2010年10月26日火曜日

まぼろしの文化財

清朝康煕皇帝勅諭







「康煕皇帝勅諭」、富山で発見

いまから40~50年まえ、わたしが富山市立山室中学校に転勤して間もないころの話です。校下の文化財調査を思いたち、カメラを持って太田神社・浮田家・正源寺などをたずねまわりました。  

たまたまシンミョウ[新名](いたち川ぞいの町名)の専立寺さんを訪問したとき、なげし[長押]に一風変わった作品がかかっているのを見つけ、写真をとらせていただきました。それがこの「康煕皇帝勅諭」です。

康煕皇帝といえば、漢族の明朝をたおして満州族の清朝をうちたてた初代皇帝です。康煕元年は西暦1662年。日本では、寛文2年、徳川4代将軍家綱、フランスではルイ14世の時代です。

しろうとのわたしに鑑定する資格はないのですが、わたしがみたかぎり、これは題字のとおり「清朝康煕皇帝勅諭」にまちがいありません。清国の康煕皇帝が朝鮮国李王への使者に持たせた礼物(贈り物)の目録。一種の定型的な外交文書だと思われます。

礼物の内容は、「絹織物11種、合計50疋」。1疋=2反、約9m。「倭緞」は、「倭錦(魏国製絹織物)」のたぐいかと思われます。

 この文書は、特殊な様式で書かれています。清朝は征服王朝なので、公式文書はすべて漢語文と満洲語文を両方ならべて書きます。この勅諭でも、ごらんのとおり、右から縦書きで漢字文、左から縦書きで満洲文字文となっています。皇帝玉璽も、そうなっています。
   
文書の題字から、これが「清国皇帝から朝鮮国王にあてた外交文書」だとわかります。また、1662(康煕元)年10月20日に作成されたこともわかります。
  
この「康煕皇帝勅諭」が本物だと推定される理由がもう
一つあります。それは、勅諭全文が竜紋の額縁にはめこんだ姿に装飾されていることです。いうまでもなく、竜紋は皇帝だけが使用できる文様です。

できれば公式な文化財調査をお願いしたいと考え、県文化課におられた関清さんにご相談したりしました。しかし、正式調査まで話がすすまないまま、数ヵ月後、火災のためすべて焼失したとのこと。現存している資料は、わたしの手元にある写真だけだろうと思います。

いま公開することについて
「康煕皇帝勅諭」が本物だったことは、うたがう余地がありません。本物だとしたら、それがどうして富山市の寺におさまっていたのか?わたしは、こう推理します。

「康煕皇帝勅諭」は、もともと朝鮮国王の宮廷府におさまっていたはずです。 また、公式、合法的に国外へ持ちだされたとは考えられません。おそらくは非公式、非合法的に持ちだされ、日本国・富山県まで持ちこまれたものです。

その時期は、日清・日露戦争、韓国併合、朝鮮総督府設置から1945年の日本国敗戦まで。わたしがおたずねしたかぎりでは、寺方でも記憶がないようすでした。

持ちだした人物は、宮廷府・総督府に出入りできた役人もしくは軍人でしょう。さて、日本へもちこんで、一時自宅で飾っていたかもしれませんが、あまり公然と自慢できる話ではなかったのでしょう。

それで「お寺に納めよう」となったのかもしれません。あるいは、ご本人がなくなられ、ご遺族の判断で「お寺へ」となったのかも。

さいきんアフリカなどの諸国で、イギリス、フランスなどに対して「不当に持ちだされた文化財の返還をもとめる」声があがっているそうです。

わたしが新名のお寺で見つけた「康煕皇帝勅諭」は、実物がすでに火事で消滅し、これ以上調べようもありません。

それでも事実は事実。ここにあらためて、その写真を公開することで、「文化財の国外流失」の問題について考えるための参考になればと願っています。



お知らせとお願い
シリーズ「いたち川散歩」は、ここでしばらくお休みさせていただきます。そのかわりに、シリーズ「七ころび、八おき…わたしのリレキ書」をおとどけする予定です。
ひきつづき おつきあいのほど、よろしく おねがいいたします。




















2010年10月12日火曜日

いたち川にかかる橋

上流の大泉駅付近から松川との合流点まで約2,7km。そのあいだに、21本の橋がかかっているそうです。その中から、毎日散歩の途中でわたったり、ながめたりしている橋を、いくつかご紹介します。


雪見橋

(富山市の掲示板によれば)…富山城下を通る北陸街道の道筋にあたり、城下でもっとも大きな橋なので、「大橋」と呼ばれていました。また、現在の月見橋は「裏の橋」、雪見橋は「表の橋」とも呼ばれていました。

「大橋」は、慶安のころ(1648~51年)藩の費用でかけられ、1891(明治25)年、木鉄混製のつり橋にかけかえ、その時「雪見橋」と命名されました。

命名の由来は、江戸時代の文人で南画家の池大雅が、この橋のたもとをおとずれ、雪の立山連峰の勇姿に感動し、その絵を描いたからといわれています。
現在の橋は1975(昭和50)年に竣工。ギボシ[擬宝珠]型の欄干で、当時はたしかに見事な大橋に見えたのですが、最近はすこしくたびれた感じもします。


泉橋

雪見橋のすぐ上流にかかる橋。1962(昭和37)年竣工。
左岸の石倉町と右岸の泉町、それぞれに「延命地蔵尊」がまつられ、「お地蔵さんの水」をくみに来る人たちで毎日にぎわっています。泉町がわの橋づめには源氏慶太の文学碑があり、石倉町の「延命地蔵尊」は観光バスのコースにも組みこまれています。








月見橋

国道41号線が通る橋。雪見橋・花見橋にくらべ最近にできた橋。夜間は金色の照明灯で、まばゆいばかり。不夜城の感じです。
 この橋の橋柱には「いたち川」「月見橋」などの表記がありますが、「竣工年月」の表記がありません。国道にかかる橋と地方道にかかる橋とで、規格がちがうからでしょうか?ちょっとフシギです。







