2014年4月26日土曜日

サクラ と ラン

 
 
塩の千本桜 
 
 
船川べりの桜
 
 
アケビ[明日]の大桜 
 
 
ランちゃん   
 
 
胡蝶蘭 
 
 
 
サクラ めぐり ツァー
410日、東京から 伊藤夫妻が 来富しました。愛犬 ランちゃんも いっしょです。
伊藤さんの 発案で、ことしは 宇奈月温泉で 一泊、二日がかりで 呉東地区の 桜名所  まわって みよう という こと でした。
11日朝、伊藤広美さんの クルマに イズミ夫妻と 藤木美織さんが 便乗して、「桜鑑賞ツァー」に 出発。富山県発行の 『富山 さくらの 名所』を てがかりに、塩の 千本桜(神通川べり)・常願寺川 公園・常西用水 プロムナード・新川 学びの森 天神山 交流館(魚津市)・アケビ[明日]の 大桜(宇奈月)・ツキトイ[月訪]の 桜(宇奈月)舟川べり(朝日町)などを まわりました。天候にもめぐまれ、満開のサクラを満喫した二日間でした。
あまり たくさんの ところを まわった ので、あとで 写真を みても、どこ だったか 思いだす のに 時間が かかる ほど でした。それでも、塩の 千本桜で 小学生たちが 写生に きていた こと、宮崎海岸で ひさしぶりに タラ汁を たべた こと など、つぎつぎ 思いだす テガカリに なって います。
 
日本人は サクラが スキ。なぜ?
こんど 二日間、あちこち 満開の サクラを おいかけて みて、つくづく 考えた ことが あります。富山に かぎらず、日本中 どこに でも、サクラの木が うえられ、花見を たのしんで います。では、なぜ・どうして そんなに たくさんの サクラを うえた のか ということ です。
いろいろ 事情は あった でしょうが、いちばんの 理由は やはり、「水田で イネを つくる 作業」が 日本列島 全体に ひろまった こと だと 思いす。水田を 整備する には、まず 十分な 用水を 確保しなければ なりません。また、川や 用水路の 氾濫を ふせぐ ために、しっかりした 土手を きずかねば なりません。その 土手に サクラの木を うえたのが きっかけで、日本各地に サクラ並木が うまれたと 推定されます。サクラの花が サク までの 状況と イネの 生育状況との あいだに 一定の 対応関係が ある ことを、当時の ひとたちは 生活のチエ として 知って いました。そこで サクラの花が サク までの状況を 観察しながら、イネの タネまき・田植え などの 時期を 調整する ことが できました。
土手は 川や 用水路の 両側に、かなりの 距離に わたって きずかれます。その 土手に 並木 として サクラが うえられた ので、たちまち 全国各地で 「○○の千本桜」が 誕生した のでしょう。
                                                          
ランちゃん
ランちゃん とは ひさしぶりの ご対面。 宇奈月の ホテル では、うまい ぐあいに ペット同伴の へやが とれましたが、そのほかの 日は ずっと イズミの うちで すごしました。夜に なると、わたしの ベッドに のぼり、体を まるめて ねむって いました。もう14歳とか。ワンちゃんと しては、かなり 高齢の おばあちゃん です。まだ 元気そうに 見えますが、そう いわれれば やはり すこし 動作が にぶく なった 気も します。
 
コチョウラン[胡蝶蘭]
413日。東京の 泉進・公美子夫妻 から 信子あてに お花(胡蝶蘭)が とどきました。14日が 信子 満90歳の 誕生日と いう ことで、「卒寿の 誕生日、おめでとう ございます」と 書いた カードが そえられて いました。
これまで ン十年、いつも その日 その日の 生活に おわれ、自分たちで 誕生日や 結婚記念日の お祝いを した 記憶が ほとんど ありません。こうして、まわりの 人たち から 祝福の コトバを いただいて、わたしまで あらためて 「イノチを だいじに しなくては」と、神妙な 気持ちに なりました。信子は、いまでも 姉ひとり 妹ひとりが 健在です。わたしは 4人兄弟 だった のが、いまは 一人 ぼっち。わたしが いちばん 世話に なった のが、兄 タケヨシ[長嘉]。いつも 父の 代理として わたしの 面倒を 見て くれました。その 兄の 長男が 進さん です。

