2018年10月20日土曜日

手足指カラメ・マッサージなど


音を聞く会 10/3


『古事記』を読む会  10/7  


「体育の日」の昼食  10/8 



 「陰陽五行説」参考図 


三味線を聞く会 10/18  




音を聞く会

103日(水)。午後、9fで「音を聞く会」に出席。この日は、「のお姉さん」にあわせて「のお姉さん」が共演。「出た出た月が…」の「月」ではじまり、「里の秋」、「もみじ」、「故郷」、「高原列車は行く」,「村まつり」、「こきりこ節」、「赤とんぼ」など、秋の歌オンパレード。一曲ごとに毛筆で手書きされた大判歌詞カードが掲示されるので、忘れかけていた歌詞を思いだしながら、いっしょになって歌っていました。



『古事記』を読む会

107日(日)。午前10時から茶屋町豊栄稲荷神社『古事記』を読む会研修会。

服部征雄さんが「三輪山をめぐる話題」として報告・提案されました。当日配布されたレジュメ(A判2)から要約してご紹介します。

 梅原猛の『神々のルザン[流穴+鼠]では、出雲神話は大和神話であったとの思いつきを基に議論を発展させている。その根拠となる「八俣大蛇=三輪山」仮説を検討してみた。

梅原の主張】①ヤマタノオロチは女好きで、大酒好き。大神神社(三輪山)と一致する。②ヤマタノオロチの身長は「渓八谷・峡八尾」にわたり、苔・檜・杉が生えているが、三輪山にも多くの峡や尾根があり、一致する。③三輪山のご神体は蛇であり、出雲の大蛇と共通する。

反論】①出雲神話における八俣の大蛇は娘を毎年食べる恐怖の対象であるが、三輪山は大和の守り神として畏敬の念とともに極めて親しみを感じさせる神である。例証として、萬葉集から;三諸は 人の守る山 本辺は 馬酔木 花咲く 末辺は 椿花咲く うらぐはし山ぞ 泣く子守る山(3222)。また、萬17, 18. ②「大蛇の姿形は三輪山の地形と良く一致する」としているが、三輪山の航空写真を見ても、大蛇の形容とは相容れない。

 服部さんは、さらに「ウエブログから」として、「梅原猛が主張した点」をつぎのように「羅列」しています。

1.      出雲神話の舞台は大和であり、アマテラス系の神々に敗れたスサノオや大国主命など、元は大和にいた神々が流されて成立した。

2.      背中に松の木が生えたヤマタノオロチは三輪山である。

3.      因幡の白ウサギの話は、福岡の沖ノ島の話である。

4.      出雲大社は記紀成立のころに、大和の西(根の国)に建立された。対して、伊勢神宮は東に建てられた。

5.      アマテラスが天孫ニニギノミコトに地上の統治を任せるのは、持統天皇が皇統を孫の天武天皇に伝えることを正統化するためにつくられた。

6.      古事記を暗誦した稗田阿礼は、藤原不比等である。中臣鎌足の次男だが、田辺史という文筆を生業とする人に養育される。本名は史(ふひと)であり、史書を書く才能をもっていたことは容易に推察できる。長男の武智麻呂は図書頭。

7.    天武天皇は28歳の稗田阿礼に歴史編集を命じた。658年生まれの不比等はまさに28歳。

(以下省略)

 さて、これだけの資料から、梅原猛説についてどう判断したらよいでしょうか?学習不足のわたしには判断する資格がなさそうですが、感想だけのべます。梅原説は、独自の哲学者の視点からズバリ判断をくだし、議論をすすめています。それだけ傾聴にあたいすると思いますが、おなじ日本語で語りながら、その具体的な意味内容は、普通一般の人のそれと比べて、かなりちがう傾向があります。その点で、「歴史の真実」をさぐるばあいには、やはり歴史学や考古学の資料を基本にして判断するほうが無難だと思います。

 三輪山にかぎらず、と呼ばれる地点は一定の高さを持ち、水源地帯ともなっています。そのは、地域一帯の住民や動植物のイノチを守る役割を果たしていますが、時には、洪水・土砂くずれ・鉄砲水などの災害をもたらすこともあります。山や水それ自体は、大自然の摂理にしたがって変化しているだけなのでしょうが、そこの住民としては、「守られている」と感じたり、「被害をうけた」と感じたりすることになります。その点では、『古事記』(崇神)の「三輪山伝説」は、当時の地域住民が「守られている」と意識していたことの例証とみるのが順当かと思われます。



「体育の日」の昼食

10月8日(月)。「体育の日」ということで、昼食のご膳には「体育の日」の祝賀カードが立てられ、「秋のたきこみご飯」、「ブタ汁」、「えびフライ」といっしょに、デザートの「マロン・ババロア」がならんでいました。この「マロン・ババロア」という名前は、あとで「10月の献立表」を見て、やっと分かりました。マロンフランス語クリ[栗]だということも、ネットでたしかめることができました。

せっかくおいしいゴチソウをいただいても、その名前も知らないままでは、食品にたいして申しわけない気がします。ぎゃくに、その名前や素材のことなどがわかれば、それだけ余計においしさを味わえると思います。その点、この老人ホームへ入居してから、わたしの「モノの見方」がすこし変化してきたようです。

 それにしても、祝日や入居者誕生日にあわせてメニューを考える調理担当スタッフの方の気苦労を考えると、これはたいへんなことだなと思います。ひと口に入居者といっても、ひとりひとり身体的条件(消化・吸収能力など)も食品の好みもちがうわけですから…



「機能訓練」の話

 この日午後2時から9fで「機能訓練」に出席。「機能訓練」というのは、ホームで生活している老人たちが「ネタキリ」にならないよう、最低限度必要な身体機能を維持するための訓練=体操です。「自分の手をつかい、自分の口で食事をとることができる」、「自分の足でトイレまで歩き、用事を足すことができる」などが基準で、そのための基本動作ひとつひとつについて、くりかえし訓練することになります。たとえば、①頭(くび)を前後左右にかたむける。また、左右にまわす(ひねる)。②左右の手の指を組みあわせ、そのまま頭の上にかざす。③(棒を使って)上半身(胴体)を左右にたおす(かたむける)、まわす(ひねる)。④イスに腰かけた状態から、まえにあるテーブルに両手をそえ、頭を下げ、両足を踏んばって、立ち上がる。⑤腰かけたまま、左右の足でアシブミする(以下省略)