花見橋


雪見橋・月見橋・花見橋を「和漢朗詠集」にちなんで、「雪月花の三橋」と呼んだといわれます。その花見橋が戦災で焼け落ちたあと、あたらしい橋にかけかえられました。1964(昭和39)年1月竣工。橋づめに、橋名をしるした旧橋柱(松野平五郎市長の筆跡)が、いまも記念碑として保存されています。松野市長は、大正8年~昭和3年まで在任。









九右衛門橋


1986(昭和61)年竣工。橋づめに「常夜燈」を配置した、みごとな橋です。
命名の由来は、「孝子久右衛門」を記念してとのこと。
「久右衛門」は、いまから300年ほどまえ、江戸時代なかば、寺内町(現堤町通り付近)の住人。母子家庭にそだち、親孝行で正直者。富山2代藩主前田正甫公から「諸人の手本」として表彰され、米10石をあたえられたといいます。




清辰橋


1998(平成10)年竣工。橋の手すりは鋼鉄板製(?)で、手でたたくと、小太鼓を打つようにはずんだ音がひびきます。
いたち川の遊歩道はまだ上流までつづきますが、わたしの平生の散歩はここまで。ここで清辰橋をわたり、こんどは右岸をくだります。









公衆トイレ

清辰橋をはさんで両岸に1本ずつ、柳の大木がそびえています。右岸の柳の下には、公衆トイレもあります。

2010年10月8日金曜日

川べりの文学碑など

源氏鶏太文学碑

石倉町から泉町へわたる橋が泉橋。わたりきった橋づめに、延命地蔵尊とならんで、源氏鶏太の文学碑があります。直筆の原稿「一本の電柱」を模した銅版が自然石にはめこまれています。

源氏鶏太、本名は田中富雄。1912年4月19日生まれ。1985年9月12日没。旧富山商業学校(現県立富山商業高校)出身。「英語屋さん」「口紅と鏡」「三等重役」「定年退職」などの作品を発表。直木賞・吉川英治文学賞などを受賞。

「蛍川」ロケ モニュメント

源氏鶏太の文学碑から上流へ10分ほど歩いたところ、清辰橋の手前に、映画「蛍川」のロケ モニュメントがあります。この映画は、宮元輝の小説「蛍川」を映画化したものです。
宮元輝、本名は宮本正仁。1947年3月6日、神戸市生まれ。一時、富山にも居住。創価学会員。「泥の川」「蛍川」「優駿」「骸骨ビルの庭」などの作品を発表。太宰治賞・芥川賞・吉川英治賞・司馬遼太郎賞などを受賞。



少女像「風に向かって」

久右衛門橋のやや上流右岸に、横山豊介のブロンズ少女像「風に向かって」が立っています。台座にタイトルと制作者名が刻まれていますが、風雨にさらされ、制作者名の部分が読みにくくなっています。
横山豊介は、1930年生まれ。彫刻家。日展評議員・審査員。

2010年9月21日火曜日

メヒ郡・ネヒ郡・ニヒ川郡

「イタチごっこ」の歴史

松川・イタチ川合流点

イタチ川は今木橋のすぐ下流(松川桜橋の下流)で、松川と合流します。ご覧の写真では、左側が松川、右側がイタチ川です。この白い突堤の水際に立っていると、60~70cmくらいのでっかい鯉がぞろぞろ集まってきます。

記念碑と常夜灯

 ここ「今木町」は富山城下の湊町。松川(神通川筋)を船で運ばれてきた木材を陸揚げした場所ということから、「木町・今木町・下木町」などの町名が生まれました。小公園の一角に記念碑や常夜灯などがあります。




「イタチごっこ」の歴史
松川・イタチ川の合流点に立って、いろいろ妄想をめぐら してみました。
イタチ川については、「元亀2(1571)年、上杉輝虎が椎名氏の富山城を攻略の際、イタチ川をはさんで戦った」との記録があります(上杉年譜)。これは、「国取り合戦」というイタチごっこです。
「天正年間富山城主佐々成政がイタチ川を開削した」という記録もあります(越中志微)。これは、洪水などの自然災害と治山・治水対策というイタチごっこです。

メヒ郡からネヒ郡へ
 いまのネイ郡は、歴史かなづかいではネヒ郡。万葉集の時代にはメヒノコホリ[婦負郡]と呼ばれていました。メヒがネヒに変化したのは、その時代に語頭子音のmがnに変化したためで、ミラ→ニラ[韮]、ミナ→ニナ[蜷]などとおなじ現象です。

母親が子どもをオンブする姿
 それにしても、メヒやネヒの語音に漢字[婦負]を当てたのはナゼでしょうか?[婦負]という漢語はありません。しいて漢字の意味をたどっていけば、「女性(母親)が子どもをオンブする」姿です。神通川(もしくは松川)が常願寺川(もしくはイタチ川)と合流する姿は、見方によっては、まさしく「メヒ=婦負=ネヒ」の姿です。

メヒ[姪]は、一族繁栄繁のシンボル
 メヒ[姪]は、「兄弟姉妹の生んだ女子。ヲヒ[甥]の対」。語源は不詳ですが、イズミ仮説では動詞メフ[芽生](想定)の連用形兼名詞形。植物の本体からメ[芽]やネ[根]がハエル[生]・フエル[増]姿です。それはまた、合流したり分流したりして、やがて海にそそぐ川の姿です。

「メヒ川」は、大河の称号
 メヒ[姪]やヲヒ[甥]は、一族の血統が「メ[芽]を出し、ネ[根]をハル」、栄える姿。とすれば、「神通川の一部」とされる「メヒ川」(万.)も、「合流したり、分流したりして、つぎつぎ勢力を拡大してゆく大河」につけられた称号かと思われます。

メ[目・芽]とネ[根・音]は大同小
 上代語の音韻感覚からいって、m音とn音には大同小異の面があります。たとえばメ[目・芽]とネ[根・音]は、いずれも「(本体から)ウム・ウマレルもの」であり、また「ナル[生・成]もの」です。

