2013年4月29日月曜日

しだれ桜と合掌造り

 
 
臨峰苑しだれ桜
 
 
  こおろぎ橋
 
 
 
あやとり橋  
 
 
 
相倉合掌造り集落
 
 
 
村上家

 
 
 
  岩瀬家
 
 (写真はいずれも伊藤広美さんからの借用)
 
 
 
山中温泉へ
411日、東京から伊藤広美・淳子夫妻が来富しました。17日に故加藤富美さんの骨納め法事に出席するためです。愛犬ランちゃんとも、ひさしぶりのご対面です。
ちょうどサクラの季節なので、藤木美織さんもさそって、「2013年桜鑑賞ツァー」に出かけてはどうかと、かねがね伊藤広美さんから提案があり、1213日、山中温泉へ1泊旅行に行くことになりました。
例によって、広美さんが愛車を運転、淳子さん、美織さん、イズミ夫妻が便乗。ホテルの都合で、ランちゃんは同行できないので、ペットの施設におあずけです。
12: 富山発→北陸自動車道加賀IC→国道8号線→国道364号線→臨峰苑しだれ桜無限庵山中温泉吉祥亭  
13:  吉祥亭→こおろぎ橋あやとり橋→金沢市卯辰山公園→北陸自動車道→富山
ことしはサクラの開花日が予想より1週間ほど早まったので、「桜鑑賞ツァー」としてはあまり期待していませんでしたが、臨峰苑のしだれ桜などはみごとでした。
心配していた天候も13日には回復して、こおろぎ橋・あやとり橋・卯辰山公園など、ゆっくり散策できました。
 
­五箇山へ
伊藤さんたちが帰京する前日の416日。天候がよさそうだからと、五箇山へのドライブにさそわれました。
相倉合掌造り集落村上家・岩瀬家などを見学しました。カヤぶき屋根の高いところまでハシゴをかけてのぼり、部分補修している光景も目にしました。
富山ではとうに花見は過ぎた感じでしたが、ここではいまをサカリと咲きほこっていました。かと思うと、あちらこちら雪がまだ消えのこっているところもありました。
たまたまはいったそば屋さんで食べたザルそばの味がわすれられません。これぞ手打ちそばの味というのでしょうか。しばらく待たされたあと、一口クチにしたソバのつめたさ、歯ごたえ、そしてコクのあるツユ…
 
五箇山と白川郷
昨年は岐阜県の白川郷をたずねたのですが、すこし観光地化されすぎた感じでした。ことしはやはり五箇山へということになりました。
まわりを山のミドリにかこまれ、合掌造りの屋根をながめていると、ひとりでに気もちがおちついてきます。まるで母親のフトコロにだかれているみたいな気分です。
クルマで移動するあいだ、運転する伊藤さんには申しわけないことですが、わたしはまわりの景色をながめているだけ。まったく気楽な身分です。そこで、目にする風景や地形と地名を結びつけ、「地名の由来」をデッチあげるゲームをはじめます。たとえば;
ゴカヤマ[五箇山]のゴカは、カガ[加賀]・ガケ[]・カケ[]などとおなじk-k音語で、ガケ[]を意味する地形名にちがいない。シラカワ[白川]のシラは、シラヤマ[白山]・シラギ[新羅]・ヤマシロ[山代・山城]などのシラ・シロに通じるs-r音語だが、地形名ではなさそう。スル・シル・コスル・シロガネなど、金属精錬にかんする技術用語として生まれ、やがて白山信仰ともつながり、日本各地に広まったものだろう…
身近な話でいえば、大根をスル・コスルと、シロイ[]・シル[]がでます。そのシルをのむことで、その味をシル[]ことができます。また、鉱石をスリつぶすことは微粒子にスルことであり、やがて鉱物をシル[](発見・採取)ことにつながります。
シロ[代・城]シラ[]の語尾母音交替で、シル(スル・コスル)ところ。シロ[]は、コスレてハゲちょろけた色。シラギ[新羅]のシラも、やがてシラガ・シロガネsilksilver
につながる…
そんなふうに、つぎつぎ妄想をふくらませます。アタマの体操になります。
 
シラカワ[白川]からショウガワ[庄川]まで
カヤブキの合掌造り集落も印象的でしたが、わたしとしてはなにより、シラカワ[白川]・シラヤマ[白山]・ショウガワ[庄川]・ショウカワ[荘川]などの地名のヒビキがいちばん気がかりで、また楽しみでした。
五箇山庄川の上流地帯にありますが、さらにその上流に白川郷があります。そして白川郷の一部が岐阜県高山市荘川町に属しています。そしてこの一帯は、シラヤマヒメ[白山姫]をまつる白山信仰の根拠地でもあります。
わたしの推論では、ショウガワ[庄川]はもとシラカワ[白川]と呼ばれていたはずです。そのシラカワ[白川]の上流と中流にできた集落が同名のシラカワと命名されたことも自然なことです。ところがある時代ヤマトコトバの地名を漢語ふうに読みかえる動きが流行し、シラカワ[白川]をショウガワ[庄川]と読みかえることになりました。シラ[](訓読み)とショウ[](音読み)とは別音ですが、語頭音シが共通なので、なんとなく連想できる関係です。
川の名前が改名されるのにあわせて、集落の名もシラカワ[白川]からショウガワ[庄川]に変わります。ただし、まったくおなじ表記ではまぎらわしいということもあり、ショウ[]よりもショウ[]のほうがカッコイイと思う人もいて、ショウカワ[荘川]と表記することになったのかもしれません。
ちなみに、漢語ショウ[]とショウ[]はもともと同音tsiangshuangの語。現代漢語では[][]にも代用しています。
ヤマトコトバの地名を漢語ふうに読みかえた例としては、ミヤガワ[宮川]ジンヅウガワ[神通川]などがあります(残念ながら、ナゾときをしている時間はありません)。
もっと身近な例があります。シラヤマ[白山]とハクサン[白山]ニシマチ[西町]とニシチョウ[西町]などがそうです。「そんなの、ヤサシすぎる」といわれるかもしれませんが、ナゼ・ドウシテとネホリハホリ問いつめられたら、けっこう苦労すると思いますよ。
 