 この日は、施設長が直接指導されました。訓練項目は、あらかたこれまでどおりでしたが、1点だけはじめての項目がありました。それは「足指のシビレ」などの手当法の一つで、「手の指5足の指にしっかりカラマセル(組みあわせる)、そして前後左右にふりまわす」、ただそれだけの作業ですが、かなり効果があるようです。というのは、わたし自身、ホームへ入居してまもなく、左右とも足の指あたりにシビレを感じるようになり、あまりのイタサで夜中に目をさまし、ねぼけマナコでマッサージをする状態がつづきました。その話をきいた美織さんが、母親を介護した経験から、この手当法を教えてくれました。早速実験してみたところ、すぐに効果があらわれました。シビレ・イタミがぜんぶ消えたということではありませんが、それほど気にならなくなりました。ありがたいと思っています。この指カラメ・マッサージは、いまも毎日(朝食まえと夜ねるまえ農耕2回)やっています。

 「縁の下の力持ち」というコトワザがありますが、考えてみると、足のユビやカガト身体の最底辺そのものであり、2足歩行など人の行動すべてを支える土台となっています。やがてまるまる1世紀にわたってわたしのカラダを支えつづけた功労者ですから、せめてマッサージという感謝状くらいはさしあげたいと思っています。



「陰陽五行説」の話

悠学会の9月研修会で、「エビス土面」が話題になったことは、前回のブログでご報告しましたが、そのことと関連して、「エビス土面」が流布するようになった当時、日本人の「ものの見方」、「宇宙観」がどんなものだったのか、気になって、すこしだけ考えてみました。

モジを持たなかった日本へ、中国本土から漢字が伝わり、詩経・論語をはじめ、儒教諸子百家の作品も伝来しました。そのあとさらに、インドではじまった釈迦の教え(仏教)漢訳経典として日本へもちこまれました。

漢字伝来によって,モジを手に入れた日本人の生活は成長をつづけ、モノの見方にも変化が見られます。やがて漢字の表意性をたよりに「訓読み」を始めたり、ぎゃくに漢字のだけを利用して、「万葉仮名」(カタカナ・ひらがな)を考案したり、さらに『古事記』『萬葉集』などの文芸作品も生みだすことになります。また、「モノの見方」という点では、仏教の影響を見のがすことができません。もともと日本列島では、自然崇拝が基本。ヤオヨロヅの神が祭られ、「コトアゲ(議論)せず」の状態がつづいていましたが、理路整然とした仏教が伝来してからは、「コトアゲぞ、わがする」人たちも出てきます。「本地垂迹説」、「反本地垂迹説」などがおこなわれ、「カムナガラの道」(神道)は事実上仏教の議論を取りいれることによって神社神道として理論武装をととのえてきたと考えられます。

このように見てくると、日本の文化はもともときわめて素朴で、ローカルなものでしたが、外来の文化にたいして開放的で,「これは役に立つ」と思ったら、片っぱしから取りいれることで高度成長をとげ、客観性・合理性のある豊かな文化をもつことができたと思われます。先日からとりあげてきた「エビス土面」や「梅原猛説」なども、そういった「外来思想の影響」の例証と考えればわかりやすいかもしれません。

その点で、漢字・儒教・仏教などとならんで、、陰陽五行説」の影響ということも気になります。この仮説は、中国の春秋戦国時代に発生した陰陽説と五行説とが漢代に一体化したものとされています。五行の木・火は陽、金・水は陰、土はその中間であるとし、これらの消長を観察することによって、天地の変異、人間界の吉凶などについて説明しています。その考え方は、天文・暦法・医学の分野にわたり、またやがて現代の土木・建築・鉱業・金属精錬などにも通じるものがあります。その意味では、「エビス土面」の出土も、「陰陽五行説」など外来文化への関心の表われと解釈できそうです。ただし、まだほんの思いつき程度なので、ご教示をお待ちします。



三味線を聞く会

1018日(木)。午後2時から9fで「三味線を聞く会」があり、「こきりこ節」、「八尾おわら節」、「真室川音頭」、「花笠音頭」などの民謡を聞かせていただきました。とりわけ「八尾おわら節」のくだりでは、踊りの動作を分解して実演し、出席者も手まね足まねしてみるという場面がありました。また、現在定番となっている踊りの源流と見られるフリツケ(明治時代)を練習中とのことで、それも披露していただきました。

2018年10月6日土曜日

「海上からながめた景色」など 


新湊大橋と海王丸 9/24


カモメ 9/24 


氷見番屋街  9/24 


日本海文化悠学会研修会 9/28 




土地家一周忌法要

 9月23日(日)。秋分の日。かねて、長念寺サロンの案内をいただき、楽しみにしていましたが、あいにく身内の法事と重なったため、参加できません。

 午前10時半から立山町西光寺で、土地家(数枝さん・茂樹さん)の一周忌法要が営まれました。顔なじみの住職が病気療養中とのことで、ご子息が代行。年齢の若いかたが式を進行されると、やはり儀式全体のフンイキも若返った感じがしてきます。開式早々お経の音色が新鮮で、音楽的効果十分と拝聴しました。

 法要のあと、上市町剣恋月で会食。茂樹さんの娘3人(長女は名古屋在住)、数枝さんの妹・恵美子さん(東京在住)をはじめ、土地・加藤両家の関係者たちが出席して、故人をしのびました。

 散会後は富山へもどり、四人(恵美子さん親娘・美織さん・イズミ)で呉羽ハイツに一泊しました。上市の剣恋月もそうですが、この呉羽ハイツも、数枝さんや信子たちといっしょに来たことのあるお宿です。

昼食・夕食ともゴチソウつづきで、タラフク状態のわたしは、まもなく眠ってしまいましたが、3人の女性たちは夜おそくまでオシャベリしていたようです。

 いつもどおりの呉羽ハイツでしたが、一つだけ変化がありました。これまでは、部屋から風呂まで長い通路を歩いた記憶があるのですが、こんどの部屋は、改築後の新館ということで、部屋を出ると1分以内にフロ場へとどくようになっていました。足腰のよわい年寄りにとっては助かります。



新湊大橋と遊覧船

 9月24日(月)。西田恵美子さん親子は24日いっぱいに帰京すればよいということなので、ついでに新湊・氷見あたりまで見物して回ろうということになりました。

 まずは新湊の富山新港へ向かいます。そこでしばらく「海の貴婦人・海王丸」や壮大な新湊大橋をながめます。11時に遊覧船が出るというので、乗りこみます。波はおだやかで、船酔いの心配はありません。