マフ[舞]とナフ[綯]
 2音節動詞のm-p音マフ[舞]とn-p音ナフ[綯]をくらべてみましょう。
「マヒ[舞]をマフ[舞]」、「ナハ[縄]をナフ[綯]」などといいます。この場合、マフが動詞基本形で、マヒがその連用形兼名詞形。同様に、ナフが動詞基本形で、ナハがその未然形兼名詞形と解釈できます(連用形はナヒマゼ[綯交]などのナヒ)。
 もうひとつ、マフとナフに基本的な共通点があります。マヒ[舞]はマヒ[幣](捧げ贈る物)とおなじ。身も心も神にささげる行為。キリキリマイして、マヰイル[参入]、神と合体する行為です。ナフ[綯]も、「よりをかけて多くのすじをまじえあわす」行為。ただ並べるだけでなく、マハ[舞]せ、マヰラ[参入]せ、合流・合体させる作業です。

n-p音のナワバリ
 m-p音にくらべて、n-p音のほうがよりおおくの派生語を生みだしているようです。2音節動詞だけでも、ナフ[綯]のほかにナブ[並・靡・隠]・ヌフ[縫]・ノブ[展・延・述]などがあります。n-p音は日本語の中でかなりひろいナワバリを持っています。
「上代語辞典」にネヒの項目は見あたりませんが、同族語と見られるネブ[合歓木]・ネブル[睡]やネバフ[根延]・ネハリアヅサ[根張梓]などの語がのっています。

ニヒ[新]川はニフ[丹生]の川
 ニイカワ[新川]は、ニヒ川ともニフ川とも呼ばれました。ニフといえばニフ[丹生]。「上代語辞典」は、「ニ[土・丹]は①土。②赤色の顔料。赤土。辰砂(硫化水銀)や鉛丹(酸化鉛)を含む赤土が、顔料として使われた」、「フ[生]は草木が生え茂ったり、物を産したりする場所」と解説しています。

 「広辞苑」には、「ニフ[丹生]」の項目がないかわり、「ニブノカワカミ[丹生川上]」という項目があります。それは、古代から有名な辰砂の産地です。そういえば、奈良時代から神通川の川上でも水銀が発掘されており、現代も神岡鉱山の鉱毒とイタイイタイ病の関係が問題になりました。

ニフの川がニハカに作るニハ
春になると、川上のニフ[丹生]のあたりに積もっていた雪が解けだし、まわりのニフ[丹生](土砂)を巻きこんで流れ出し、平野部に出たとたんに大洪水をおこします。これが「ニフ[丹生]の川」。水の色はニブ[鈍]色。大洪水のあとに、丹色の羽を広げたような美田=ニハカ[俄]づくりのニハ[庭・丹羽]をのこします。⇔ニハ[丹羽]郡・ニヒタ[新田]・ニフタ[新田]。

n-p音の漢語
 n-p音の漢語には、ヤマトコトバと同族語かと思われるほど、よく似た音韻感覚のコトバがあります。(以下、日本漢字音(新・旧)・漢字・現代漢語音・上古漢語推定音の順で発音(概略)を表記します)。

ニュウ<ニフ[入] niep>ru4 ネ[根]がノビル、大地にシノビ入る姿。また、ニ  フ[丹生]が川にシノビ入る姿。
ナイ [内] nueb>nei4 ワクの中にシノビ入る姿。シノビ入る場所。
ノウ<ナフ[納]nep>na4 ワクの中にシノビ入らせる姿。結果として、元の 姿は隠れる。⇔ナフ(なえる。しびれる)・ナブ[隠](かくれる。こもる)・ナブ  [靡](なびかせる)・ナブ[並](並べる)。

n-p音の英語
 ついでにいえば、英語のnephew(甥)とniece(姪)は語根nepot-(孫や甥)の派生語とされています。日本語のメヒ[姪・婦負]やネヒ[婦負]・ ネバフ[根延]・ネハリアヅサ[根張梓]などと同族語でないかと考えられるほど、音義ともよくよく似ています。Nepotism(縁者びいき)なども「ネをハリめぐらす」姿です。




















2010年9月14日火曜日

カモちゃん と アオサギくん

ウオーキングコース

いまどきのイタチ川べりに、イタチは住んでいないようです。しかし、戦後でもタヌキが住んでいたことは事実です。まだ遊歩道が整備されていなかったころ。町内のKさんのお宅のうらが、そのままイタチ川の堤防につながっていた時代の話。夏の日、あたりがくらくなってから、親子づれのタヌキが3匹、Kさん宅の縁の下から顔を出したというので、数日間おおさわぎしたことがあります。

 それから半世紀。イタチもタヌキも、すっかり伝説の世界にとじこめられてしまいました。ネズミやモグラくらいは、いまでもいるのでしょうが、鉄板とコンクリートで護岸工事されたせいか、じっさいに見た記憶がありません。ただいちど、この夏のはじめ、1匹のヘビの死骸が歩道に転がり、太陽にさらされているのを見たことがあります。

 わたしのいつもの散歩道は、雪見橋から上流へ泉橋・久右衛門橋・清辰橋あたりまで。下流では、月見橋・花見橋・今木橋あたりまでです。

こんなせまい範囲ですから、そこで見かける野生動物の種類は、ごくわずかです。もっと上流もしくは下流までゆけば、もうすこしちがった種類の動物が見つかるかもしれません。



カモ一族 

 イタチ川を散歩するようになって、はじめて「ご対面」できたイキモノたちがいます。先日からケータイのカメラで追いかけている「カモちゃん一族」や「ひとりぼっちのアオサギくん」たちです。

 渡り鳥のカモがイタチ川にも飛来することは、まえから見たり聞いたりしていました。ふつうカモは冬に渡来し、春になるとまた北国へ帰ってゆくのですが、このカモちゃん一族はちょっと変わっています。7月になっても、9月になっても、イタチ川に住みついたままです。  

 五番町公民館まえの橋の上から、カモたちにパンをちぎって投げていた男の人が解説してくれました。
「このカモが母親で、すぐ横にいる3羽がその子ども。あとの3羽は家族ではない。カモなかまとして、いっしょに行動しているだけ。」

 なるほど、パンくずを取りあっている姿をみているうちに、カモ社会にも「親と子」「親分と子分」みたいな関係調整ルールがはたらいていることに気づきました。あたりまえといえば、あたりまえ。あらためて感心するほどのことではありませんが。


