『古事記』を読む会 4/8
訪問販売 4/12
東部中卒業生クラス会 4/15
つるぎ恋月入り口 4/17
故数枝さん49日法要祭壇 4/17
『古事記』を読む会
4月8日(日)午前、茶屋町豊栄神社で『古事記』を読む会に出席しました。この日のテーマは、前回にひきつづき「日向三代」。はじめに出席者全員で。テキストの関連部分を輪読。そのあと、「日向三代」にかんする報告・提案が2件ありました。
第1、「日向三代のなぞ」…近藤智秀さんの報告。(*印以下に、イズミの私見を付記)
①意味不明な用語…「うきじまり[宇岐士摩理]」、「そりたたし[蘇理多多斯]」。P.117
*たとえばウキ[宇岐]はウキ[浮]、ジマリ[士摩理]はシマリ[締]かと思われますが、念
のため、漢語・英語をふくめ、周辺の民族言語音との対応関係について調査することができれば、それだけ客観的で説得力のある議論ができるかもしれません。
① 降臨地は、なぜ日向なのか…せっかく「国譲り」してもらった出雲ではなく、日向へ降臨したのはなぜか。P.117 *『古事記』「上つ巻」は、「序」・「伊邪那岐命と伊邪那美命」・「天照大神」・「大国主神」などをふくめて構成されており、編纂者の宇宙観・世界観・歴史観を述べたもの。その点で「中つ巻」・「下つ巻」とは性格が異なる。そう考えてみては、いかがでしょうか?「天孫族」・「出雲族」などについて、「歴史上の真実」を追求するには、やはりまず「考古学上の事実」をたしかめることが必要だろうと思われます。
② 日向三代説話…天孫降臨からストレートに神武による国土支配へと話を進めれば如何か。*古代日本人の宇宙観・世界観などを伝える資料として、説話は貴重だと思います。それよりなにより、日本の歴史研究者たちは、天皇制の根幹にかかわる「天孫族の実態」について、「歴史の真実」を追究する作業を進めてきたかどうか?なにか政治権力者がわへのソンタク〔忖度〕みたいなものがはたらいていなかったかどうか、その方が問題だと思います。
第2、「日向三代人名・神名メモ」…イズミから報告・提案。その要点だけ紹介させていただきます。
日向三代とは、初代の天孫(アマテラスの孫=アマツヒダカヒコホノニニギ)からホヲリを経て、3代アマツヒダカヒコナギサタケフキアヘズにいたる時代。そのあと、すぐ神武天皇につながります。つまり、神代からてスメラミコト[天皇]の時代への転換期。日本天皇制の根幹にかかわる、だいじな時期です。テキスト(『古事記』小学館版)フロク「神代・歴代天皇系図」で紹介された人名・神名だけをみても、そこにさまざまな語音が使われていることが分かります。
「マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミ」など、やたらに長ッタラシイ名前なので、現代人としては、つい敬遠したくなりますが、そこには、それだけゆたかな情報がこめられているからだと考えるべきかもしれません。
この神の名は、ふつう漢字で「正勝吾勝勝速日天忍穂耳」と表記され、「まさしく私が勝った」という「勝ナノリ」だと解釈されているようです。しかし、ほんとうにそれだけの意味でしょうか?この場面の記事としては、これだけの表現で終わっていますが、そのかげに重要な情報がこめられているはずだと、わたしは考えています。くわしく解説する余裕がないので、結論(イズミ仮説)だけのべて、ご教示をお待ちすることにします。
「マサ・カツ・ア・カツ・カチ・ハヤヒ・アメノ・オシホ・ミミ」、これだけのコトバ(語音)が、この順番に配列されていることから、『古事記』にふさわしい「歴史の真実」をさぐるテガカリが得られるかと思います。マサ[正]は、もともと「マ[真]サ[箭](矢の古称)」で、「マサシク、サシコム。ウチコムもの」の姿。カツ[勝]は、もと「カツカル」姿から、やがて「カチワル」姿。剣道の試合で、敵の面をカチワルことができれば、カチ[勝]です。漢語のカツ[割]も、英語のcutも、まったくおなじ音韻感覚で生まれた語音です。
アマ[天・雨]とアメ[天・雨]は、語尾母音が交替しただけのもの。アマは、もとヤマyamaのy-音が脱落した語音と解釈することができます(英語でもarrow, appleなどでは、a-音が強調されて、ほぼya-となります)。日光(太陽光)やアマミズ[雨水]は、それぞれ一種のヤ[矢]ですから、アマ[天]=ヤマ=矢をウム[生・産]マ[間]、アマ[雨]=アマ[天]がウミ[生・産]出したもの、と解釈できます。
