新湊大橋と海王丸 9/24
カモメ 9/24
氷見番屋街 9/24
日本海文化悠学会研修会 9/28
土地家一周忌法要
9月23日(日)。秋分の日。かねて、長念寺サロンの案内をいただき、楽しみにしていましたが、あいにく身内の法事と重なったため、参加できません。
午前10時半から立山町西光寺で、土地家(数枝さん・茂樹さん)の一周忌法要が営まれました。顔なじみの住職が病気療養中とのことで、ご子息が代行。年齢の若いかたが式を進行されると、やはり儀式全体のフンイキも若返った感じがしてきます。開式早々お経の音色が新鮮で、音楽的効果十分と拝聴しました。
法要のあと、上市町剣恋月で会食。茂樹さんの娘3人(長女は名古屋在住)、数枝さんの妹・恵美子さん(東京在住)をはじめ、土地・加藤両家の関係者たちが出席して、故人をしのびました。
散会後は富山へもどり、四人(恵美子さん親娘・美織さん・イズミ)で呉羽ハイツに一泊しました。上市の剣恋月もそうですが、この呉羽ハイツも、数枝さんや信子たちといっしょに来たことのあるお宿です。
昼食・夕食ともゴチソウつづきで、タラフク状態のわたしは、まもなく眠ってしまいましたが、3人の女性たちは夜おそくまでオシャベリしていたようです。
いつもどおりの呉羽ハイツでしたが、一つだけ変化がありました。これまでは、部屋から風呂まで長い通路を歩いた記憶があるのですが、こんどの部屋は、改築後の新館ということで、部屋を出ると1分以内にフロ場へとどくようになっていました。足腰のよわい年寄りにとっては助かります。
新湊大橋と遊覧船
9月24日(月)。西田恵美子さん親子は24日いっぱいに帰京すればよいということなので、ついでに新湊・氷見あたりまで見物して回ろうということになりました。
まずは新湊の富山新港へ向かいます。そこでしばらく「海の貴婦人・海王丸」や壮大な新湊大橋をながめます。11時に遊覧船が出るというので、乗りこみます。波はおだやかで、船酔いの心配はありません。
エビセンでカモメとあそぶ
遊覧船の一画に、カルビーのカッパ・エビセンが置いてありました。1袋100円。もちろん人間が食べてもよいのですが、ここではカモメのエサ用が中心です。船のマドをあけ、一つまみのエビセンを空中へ放り出した途端、まわりからカモメが数羽、サッとおしよせる。空中で捕食するのはむつかしいと思いますが、波にただよってからでも、うまく捕食できるのでしょうか。見事さにビックリしました。エビセンの袋がカラになるまで、エビセンをなげつづけ、カモメとあそばせてもらいました。ほんのちょっとしたことですが、わたしには忘れられない楽しい思い出ができました。
ここでも、日本の観光産業の在り方について、だいじなヒントを教えられた思いがします。
美しい景色、壮大な構造物、美術館や博物館などが観光資源であることはマチガイありませんが、ただ目でながめるだけでなく、「エビセンでカモメとあそぶ」、「和紙の紙スキ体験」、「窯場でヤキモノ体験」など、観光客自身が主体として活動できる場を提供することによって、「もういちど体験したい」、「こんどは○○をさそって、いっしょに体験したい」など、くりかえし訪問をうながす効果も期待できるかと思います。
「そんなことぐらい、とっくの昔からわかっているよ」といわれるかもしれませんが、「高度成長」の時代とちがって、「人口減少」で「観光産業の比重が増大」した現状では、こまかな点にまで心配りが必要になります。鈍感なわたしとしては、ごく最近になって、ようやく気づかされた「発見」です。
新湊の土地がら、人がら
海上から海王丸や新湊大橋、さらには新湊の街並みをながめていると、いつも陸上で見ていたのとはちがった景色が見えてきます。「日本の、北陸の片隅」という感覚から、(海を通して)「世界に向かって開かれた新湊」という開放感への転換です。それと同時に、わたしは60年あまりむかしまでタイム・スリップして、新湊在住の知人たちといっしょに「中国語研究サークル」結成の準備に熱中していたことを思いだしていました。敗戦後間もなく、中国と国交回復の見とおしがつかなかった時代の話です。
ブログ「七ころび、八おき」2011.4.26.「東部中学校のころ③」の項から関係記事を引用・紹介させていただきます。)
当時はまだ富山大学に現代中国語の講座がありませんでしたが、漢文科の下斗米晟教授が現代中国文学作品の講読に意欲をもっておられました。