アオサギくん   

いつも群をなして行動するカモたちとは対照的に、親愛なるアオサギくんは、いつ見てもひとりぼっちです。

 まえに見たときは、川の流れにはいりこんで、いつまでもじっとたたずんでいました。いっぺんだけ、魚をつかまえる瞬間を見たことがあります。ことしは、水ぎわ(護岸コンクリート)にたたずむ姿ばかりです。

いまイタチ川遊歩道で見かけるカモは、1グループだけのようです。アオサギも、このアオサギくん1羽だけだと思います。

カモちゃんたちは、人間が投げたパンくずを取りあうくらいですから、だいぶ人間になれています。ひとりぼっちのアオサギくんは、以前はちょっとヒトの気配を感じると、すぐさま飛び去ってしまったものです。しかし、ちかごろはこちらが数回シャッターを切るあいだ、ポーズをとりながら待っていてくれるみたいな感じです。それだけ、人間の視線になれてきたのでしょう。












2010年9月7日火曜日

イタチごっこの川

婦負郡・新川郡絵図(石黒信之)をよむ



 8月27日、共寿会の見学会に参加したついでに、射水市新湊博物館をたずねました。共寿会というのは、富山第一銀行に縁のある教職員OB, OGの親睦団体。毎年1回、日帰りの見学会を実施。ことしの見学先はヘルン文庫(富山大学)、富山福祉短大(浦山学園)、大島絵本館の3箇所でした。

 新湊博物館をたずねるのは、ン十年ぶり。道の駅新湊で昼食を食べたあと、自由時間を利用しての見学です。ここは比較的小型でローカルの博物館ですが、伊能忠敬と並ぶ地理学者・測量家石黒信由にかんする資料が展示されているなど、特色のある博物館です。

 石黒藤右衛門が制作した絵図の複製があるというので、おみやげに買ってきました。婦負郡と新川郡の2枚です。わたしの計算では、この2枚をつなぎあわせれば、いまの富山市全体をカバーできるはずでした。

 うちへ帰ってから、さっそく地図をひろげて比べてみました。ともに石黒信由の孫信之、天保9(1838)年の制作。古地図は、いまの地図とちがって南と北がぎゃくになっているので、比較対照するのにテマヒマがかかります。

 いちばんの関心は、当時の地図に神通川・常願寺川・イタチ川などがどんなふうに記録されているかです。

 神通川と黒部川は、川幅をしめす2本の黒線で縁どりした大河としてえがかれています。「神通川」という名前は記入されていませんが、「神通・中神通・西神通」の村名が記入されているので、当時すでに「神通川」と呼ばれていたことがわかります。黒部川については、中流部に「黒部川」と明記され、下流部でほぼおなじ川幅を持つ二筋の川に分流していたこともわかります。

 それにくらべて常願寺川には、2本の黒線の縁どりがありません。中流部で「常願寺川」と記入され、また「常願寺」の村名も見えます。しかし河口部などは、上市川より細い青線でえがかれ、どこで日本海にそそぐのか判定しにくいほどです。常願寺川フアンとしてはガックリ。まさに「信ジラレナイ」感じ。
 
 いたち川については、イタチのイの字も見あたりません。それでも川筋をしめす青色の線は明確で、上流、常願寺川からの分流地点から下流、神通川へ合流するまで、周囲の村名をたどることもできます。

 絵図では、いたち川が富山城の北で直接神通川へ合流しています。この点で、現行の地図とはおおちがいです。しかしそれは、この絵図制作後に神通川の河道変更工事が行われたためなので、問題ありません。

 わたしの思わくでは、「婦負郡と新川郡の絵図を2枚つなげば、富山市全体をみわたせる絵図ができる」ということでしたが、みごとに失敗しました。2枚の地図は、原図の段階で縮尺が一致していたものが、複製の段階で縮小率がまるでちがいます。これでは、つなぎようがありません。

 あきらめきれず、30日に博物館へ電話。富山県全体をカバーできる絵図があるとのことで、あらためて注文。9月1日、品物がとどきました。こんどは越中四郡図セットで、「文政8(1825)年石黒藤右衛門信由測量・作図」とあります。

 さきの「信之絵図」とこんどの「信由絵図」の制作年代のちがいは、13年しかありません。その間に、山や川の景観が大きく変化するとは、ちょっと想像できません。

 ところが たいへん!「信之絵図」で あれだけ影のうすかった常願寺川が、13年まえに制作された「信由絵図」では、神通川と同格の大河として えがかれていたのです。

 これは いったい どういうことなの?そこで もういちど絵図の標記を読みなおします。
「道程ハ一里ヲ以ッテ曲尺一寸二分ニ縮ス。山川道ノ屈曲オヨビ駅村等ハソノ大略ヲ図ス」とあります。

 なるほど、水田耕作地などとちがって、河川の規模などは課税割当てと直接の関係がない。だから、「ソノ大略ヲ図ス」だけでよい。神通川や常願寺川の姿を絵図の上でどう表現するかは、製図者の自由ということかもしれません。

 それにしても、信由の絵図を基礎にしてつくられたはずの信之絵図で、どうして常願寺川をこんな姿にかきかえたのでしょうか?信之が独断で変更した?あるいは、ただの手抜きだった?それとも、常願寺川自体になんらかの変化(氾濫など)があったため?

 大山鳴動シテ、ネズミ一匹。それでも、4枚の絵図のおかげで、この1週間ずいぶんとたのしませて もらいました。同時にまた、地名や人名にかんする<イズミ仮説>がいちだんとふくらんできました。しばしば「誤解と偏見による独断論」と批判されてきた「仮説」です。 

 神通川・常願寺川といたち川にかんする<イズミ仮説>は、ほぼつぎのとおりです。

①むかし、神通川と常願寺川は合流して日本海にそそぐ時期があった。また、それぞれ単独で日本海にそそぐ時期もあった。

②現状では、常願寺川から分流したいたち川神通川から分流した松川と合流し、やがてまた神通川と合流して海にそそぐ。これは、イタチごっこの関係といえる。

③「イタチ川」という名前は、そのイタチごっこの立役者につけられた愛称だと考えてよい。

④「神通川・常願寺川」などという名前は、もとヤマトコトバから漢語風の名前に改名したものにちがいない。まずはもとの呼び名をたしかめたい。

⑤「神通川」の古称については、「メヒ[婦負]川」できまりらしい。しかし「常願寺川」については、「流域の地名から水橋川・大森川・岩峅川などと呼ばれたが、出水なきを常に願うという住民の気持ちをこめて常願寺川の名が次第に定着した」(地名辞典)という。

⑥「神通川」と「メヒ[婦負]川」や「ネイ[婦負]郡」との間に対応関係があるとすれば、「常願寺川」と「ニフ[丹生]ノ川」や「ニイカハ[新川]」との対応関係を想定してもよいのではないか?