2014年4月15日火曜日

サクラ サク、マッサカリ

 
 
越の まほろば」第11回 公開講座
 
 

『古事記』を読む会」
 
 
 
 いたち川べりのサクラ、A 4/8
 

 同上、B    4/9
 
 
  同上、Ⅽ     4/9
 
 
 

京都 東岩倉 観勝寺と 富山郷        
4月3日。「越の まほろば」第11回 公開講座が 千代田町の まる十さん 2Fで 開かれ、富山大学講師 久保尚文さんが 「京都 東岩倉 観勝寺と 富山郷」と 題して 講演されました。

わたしども 日本史の 門外漢に とっては、この タイトルを 見せられても、これが どれほど 重大な 問題を 意味して いる のか、どうも ピンと きません でした。しかし 久保さんの お話を 聞いて いる うちに、日本の 歴史の 中で 富山が 一定の 役割を はたして いた ことが 分かり、富山の 歴史を 見なおして みようと いう 気もちに なりました。

久保さんは もともと 越中中世史の 研究が 専門では なかった そう ですが、富山県史 編纂室に はいった こと から、「他の 研究者が 手掛けて いない 部分を 穴埋めして 全体をカバーする 覚悟」を した との こと。南北朝関係の 研究書が すくない 中で 富山郷の名を とりあげ、その 再検討を 提案。それが この日の 発表に つながりました。

アラスジだけ 紹介すると、こう なります。

「富山」地名の初見は、南北朝合一後の応永5年(1398吉見詮頼寄進状。冒頭に「寄進 東岩蔵寺 越中国外山郷地頭職事」とある。「外山郷」は「富山郷」の当て字。荘園は太政官民部省公認地で、荘園領主に経営を任されていた。

南北朝動乱時に、太田小次郎が前守護桃井直常に参じて反幕府行動に奔り、幕府は没収・闕所地処分し、討伐軍功の恩賞として能登守護吉見氏頼に給した。だが三代将軍義満が恣意的に氏頼の守護職を解任したので、子息詮頼は復帰祈願を込めて富山郷東岩蔵寺に寄進した。

次第文書の所蔵者は大覚寺で、そこにある「観勝寺寺領目録」の中に「東岩蔵山…勅願次第…」、「同寺領之次第…越中国富山郷」と記録されている。

久保さんの お話を 聞いて、目から ウロコが 落ちる 思いが しました。歴史上の 事実はただ 一つだけ。いまも むかしも 変わりません。しかし、その 事実を どう 解釈するかは、時代に より、また 見る人の 立場によって、まったく ちがってくる ことも 事実です。だいじな のは、やはり事実を 読みとる たしかな 目=歴史観と いう こと でしょう。その点 では、歴史研究の分野 だけ でなく、たとえば コトバ(日本語・外国語)研究の 分野に おいても、「コトバの実態を どう とらえるか」(=言語観)が まず 一番の 課題に なって くると 思います。

富山の こと は、富山人自身が いちばん よく 知っている はず ですが、じっさいは そうとも かぎりません。同様に、日本語の ことに ついても、「日本語とは どんな コトバか」「漢語や 英語などと くらべて、どんな 点で 共通で、どんな 点で ちがって いる のか」、ほとんど なにも 分からない まま 生活して いる というのが 実態かも しれません。自分の 姿を たしかめる には、カガミの まえに 立って、じっくり ながめてみる という方法も あります。また、「人の ふり 見て、わが ふり 直せ」という ことわざも ありましたねまったくもって。