1952年1月20日、新湊市立町の蓮照寺で、「富山県中国語同好会」の結成式をあげました。蓮照寺住職で新湊高校教頭の増山乗真先生が世話役となり、下斗米晟先生をはじめ、小・中・高・大の学校、また一般社会人にも参加を呼びかけた結果です。当日の出席者は、お二人のほか中村朔雄、高畠順、田島秀雄、高岡(商船高校事務官)の各氏とイズミ、計7人。毎月第3日曜日に例会を開き、午前中は『阿Q正傳』などの輪読会、午後は放談会。会場は、大学・高校などを順次持ちまわり。
氷見番屋街
新湊まで来たついでに、氷見まで足をのばし、番屋街をのぞいてみました。氷見漁港としての伝統と観光地としての利便性をあわせもつ商店街として、活気を呈していました。
わたしは「番屋」というナマエの由来が気になり、そのあとネットで調べてみると、次のように解説されていました。
氷見市の海沿いに位置する当施設は、漁師が漁場近くの海岸線に作る作業小屋である「番屋」をイメージしています。美しい自然のロケーションと趣ある空間の中で、楽しいひとときをお過ごしください。
ツイデのツイデに、漢語バンp‘iuan番fanの音形・字形と意味の関係についても調べてみました。『学研・漢和大字典』の解説を要約してご紹介します。
バン(ホン・ハン・パン)番…上古音p‘iuan。現代音 fan。意味 ①サッと、開きとじる動作の順序や回数。②さっと起伏する動作の順序・回数。③チベット人。[蕃]と同系。④外国人。⑤米型にさっとまく。発散する。ハ[播]と同系。解字 「米型に開き散るさま+田」の会意文字で、さっと種を田にまくこと。
ヤマトコトバでいえば、ハヌ[超・撥]・ハナ[鼻・花]・ハネ[翼・羽根・羽]などに通じる音韻感覚の語音ということになるでしょう。
水野信利さん来訪
9月25日(火)。Ysdさんに来ていただき、パソコン・レッスンを受けました。.
9月26日(水)。「介護認定検査の日」と予定されていましたが,なにかの都合で無期延期となりました。午後、水野信利さん来訪。ことし82歳。最近、足腰がよわって来たことを実感しているとのこと。「足の指のほうは大丈夫か?」とたずねると、「それはまだ大丈夫だが、手の指がしびれる。しばらくの時間、使えないことがある」という。初対面の時は、中学1年生。紅顔の美少年だった彼が、いまこんなことを話題にするようになったとは!?その変化に気づいて、感無量。
それにしても、彼はもともと聞き上手。近況を聞かれて説明しているうちに、ついついわたしの独演会みたいになってしまいました。『コトダマの世界Ⅱ』を2部、お持ち帰りいただく。
9月27日(木)。長念寺住職志田常無さんを迎え、10:30から信子の月命日のお経をあげていただきました。
日本海文化悠学会
9月28日(金)。午後、茶屋町豊栄稲荷神社で開かれた日本海文化悠学会に出席。8月は夏休みでしたから、2か月ぶりの例会となります。この日は、富山市教育委員会埋蔵文化財センター専門学芸員鹿島昌也さんを講師に迎え、「千石町遺跡から出土の恵比寿土面について」くわしく解説していただきました。配布された資料から、要約してご紹介します。
<千石町遺跡出土の恵比須土面>
富山城下町に位置する千石町遺跡の試掘調査で、19世紀以降の瀬戸美濃焼等と一緒に恵比寿をモチーフとした土面が1点出土した。
出土地は、江戸後期には富山藩家老富田氏の下屋敷地にあたる。明治時代以降の絵図には、「福田寺」という寺院や「日本精薬院」という製薬会社へと変遷。
土面は、明治以降に発生した火災や洪水堆積より下部から見つかったことから、江戸時代後期~幕末期頃に使用されていたと推測される。
<千石町遺跡のあらまし>
近年の試掘調査(平成23~29年)や発掘調査(平成27年)で縄文晩期の土器や弥生中期の方形周溝墓、鎌倉~室町期の遺構・遺物が確認された。江戸期に入ると、洪水堆積層の上に城下町が形成された。
<恵比須信仰について>
エビス[恵比須]は他に恵比寿・蛭子・夷などの字が当てられ、遠方から来て人々に幸いをもたらす神、漂着神という性格が強い.県内の恵比須信仰は現在でも海岸部を中心に各地に残る。漁業神である一方、商売繁盛や交易、農作物の生育など生業全体の神として、都市・農村部ともに広く浸透した。
1817年、御用番の富田筑後が「神通古河筋魚殺生停止につき申触書」を出し、四方西岩瀬付近の漁場に気を配る。1841年、魚問屋役所を設け、藩の主要産業である漁業ヘ力を注ぐ。特に飛騨登魚に対する税の取立てを強化し、藩の主要交易品(=魚)の管理を徹底した。
富田氏下屋敷からの恵比須土面の出土は、漁民や町人に広まっていた恵比須信仰が武家にも浸透していたことを物語る資料である。