「アメノ・オシホ・ミミ」の語音構造からは、「アマ[天]からおしよせる矢(日光や雨水)のおかげで、イネのホ[穂]が耳なりに実った」姿がうかんできます。
さらにいえば、「マサ・カツ・ア・カツ…」はアマテラスの子ですが、そのアマテラスを生む直前に、イザナキ・イザナミがワタツミ(綿津神)を生んでいます。ワタツミは、ワタノカミ[海神]と表記されることもあります。つまり、海水・綿・腸(ハラワタ)などをひっくるめて、ワタと呼んだことが分かります。海の実体はミズ[水]=液体。ワタ[綿・腸]も、液体に近い姿。いずれも安定した形がなく、とらえにくい。ぎゃくに、スキマさえあれば、どんなにセマイところでも、自由にスミコミ、シミワタルことができます。
上代語の段階で、wat- 2音節動詞は見あたりませんが、多音節動詞ワタル[渡]・ワタス[渡]・ワタラフ[渡]などが成立しています。
ワタwataという語音がミズ[水]を意味することと関連して、英語でもwater=ミズ[水]という対応関係が見られることは、参考になると思います。英語辞典の解説を紹介しておきます。語根・基本義・派生語の順(日本語訳は引用者)。
wed- (water水; wetしめった) water, wet, washあらう, winter冬, whiskeyウイスキー, vodkaウオッカ)
ワタ=シミワタルモノ=ミズ[水]ということになれば、ワタナベ[渡辺]=ミズベ[水辺]、ワタリ[渡・亘]=ワタシ[渡]=水路ということで分かりやすくなります。ただし、このばあい、「同一の事物」を二重の音韻感覚(mid-タイプとwat-タイプ)でとらえているいるという現実を認めざるを得ないことになります。いいかえれば、ヤマトコトバが成立当初からチャンポン語だったということの証言の1例と考えられます。
そのほか、アマテラス・ハタ・アキヅなども、ふかく調べるほど、あらたな情報に気づかされるヨビナです。アマテラスのテラスは、動詞テル[照]の語尾にスをつけて再動詞化したもの。テル[照]とは、デル[出]姿。仏教寺院のテラ[寺]は、堂塔のカワラブキ屋根が天空高くツキデルことによって、あらたに伝来した宗教の存在をテラシダス(民衆の心をタラシコム)シカケです。これにたいして、アマテラスをまつる伊勢神宮は、神社神道の総本山として、ライバルの布教活動を野放しにしておくわけにはゆきません。そこで、その拠点となるテラ[寺]という用語そのものを禁句としました。テル・テラスは、やがてタラス・タラシ[帯・足]につながり、歴代天皇の権威を示す称号ともなった語音です(○〇タラシヒコ天皇)。
日本語だけではありません。英語の世界でも、tell告げる, talk話す,
telephone電話, terraceテラス,
territory領土など、いずれもそれぞれ、日本語のデル[出]・テル[照]・テラス[照ら]・タラス[帯・足]に通じる姿をもっているようです。
ハタは、p-tタイプのコトバ。[幡・旗・秦・畑・機]などと書きわけられていますが、いずれも「バタバタ・パタパタ、ハツ[果]・ハタク[叩]・ハタス[果]・ハタル[剥]・ハツル[削]」などの姿を共有しています。p-もw-もクチビルの音なので、p-t音(ブツ・ブタなど)とw-t音(ウツ・ウタなど)との交替関係も考えられます。同種・異種、さまざまな技術者集団が渡来したことの証拠と見てよいかもしれません。
アキヅについては、アキツ[蜻蛉]、アキヅ[蜻蛉]、アキツシマ[秋津嶋]などの用例がりますが、語音の面でアキとアキツ[蜻蛉](トンボ)とアキツシマ[秋津嶋]の対応関係がよく分かりません。アキを「アキ[阿杵](威力のあるキネ[杵])」と解釈できれば、アキヅ(トンボ)についても「キネ[杵]型利器の姿をもつ昆虫」ということで説明ができそうです。
ついでにいえば、『古事記』神武東征のくだりに、神武天皇の兄イツセ命が「腕にイタヤグシ[痛矢串]を打たれ、致命傷となった」という記事があります。イタヤグシ[痛矢串]とは、どんな形態の武器だったのか?「イタ[板]矢串」(板状のヤイバをもつ武器)だとすれば、ヲノ[斧]・マサカリ[鉞]のような形だったかもしれません。ヲノ[斧]のことを英語でアクスaxといいますから、アキヅ[秋津・蜻蛉]:イタヤグシ[板矢串]:アクス(ax)という対応関係が考えられます。
