2012年7月31日火曜日

呉羽山散歩

千石さんの研究発表


 豊坂稲荷神社由緒


売薬資料館
 


 カマキリ(?)


斜面
 



 呉羽山公園展望台から



 佐伯有頼少年像



研修会「白山信仰の旅」
629日、富山市茶屋町豊栄稲荷神社で開かれた日本海文化悠学会第3回研修会に出席しました。この日のテーマは「白山信仰の旅Ⅱ」。講師は千石正三さん(日文悠会長)。

223日の第1回研修会で第1部「白山神社と泰澄」および第2部「秦氏について」まで発表されたのにつづいて、第3部「白山神社と東北地方」、第4部「縄文時代の『死と再生』」、第5部「白山信仰と被差別部落」の順で、白山信仰をめぐるたくさんのナゾを指摘するとともに、学者・研究者たちの解説を紹介されました。

わたしは2月の第1回研修会には出席していないのですが、「日文悠ニュース」第1号の「レジュメ補足」を読ませていただき、共鳴する点がありました。一部引用します。

大伴家持は国守の任務のほかに、東大寺や橘諸兄の墾田拡張の必要があった。また、彼の越中国内巡行には、出擧のほかに越中国開発のためや東北地方の対蝦夷戦争、渤海と結んで対新羅包囲網形成のための製鉄自供視察の目的があった。

わたしがいちばん興味をひかれたのは、第3部のナゾ⑬「シラの意味は?」の部分です。レジュメにこうありました。

オシラ神のシラは朝鮮語の絹を意味するsir、ひいては絹を意味する満州語のsirgre、蒙古語のsirkeksirgheksigreなどとの関連も考えられる。国名の新羅の由来もそこに求め得る。蚕神の起源は3世紀頃の呉の資料にある。白神説もこれに含める。



富山外專まで散歩
76日。内田長年さんといっしょに散歩に出かける予定の日ですが、どうも天候が不安定です。そこで、雨が降ってもなんとかなるようにとコースを変更。中央通りからソウガワ[総曲輪]通りまでアーケード伝いに往復するコースです。歩いてみて体調がよければ、そのすぐ先の元職場富山外国語専門学校をのぞいてみたい。調子がよくなければ、途中からすぐひきかえせばよいというわけです。

いざ歩きだして、あらためて気がつきました。途中あちこちのお店のまえに、買い物客のためのベンチがおいてあります。これまで元気だったときは、ほとんど利用したことがなかったのですが、こんどは100メートルほど歩いたあとは、つぎのベンチをさがして腰をおろすようにしました。

足腰の調子はまだ十分回復していませんが、内田さんがいっしょだったおかげで、安心して遠くまで出かけることができました。雨らしい雨にもあわず、総曲輪のアーケード西端から100メートルほど先の外国語専門学校(市民プラザ内)まで足をのばしました。ひさしぶりのぞいた職員室に顔見知りの人は見あたりませんでしたが、帰りぎわにたまたま川端国昭教授にお会いすることができました。



呉羽山を散歩
713日。内田さんといっしょに呉羽山を散歩してきました。ふもとの駐車場にクルマをおいてから、ゆっくり山道をのぼります。このあたりは、むかし富山市へ中国からお客さんがあったときなど、通訳として動員され、あちこちまわった思い出の場所です。ただし、きょうはそんな気持ちの余裕はありません。なんとか自分の足で、頂上展望台まで数百メートルの山道を往復しきることだけを考えました。



売薬資料館で一服
クルマからおりてまもなく、売薬資料館の軒先に腰をおろして一服することにしました。つかれたというより、いよいよこれから山道をのぼるので、息を整えておこう(?)という気持でした。しばらくして立ちあがろうとしたとき、ふと気がつきました。いつ・どこから来たのか、わたしのズボンにカマキリ(?)が1匹、じっと止まっていました。



山道で聞いたひと声
呉羽山は標高150メートル足らずの山ですが、平生市街地で生活している人間にとっては、この山道のワキにひろがる斜面が、しばらく「深山幽谷に居る」気分にをさせてくれます。

これが56月ころですと、頂上までの途中なんべんもウグイスの声を聞くことができたものです。きょうは、ただ1回、かすかにホケキョと聞こえただけでした。



呉羽山公園展望台から
くりかえし休憩をとりながら、どうにかやっと公園展望台までたどりつきました。晴れていれば、立山連峰を一望できる絶好の場所です。

あいにくの曇り空で、立山も剣岳も、その手前の山も見えません。ただ新幹線の基礎工事がすすんでいる様子が見てとれました。



佐伯有頼少年像
公園の一角に、立山開山の祖とされる「佐伯有頼少年像」があります。廣瀬誠さんが発起人となって広く募金し、建立されたものです。

廣瀬誠さんといえば、たくさんのことを教えていただいた思い出の人です。最初の出会いは1968年のこと。わたしが北日本新聞夕刊紙上に「コシ[]もコシ[]もコシ」という珍説を発表したところ、すぐさま廣瀬さんが「上代カナヅカイでは、コシ[]のコは甲類、コシ[]のコは乙類。甲乙の区別を無視することは、研究方法の漫才化だ」と反論されました。

当時わたしは中学校の教員で、日本語(ヤマトコトバ)と漢語・英語との音韻比較を思いたち、「象形言語説」を発表したばかり。廣瀬さんの正論のまえにあっさり白旗をかかげ、日本語を勉強しなおし、「象形言語説」を補強しました。

いまあらためて考えてみると、上代カナヅカイ甲乙の区別は母音の問題であり、子音そのものに区別はありません。そして、コトバの基本義を決めるものは子音であって、母音ではありません。その点からいって、コシ[](甲)もコシ[腰・輿](乙)も{k-s(h)}という音形を共有しているのですから、カス[]・キス[着・著]・ケス[着・消]をふくめ、{k-s(h)}音グループとしての基本義を共有しているものと推定することができます。

日漢英の音韻比較の作業をつづける中で、たくさんの方から教えていただきましたが、もっとも基本になる日本語の研究姿勢について、キッチリ教えていただいたのが廣瀬さんでした。

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