エビスはヤマトコトバか
わたしとしては、やはりエビスという音形とその意味(事物の姿)との対応関係が気になります。エビスという語音がどのようにして、エビス[恵比須]という事を表わすことになったのか、という問題です。国語辞典(『時代別・国語大辞典・上代編』、三省堂)で、関連する語音の解説をご紹介します。
エビス[蝦夷] えみし。書紀古訓にエミシの形もみえるが、のちにはエビスばかりとなる。
エヒ オビ[帯]の東国語か。<考>ユヒ[結]の意に解する説もある。
エビ[葡萄] 植物名。えびづる。やまぶどう。<考>エビ[海老]の形に似ているために名づけたともいう。もしそうならば、海産動物のエビの語が想定できる。
エビゾメ[葡萄染] 染め色の名。青みがかったうす紫。エビ(やまぶどう)の色。
エミシ[蝦夷] 異民族。ないし異部族。エビスとも。人・男の意のアイヌ語に由来する、ある特殊な種族の名であったのが一般化したものか。
ここにあげたコトバは、上代語として用例があるので、ひとまずヤマトコトバと考えてよいでしょう。ただし、ヤマトコトバの中には、ヱ[画・絵]・ヱシ[画師]・ヱカキ[画工・画師]など、「ヱ[画・絵]はもともと漢語、つまり外来語だ」と指摘される例もあるので、どこまで純粋性のあるヤマトコトバかは別の問題です。
音韻の面からは、エビ[葡萄](山ぶどう)とエビ[海老]がまったく同音で、「生態がよく似ている」ことによる命名と考えられます。また、エビス[蝦夷]やエビゾメ[葡萄染]のエビとエビ[葡萄]は、いずれも甲類カナであり、同系語と考えてよいでしょう。問題なのは、エビス[蝦夷]とエミシ[蝦夷]の語音の対応関係ですが、エビスのビ音とエミシのミ音とが相互に交替関係の子音だからと考えれば、エビスとエミシも同系に準ずる語ということができます。ただ、エミシが「アイヌ語に由来する」語だとすれば、「純粋なヤマトコトバではない」ことになり、エビ・エビスなどとの関係についても、考えなおす必要があります。
すこし話が脱線しますが、ここでワ行ヱ音グループのコトバと比較してみましょう。こちらでは、上代語2音節動詞。ヱフ[酔]・エム[咲・笑]・ヱル[彫]が成立し、そのまわりに動詞・ヱマフ[咲](ほほえむ)・ヱラク[歓喜]、名詞ヱヒ[酔]・ヱマヒ[咲]・ヱミ[咲]、形容詞ヱマハシ(ほほえましい)、副詞ヱラヱラニ(笑い興じて)などが成立しています。
ヱル[彫]は、キザム・ホリツケル・ワリコム作業。ヱフ[酔]は、アルコールが人体にワリコミ、姿勢をクダク姿。ヱム・ヱマフ・ヱラクは、口元がイの口形(一直線)からヱの口形に変化する(ワレル、クダケル)姿。つまり、ワ・ヱという語音を共有することによって、全体として単語家族を形成していることが読みとれます。
さきほど、「ヱ[画・絵]=漢語(外来語)説」についてもご紹介しましたが、ヱ・ヱガクはもともと「地面などに、点や線をホリ[彫]ツケル・ワリ[割]コマセル・ヱル[彫]」姿だと考えれば、ヱ[餌]・ヱサ[餌]とヱル[彫]などについても、「ヱ[餌]をエル[得]ためにヱル[彫](ワリコム。食らいつく)」姿と解釈できると思います。
あれこれ総合して、ヤマトコトバは成立当初からワ・ワル・ワク・ヱ・ヱム・ヱルなどの語音をふくむ語彙体系をもっていたと考えられます。これで、まずは「一件落着」とゆきたいところですが、よく似た語音、「ア[畔・吾]とワ[輪・吾]」、「アル[或・荒・生]とワル[破・割]」,「エ[得・江・枝]とヱ[画・絵・餌]」、「エル[選]とヱル[彫]」などの関係について、いま一歩総合的・統一的で,客観的・合理的な解釈ができないものかという課題がのこされているようです。
コトバ=カタリのワン・カット。ナマのコトバ(音声言語)は語られた瞬間に消えてしまいますが、カタコトのツナガリがやがてモノガタリとなることもあり、またそのカタコトやモノガタリが「人と人の心をツナグ」、「おなじ思いのワ[輪]をヒロゲル」ことにもなっています。そのツナガリ型・ヒロガリ型は、かなり複雑で微妙。それを調べるのは、オモシロク・タノシイ作業ですが、「顔面マヒ」後遺症のため左目だけでパソコンに向かっている老人にとってシンドイ面もあります。目がつかれてくると、虫メガネを持ちだして追いかけても、読みとれないようになります。そこで最近は、タイマーを使って休憩時間を確保し、そのスキマの時間だけパソコンに向かうようにしています。
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