「叩く子・再訪の山…」2011
佐藤正樹さん年賀状、2011
佐藤正樹さん年賀状、2009
佐藤正樹さん年賀状、2002
叩く子・再訪の山・山歩きの記録
先日、佐藤正樹さんから「叩く子・再訪の山・山歩きの記録」(2011.9.15)という作品をいただきました。あとがきに「詩と山歩きの記録,お受け取り、お読みいただければ幸いです」とあり、同封の便せんに「ご返信無用にお願いいたします」と書きそえられていました。
それから だいぶ日がたちましたが、ご指示にしたがって、いまだにお礼の手紙をさしあげておりません。
わたしは詩心がとぼしく、俳句や短歌も門外漢です。もちろん、きらいではありません。親戚や知人から句集や歌集などをいただくことがあり、そのつど楽しく読ませていただいています。
佐藤さんの作品はかなり凝っていて、読みごたえがある感じです。長年月にわたる「人生経験」と「山歩き野歩きの経験」がいっしょになって、はじめて生まれたと感じさせられるコトバが、いっぱいつまっています。
以下、わたしが共感をおぼえた部分を、かってに引用させていただきます。
叩く子
小さい手が叩く
這ってきて叩く
何でも叩く
叩いて在るのを確かめる
一緒につくばって叩いてみる
叩かれて新しく物は現われる
丸っこい手が叩く
ガラス戸を叩く
テーブルの脚を叩く
無心に叩く
大工さんのリズムで叩く
ガラス戸が生まれる
テーブルの脚が立ち上がる
誰かが見ているとも知らず
小さい手が無心にものをたたいている
はなやぐ祖母
てんめいは煎餅 やちゅうは野球
生まれたての片言に
ととここ とこ とこ
二本足の誕生に
中学同級会
にぎやかな幹事の声がする
「おれが壁に向かって立たされているよ」
動物園の檻のペンギン
小ぶりなペンギンたち
三々五々壁に向かって起立
しばらくすると動き出す
一羽だけ動かない
動く気配もない
反省中の―
それともひがんで意地を張ったおれ
山辺の土
日があたる土
気持がふくらむ
雨が降る土
気持にうるおい
土のおおらかさ
舗装世界から来た人へ
Mさんへの手紙(06年8月26日)
(前略)戦中のことはたとえば軍歌の一節を流行り歌の一節のようにくちずさんでいることがあります。戦争は終わって がらっと世間が変わりましたが、子供の戦中体験は心のどこかに張り付いているようです。当時の大人はどう落とし前をつけているのか、今年8月15日の朝日新聞に掲載の大江健三郎さんの「定義集」で引用されている、南原繁の話に目を引かれました。
《私は彼らに「国の命を拒んでも各自の良心に従って行動し給え」とは言い兼ねた。いな、敢えて言わなかった。(中略)、
私は学生と語った。「国家がいま存亡の関頭に立っているとき、個々人の意志がどうであろうとも、われわれは国民全体の意志によって行動しなければならない。われわれはこの祖国を愛する、祖国と運命を共にすべきである。ただ、民族は個人と同じように、多くの失敗と過誤を冒すものである。そのために、わが民族は大きな犠牲と償いを払わねばならぬかもしれない。しかし、それはやがて日本民族と国家の自覚と発展への道となるであろう」と》(南原繁著作集9巻)
年賀状の1行詩
佐藤さんからいただいた年賀状にそえられた1行詩を紹介します。
元日様…来てみれば不断の日で座っている(2011年)
頂で…飛んでいく今 そこにいる昔(2009年)
白馬三山 春の高みを想ひけり(2002年)
たらいまの子・山野歩き…
実は、2006年にも佐藤さんから「たらいまの子・山野歩き・山歩き野歩きの記録」という作品をいただいています。こんどの「叩く子・再訪の山…」は、その続編にあたります。
ついでに、前作の一部をご紹介します
たらいまの子
家の中のあちこちから
たらいま
と覚えたての言葉で出てくる
たらいま
舌足らずでも赤ん坊語でもない
ちゃんとした自分の言葉
今も階段脇からたらいまと帰ってくる
北アルプス・動かずの大展望
いくら姿がよくても 動かずに
いつもお互い見合っていてはあきるだろう
姿隠しの霧や雲が動いている
いい間をおいて
運針歩きの山
家庭科で中学生は雑巾縫いを習った
年を経て今日は山を運針のように歩いた
Mさんへの手紙(2002年9月16日)
(前略)詩について、季語、文体、語調を特に考えることなく書いてきました。抽象画、時にひっくり返されて見せられても上下がわからないが、飽きなくて面白い抽象画のような現代詩も良いかも知れないが、誰でも書け、わかる詩、しかもどこか新しさのある詩を書きたいと思っています。実際は分かりにくい、独りよがりの表現になる場合も多いですが、この点は読んでくれる人の解釈におまかせ、の気持ちです。(以下略)
佐藤さんとのご縁
佐藤正樹さんとのご縁は、1990年ころ(?)、YKK生地工場の山本憲司さんの紹介で、佐藤さん(当時東京勤務)からお手紙をいただいたのがはじまりだったようです。YKKが上海事務所開設をまえに、若手社員を対象に中国語研修を実施。そのときの企画責任者が山本さんでした。週1回、2年ほど(?)JRで富山~生地間を往復した記憶があります(ブログ:七ころび、八おき。中国物産コーナーのころ③)。
佐藤さんは、たしか東京外語スペイン語科、1961年卒。佐藤さんのご紹介で、1998年1月、貫井進さん(東京外語フランス語科、1959年卒)からお便りをいただきました。「1994年、北海道新聞社を定年退職。当面、東北地方以南に存在するアイヌ語地名を探索中。できれば、日本語・アイヌ語・朝鮮語3語間の関係をさぐってみたい〉とのことで、アイヌ語とヤマトコトバとの音韻対応例も示されました。
縁は異なもの。待てば海路の日和。どこで、どんな縁があるやら、わかりませんね。