立山博物館案内
帝釈天
『家光大奥…』
立山曼荼羅のはなし
3月28日。富山市千代田町丸十さんの2階で、第6回「越のまほろば」公開講座が開かれ、富山県立立山博物館学芸員加藤基樹さんが「立山曼荼羅成立の思想史的背景」と題して研究発表されました。わたし自身のことをいいますと、学生時代から『歎異抄』の愛読者で、「親鸞のおしかけ弟子」を自称していたこともあります。しかし、現在「浄土真宗」と呼ばれている宗教集団、とりわけ「檀家制度」のありかたについては、おおきな疑問をもっています。マンダラについては、ほとんど予備知識がありません。
マンダラの歴史
マンダラとは、もともと梵語man dalaの音を漢字音で
[曼荼羅] [曼陀羅]のように写しとったコトバだそうですが、それではmanがどんな意味で、dalaがどんな意味なのか、それは分かりません。そんなわたしですから、せっかく「立山曼荼羅成立の思想史的背景」について解説していただきながら、どこまで理解できたかとなると、あまり自信がもてません。わたしなりの解釈をニョゼガモン[如是我聞]としてまとめてみます。
① 立山マンダラについて、研究史の面から整理・・・歴史学・民俗学・考古学など。
② 近世東アジア思想ネット上の立山マンダラ…
③ (心学)世界としての東アジア世界の形成…[中国大陸]儒教 ⇒明:陽明学→清:考証学…16世紀には、大陸でも半島でも心学が興隆、心学世界を形成。儒者仏者とも一致。
④ まとめ・・・(各地各種のマンダラは)直接的な模写関係になくても、思想的共通基盤をもつ近世東アジアにおいて、同時多発的に成立した…甘露幀・十王図→熊野観心十界曼陀羅・六道絵→「立山曼陀羅」
「立山曼陀羅」の目的は「女人救済」
「立山曼陀羅成立の思想史的背景」というタイトルを見て、なんだかむずかしそうだなと思っていました。専門的な用語もおおく、いまでも分からずじまいのことだらけですが、なるほどそうだったのかと、ナットクできたこともありました。その一つが「立山曼陀羅」の目的は「女人救済」だったということです。「布橋灌頂会」や「立山・帝釈天」などについてもういちど考えなおしてみようという気になりました。
遠藤和子さんの『家光大奥…』
この1月に遠藤和子さんが『大家光大奥・中の丸の生涯』(展望社)という本をだされました。遠藤さんは信子の女学校(県立富山高等女学校)時代の同期生で、そのあと師範学校を卒業してから、教員生活のかたわら、童話・教育実践記録などを発表。退職後、本格的な作家活動にはいられたようです。遠藤さんが小学校で特殊学級を担当しておられたころ、わたしもおなじ富山市内の中学校に勤務していました。たしか教育研究集会かなにかの関係で遠藤さんの教育実践に関心をもった記憶があります。
『佐々成政』『松村謙三』『富山の薬売り』など、郷土の政治・経済などの分野で活躍した人物をとりあげた作品がめだちますが、その作品を執筆するまでの資料あつめに、遠藤さん独特のになった姿勢が見てとれます。ひとつ思いたったら、じぶんでナットクゆくまでガムシャラに資料をあつめる。こまかな点まで、十分な裏づけ資料がそろったところで、はじめて執筆にとりかかる。そんな感じです。器用とか、スマートとかいうタイプの作品ではありません。コシの国、北陸の気候風土の中で生まれ育った作品ということかもしれません。
徳川幕府は、どうして300年間もちこたえることができたのか?男たちの正史・タテマエ論のかげに、女たちの秘史・ホンネの話しあいがあったのではないか?大奥の秘史を明かそうとなると、やはり534ページの大作が必要になったということでしょうか。とにかく、遠藤さん、ごくろうさまでした。
立山マンダラとだぶらせて考える
『家光大奥…』については、ずっとまえからブログでとりあげたいと考えていたのですが、わたしの頭の回転がおそいので、ついついおくれてしまいました。そのかわりに、遠藤さんの家光大奥…』の時代背景と加藤基樹さんの「立山曼荼羅成立の思想史的背景」とをだぶらせて考えてみるようになりました。つまり、加藤さんの解説によれば、中国大陸で生まれた神聖帝国意識にくらべ、日本列島では徳川家康期にようやく神聖国家の理念が生まれ…家光期(3代)に家光=家康の生まれ変わり「運輪聖王」…家康=東照大権現(神格化)
という経過をたどっています。そしてまた、立山マンダラが成立したのもこの時期であり、その目的は「女人救済」だったといいます。
そんなふうに考えてくると、中の丸・孝子(佐々成政の孫で、徳川家光の妻)の生涯を、そのまま立山マンダラの一場面として観察するのもおもしろいと思います。
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