東中5回生の懇親会、2011
彼岸花が満開
切り絵「晩秋の称名滝」福田温旦
「学研・漢和大字典」
東中5回生の懇親会に出席
9月22日夜、小幡駿君にさそわれて「東中5回生有志の懇親会」(第一ホテル)に出席しました。正式な同期会ではなく、5回生一部有志の交流会として、毎年1回開催しているとのこと。ことしも昼間のゴルフ会につづき、夜の懇親会がセットされていて、今回はたまたまイズミにも声がかかったということのようです。 出席者合計22名。内、女性4名。東京・横浜からも参加があり、この日は横浜在住の福田温旦君が開会あいさつをしていました。
東中5回生といえば、1952年春の卒業。わたしが はじめて中学校教師として東部中学校に赴任し(ブログ:七ころび、八おき東部中学校のころ①)学級を担任し、3年後に卒業を見とどけた生徒たちです。
あれから60年ちかい年月がすぎています。小幡駿君、滋野啓志君、奥野博道君、福井貞夫君や木山順子さん、安原睦子さんなどは、その後もなにがしかの交流があり、むかしの顔がそのまま いまの顔につながります。しかし、町野清君、鍛喜人君、片桐修君、橘明君、三浦博道君、福田温旦君、吉田洋三君、高松正治君となると、ほとんどが卒業以来はじめてのご対面です。「○○です」と名のられて、しばらくしてから、「そうだ、まちがいない」ようやく眼前の顔とむかしの顔が一致してきました。
数日後、滋野君が当日の写真数枚をとどけてくれました。さっそく、集合写真の顔と名簿を、ひとりひとりチェックしてみました。名前と顔が確実に一致したのは半分ほど。あとの半分は、推定は出来ても、自信が持てません。むかしの卒業アルバムの顔ともつきあわせましたが、60年間の空白はどうにも埋めようがありません。ついにお手上げです。
あくる日、いたち川を散歩の途中、月見橋のあたりで滋野君に会いました。「彼岸花が満開ですね」と声をかけられたのです。そのとき、わたしは「集合写真の顔ぶれに、名前を記入してもらえないか」とたのみました。数時間後、滋野君が一覧表をつくって、とどけてくれました。おかげで、出席者全員の顔と名前が一致し、安心しました。
それぞれの人生
懇親会は2時間そこそこでしたから、全員と60年間の思いを語りつくす余裕はありません。じっさいに時間をかけて話を聞けたのは、ほんの2~3人だけでした。それでも、60年ぶりに再会した顔には、まぎれもなく人生のシワが刻みこまれていました。「十人十色。二十人いれば、二十通りの人生がある」と感じさせられました。吉田君については、毎年の年賀状で、健在ぶりを知っていました。鍛君、三浦君についても、すでに「功成り、名遂げた」状態だと、人づてに聞いていました。
この日、時間をかけて話を聞かせてくれたのは。町田君と高松君です。町田君は、魚屋さんとしてのイキザマを、そして高松君は建具屋としてのイキザマを語ってくれました。それぞれ別々の物語ですが、その背景に「いま、日本の零細企業がかかえている問題…価格競争、後継者問題など」がある点では共通だと思いました。
福田君とは、ゆっくり話をしたかったのに、時間がなくて残念でした。この数年来、年賀状で切り絵作品を見せてもらえるのが楽しみでした。その中から1点「晩秋の称名滝」(2007年賀状)をご紹介させていただきます。滋野君の解説によれば、「前の年、いっしょに登山した。その時の実景スケッチ」だそうです。
紅顔の美少年、いまは後期高齢者
わたしの頭の中では、かれらはいつも、そしていつまでも中学生のままでした。中間の高校生・大学生・社会人としての姿をすっ飛ばして、いきなり老人の姿を見せられたので、まるで玉手箱を開いた浦島太郎の気分になりました。あのころは紅顔の美少年、美少女たち。いまは(一部は来年)後期高齢者。となると、わたしは「超…?」
そのほかの5回生たち
あのころは1学級57名くらい。7学級で計400名ちかくの生徒数でした。年度ごとに学級編成が変わりますが、教師陣は1年から3年まで持ちあがりです。授業は学年全部の教室に出ます。わたしは、生徒の顔や名前を覚えるのが苦手でしたが、3年間つきあったおかげで、5回生の名前はいまでも あらかた覚えています。姓だけではピンときませんが、下の名前までセットにして聞かせてもらえば、反射的にむかしの記憶が浮かんできます。先日の会合には見えませんでしたが、島田祐三君は男子・女子の別なく、みんなの人気者でした。その後、第一ホテル・立山国際ホテルの支配人を経て、富山市会議員に当選。市会議長も勤めました。選挙の時には、岸邦弘君、福井貞夫君、石田良平君(故人)、木山順子さん、その他おおぜいの仲間が応援に駈けつけ、演説会場の世話などをしていました。
太田英一君や水野信利君も、5回生です。
太田君は英語が得意で、富山外国語専門学校で英語の常勤講師を勤めています。たいへんな勉強家で、わたしが中国語講師を勤めていたころ、中国語専修コースを受講したりしていました。水野君は高校生のころから、わたしのところへ出入りしていました。東田重久君、柳耕一君たちといっしょに文芸誌「ちんぐるま」(ブログ:七ころび、八おき東部中学校のころ③)の編集にも参加してくれました。富山大学を卒業したあと国際基督教大学(院)に進学。やがて「学習研究社」に就職。わたしが「コトダマの世界」(1991)(ブログ:七ころび八おき富山外専のころ①)を発表したあと、「学研・漢和大字典」(藤堂明保編、1978年版)(辞典の話)をプレゼントしてくれました。すべての漢字に上古音・中古音・現代音の解説がついています。日漢英の音韻比較をめざす わたしにとって、もっとも信頼できる辞典の一つです。
負うた子に教えられる
「負うた子に教えられて浅瀬を渡る」というコトワザがありますが、たしかにそのとおりだと思います。わたし自身、これまで中学校・高校・専門学校などで「教えて」きました。しかし、いま考えてみると、わたしが「教える」ことができたものなど、ほとんどゼロだったような気がします。もし、どれだけか成果があったとすれば、それは生徒さん自身の努力によるものです。コトバを学習・習得するのは、生徒さん自身の大脳や視聴覚器官や発声器官であり、教師が代行するわけにはいかないからです。東部中学に赴任したころのわたしは、まだ半人前の教師でした。なんべんも失敗をくりかえしながら、なんとか一人前の教師に成長できました。先輩や同僚教師だけでなく、父兄や生徒たちまでふくめて、みんなで「鍛えて」くれたおかげだと思います。
まだあります。「コトダマの世界」(1991)」や「スミ・シム・SMITH」(1995)(ブログ:七ころび、八おき富山外専のころ②)を出版した時など、島田君に相談して、5回生のみなさんから組織的なカンパをしていただいたこともあります。あの時は、8回生のみなさんにもお世話になりました。
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