エビセンでカモメとあそぶ

 遊覧船の一画に、カルビーのカッパ・エビセンが置いてありました。1100円。もちろん人間が食べてもよいのですが、ここではカモメのエサ用が中心です。船のマドをあけ、一つまみのエビセンを空中へ放り出した途端、まわりからカモメが数羽、サッとおしよせる。空中で捕食するのはむつかしいと思いますが、波にただよってからでも、うまく捕食できるのでしょうか。見事さにビックリしました。エビセンの袋がカラになるまで、エビセンをなげつづけ、カモメとあそばせてもらいました。ほんのちょっとしたことですが、わたしには忘れられない楽しい思い出ができました。

 ここでも、日本の観光産業の在り方について、だいじなヒントを教えられた思いがします。

美しい景色、壮大な構造物、美術館や博物館などが観光資源であることはマチガイありませんが、ただ目でながめるだけでなく、「エビセンでカモメとあそぶ」、「和紙の紙スキ体験」、「窯場でヤキモノ体験」など、観光客自身が主体として活動できる場を提供することによって、「もういちど体験したい」、「こんどは○○をさそって、いっしょに体験したい」など、くりかえし訪問をうながす効果も期待できるかと思います。

「そんなことぐらい、とっくの昔からわかっているよ」といわれるかもしれませんが、「高度成長」の時代とちがって、「人口減少」で「観光産業の比重が増大」した現状では、こまかな点にまで心配りが必要になります。鈍感なわたしとしては、ごく最近になって、ようやく気づかされた「発見」です。



新湊の土地がら、人がら

 海上から海王丸や新湊大橋、さらには新湊の街並みをながめていると、いつも陸上で見ていたのとはちがった景色が見えてきます。「日本の、北陸の片隅」という感覚から、(海を通して)「世界に向かって開かれた新湊」という開放感への転換です。それと同時に、わたしは60年あまりむかしまでタイム・スリップして、新湊在住の知人たちといっしょに「中国語研究サークル」結成の準備に熱中していたことを思いだしていました。敗戦後間もなく、中国と国交回復の見とおしがつかなかった時代の話です。

ブログ「七ころび、八おき」2011.4.26.東部中学校のころ③」の項から関係記事を引用・紹介させていただきます。)

 当時はまだ富山大学現代中国語の講座がありませんでしたが、漢文科の下斗米晟教授が現代中国文学作品の講読に意欲をもっておられました。

1952120日、新湊市立町蓮照寺で、「富山県中国語同好会」の結成式をあげました。蓮照寺住職で新湊高校教頭の増山乗真先生が世話役となり、下斗米晟先生をはじめ、小・中・高・大の学校、また一般社会人にも参加を呼びかけた結果です。当日の出席者は、お二人のほか中村朔雄、高畠順、田島秀雄、高岡(商船高校事務官)の各氏とイズミ、計7人。毎月第3日曜日に例会を開き、午前中は『Q正傳』などの輪読会、午後は放談会。会場は、大学・高校などを順次持ちまわり。



氷見番屋街

 新湊まで来たついでに、氷見まで足をのばし、番屋街をのぞいてみました。氷見漁港としての伝統と観光地としての利便性をあわせもつ商店街として、活気を呈していました。

 わたしは「番屋」というナマエの由来が気になり、そのあとネットで調べてみると、次のように解説されていました。

氷見市の海沿いに位置する当施設は、漁師が漁場近くの海岸線に作る作業小屋である「番屋」をイメージしています。美しい自然のロケーションと趣ある空間の中で、楽しいひとときをお過ごしください。

 ツイデのツイデに、漢語バンp‘iuanfanの音形・字形と意味の関係についても調べてみました。『学研・漢和大字典』の解説を要約してご紹介します。

バン(ホン・ハン・パン)番…上古音p‘iuan。現代音 fan意味 ①サッと、開きとじる動作の順序や回数。②さっと起伏する動作の順序・回数。③チベット人。[]と同系。④外国人。⑤米型にさっとまく。発散する。ハ[]と同系。解字 「米型に開き散るさま+田」の会意文字で、さっと種を田にまくこと。

 ヤマトコトバでいえば、ハヌ[超・撥]・ハナ[鼻・花]・ハネ[翼・羽根・羽]などに通じる音韻感覚の語音ということになるでしょう。



水野信利さん来訪

925日(火)。Ysdさんに来ていただき、パソコン・レッスンを受けました。.

926日(水)。「介護認定検査の日」と予定されていましたが,なにかの都合で無期延期となりました。午後、水野信利さん来訪。ことし82歳。最近、足腰がよわって来たことを実感しているとのこと。「足の指のほうは大丈夫か?」とたずねると、「それはまだ大丈夫だが、手の指がしびれる。しばらくの時間、使えないことがある」という。初対面の時は、中学1年生。紅顔の美少年だった彼が、いまこんなことを話題にするようになったとは!?その変化に気づいて、感無量。

それにしても、彼はもともと聞き上手。近況を聞かれて説明しているうちに、ついついわたしの独演会みたいになってしまいました。『コトダマの世界』を2部、お持ち帰りいただく。

 9月27日(木)。長念寺住職志田常無さんを迎え、1030から信子の月命日のお経をあげていただきました。



日本海文化悠学会

9月28日(金)。午後、茶屋町豊栄稲荷神社で開かれた日本海文化悠学会に出席。8月は夏休みでしたから、2か月ぶりの例会となります。この日は、富山市教育委員会埋蔵文化財センター専門学芸員鹿島昌也さんを講師に迎え、「千石町遺跡から出土の恵比寿土面について」くわしく解説していただきました。配布された資料から、要約してご紹介します。

<千石町遺跡出土の恵比須土面>  

富山城下町に位置する千石町遺跡の試掘調査で、19世紀以降の瀬戸美濃焼等と一緒に恵比寿をモチーフとした土面1点出土した。

 出土地は、江戸後期には富山藩家老富田氏の下屋敷地にあたる。明治時代以降の絵図には、「福田寺」という寺院や「日本精薬院」という製薬会社へと変遷。

 土面は、明治以降に発生した火災や洪水堆積より下部から見つかったことから、江戸時代後期~幕末期頃に使用されていたと推測される。

<千石町遺跡のあらまし>

 近年の試掘調査(平成2329年)や発掘調査(平成27年)で縄文晩期の土器や弥生中期の方形周溝墓、鎌倉~室町期の遺構・遺物が確認された。江戸期に入ると、洪水堆積層の上に城下町が形成された。

