いたち川のサクラ(A) 3/31
いたち川のサクラ(B) 3/31
松川のサクラ(A) 4/2
松川のサクラ(B) 4/2
松川のサクラ(Ⅽ) 4/2
「地名は歴史を語る」
3月24日(土)。「共寿会だより39号」がとどきました。そのなかに竹島慎二さんの「地名は歴史を語る」と題した講演記録がのっていました。富山県近代史研究会会長の竹島さんが共寿会総会(2017年9月、富山第一銀行本店キラリホール)で講演されたときの記録です。県内の地名を中心に、「地名の由来」や「地名をめぐる問題」について報告・提案しておられます。わたし自身、当日会場で講演を聞かせていただいたのですが、こんど活字になったものを拝読し、あらためてよい勉強になったと感じています。オサライのために、いくつかの項目をメモしておきます。なお、()内、*印以下はイズミの私見です。
地名の由来
イクヂ[生地>…1155年、平安の終わりに、生地海岸辺りを 大津波が襲った。その時代から新治(にいばり)神社とい
う大きな神社があります。その新治に住んでいた多くの人
が四散します。その人たちが、やっぱり生まれた土地に帰
りたい、望郷の念が強い。この字を使って何とか生まれ故
郷に帰れないかと願ったのが地名の由来といわれていま
す。ただ、由来であって、なぜ(いくじ)と読むように
なったかは今もって分かってはいません。(*同一の土地
を対象としながら、地形の視点から「生地」と呼び、利用
法の視点から「新治」と呼んだことが考えられます。)
アラタ[荒田]…私は富山東高校の5回生です。高校所在地は富山市下飯野荒田。飯野というのは、米がたくさん採れて豊かな土地のはずなのに、その次に「荒田」とつく。豊かな土地の荒れ果てた田んぼって何?ということになりますね。(*ヤマトコトバとしては、アル[荒・生]はもと1語。扇状地など、洪水で水の流れがアル・アレル[荒]ことにより、そのあとアラタ[新]な耕土がアル[生]・アラワレル[現]ことになります。)
飯野は大字、昔のいわゆる集落です。荒田は小字、集落よりさらに小さい単位です。だから、米がたくさん採れる土地の中に、場所によっては荒れ果てた場所があったという意味だろうと思います。常願寺川の氾濫によって田んぼが荒れ果てたところがあったということが、こういう矛盾した地名になったと思えるわけです。
地名の成り立ち
ムロマチドオリ[室町通]…富山市西町のすぐそばに、室町通りがあります。室町とは何か。一番簡単なのは室町幕府ですよね。でも、富山に室町幕府があるわけがありません。ムロ[室]から何を連想すればよいか。たとえば、ヒムロ[氷室]です。小さなっ部屋に囲いを頑丈にして、湿度温度を一定にして、食べ物を保管しておくのがムロ[室]。大事なものをほかんしておく蔵のこと。土蔵とか蔵が沢山ある所に武士政権を作ったのが室町幕府。富山の室町通りも、金融業とか倉庫業とか、蔵がたくさん立ち並ぶようになっていった場所だといわれています。
カマクラ[鎌倉]… 室町があったら、鎌倉もあるかというと、これがある。旧山田村に鎌倉地区があります。上から見たら、いろんな切通氏、山と谷がくっついてきていて、狭いところが道路になっている。神奈川県の鎌倉というのは、まさにまさに切通しにかこまれているところで、この旧山田村の鎌倉も、あたかも神奈川県の鎌倉の様だということで、鎌倉という地名になったといわれています。(*カム[噛・咬]ものがカマ[鎌・釡・窯]。カム姿は、カマエル[構]姿でもあります。)
人名由来の地名
ノグチゴロウタケ[野口五郎岳]…中には、人の名前のようで変なのもあります。黒部五郎岳、野口五郎岳。野口五郎というと、「新御三家?!」となりますが、順序は逆です。野口五郎のマネージャーがたまたま野口五郎岳という山が好きだったので、芸名につけたといわれています。野口五郎とか黒部五郎とかは人の名前ではありません。五郎とは「ごろ」です。「ごろごろ」とは、上の方から大きな石や岩が流れ落ちてくることです。長野県大町の野口という地域から見た山が、大きな岩がごろごろとおちてくる、それで野口五郎岳という名前になったんです。(*キラキラ・ギラギラなど、k-r,g-r音の日本語には、「キラキラ・カガヤク・イキル・キリヌケル」などのイメージをもつコトバがたくさんあります。似たような現象が英語でも見られます。Greenみどり, grass草, grow成長する, gladうれしい, glassガラス, glow白熱する, gold金など。)
地名から見える昔の暮らし
アブラデン[油田]…城端線に油田という駅があります。多分これは荏胡麻(エゴマ)。中世においては明かりを灯す油の原料はエゴマだったんです。エゴマがたくさん採れたとコロだったから油田だったんでしょうね。ちなみに、近世にはいってくると灯油の原料は、菜種になります。