婦負郡・婦負河の婦負はもとメイからネイに子音交代したもの。ミナ[蜷]>ニナ[蜷]とおなじ現象。メヒ[婦負]=母親が子を負う姿=本流が支流と合流する姿。人びとは、神通川と常願寺川、また松川・いたち川との関係から、叔母とメイ[姪]の関係を連想したかもしれない。

 さて議論が核心にせまり、おもしろくなってきましたが、老人なので すぐ つかれます。ここらで一服して、こんどまた「メヒ[婦負・姪]・ネヒ[婦負]・NEPHEW」や「ニフ[丹生・入]・ニヒ[新]川」・NEW」などの対応関係などもさぐってみたいものです。

2010年8月31日火曜日

川にゆかりの地名


 いたち川は、常願寺川の分流。常願寺川は、日本全国でも有数の暴れ川。いたち川もまた、以前は、イタチの名に恥じない(?)暴れ川でした。いまのいたち川の風景からは、想像もつかないことですが。

 たびたび氾濫をくりかえし、災害をもたらす一方で、洪水のあとに、ニワカづくりのニワ[庭](=広大な美田)をのこしました。そこに農民たちが住みつき、つぎつぎ開墾して、村づくりをすすめました。やがて商人や職人、さらには役人・武士の住宅建設まで、町づくりがすすみました。

 いたち川流域には、たくさんの地名や町名があります。
中には、戦後の町村合併や都市計画などで、あらたに誕生した町名もあり、ぎゃくに消滅した町名もあります。もちろん、何百年という歴史や伝統を持つものもあります。

 「角川・荷本地名大辞典・富山県」(以下『地名辞典』と略称)をたよりに、いたち川流域の地名や町名の由来をたずね、そこの住民たちの「生活と意見」「判断や希望」などをさぐってみたいと思います。

<地形などからの命名>
タカヤシキ 
高屋敷 いたち川と赤江川にはさまれた平地。常願寺川下流の微高地。洪水が心配なので、住居を構えるのに比較的安全な地形と考えたのでしょう。江戸期~明治22年の村名。明治22年~現在の大字名。中川原に隣接。

クボ 窪 神通川下流の東側で旧赤江川の西岸に沿う平地。地名は窪地の開拓に由来する。低湿地で水田耕作には適していますが、住宅用には要注意。おなじ地形でも、他の地域では「久保」などと表記されることがあります。

ナカガワラ 中川原 常願寺川といたち川との中間地域の地名。常願寺川の古い河道あとにあたります。高屋敷に隣接。

シンカワラマチ 新川原町 江戸期~現在の町名。いたち川左岸のカワラ[川原]あとにつくられた町。「新-」というのは、もとのカワラ町と比較して新規に開発された町の意味か。

ムコウガワラマチ 向川原町 江戸期~現在の町名。イタチ川右岸のカワラ[川原]あとにつくられた町。新川原町のやや上流。「向-」というのは、「(富山城から見て)川の向こう側」の意味か。ただし、ある時期(昭和40年以前)、左岸の一部地域(現行の砂町・石倉町の一部)を含む。

コジマチョウ 小島町 江戸期~現代の町名。もとは、いたち川と松川(旧神通川)との間にあった小島。

 <水・泉などがつく地名・町名> 良質でゆたかな飲料水・灌漑用水を確保することが稲作農耕成功の前提条件。現在中心市街地となっている地域も、はじめは水田用地として開発されたものです。

イズミチョウ 泉町 [成立] 昭和40年。[直前]泉町・東田町の各一部。市街地の南東部。いたち川の右岸。東町・柳町・向川原町・清水町に接し、また川をはさんで石倉町と接する。

オオイズミ 大泉 神通川と常願寺川にはさまれた平坦地の中心部、いたち川左岸に位置する。地名は、大きな沼や泉があったため。大泉川原とも呼ばれた。江戸期~明治24年は大泉村。

オオイズミマチ 大泉町 明治24年~昭和47年の富山市の町名。昭和40~47年、現行の大泉北町・梅沢町・辰巳町・大泉町1~3丁目の各一部となる。

コイズミチョウ 小泉町 常願寺川西岸の平坦部。地名の由来は、低地が多く清水の湧き出る泉や沼が多くあったため。江戸期~明治22年の村名。明治22年~昭和17年の大字名。明治24年~現在の富山市の町名。

オクイマチ 奥井町 [成立]昭和44年。[直前]大字窪・奥井・稲荷・田地方・奥田の各一部。市街地の北東部。

シミズ 清水 神通川の支流鼬(イタチ)川の東岸に沿う。常願寺川伏流水であるショウズが湧き出る地であることからつけられた地名。江戸期~明治22年は清水村。明治22年~現在の大字名。

シミズマチ 清水町 明治22年~現在の富山市の町名。 昭和40年東町・元町清水町・旭町・於保田町の各一部となる。

[イズミひとりごと] ここまで『地名辞典』をたよりに、要約・引用しながら話をすすめてきました。シミズ[清水](富山市)の項で「神通川の支流鼬川の東岸」と解説されているのを見て、ハテナと思いました。
まえに引用したとおり、「イタチガワ[鼬川]」の項で「水源は常願寺川…分流されて、鼬(イタチ)川となる」と解説されています。ここで「鼬川­=神通川の支流」ということになると、イタチ川は「常願寺川の分流」でもあり、また「神通川の支流」でもあることになります。イタチ川の生態(?)は神出鬼没、なかなか正体をつかめないですね。