恵比須信仰について

 エビス[恵比須]は他に恵比寿・蛭子・夷などの字が当てられ、遠方から来て人々に幸いをもたらす神、漂着神という性格が強い.県内の恵比須信仰は現在でも海岸部を中心に各地に残る。漁業神である一方、商売繁盛や交易、農作物の生育など生業全体の神として、都市・農村部ともに広く浸透した。

 1817年、御用番の富田筑後が「神通古河筋魚殺生停止につき申触書」を出し、四方西岩瀬付近の漁場に気を配る。1841年、魚問屋役所を設け、藩の主要産業である漁業ヘ力を注ぐ。特に飛騨登魚に対する税の取立てを強化し、藩の主要交易品(=魚)の管理を徹底した。

 富田氏下屋敷からの恵比須土面の出土は、漁民や町人に広まっていた恵比須信仰が武家にも浸透していたことを物語る資料である。



エビスはヤマトコトバか

 わたしとしては、やはりエビスという音形とその意味(事物の姿)との対応関係が気になります。エビスという語音がどのようにして、エビス[恵比須]という事を表わすことになったのか、という問題です。国語辞典(『時代別・国語大辞典・上代編』、三省堂)で、関連する語音の解説をご紹介します。

エビス[蝦夷] えみし。書紀古訓にエミシの形もみえるが、のちにはエビスばかりとなる。

エヒ オビ[帯]の東国語か。<考>ユヒ[結]の意に解する説もある。

エビ[葡萄] 植物名。えびづる。やまぶどう。<考>エビ[海老]の形に似ているために名づけたともいう。もしそうならば、海産動物のエビの語が想定できる。

エビゾメ[葡萄染] 染め色の名。青みがかったうす紫。エビ(やまぶどう)の色。

エミシ[蝦夷] 異民族。ないし異部族。エビスとも。人・男の意のアイヌ語に由来する、ある特殊な種族の名であったのが一般化したものか。

 ここにあげたコトバは、上代語として用例があるので、ひとまずヤマトコトバと考えてよいでしょう。ただし、ヤマトコトバの中には、ヱ[画・絵]・ヱシ[画師]・ヱカキ[画工・画師]など、「[画・絵]はもともと漢語、つまり外来語だ」と指摘される例もあるので、どこまで純粋性のあるヤマトコトバかは別の問題です。

 音韻の面からは、エビ[葡萄](山ぶどう)エビ[海老]がまったく同音で、「生態がよく似ている」ことによる命名と考えられます。また、エビス[蝦夷]エビゾメ[葡萄染]エビエビ[葡萄]は、いずれも甲類カナであり、同系語と考えてよいでしょう。問題なのは、エビス[蝦夷]とエミシ[蝦夷]の語音の対応関係ですが、エビスのビ音とエミシのミ音とが相互に交替関係の子音だからと考えれば、エビスとエミシも同系に準ずる語ということができます。ただ、エミシが「アイヌ語に由来する」語だとすれば、「純粋なヤマトコトバではない」ことになり、エビ・エビスなどとの関係についても、考えなおす必要があります。

 すこし話が脱線しますが、ここでワ行ヱ音グループのコトバと比較してみましょう。こちらでは、上代語2音節動詞。ヱフ[]・エム[咲・笑]・ヱ[]が成立し、そのまわりに動詞・ヱマフ[](ほほえむ)・ヱラク[歓喜]、名詞ヱヒ[]・ヱマヒ[]・ヱミ[]、形容詞ヱマハシ(ほほえましい)、副詞ヱラヱラニ(笑い興じて)などが成立しています。

 ヱル[]は、キザム・ホリツケル・ワリコム作業。ヱフ[]は、アルコールが人体にワリコミ、姿勢をクダク姿。ヱム・マフ・ヱラクは、口元がイの口形(一直線)からヱの口形に変化する(ワレル、クダケル)姿。つまり、ワ・ヱという語音を共有することによって、全体として単語家族を形成していることが読みとれます。

 さきほど、「ヱ[画・絵]=漢語(外来語)説」についてもご紹介しましたが、ヱ・ヱガクはもともと「地面などに、点や線をホリ[]ツケル・ワリ[]コマセル・ヱル[]」姿だと考えれば、ヱ[]・ヱサ[]とヱル[]などについても、「[]をエル[]ためにヱル[]ワリコム。食らいつく)」姿と解釈できると思います。

 あれこれ総合して、ヤマトコトバ成立当初からワ・ワル・ワク・ヱ・ヱム・ヱルなどの語音をふくむ語彙体系をもっていたと考えられます。これで、まずは「一件落着」とゆきたいところですが、よく似た語音、「ア[畔・吾]とワ[輪・吾]」、「アル[或・荒・生]とワル[破・割],「エ[得・江・枝]とヱ[画・絵・餌]」、「エル[]とヱル[]」などの関係について、いま一歩総合的・統一的で,客観的・合理的な解釈ができないものかという課題がのこされているようです。

コトバ=カタリのワン・カット。ナマのコトバ(音声言語)は語られた瞬間に消えてしまいますが、カタコトのツナガリがやがてモノガタリとなることもあり、またそのカタコトやモノガタリが「人と人の心をツナグ」、「おなじ思いのワ[]をヒロゲル」ことにもなっています。そのツナガリ型・ヒロガリ型は、かなり複雑で微妙。それを調べるのは、オモシロク・タノシイ作業ですが、「顔面マヒ」後遺症のため左目だけでパソコンに向かっている老人にとってシンドイ面もあります。目がつかれてくると、虫メガネを持ちだして追いかけても、読みとれないようになります。そこで最近は、タイマーを使って休憩時間を確保し、そのスキマの時間だけパソコンに向かうようにしています。