「落語の三題噺みたいで、話がウマすぎる」と笑ってしまいそうですが、ダメでもともと。さしあたり、考古学上の資料の中から、ウラヅケになりそうなものを探してみるのもおもしろいかと思います。
眼科医院で検診
4月11日(水)午後、ひさしぶり片山眼科医院で検診を受けました。左右両眼とも、ン十年まえに白内障の手術をすませていますが、「白内障は再発することもある」との話を聞かされたこともあり、念のため、受診しました。ホームへ入居してからは、はじめてです。「屈折検査」、「矯正視力検査」、「精密眼圧測定」、「精密眼底検査」など、むずかしい名前の検査をしていただきました。「白内障再発」の心配はないとのことで、ひとまず安心。ついでに、いまの視力にあわせて、パソコン作業用のメガネを作ることにして、その処方箋もだしていただきました。
ホームへ帰る途中、「メガネのハラダ」に寄って、メガネを注文しました。これまでうっかりしていましたが、ひとことで「パソコン作業」といっても、「ナニを見る場面か」(「パソコン画画」、「キーボード」、「資料」)によって、目からの距離がちがい、メガネに求められる機能もちがってくるということです。
そこまでつきつめて考えたことがなかったので、「そこは適当に」ということで、ひとまず使ってみたうえで、もういちど考えることにしました。【追記】16日以後にはできているとのことでしたが、雑用がつづき、23日現在、まだ受けとりにいっていません。
クダモノなどの訪問販売
4月12日(木)午後、9Fで果物などの訪問販売がありました。イチゴ・バナナ・キーウイ・しょうがのど飴など。品目は多いといえませんが、お店屋さんの判断で、「安全第一」、「安心して食べられる」、「食べて、満足感がもてる」などを中心に、品目をえらび、出品されたのだと思います。ホームでは毎日「三食昼寝付き」の生活がつづき、めったに外出もしませんので、こんなふうに「自分が食べたいと思ったものを、自分で直接お金を支払い、自分の流儀で食べる」ということが、ちょっとした気分転換にもなっているようです。
むかしの生徒さんからたより
12日午後、東京の水野信利さんから電話があり、4月の後半に來富の予定とのことでした。彼は、わたしがはじめて中学校教員として勤務した富山市立東部中学校の生徒さんです。富山大学へ進学、さらに東京の国際基督教大学大学院を経て「学習研究社」に就職。わたしが「日漢英3言語の音韻比較研究」をめざして試行錯誤をくりかえしていたころ、『学研・漢和大字典』(第28刷、1990)を寄贈してくれました.「音韻比較」のためには、それぞれの民族言語について音韻変化の実態が分からないと、まともな比較研究ができません。その点、藤堂明保編のこの字典は、ミダシの漢字すべてに上古音~現代音まで音韻変化の流れが注記されています。この字典を入手できたおかげで、わたしはある程度自信をもって音韻比較作業を進めることができるようになりました。こんど会ったら、そのことのお礼もいわなければと思っています。
それにつけても思うのは、日本の言語教育に「音韻感覚」の視点が脱落していること、もしくは弱すぎることです。コトバはもともと「音声言語」であり、モジはコトバを記録する道具なのですが、日本ではモジの字形(漢字の字形は数千)をおぼえるのに時間をとられ、だいじな「音声信号」、「音韻感覚」の習得にかける時間がほとんどなくなっています。英語の世界では、まともな辞典なら、一つ一つの単語について、「語根と派生語の関係」、「音韻変化の歴史」などを注記してあるのが常識ですが、日本語の辞典では、特殊な辞典をのぞき、その常識が通用しません。日本の「漢和字典」・「中国語辞典」などを見ても、「ミダシ漢字すべてに上古音~現代音までの音韻変化を注記」したのは『学研・漢和大字典』だけのようです。このよな実態をほうっておいて、「小学1年生から英語学習」、「聞く力・話す力をのばす」などのお題目をたたいている姿を見ていると、戦時中「ハタキ棒で、焼夷弾の火を消せ!」と叫んでいた人たちの姿を思いだしてしまいます。「漢字崇拝」の亡霊にとりつかれ、コトバとモジの見分けがつかなくなった日本人(文科省当局、言語研究者をふくめ)の言語観は、英語など音素モジをつかうヨーロッパ人の言語感覚にくららべて、すくなくとも数十年時代おくれになっているのですが、大多数のひとはそのことに気づかないままです。気づいた人は、「日本人や日本語が21世紀の競争世界で生きのこれるかどうかのピンチに立たされていることを知らせるため、できるだけ大きな声をあげることにしましょう。