田のつく地名> 日本の地名には「田」のつく地名がたくさんあります。なぜでしょうか。ツキデル地面がタ[田]。胴体からツキデルものがタ[手]=テ。テをツキダシ、タをタガヤス。それが農地開拓や町づくりの原点です。

オオタ 太田 昭和17年~現在の富山市の大字名。[直前]上新川郡太田村大字太田本郷。市の南東部。西は本郷町、南は太田南町、東は大宮町に接する。的場(マトバ)清水(ショウズ)という池があり、池の水は眼病によく効く霊水として有名でした。

オオタノホ 太田保 鎌倉期から見える保名。新川群のうち。南北朝期以降は太田荘とも。おおよそ富山藩領で、富山市街の東を流れるいたち川の西、松川(旧神通川)の南、熊野川の東の72か村。

オホタマチ 於保多町 [成立] 昭和40年。[直前]柳町・清水町・館出・清水の各一部。[由来] 於保多神社名による。於保多神社は天神様として有名。菅原道真とその子孫とされる前田家富山藩主利次・正甫・利保公をまつる。

オオタグチマチ 太田口町 江戸期~昭和40年の町名。江戸期の城下中心部に位置した。地名の由来は往古新川郡太田荘への往来の町端であったため。昭和40年現行の大田口通・山王町の各一部となる。

オクダ 奥田 神通川下流東側の平地。地名の由来はかっての奥田荘の名にちなむという。天正10年(1582)上杉景勝が神保信包に与えた所領の一つ。江戸期~明治22年の村名。以後は大字名。昭和10年富山市に編入。昭和46年、一部が奥田町の一部となる。

トヨタ 豊田 神通川下流東方、常願寺川の堆積土による台地上に立地する。地名の由来は周辺低地の集落に比し、標高10mの地にあって、常願寺・神通両川の氾濫を避けやすい米所の意、また豊穣を祈念する意から。江戸期~明治22年の村名。以後現在まで市の大字名。

<城下町ゆかりの地名>
イマキマチ
 今木町 江戸期~現在の町名。富山城下田地方町分二十九町の一つ。富山城の東、松川(神通川筋)といたち川との合流点に位置する。昭和40年一部は現行の本町・八人町・新川原町の各一部となり、同時に下木町の一部を編入。

キバマチ 木場町 昭和11年~現在の富山市の町名。国鉄と山駅の北西、神通川といたち川が並行して流れる右岸に位置し、富岩運河にはさまれた形。神通川廃川地が富岩運河掘削の土砂を利用して埋められた地域。

キマチ 木町 江戸期~昭和40年の町名。富山城下本町分三十五町の一つ。町名の由来は城下本町で販売される木材の陸揚げをしたことによる。木町の浜として佐々成政の時代から渡船場として使われ、藩祖前田利次が入城後も神通川を利用する貨物の荷揚げ・船積みなど海運交通の要点としてにぎわった。昭和40年現行の総曲輪・本町・桜木町・八人町の各一部となる。

ソウガワ 総曲輪 明治初期~下内の町名。惣曲輪とも書く。市街地の中心部。町名の由来は、富山城外濠の意の総称からという。江戸期の町名書に総曲輪の名は見えないが、通称名としては見える。役所および役人の屋敷用地。明治4年、場内の旧藩庁が県庁となる。以後、城跡を中心に各種公共施設の建設がつづく。第2次大戦で被災したが、戦後の復興はめざましく、富山の中心的ショッピング街として繁盛をつづける。昭和40年現行の総曲輪・旅篭町・平吹町・丸の内・西町・一番町・桜木町の各一部と本丸・大手町となる。

ナガエマチ 長柄町 江戸期~現在の町名。町名の由来は富山藩の長柄の槍組が住んでいたことによる。町内には、塩硝蔵や牢屋も建設された。また明治時代、しばしば神通川の洪水で被害をうけ、時には浸水が天井に達したことがあるという。

ニシアイモノチョウ 西四十物町 江戸期~現在の町名。町名の由来は当地に城下西の魚市があったが、魚屋のことを「あいものや」ということから名付けられたという。魚市は東四十物町と隔番に立てられていたが、天保2年(1831)の大火災で類焼。魚問屋の分立は廃され、二番町1か所に設置。明治40年、一部が現行の桃井町・旅籠町・越前町の各一部となる。

ヤナギマチ 柳町 江戸期~昭和40年の町名。城下のほぼ中央部で、いたち川の東岸。町名の由来は、富山最古の町で、いたち川の縁にあり、柳が多かったからという。通称柳町天満宮は明治6年オホタ[於保多]神社と改称。
 
 [イズミひとりごと] 現代の生活では「なんだ、ヤナギか」と無視されがちですが、古代の生活では、ヤナギは重要な資源でした。ヤナギ=ヤ[矢]のキ[木]。矢のようにツキデル枝。しなやかに流線型をえがく枝。ヤナギの枝は、製材機械などなかった時代、そのまま手作業だけでカゴ・ザル・タル・ハコなどをつくることができました。

<まぼろしの町名> かずある町名の中には、町名そのものが消えたり、命名の由来が不明になったりしたものがあります。

エサシマチ 餌指町  江戸期~昭和40年の町名。富山城下田地方町分二十九町の一つ。餌差町とも。城下のほぼ中央部、鼬川の左岸に位置する。町名の由来は富山藩の餌差(小鳥をモチ竿で捕えるのを業とする者)が居住していたことによる。昭和40年現行の中央通・堤町通の各一部となる。

ヒガシアイモノチョウ 東四十物町 昭和40年、仁右衛門町などとともに現行中央通の一部となる。

[イズミひとりごと] 西四十物町は現存しますが、東四十物町の名は消えました。町内にあった郵便局がとなりの豊川町に100mほど移動して、「富山四十物町郵便局」を名のり、アイモノ町の歴史を伝えています。

ニエモンマチ 仁右衛門町 江戸期~昭和40年の町名。富山城下中央部に位置する。町名の由来は川のほとり仁右衛門という船頭が住んでいたということによるという。昭和昭和40年、現行の中央通2丁目・豊川町・白銀町・常磐町の各一部となる。

[イズミひとりごと] 漢字で「仁右衛門」と書くと、いかにも武士や役人の名前のように見えますが、ほんとうは「ニエモノ」というヤマトコトバを漢語風に当て字したもの。ニエは、食糧。特に神に捧げる食糧。イケニエ[生贄]・ニエヒト[贄人](天皇や貴人の食糧にする魚や鳥捕える人)などのニエです。
 船頭さんは、魚をとる漁師でもあり、加工する調理師でもあり、また人や物を運ぶ運送業者でもあります。神武天皇が吉野川の上流で出あったという「ニエモツの子」なども、まちがいなくニエモンの仲間です。

2010年8月24日火曜日

いたち川命名の由来




いたち川は、どうしてイタチ川と呼ばれたのでしょうか?動物のイタチとは、関係があるのでしょうか、ないのでしょうか?