2018年9月14日金曜日

ブログ、つづけます


花火大会 8/1


納涼祭 8/8   


『古事記』を読む会  9/2 


音を聞く会 9/5 



<おわび>
パソコン不調で、ブログやりなおし
 なによりまず、1か月あまりにわたって、ブログを更新できなかったことについて、ふかくおわび申しあげます。
 ことしは例年になく猛暑日がつづくなか、ホーム住まいのおかげで、なんとか体調を崩すこともなく、ほそぼそブログをつづけてきました。お盆すぎには更新できるようにと、準備していました。ところが、なにかの拍子でパソコンがうごかなくなりました。
 わたしはまったくのメカ・オンチで、パソコンの構造や機能原理などのことはわかりません。マウスとキーボードの使い方を、教えられたとおりにうごかすだけ。クルマの構造や運転の原理について無知のまま、ハンドルさばきだけおぼえてクルマを運転しているドライバーとおなじ状態です。
むかしパソコン教室で教えていただいたysd先生に相談し、メーカー(富士通)とも連絡していただいた結果、故障したパソコンは富士通の工場へ送り、できるだけ多くデータを取り出すこと、機体は旧式なので、新式のものを購入することにしました。想定外の出費になりましたが、いまのわたしにはパソコンがイキガイとつながっているので、これでアキラメタというわけにはゆきません。全国各地で、猛暑や風水害のため大きな被害を受けられた方たちのことを思えば、これくらいの被害ですんでいるのは、むしろありがたいことです。    
828日、もとのパソコンを富士通へ発送。30日、新パソコン到着。91日、旧パソコンおよび旧パソコンからのデータ資料が到着。ただし、新パソコンを設置する作業も,わたしの手におえることではないので、ysd先生にきていただいてからにしました。
まずは、新パソコンの扱い方になれることですが、しばらく日数がかかりそうです。基本的にはほぼおなじ要領なのでしょうが、ちょっとした点でのちがいが、いくつもあるようです。老人のアタマでは、そのたびごとにつまずき、時間をかけることになります。
もうひとつは、旧パソコンから回収できたデータ資料の実態をたしかめること。ブログの記事そのものは別途保存されているので安心しましたが、ワードでの下書き原稿はほぼゼンメツ のようで、ガッカリしました。公開直前だった原稿は、やりなおしするしかありません。
このさき、いつまでブログをつづけられるか?それはわかりませんが、ダメでもともと。さいごまで努力するつもりです。「往生ぎわがわるい」といわれるかもしれませんが、これがわたしの生き方です。
おくればせながら原稿を書きなおし、ブログをつづけさせていただくことにします。どうか、よろしくお願いします。

花火大会 
 81日、9ベランダで、恒例の花火大会を見物しました。砂町に住んでいたころは、雪見橋まで出かけて、人家の屋根の上まで打ちあげられた花火をながめているだけでしたが、ここ丸の内は花火大会会場のすぐ近くであり、しかもビルの9fという高さからなので、仕掛け花火なども見物でき、それだけ臨場感もあります。わたしのスマホでも、ある程度その光景をとらえることができたかと思います。

納涼祭 
8月8日(水)。9fで「納涼祭」。ホームのスタッフのみなさんがチエをしぼり、テマ・ヒマかけての演出です。「かき氷」、「どんど焼き」、「水ふうせん」、「射的」など、むかしなつかしい「祭りの場」ができていました。手まわしの「氷カキ」機械は、スタッフの一人が自宅の物置からさがしだして出品されたとのこと。わたしは「水ふうせん」を吊ったあと、「射的」に挑戦。2発打って、2発とも命中。至近距離ですから、命中するのはアタリマエなのですが、なんとなく「いい気分」になりました。そのへんのところが「オマツリ効果」ということでしょうか。

『古事記』を読む会
 9月2日(日)午前、茶屋町豊栄稲荷神社で『古事記』を読む会に出席。8月は夏休みでしたから、2か月ぶりの研修会です。また、5月に多数の有志会員三輪山など大和路めぐりの研修旅行に参加されたので、その報告を聞く会ということになりました。この日は、まず5人の会員から報告があり、のこりは次回(10月)を予定とのこと。
 ひと口で「大和路の遺跡」といっても、具体的にはそれぞれ独自の存在であり、報告の内容も、報告者それぞれの視点から報告されますので、わたしのアタマでは、いちど口頭で報告を聞いただけで、報告の内容を正確に理解し・消化することは、きわめて困難です。やはり、文書として解説したものがあれば、あとでくりかえし読むことができるので、たすかります。そんなわけで、以下この日の報告をきかせていただいた感想をしるします。
    五十嵐顕房さん・・・「三輪山の登山時間まで2時間あまりあるので、予定外ではあったが唐古・鍵遺跡へ向かう。さらに、多神社に向かう。太安万侶一族の多氏の祖がまつられている」などの点について報告されました。わたしとしては、やはり「三輪山」「唐古」「鍵」「多神社」「太安万侶」などの人名・神名・地名などに注目したいと思います。「固有名詞だから、意味とは関係ない」などといって、固有名詞を無視する傾向がありますが、とんでもないマチガイです。とりわけ『古事記』や『萬葉集』などを解読する場合、人名や地名こそ重要な情報の宝庫だと考えるべきです。「三輪山」のは、どうして[輪](漢字音はリン)と表記されるようになったのか?オホという音形は、どうして[大・多]の意味を表わすことになったのか?そもそも、日本語とはどんなコトバなのか?考古学上の資料や漢字の構成原理(象形・会意・形声など)とつきあわせ、さらにはインド・ヨーロッパ語における「語根と派生語の関係」調査・研究を参考にして、日本語についても単語家族の研究をすすめるべきだと考えているのですが、いかがでしょうか?そこまでやってこそ、世界規模で客観的・合理的、つまり科学的な研究と呼ばれる資格がそなわるというものです。
 「語根と派生語の関係」、「単語家族」などというと、「そんなメンドクサイことを」といわれるかもしれませんが、いまのところこれ以上に科学的な研究方法は見あたりません。いまの言語学は、この方法によって、「ヨーロッパおよびインド」の民族言語を採集・分析・比較・総合し、「インド・ヨーロッパ語」という体系として整理しています。この体系の中で、英語・フランス語・ドイツ語やインド語などの位置づけがわかるようになっていますが、日本語や漢語・朝鮮語などアジア諸国の民族言語は「カヤのソト」の状態がつずいています。
 一日でもはやく日本語(ヤマトコトバ)の特別あつかいをやめ、「人類語の一つ」と考え、インド・ヨーロッパの民族言語とおなじ土俵、おなじルールにしたがって調査・研究をすすめ、等質の客観性・合理性のある研究データをもとめるべきです。わたしがこれまで試行錯誤をくりかえした経過から考えても、ヤマトコトバをこの方法で調査・研究することによるさまざまな成果が期待されます。ヤマトコトバにこめられた宇宙観・世界観・自然観・人生観などもあきらかになってくると思います。