トイデ[戸出]…少し高岡寄りに行ったら、トイデ[戸出]になります。戸出というのは、実は、灯油田です。「トウユデン」が簡略化されて「トユデ」、「トイデ」になったといわれています。
災害と地名
マチブクロ[町袋]…常願寺川の左岸に町袋(マチブクロ)があります。成願寺大橋を渡った対岸には、水橋町袋があり、両サイドに袋があります。袋とは、洪水氾濫の名残で水がたまったところをいいます。急流河川が多い富山県内には山ほどあります。魚津にはそのものずばり袋。富山市のインター近くに上袋。東京にも有名な池袋があります。(*フクロは、動詞
フクル[膨]の名詞形。フクルは「p-k音動詞フク[吹・噴]+ル」の構造で,再動詞化したもの。p=k音漢語ハウ[包]pag>bao、フ[富]piueg>fu、フク[福]piuek>fu、・[腹]piuk>fuなども「フックラ、フクラム」姿をもっています。また、p=k音英語bag袋, box箱, pack包み, pocketポケットなども同様です。)サワ[沢]…立山町に中米沢(ナカヨネサワ)とか、前沢(マエザワ)とか「沢」という字が付く地名が11あります。それも五百石を中心にした部分に集中しています。立山町の隣の上市町には3つしかありません。おそらくは、五百石地域を流れている栃津川とかが氾濫を繰り返し、多くの湿地帯ができ、こういう地名が残っているんだろうと思います。
消える地名
まさに歴史を物語る地名を付けた学校の名前が消えてしまっている。例えば富山市だったら総曲輪、愛宕、安野屋、八人町、全部、江戸時代からの影響のある地名です。その地名の学校が無くなりました。現在何になっているか。芝園小学校。芝園という地名は、昭和10年に誕生しています。清水町小学校と五番町小学校とが合併して中央小学校。歴史の薫りなし。統合した後、黒東小学校。黒部川の東だから黒東です。庄川の西にあるから庄西中学校。さらには、ひばり野とかあさひ野です。いずれも歴史の香りはありません。
そういう中で素晴らしいと思ったのは、朝日町です。境小学校、宮崎小学校、笹沢小学校、泊小学校を合併して、さみさと小学校とします。一見4つの小学校の最初の一文字をあわせたと思います。だけど、朝日町教育委員会に言わせると、そうじゃない。。昔、この地は佐味郷(サミノゴウ)と言われていた。佐味郷だからサミサトです。古代のこの地の歴史を子供たちに知ってもらいたい。こういう意味をこめて、さみさとという校名にしたと言っています。素晴らしいと思います。(なんとかして、地名「佐味郷」にこめられた意味をさぐりたいものです。上代語の段階で、s-m 2音節動詞サム[醒]・シム[染・滲・占]・スム[住・澄]・セム[責・迫]・ソム[染・始]などが成立。名詞サマ[様]・サミ[沙弥]・シマ[島]・スミ[住・炭・墨]・セミ[蝉]などとともにs-m音単語家族集団を形成しています。とりわけサミ[沙弥]は梵語からの外来語と考えられることから、ほかのs-m音語についても梵語などとの対応関係をチェックしてみる必要があります。その点から見ると、s-m音の現代漢語はゼロ。上古漢語でも、サム[三・参]・シム[心・沁・滲]など、きわめて少数派であり、やがてすべてs-n音派に吸収合併されています。くらべて、s-m音英語はsame,semi,seem,similar,small,
smith, smokeなど、かなりの多数派です。とりわけ、smithは「スミをシミこませ、金銀銅になりスマセル錬金術者」です。)
地名というものは、全部あわせれば2000万越える。市町村の大合併というのが、明治、昭和、平成の3回行われた。明治の大合併では、7万2千ぐらいの町と村が、一挙に1万2千ぐらいに減らされた。そして平成の大合併によって、現在日本全国の市町村は、1768しかありません。明治の初めに、7万以上あった町とか村とかの地名が、現在は2千を切っている。7万の町・村の名前が消えた。大字・小字については、一体どれだけ消えていったか、ほとんど分からなくなってしまっています。
地名は無形文化財
本当にそれでいいのかと、私は思うんです。地名というのは、たいへん貴重な無形文化財だと思うんです。地名によって、その地域の歴史を知ることができる。だから、地名は歴史の生き証人。これからも大事にしていかなければならないんじゃないか。
地名をめぐる問題点
