が 準備できて いません。しかし、このさき 数年 あるいは 数十年の あいだに、インド・ヨーロッパ語族と 日本語・漢語との
音韻対応の事例が つぎつぎ 発見される 可能性が ない わけでは ありません。
世界の常識に あわせた 日本語辞典 づくりを!
現実的・具体的な 問題に ついて 考えて みましょう。いまの 日本語の 辞典には、コトバの
語源や 語根と 派生語の 関係に かんする 解説が きわめて 不十分です。これに くらべて 英語の 辞典では、単語ごとに コトバの 由来(ギリシア語系・ラテン語系 など)や時代別 音韻変化の 歴史などを 解説してあるのが
常識です。いま これ以上 議論して いる 時間が ありませんが、日本の 国語辞典は 英語辞典よりレベルが ひくいと おもいます。
国語教科書に ついても おなじです。おとなりの 朝鮮半島では、韓国でも 北朝鮮でも、国語教科書は
すべて ハングルで 書かれ、漢字は でて きません。もちろん ヨコガキです。中国の 国語教科書は 漢字で 書かれて いますが、簡体字と よばれる 略字が おおく、かえって
日本人には よみにくい ほど です。その 中国語教科書が 数十年 まえ から ヨコガキに なって います。
「国語教科書は タテガキ」と いうのが、日本人の 常識です(新聞・雑誌もおなじ)。この常識は、世界の常識と ズレて いないで しょうか?
常識のズレを解消する道
考えて みると、常識の ズレは いたるところに ある よう です。たとえば、日本国内にいま 10あまりの
政党が ある という ことは、それだけ 政治意識の ズレが ある からでしょう。国内 だけ でも こんな 状態です から、まして 「領土」「歴史認識」「貿易」などを
めぐって、まわりの 国々との あいだに 常識の ズレが おこる のは、むしろ アタリマエ。問題は、どう やって この ズレを 解決するか、その 方法です。チカラづくで
相手を ねじふせる のか、それとも 相手の フトコロに とびこんで、相手の カオを 立て ながら、共存 の 道を さぐる のか。思案の しどころ でしょう。
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