    五十嵐俊子さん…「古墳とマキムク遺跡」と題して、9㌻(B4)にわたるレジュメをそえて報告。「箸墓古墳」、「瑞垣宮」、「土橋」、「纏向遺跡」,「土師部」などの用語について、ひとつひとつ考古学上の資料とつきあわせ、「歴史の真実」をたしかめる作業をすすめています。その結果として、これらの用語の意味・用法について、あらたな解釈も提案されています。たとえば;
瑞垣宮=河川で区切られた水の垣根を持つ所に建てた」、
「土橋=大規模の古墳建設工事に当たり、資材(葺石など)運搬用に築かれた土の橋」、「纏向遺跡…(『倭人伝』記事の直後に)ウマ[]を輸入、マキ[牧]・マキ[牧場](マク[]ところ)を設置して、繁殖をはじめた」、
土師部ハニ[埴]シ[師]ベ[部]ハニ[埴](粘土)を使って、土木作業土器づくりを担当する技術者集団」。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  
  たいへん綿密な調査報告で、よい勉強になりました。それにつけても、日本の古代史をまともに研究しようとすれば、なによりまずヤマトコトバの音韻感覚をつかみとることが基本条件だと痛感しました。
 このほか、近藤智英秀さんが「二上山と大津皇子」について、また黒田昌子さんが「三輪山登山」について報告されました。

音を聞く会 
 95日(水)午後、9fで「音を聞く会」があり、「歌のおねえさん」の指導で、文部省唱歌から民謡・歌謡曲まで、歌ったり聞いたりしました。「かかし[案山子]」、「虫の声」、「こきりこ節」、「炭坑節」、「ああ人生にあり」など。「かかし」の場面では、スタッフの一人がスゲ笠をかぶってカカシの役を演じたりしていました。

<かかし[案山子]>
山田の中の 一本足のかかし
天気の良いのに 蓑笠つけて
朝から晩まで ただ立ち通し
歩けないのか 山田のかかし

カカシというコトバの意味
 ここで歌われているとおり、カカシというコトバを聞いただけで、なんとなくナツカシイ感じがします。そしてやがて、なんとなくサビシイ感じがします。まわりから、「歩けないのか」、「耳がないのか」とからかわれ、カラスにまでカアカとわらわれる。「フーテンの寅さん」みたいな心境です。
 たしかにそのとおりだと思う反面、カカシというコトバの意味・用法について、いまひとつ疑問がのこっています。国語辞典では;
かかし[案山子・鹿驚]①獣肉などを焼いて串に貫き、田畑に刺し、その臭いをかがせて鳥獣を退散させさせたもの。ヤイグシ[焼串]。②竹や藁などで人の形を造り、田畑に立てて、鳥獣が寄るのをおどし防ぐもの。とりおどし。③みかけばかりもっともらしくて、役に立たない人。みかけだおし(『広辞苑』)。
と解説されています。しかし、この解説だけでは、カカシというコトバ本来の意味・用法が「行方不明」になっているように思われます。
 ここで、わたしの解釈を提案します。もともと「みかけばかりもっともらしくて、役に立たない人」のことをカカシと呼んだはずはありません。「人のために手をカス[貸]ことができる」しっかりモノのことをカカシと呼んだはずです。カカシは、動詞カカスの連用形、兼名詞形と解釈します。上代語にカカス・カカシの用例は見あたらないようですが、動詞カク・カスの用例は多数あります。カク[掻]四、[書・画]四、[懸]四・下二、[欠]。カグ[嗅]四。カス[貸]四、など。カカスとは、「カズ[数]ある所有物の一部(=カス[粕・滓]をカケ[欠](cut)させ、人にカス[貸])ことであり、やがて「そのカゲ[影]として、相手にカガ(利益)を請求できる」行為です。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                             
 架空のつくり話ではありません。「山田のカカシ」本来の姿です。むかし、日本列島でタロイモ農耕をはじめた人たちが、カシの木でクイをつくり、地面にツキさしてアナを掘り、そこへタロイモのタネを埋めこんでいました。このクイ(=ツキ[突]棒)が、耕作の主役でした。
 ところが、水田でイネ農耕がはじまると同時に、状況が一変します。カシの木のツキ棒で地面をカカス[欠]方式から、鉄製のハ[刃]をかぶせたスキ[鋤]で地面をスキはねる
方式に変わったため、カカシの出番がなくなったのです。それでも、田んぼの一角にカカシを立てておくことで、占有者の存在を宣言し、着替えの衣服や食べ物をククリつけておく場所を提供するなどの役割をはたすことはできました。
 以上、「山田のカカシ」という歌の文句にひかれて、「日本列島農耕の歴史」について考えさせられた一曲でした。

<虫の声>
あれまつむしが ないている
チンチロチンチロ チンチロリン
あれすずむしも なきだして
リンリンリンリン リインリン
あきのよながを なきとおす
ああおもしろい むしのこえ

キリキリキリキリ こおろぎや
ガチャガチャガチャガチャ くつわむし
あとからうまおい おいついて
チョンチョンチョンチョン スイッチョン
(以下省略。 作詞・作曲、作者不詳。文部省唱歌)を

キリギリスか、コオロギか?
 あとからネットで調べて分かったことですが、この歌の2番目の歌詞は、原作の段階で
「きりきりきりきり きりぎりす」となっていたのですが、そのご「きりぎりす」の部分を「こおろぎや」に書きかえたそうです。その理由は、「虫の名前コオロギは、地域によってキリギリスと呼ばれることがある。原作者はその地域の呼び方にしたがってキリギリスとしたが、「文部省唱歌」としては、より一般的な呼び名「コオロギ」を採用することにした」ということのようです。
 ここでも、日本語(ヤマトコトバ)の音韻感覚がもっているキメのこまかさを教えられた思いがします。



2018年8月3日金曜日

猛暑つづきですが、なんとかイキをしています



富山社会人大楽塾 7/21



入居者作品展示コーナー  7/24 


松川の遊覧船 7/26 


常夜灯 7/26 


悠学会例会 7/27 




猛暑富山35

720日(金)午前中に入浴の予定でしたが、「都合により、午後からに変更」と案内がありました。昼食後、北陸銀行丸の内支店まで行ってきました。アスフアルトの照りかえしで、猛烈な暑さとむせ返るようなニオイにおそわれました。ほんの100㍍足らずの距離だから、なんとか無事すみましたが、この調子で歩きつづければ、10分か20分以内でまちがいなく熱中症で倒れるだろうと思いました。ふだん、ホームのビルの中で生活しているので、実感できなかったのですが、たまたまちょっと外出したことで、たちまち「猛暑富山35℃」の実態を思い知らされました。