言語観のクルイに気づき、転換することさえできれば、ピンチこそチャンス。ヤマトコトバを核として、漢語・カタカナ語など大量の外来語をとりいれて現代日本語を組織してきた日本人ですから、さまざまな課題を最短の時間で解決できることも期待してよいでしょう。
東部中卒業生のクラス会
4月15日(日)午前中、9F会議室で、ブログ前号ででも予告しておりました東部中卒業生のクラス会が開かれました。もうすこし正確に言うと、「富山市立東部中学校,昭和30年(1955)卒、3年7組クラス会」ということでしょうか。
先日東京から電話してきた水野さんたちは、わたしが東部中に勤務するようになって最初の卒業生、こんどymzkさんたちは、そのひと回りあとの卒業生です。1年生から3年生まで、途中でクラスの編成替えはありましたが、わたしは3年間、7クラス全体を通して英語科の授業を担当していました。また、教科とは別に、生徒指導を担当、とりわけ学級担任として、独自の学級管理の方法を進めていましたので、この日のクラス会でも、そういった思い出も話題になりました。毎日、放課後のホームルームの時間に、「反省会」形式をとりいれたこと。「中学生なりに、民主主義を身につけてほしい」と願って、それこそ「死にもの狂い」ではじめたことですが、あとで考えてみて、「いささかヤリすぎ」、「 カラ振りに終わった のでは」と「反省」したりしているところです。
平成16年(2004)1月24日に開催されたクラス会で配布された資料「近況報告集録」(ハガキ)および当日の記念写真、さらには平成11年(1999)11月のクラス会の写真も提供されるなどで、わたしの頭の中はしばらくタイム・スリップをくりかえしていました。
みなさんの近況報告では、現役を退いてかなりの年月がすぎ、孫やひ孫さんの話が多くなっていました。さいごにわたしから、近況報告をかねて、中学校教員をやめて以後のイキザマについて報告。そして、「サイゴのサイゴのお願い」として、昨年出版した『コトダマの世界Ⅱ』について、「どうか、みなさん、もよりの公立図書館、もしくは学校図書館(大学・高・中・小学校)へ寄贈する作業にご協力ください」とお願いしました。
正直な話、わたしははじめから、この本が「売れる」ことを当てにしておりません。お金を出してまで、本を買っていただけるのは、ありがたいことですが、この種の本がスイスイ売れるような世の中なら、わたしなどがムリして出版する必要がありません。
いまの日本語は、実はたいへんなピンチに立たされています。しかし、日本の文教当局は、この現実に気づいていません。もしかしたら、気つかないフリをしているのかもしれません。このままほうっておくわけにはゆきません。だれかが声をあげ、まわりの人たちにキケンを知らせなければなりません。そう考えて、この本を出版することにしたのです。
はじめの計画では、富山市内の公立図書館や学校を中心に足を運び、この本を寄贈させていただくよう、直接お願いするつもりでした。ところが現実には、わたし自身が老人ホームへ入居することとなり、さらには妻信子をはじめ土地数枝・茂樹さん親子の葬式がつづいたことから、この計画はまだ実行されていません。98歳老人、頭の中でユメみたいな計画を立てるのは得意ですが、ユメを実現するための体力はゼロにちかいようです
土地数枝さん49日法要
4月16日(月)午後、西田恵美子さん・Satieさん親子が来富。上市町のホテル「つるぎ恋月」で宿泊。わたしも富山からSatieさんが運転するクルマに便乗、同行させてもらいました。このホテルには、信子や数枝さんたちもいっしょに来たことがあり、みなさん共通の思い出がつまった場所です。夕食は美織さんも参加して、しばらくにぎやかな時間をすごしました。
ここの温泉は、茶褐色でヌメリのある露店風呂が有名なのですが、「床がヌメリすぎてアブナイ」ということで、わたしは部屋のわきにあるミニ露天風呂につかることにしました。
4月17日(火)。午前10時30分から立山町西光寺で、故土地数枝さんの49日法要。つづいて土地家のお墓に移動、数枝さんの遺骨を納めました。そのあと、富山へもどり「五万国本店」で会食。天候にも恵まれ、無事すべての日程を終了。美織さん、ご苦労さまでした。