ここまで竹島さんの講演内容の一部をご紹介しました。実は、「動物名が付いた地名」、 「信仰にまつわる地名」、「危険を知らせる地名」、「二文字地名」(好字二字令)など、さまざまな問題についても報告・提案されているのですが、紙面のつごうでご紹介できませんでした。日本語の文章は、21世紀のいまでも漢字という表意モジにたよって書き表わされています。漢字はもともと漢語(漢民族のコトバ)を表記するために考案されたモジです。ヤマトコトバと漢語とでは、音韻感覚(どんな音声がどんな事物の姿と対応するか)がちがうので、漢字でヤマトコトバの意味を表わしつくすことができません。そこでカタカナ・ひらがなが生まれたわけですが、長年の習慣で、カナよりも漢字をありがたがる傾向がのこっています。大事なのはコトバ(音声言語)であり、モジはコトバを記す道具にすぎないのですが、そういったことも自覚できていないようです。さんざん苦労しておぼえて漢字なので、機会あるたびに見せびらかせたいという、さもしい根性が身にしみついているのかもしれません。
ついつい話が脱線してしまいました。「おまえの議論はまちがっている」とお考えの方もおられると思います。大事な日本語を守り育ててゆくために、いまナニをドウすればよいか?みなさまのご意見を、ズバリお聞かせいただければと願っています。
健康維持に黄信号
3月29日(水)。朝食まで、異常なし。部屋にもどったあと、メマイというか、足もとがふらついて、立っていられません。新聞を読む気力もなく、そのままベッドで休むことにしました。看護婦さんがみえて、血圧をはかってもらうと、175。かなり高いです。 11時ころ、ほぼ平常にもどった感じ。昼食は完食。「機能訓練」にも参加。ただし、そのあとの「松川散歩」は見あわせました。
自分では、十分な睡眠時間をとっているつもりですが、夜中に3回ほどトイレに通わなければならないので、実際には寝不足状態になっていたのかもしれません。今後気をつけます。
3月30日(金)。午前中、4月8日「古事記を読む会」用の資料「日向三代関連人名・神名メモ」を準備する。
むかしの生徒さん来訪
この日午後、ymzkさんが来訪。わたしが中学校教員としてはじめて勤務した富山市立東部中学校の卒業性です。「4月8日(日)午前、めぐみ7Fでクラス会」という計画案を持参されましたが、あいにく当日は「古事記を読む会」出席の予定なので、それはダメ。このあと日程を調整して、再度提案するとのことでした。計画案には、出席予定の男女5名の氏名が連記されていました。みんななつかしい名前ばかり。ぜひいちど直接会って、元気な顔を見たいと思います。【追記】「4月15日(日)午前、めぐみ7Fで」ということになりました。
いたち川のサクラ
3月31日(土)。午後、9Fで「めぐみ」の運営推進会議。はじめの計画では、入居者本人をふくめ家族代表が出席とのことでしたが、家族側出席人数が予想以上に多数となったため、9F会議室の収容能力を考え、「本人の出席はみあわせる」ことに変更したとのこと。会議終了後、美織さんのクルマで砂町へ。駐車場料金の支払いをすませ、『現代日本語音図』20部をホームへ持ち帰ることにしました。4時までにホームへもどる予定でしたが、せっかくここまで来たら、ぜひいたち川のサクラを見ておきたいと思い、雪見橋下流の遊歩道へ出ました。そこでスマホのシャッターを押すこと数回。このへんはサクラ見物客も少ないので、気楽にうごけます。
花見のあとは、まっすぐめぐみへ帰るだけ、と思ったのですが、幹線道路へ出たとたんに渋滞にまきこまれなした。どこへ向かうクルマかわかりませんが、やはりサクラ見物を目ざす流れとしか考えられません。ホーム着4時10分。予定時刻を10分間オーバーしていました。
それでも、どうにか無事入浴させてもらい、夕食にも間にあいました。
松川のサクラ
4月2日(月)。昼食をすませたあと、松川まで散歩に出かけました。先日いたち川のサクラをどうにか見物できましたので、こんどは松川のサクラが満開の姿を見とどけたいと待ちかまえていました。いいお天気つづきなので、服装はすこし軽くして、2本のストックをたよりに松川へ向かいました。途中、県の総合庁舎敷地内で、サクラの大木がみごとな満開ぶり。ちらほら、花ビラを散らせていました。松川のサクラも、まさに満開でした。風らしい風が吹いているわけでもないのですが、水面にたくさんの花びらがうかんでいました。
「彫刻の背景になっているサクラをながめる人たち」、「船橋跡の橋の上から、両岸のサクラをながめる人たち」、「水ぎわまでおりて、散策する人たち」など。おなじく「花
見」といっても、具体的に観察してみると、さまざまな「花見の仕方」があるようです。「どれも、みんな絵になるな」と思いました。
そのうち急に、赤い色をした物体が視界にはいりこんできました。満員の客をのせた遊覧船です。あわててスマホのシャッターを押しました。
ほんの30分ほどの花見でしたが、充分楽しませてもらいました。満足した気分で、ストックで足元の安全をたしかめながら、ホームまでかえってきました。
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