まず「角川・荷本地名大辞典・富山県」から引用します。
いたちがわ[鼬川]  水源は常願寺川で、上新川郡大山町上滝で取水された常西合口用水が…馬瀬口付近で分流されて、鼬(イタチ)川となる。用水合口化以前は、清水又用水として常願寺川から分水され、のちいかだ[筏]川と合流してから鼬川と称した…常願寺川扇状地面の一部を灌漑しながら富山市内中心部に入り、松川や赤江川を集め…北上して神通川に入る…
佐々成政は治水の技術にすぐれ、刀(タチ)雄(オ)神社(富山市太田本郷)の境内にある名木菩提樹の碑文に「天正年間富山城主佐々成政城下の治水灌漑を計って鼬川を開削す云々」

この「地名辞典」は、おおくの地名について語源や由来を解説していますが、ここでは「イタチガワ=鼬川」とするだけで、イタチの語源には触れていません。

「イタチ [鼬] が住んでいたからイタチ川」といわれると、なんとなくナルホドと思わないでもありません。しかしそれでは、動物のイタチ[鼬]は、どうして「イタチ」と呼ばれることになったのでしょうか?

動物のイタチ[鼬]は、その生態から命名された可能性があります。イタチ川は動物ではありませんが、「流れる」「あふれる」「泥田(可耕地)をのこす」など、いろんな表情や運動をしてみせます。イタチ川という呼び名もまた、その生態(状態)からの命名かもしれません。

そんな思いで、ネットで「イタチ川」を検索しているうちに、(前回ご報告したとおり)横浜市にも「イタチ川」が流れていることに気がつきました。「秋のいたち川小景・生涯学生気分・Yahoo!ブログ」に出会ったからです。

このブログは「この川の名前は動物のイタチでなく、『出で立ち』に由来しているとの説が有力」とのべ、その論拠として、徒然草の兼好法師が五七五七七の頭に「イタチカハ」をよみこんだ歌を紹介しています。
 いかに わが ちにし ひ より りの きて 
        かぜだに ねやを らはざる らん

[大意]
 カにも矢が飛んでイク姿で、私は旅にチました。その日からあと、(住人のいないわが家に)リが飛んで来て、たまるばかり。ゼが吹いたとしても、ねや[寝屋・閨]のチリを吹きラウことはないでしょう(イズミ訳)。

 こうしてみると、兼好法師は「イタチ川が流れゆく姿」を「旅人が旅にイデタツ姿」に見立てています。わたしも、この解釈に賛成です。

「イタチ川=イデタツ姿の川」という解説は、すっきりしていて、説得力があります。しかし、「イタチ川のイタチはイタチ[鼬]ではない」となれば、イタチ[鼬]はどうしてイタチと命名されたのでしょうか?

富山市を流れるイタチ川は堂々の1級河川。動物のイタチ[鼬]も、上代語辞典にのっているヤマトコトバの1級品。イタチ川が、その生態(状態)からの命名だとすれば、動物のイタチも、その生態からの命名と考えてよいはずです。

わたし自身の解釈(仮説)では、イタチ[鼬]もイタチ川も、ともにイタチ[射立]の姿をもっているからこそ、イタチと呼ばれたわけです。

ヤマとコトバの原理原則からみて、動詞イタツ[射立]が基本形で、イタチが連用形、兼名詞形と考えられます。この語形の役割は、英語動詞の分詞形、たとえばstand> standing, start>startingなどと よく にています。

ここであらためて、イタチ・イタツ関連のコトバを辞典でしらべてみましょう。
イタチ[鼬]=食肉目いたち科の獣。口吻から尾端まで、約50センチ。体は細長く、赤褐色。  

 尾は長く太い。窮すれば悪臭を放つ。夜間出て、鼠、鶏などを捕えてその血を吸う。種々の迷信・俗信に関係している。
イタチウオ[鼬魚]=硬骨魚目いたちうお科の魚。別称うみなまず。
イタチグサ[鼬草]=レンギョウ[連翹]=もくせい科の落葉潅木。中国原産。早春、葉に先立って鮮黄色・四弁の筒状花を開き美しい。
イタチグモ[鼬雲]=積乱雲の異名。
イタチゴッコ[鼬事]=①二人互いに他の手の甲をつねって我手をその上に載せ、交互にくり かえす子供の遊戯。②一つ事をくりかえすばかりで無益なこと。
イタチノ サイゴッペ[最後屁]=鼬が窮した時、肛門付近の腺から悪臭を放つこと。転じて、  窮して最後に非常手段に訴えること。   
イタツ[イ立ツ]自四=「イ」は接頭辞。立つ。

イタツ[射立ツ]他下二=矢を続けて射る。

(以上、『広辞苑』による)。

イタチ[鼬]=ネズミより大きく、ムササビに似た動物。動作がすばしこく、細いスキマから抜出て,出入する。(『学研・漢和大字典』による)。

自動詞のイタツ[イ立ツ]について、「イは接頭辞」と解説されています。しかし、「接頭辞には、なにも意味がない」と考えるのはマチガイ。イには、イル[射]・イク[行]などのイメージがあります。イタチ魚・イタチ草・イタチ雲など、よく観察してみると、どれもみんな「イタツ[射立]・イデタツ[出立]」姿を持っています。