内科検診

721日(土)、午前、内科検診。尿検査・血液検査も受けましたが、総合的に見て、格別問題はなさそうだとのことでした。あいかわらず小便の回数が多く、毎晩34回トイレに通わねばなりませんし、左右両足の指先のシビレ・イタミも、昼夜を問わずおそってきます。薬をぬったり、両手でマッサージしたりしていますが、おさまる気配は見えません。

 タイへンだといえば、たしかにタイヘンですが、そんなグチをいえるのも、長生きしたおかげです。また、いまになって足の指先がシビレ・イタムのも、わかいころに体の養生をおこたったため、つまり「自業自得」だということもわかっています。

 ここまで来たら、グチを並べるのはほどほどにして、せっかくいただいたイノチを1日でもサキノバシにして、自分のすきな生き方をつらぬきたいとねがっています。



富山社会人大楽塾 

721日(土)。午後、9Fで「富山社会人大楽塾」代表柳原正年さんのお話を聞かせていただきました。わたしが柳原さんのお話を聞いたのは、今回がはじめてですが、「何事も、楽しくなければ、本物ではない」という感覚に、たちまち共感させられました。あとで、ネットで塾のホームページを拝見しましたので、その一部をご紹介します。 

中高年よ大志を抱け」をキャッチフレーズに荒廃する教育と人間関係を修復し「生きる元気を取り戻す」新しいコンセプトの社会人塾です。日本レクレーション協会・余暇生活開発士の柳原正年が中心となり、富山で初めての社会人向け民間塾です。

この塾は、従来の学習塾・文化芸術塾・啓発塾とは違ったコンセプトを持ち「個の確立」と「創造性の開発」をテーマに現代社会の問題点を解決しようとするものです。また、従来の学習を「楽修」に改め楽しい関係をいかに作るか」を基本に運営します。

 教育の自由化と民間活力の流れを受け、一般市民が中心となって「危ない社会」を変え「希望の社会人を作ろう」と「生涯楽修と癒しと志」を組み合わせ「社会人の楽しく活力ある生き方」を考え実践する新しい試みの塾です。講師、塾生が同じ「目線」で考え「目からうろこが落ちる」を体験していただきます。

 ちなみに塾の名前は、「大楽塾」と書いて、ダイガクジュクと読んでいるようです。念のため,学研・漢和大字典』でしらべてみると;

楽 日本漢字音ガク・ラク。上古漢語音glok, 現代漢語音yue, le, yao意味 ①音楽

かなでる。②たのしむ。解字 木の上に繭のかかったさまを描いた象形文字で、山まゆが繭をつくるレキ[櫟](クヌギ)のこと。そのガクの音を借りて、ギャク[謔](おかしくしゃべる)、ゴウ[嗷](のびのびとうそぶく)などの語の仲間に当てたのが音楽の楽。音楽で楽しむというその派生義をあらわしたのが快楽の楽。

ついでにいえば、漢語の音節はgok, lokのように単子音で構成するのが原則で、glokのように二重子音を当てるのは、きわめて異例。このことは、glokという語音が純粋な漢語ではなく、外来の語音であり、やがて漢語の伝統にしたがって、⓵ガク,gok>yue、②ラク、lokle, yaoに分化したものかと推定されます。例外のワクをもうけて二重子音を採用したのは、それなりの理由があったはず。ひょっとすると、世界規模での先進技術導入を意味する語音だったかもしれません。インド・ヨーロッパ語と日本語。漢語との音韻比較を進めるうえで、ひとつのテガカリになりそうな語音だと思います。

<参考>

k-r音の日本語:クルクル・クリカエス・クルム・クルマ・コロコロ・コロガル。

k-r(l)音の英語car, course, carry, career, cargo, carpenter,cult, cultivate, culture, wheelcyclebicycle.



入居者作品展示コーナー

ビルの3Fに、老人ホームめぐみの事務室があります。そのカウンターや壁の一画に居者たちの作品展示コーナーがあります。ハガキ大の水彩画折り紙などの作品にそえて、先日からわたしのブログ(コピー)「悠学」第2集(日本海文化悠学会機関誌)を展示していただいています。めったに反応はありませんが、ときたまスタッフの方などから「読んでみた」と声をかけていただいたことがあります。一人でも二人でも、自分の作品を読んでいただいたこと、そしてわざわざ声をかけていただいたことは、うれししいことです。ありがたいことです。



松川の遊覧船 

726日(木)。午前、信子の月命日のおつとめ。もともと27日が月命日なのですが、あいにく「悠学会」の月例会と重なりましたので、長念寺さんにお願いして、くりあげ実施しました。午後、美織さんといっしょに砂町自宅へ。台所やトイレの水回りを点検。すこしずつ故障がでてきています。2へも上がってみましたが、あまりの暑さで熱中症になる恐れもあり、すぐに退散。1階のクーラーのある部屋にもどりました。

このところ、しばらく散歩もしていないので、帰り道の途中、もういちど松川・いたち川の合流点を目ざすことにしました。前回は「工事中」とのことで、あきらめたのですが、こんどはなんとかたどりつきました。川の水がかなりにごっていましたが、それでも50㎝以上の鯉がつぎつぎ姿を見せてくれました。ひょっとしたら、人間がえさを与えるのを期待していたのかもしれません。

ひさしぶりで鯉の姿を見て楽しんでいたところ、こんどは松川の上流から遊覧船が下ってくるのが見えました。炎天下、川岸のサクラの木のこい緑色と遊覧船のマアカ色が対照的でした。遊覧船はいたち川との合流点でÙターン、また上流へ向かいましたので、わたしたちは、それだけじっくりと観察し、何回もスマホのシャッターを切るチャンスがありました。前回「振られた」経験があるだけに、あきらめないで、よかった。「待てば海路の日和あり」大満足のひとときでした。



「常夜灯」の由緒

ついでに、富山市が設置した「常夜灯」と「由緒」(掲示板)を見学しました。このあたり一帯は、佐々成政が富山城主だった時代から「木町の浜」とよばれ、「やがて水陸物流拠点となった」と解説されていました。

ただ、せっかくの「由緒書き」ですが、この「由緒」を設置した時期については「昭和63年7月」と明記されていますが、この「常夜灯」を「ダレが、イツ」設置したかについては、明記されていません。すこし、ザンネンです。



日本海文化悠学会例会

727日(金)、午後。茶屋町豊栄稲荷神社日本海文化悠学会の例会が開かれ、「悠学」第2について、執筆者二人から補足報告などがありました。

五十嵐顕房さん「南北朝時代の様相と越中の伝承

文山順子さん「美女平の巨木とかわいい花々

  ここでくわしい感想をのべる時間はないのですが、とりわけ五十嵐さんの報告をきかせていただいて、いろいろ考えさせられました。それは、天皇制をふくめて日本の歴史をどう見るかという問題です。