 

2013年4月17日水曜日

「立山曼荼羅」から「家光大奥…」まで

 
立山博物館案内
 
 
 帝釈天 
 
『家光大奥…』
 
 
 
 
立山曼荼羅のはなし
3月28日。富山市千代田町丸十さんの2階で、第6回「越のまほろば」公開講座が開かれ、富山県立立山博物館学芸員加藤基樹さんが「立山曼荼羅成立の思想史的背景」と題して研究発表されました。わたし自身のことをいいますと、学生時代から『歎異抄』の愛読者で、「親鸞のおしかけ弟子」を自称していたこともあります。しかし、現在「浄土真宗」と呼ばれている宗教集団、とりわけ「檀家制度」のありかたについては、おおきな疑問をもっています。マンダラについては、ほとんど予備知識がありません。
 
マンダラの歴史
マンダラとは、もともと梵語man dalaの音を漢字音で [曼荼羅] [曼陀羅]のように写しとったコトバだそうですが、それではmanがどんな意味で、dalaがどんな意味なのか、それは分かりません。そんなわたしですから、せっかく「立山曼荼羅成立の思想史的背景」について解説していただきながら、どこまで理解できたかとなると、あまり自信がもてません。わたしなりの解釈をニョゼガモン[如是我聞]としてまとめてみます。
  立山マンダラについて、研究史の面から整理・・・歴史学・民俗学・考古学など。
  近世東アジア思想ネット上の立山マンダラ…
  (心学)世界としての東アジア世界の形成…[中国大陸]儒教 ⇒明:陽明学→清:考証学…16世紀には、大陸でも半島でも心学が興隆、心学世界を形成。儒者仏者とも一致。
  まとめ・・・(各地各種のマンダラは)直接的な模写関係になくても、思想的共通基盤をもつ近世東アジアにおいて、同時多発的に成立した…甘露幀・十王図→熊野観心十界曼陀羅・六道絵→「立山曼陀羅」
 
「立山曼陀羅」の目的は「女人救済」
「立山曼陀羅成立の思想史的背景」というタイトルを見て、なんだかむずかしそうだなと思っていました。専門的な用語もおおく、いまでも分からずじまいのことだらけですが、なるほどそうだったのかと、ナットクできたこともありました。その一つが「立山曼陀羅」の目的は「女人救済」だったということです。「布橋灌頂会」や「立山・帝釈天」などについてもういちど考えなおしてみようという気になりました。
 
遠藤和子さんの『家光大奥…』
この1月に遠藤和子さんが『大家光大奥・中の丸の生涯(展望社)という本をだされました。遠藤さんは信子の女学校(県立富山高等女学校)時代の同期生で、そのあと師範学校を卒業してから、教員生活のかたわら、童話・教育実践記録などを発表。退職後、本格的な作家活動にはいられたようです。遠藤さんが小学校で特殊学級を担当しておられたころ、わたしもおなじ富山市内の中学校に勤務していました。たしか教育研究集会かなにかの関係で遠藤さんの教育実践に関心をもった記憶があります。                                                                                                                                                                                                                                  
『佐々成政』『松村謙三』『富山の薬売り』など、郷土の政治・経済などの分野で活躍した人物をとりあげた作品がめだちますが、その作品を執筆するまでの資料あつめに、遠藤さん独特のになった姿勢が見てとれます。ひとつ思いたったら、じぶんでナットクゆくまでガムシャラに資料をあつめる。こまかな点まで、十分な裏づけ資料がそろったところで、はじめて執筆にとりかかる。そんな感じです。器用とか、スマートとかいうタイプの作品ではありません。コシの国、北陸の気候風土の中で生まれ育った作品ということかもしれません。
徳川幕府は、どうして300年間もちこたえることができたのか?男たちの正史・タテマエ論のかげに、女たちの秘史・ホンネの話しあいがあったのではないか?大奥の秘史を明かそうとなると、やはり534ページの大作が必要になったということでしょうか。とにかく、遠藤さん、ごくろうさまでした。
 
立山マンダラとだぶらせて考える
『家光大奥…』については、ずっとまえからブログでとりあげたいと考えていたのですが、わたしの頭の回転がおそいので、ついついおくれてしまいました。そのかわりに、遠藤さんの家光大奥…』の時代背景と加藤基樹さんの「立山曼荼羅成立の思想史的背景」とをだぶらせて考えてみるようになりました。つまり、加藤さんの解説によれば、中国大陸で生まれた神聖帝国意識にくらべ、日本列島では徳川家康期にようやく神聖国家の理念が生まれ…家光期(3代)に家光=家康の生まれ変わり­「運輪聖王」…家康=東照大権現(神格化)
という経過をたどっています。そしてまた、立山マンダラが成立したのもこの時期であり、その目的は「女人救済」だったといいます。
そんなふうに考えてくると、中の丸・孝子(佐々成政の孫で、徳川家光の妻)の生涯を、そのまま立山マンダラの一場面として観察するのもおもしろいと思います。