たしかに、動物のイタチも、イタチ川も、旅人兼好法師も、みんな おなじイデタチでした。

これでほぼ一件落着ですが、いつかこんどは、大阪市のイタチボリ[立売堀]との関連なども考えてみたいです。

2010年8月10日火曜日

お地蔵さんの水


 いたち川べりのあちらこちらに「延命地蔵尊」、「不動尊」、「神社」などのほこらがあります。たとえば、泉橋をはさんで両岸(石倉町と泉町)に「延命地蔵尊」があり、すこし下流右岸(向川原町)には、「福寿不動尊」と「慈母観音」、それに「神社」が並んでいます。
 
いちばん多いのが、やはり「お地蔵さん」。正式な呼び名は、大多数が「延命地蔵尊」。中には「長寿地蔵尊」(清町5丁目)、「子安地蔵尊」(室町通り2丁目)、「福徳地蔵尊」(辰巳町1丁目)などの呼び名も見られます。また、「釈迦牟尼如来」(辰巳町2丁目)の例もあります。

 いたち川べりに、どうしてこんなにたくさんの「お地蔵さん」がまつられているのでしょうか?それは、1858年(安政5年)におこった大地震の影響です。

マグニチュード7クラスの大地震でオオトンビ[大鳶]・コトンビ[小鳶]が山崩れをおこし、常願寺川の大洪にまきこまれて、いたち川一帯がたちまち一面の泥海となりました。そして、たくさんの人が命を失いました。

その人たちの冥福をいのり、あわせて生きのこった人びとの延命長寿や町の復興を願う気持ちが結集して、あちらこちらで「お地蔵さん」がまつられるようになりました。

 石倉町はじめおおくの場合、お地蔵さんのわきに「延命地蔵尊の由来」などの解説が掲示されています。また手ごろな解説書として、『幻の延命』((株)まちづくりとやま発行、延命を守る会制作)などもできています。

 「お地蔵像さんの」というコトバがあるとおり、「延命地蔵尊」があるところには、きまって「名」が湧き出ています。もともと「いたち川があったおかげで、たくさんの人が住みついた」のです。それが「いたち川の洪で、たくさんの人が死ぬ」ことになり、「たくさんのお地蔵像さんをまつって、死者の冥福をいのる」ことにもなりました。そのことは、「こんどこそいたち川の利点を生かし、大洪まえよりもっとゆたかな村づくりや町づくりを目ざす」ことを神仏に誓う行為でもあったわけです。

 「禍福はあざなえる縄のごとし」といいます。災害をもたらすのも。延命・長寿・福徳をもたらすのも。お地蔵さんと名をセットで売りこむところに越中人のど根性が見られます。

「天下の名」、「お地蔵さんの霊水」も、いまはみんなポンプでくみあげています。むかしはほんとに自噴していたのですが、位がさがったのでポンプに切りかえたのです。いまでも数ヶ所、ちょろちょろですが、むかしながらのワキミズをのこしたところがあります。

「お地蔵さんの」だけではありません。むかしはどこを掘っても、地面からがふきだしてきました。わたしのうちでも、戦後しばらく、井戸からがふきこぼれていました。まわりにビルが建ちならび、冷暖房に大量のを使うようになり、井戸がかれてきたので、やむをえずにきりかえた記憶があります。

さて、じぶんでブログをはじめることになって、ひとさまのブログものぞかせていただくようになりました。おかげさまで、毎日が新発見の連続です。

 「いたち川散歩」というタイトルは、めったにないだろうと考えていたのですが、案外あちこちのウエブサイトやブログで「イタチ」がみつかりました。

まず、「いたち川そぞろ歩き」というタイトルのウエブサイトがありました。これがなんと、すぐとなりの「石倉町延命地蔵尊」を中心に観光まちづくりを進める情報サイトでした。

もうひとつ、「いたち川ランニングクラブ」というサイトがありました。これも、富山を根拠地にして活動しているグループのようです。

 ブログめぐりをしているうち、富山市だけでなく、横浜市にも「いたち川」があることに気がつきました。「秋のいたち川小景・生涯学生気分・Yahoo!」というブログに出あったからです。そこでは、「イタチ川」命名の由来についても、重要な証言が出てきます。

ただし、きょうはここまで。話のつづきは、次回のお楽しみといたしましょう。このあとお盆にはいりますので、次回は8月24日くらいになると思います

2010年8月3日火曜日

はじめまして


 ことし90歳の新参者です。どうぞよろしく。60歳でワープロをはじめ、80歳でパソコン、90歳でようやくブログに挑戦します。

北陸は富山市、いたち川のほとりに住んでいます。毎日が日曜日。朝食まえに川べりを散歩するのが日課です。
 ブログのタイトルを「イタチ川散歩」としたのは、「イタチ川」という名前がおもしろいと思ったからです。なぜ「イタチ」なのか? 命名の由来には、いろいろな説があるようです。おいおい、ご紹介する予定です。

 イタチ川は、もともと常願寺川の分流で、富山市の中心部をとおり、松川や赤江川と合流し、さらに神通川とも合流したあと日本海にそそぎます。
写真では、どこにでもある小川みたいですが、じつは堂々の一級河川です。立山を水源地とする常願寺川は、たいへんな暴れ川。富山平野で洪水をくりかえし、河道を変更した結果、現在の扇状地ができました。

 洪水は災難ですが、水が引いたあとには、天然の良田がのこされます。ナイル川の洪水とおなじ道理。常願寺川やイタチ川のおかげで「太田」や「柳町」などの村や町が生まれ、富山市発展の原動力の役割をはたしてきました。

 両岸に遊歩道が整備されています。4月はじめには、桜並木がみごとな花をつけ、おおぜいの花見客がたずねてきます。

 川の流れにそって、あちらこちらに「水神社」や「地蔵堂」などがあります。とりわけ石倉町の「延命地蔵尊」では、「お地蔵さんの水」をくみにくるひとが順番待ちの状態です。観光バスのコースにもくみこまれています。

 その他、「川べりの動植物」「沿岸の地名」「神通川・成願寺川との関係」など、とりあげてみたいテーマが山ほどあります。わたしの独断やら偏見やら述べさせていただきますので、みなさんからいろいろ教えていただければありがたいと思います。

 フロクとして「わたしのリレキ書」「コトダマの世界」「わが師、わが友」などのコーナーをひらく予定にしています。そちらの方も、ぜひいちどのぞいてやってください。