五十嵐さんは「南北朝の動乱の大本は、後醍醐天皇の政治姿勢にあった…自己のカリスマ性に対する過信と慢心があって・・・そのことが、尊氏との妥協を難しくし、建武の親政を崩壊に導いた・・・以前の他の天皇のように幕府の設立を認めていたら、このように不毛な動乱は起きなかった」と結論づけておられます。学習不足のわたしには、日本の歴史学会での通説がどうなっているのか、よくわかりません。。わたしにとっていちばんの関心事は、いまの日本人、とりわけ政治権力をもつ人たちの世界観・歴史観がどうなっているかということです。

 第2次世界大戦から70年以上の年月がすぎました。「大日本帝国敗戦」の結果、日本人の世界観・歴史観はどれほど変化したでしょうか?さすがに「大日本帝国」というコトバをふりかざす人は見あたらなくなりましたが、「敗戦」とはいわず、「終戦」とよぶなど、コトバヅカイで、なんとかごまかしてきました。また、広島の原爆慰霊碑の文面でも、「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」と書かれていますが、ここでいう「アヤマチ[過]とは、いったい「ダレがイツ・ドコで、ドンナ・アヤマチをおかしたのか、特定されていません。さらにいえば、「過ちは繰返しませぬから」と宣言した人たちの実態がよく分かりません。「反核の平和を誓うのは、全世界の人々でなくてはならない」というのが趣旨だとすれば、それはあくまで「宣言者たちの願望・目標」を示すだけのものであり、「全世界の人々」という「目標」を達成するまでのミチノリの遠さを覚悟しての宣言ということでしょうか。

 日本では、『古事記』『万葉集』の時代から「コトアゲ[言挙](議論)」というコトバはありましたが、当初から「コトアゲすることはタブー」とされていました。「ケンカしないで、おたがい仲よくやろう」という趣旨だったのでしょうが、現実の社会では、競争の結果、強者と弱者が生まれ、「弱者が強者の意思をソンタク[忖度]し、合わせる」ことによって、「平和な社会」がもたらされた、と考えられます。そして、この「平和な生活」というシクミは、21世紀日本になっても、基本的におなじハタラキをしているようです。

たとえば、「東京裁判でA級戦犯とされた人物の靖国神社合祀」や「従軍慰安婦」などの問題についても、外国から追及されて、いろいろイイワケしていますが、そのまえにまず自分たちの問題としてドウ考えるか、議論をつくした形跡は見あたりません。ヘタにコトアゲすると、「天皇の戦争責任の問題にまで発展するおそれがあるから」というイイワケも見えかくれしますが、そうなると、さらに深刻な問題が出てきます。天皇というのは名目だけの権力者で、実際は内閣(総理大臣)が(天皇の名を借りて)権力を行使する、というシクミですから、「戦争責任」ということになれば、事実上の権力者が責任を問われるのは当然の話。そこで、ぎゃくに天皇の「責任」をアイマイにすることによって、実権者・

内閣への責任追及の動きを封じこめようとしたのではないか…マサカとは思いますが、最近話題の「加計学園」・「森友学園」にも通じる「体質みたいなもの」を感じさせられています。



志田延義先生を偲ぶ会

729日(日)、午後、長江新町長念寺で「志田延義先生を偲ぶ会」に出席。記念講演として根井豊さん(九州大学元教授、哲学)から「根底にはあるもの(サブゼクト)をめぐって」、お話を聞かせていただきました。

 「哲学」というと、「かたくるしい話か」と、ついつい身構えてしまいやすいのですが、根井さんは、わたしども初心者にも分かりやすいように解説してくださったので助かりました。正直なところ、せっかく解説していただいたお話の内容について、どれだけ「理解」できたかといわれると、まったく自信がありません。しかし、これを機会に、「哲学」の意味・役割を見なおす気持ちになったことは事実です。よい勉強になりました。

 「哲学」というコトバは、一見漢語のように見えますが、実は和製漢語(日本人が考案した漢語ふうのコトバ)だそうです。もとのコトバは英語philosophy(愛知)、さらにもとはギリシア語philosophia

 「哲学」そのものは、ゆたかな内容をもつ学問です。日本の現代社会においても、政治・経済・文化などあらゆる分野で重要な役割をはたすことが期待されるはずですが、現実はどうなっているでしょうか?第二次世界大戦当時、敗戦直後、そして現在、日本の政治権力者たちは、どんな哲学にしたがって権力を行使してきたのでしょうか?

 わたしの目には、西洋流の「哲学」が輸入されるまえから、日本古来の「哲学」(みたいなもの)があり、それが「哲学」の流行・定着をさまたげているように見えてきます。前記「悠学会」の項でもとりあげた「コトアゲ(議論)することはタブー」という「哲学?」の亡霊といった感じもしますが、おおきな問題なので、このあともおりおり取りあげてゆきたいと思います。

 ここでちょっと話が脱線しますが、当日いただいた「要約」の中に、日本の哲学者として斎藤忍髄さん(岩波新書『知者たちの言葉』の著者)の名前がのっているのを見て、ビックリしました。斎藤忍髄さんとわたしは、むかし北海道庁立旭川中学校)(旧制)の同期生だったからです。クラスがちがったので、直接コトバを交わすことはめったにありませんでしたが、当時から下の名だけで「ニンズイ」とよばれ、有名人でした。学識という点ではみんな一目おいていましたが、それだけ信頼感をもっていたということでしょう。

 講演のあと、懇親会の席で根井さんからうかがった話ですが、ニンズイ先生はお酒が好きで、後輩の根井さんといっしょに飲み屋へでかけることが、しばしばだったそうです。たまたま半端な時間帯で、まわりに客の姿が見えなくなったとき、ニンズイ先生が「我々の存在が、つぎの客が来るまでのツナギになるんだ」と解説されたそうです。ナルホド、ここまで来ると、生活と哲学が密着していますね。この調子で、政局や現代史などの問題について、おたがいナットクゆくまでコトアゲ(議論)してみたらおもしろいかと思うのですが、いかがでしょうか?

なお、この日持参した『コトダマの世界Ⅱ』5冊は、懇親会の席で、根井さんをはじめ、「読んでいただけそうな」方々に贈呈させていただきました。ありがとうございます。