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4月6日午前、茶屋町の 豊栄稲荷神社 社務所で『古事記』を 読む 会」が スタートしました。「古事記を 読みたい 仲間が 集い、それぞれの 関心テーマに そって 読み合い 学び合う ことを 通じて、日本の 歴史や 文化に 親しむ こと」が 目的。

この日、簡単な「会則」を きめた あと、さっそく 第1回の 「輪読会」を 開始。「古事記、上巻、序」の 部分を 一気に 読みとおし ました。テキストは 小学館版「日本古典文学全集・古事記」。原文(漢文)・注 あわせて 26ページ 分。とりあえず「書き下し文」を 一人 数行 づつ、順番に 読みあげます。「ヨミガナ つき」とは いいながら、現代語 とは 感覚が ちがいます。はじめて 読まれる かた には 外国語の 文章を 読む ような 感じ だった かも しれません。

こうでも しなければ、1年間(10)で 全巻 読みおえる ことが むつかしい かも しれません。かと いって、あまり 強行軍 すぎる と、消化不良や ストレスで 落伍者が 出る 心配も あります。頭注を 一つ一つ とりあげる ヒマも 必要も ありませんが、参加者が 共通して 関心を もつ 問題項目に ぶつかった ばあい など、すこし 時間を かけて 討論して みる のも 一つの 方法かと 思います。たとえば []の 最 後の 部分に 出てくる「クサカ[日下]」と「タラシ[]の 用字法 解説です。「クサカ[日下]」は 日本国名「ヒノモト[日本]とも 関連する 用字法 であり、「タラシ[]」は 古代天皇名に 多用された用字法。ともに 日本国や ヤマトコトバの 歴史を 読みとく ための キーワードに なっています。

 

サクラ サク、マッサカリ 
41日に いたち川べりの サクラが 開花した こと は 前回 お知らせ しましたが、その後も 順調に 開花が すすみ、9日には ほぼ 満開と なりました。途中 雨が 降ったり、風が 吹いたり しないかと 心配して いましたが、ことしは めずらしく 天候が 安定して いました。4日~6日の チンドン コンクールも 無事終了。

一年一年 足腰の おとろえを 感じて いる わたし ですが、いたち川 雪見橋 あたりを 散歩する だけの 体力は まだ どうにか のこって います。おかげさまで、サクラサキはじめ から マッサカリ まで、そして きょう(14) 散りはじめ まで、じゅうぶんに たのしませて いただきました。
これまで「春に なったら、サクラが サクのは あたりまえ」と 思って いましたが、気づいて みれば、いたち川べりの サクラは(ほかの 桜名所も 同様)みんな 先人たちが 苦労して 植樹した もの でした。まったく もって アリガタイ お話です!そして、大多数の 花見客が、そういった 事情を 知らずに、もっぱら 花の みごとさを たのしんで いる という のも、まことに オメデタイ お話です。

2014年4月3日木曜日

サクラが 咲きました 

 
 
日本海文化悠学会総会 
 
 
石倉町延命地蔵尊 
 
 
水仙 
 
 
白梅?  
 
 
桜の花芽 
 
 
椿 
 
 
サクラ 
 
 
日本海文化悠学会総会
328日午後、豊栄稲荷神社会議室で 開かれた 日本海文化悠学会の 総会に 出席しました。クルマを もたない わたしは、この日も 仙石さんの クルマに 便乗させて いただきました。途中で 神通川を わたり、民族民芸村や 呉羽山頂上の 展望台などを 通って 豊栄稲荷神社へ 到着します。いつも 市街地の 並木や いたち川の 遊歩道 くらい しか 通って いない ので、このあたり まで 来ると、まわりの 景色が とても 新鮮な 感じです。木や 草の色も ちがって 見え、大自然の 春の イブキを 感じました。
悠学会総会の 席 では、会が 結成されて から 3年目に はいる こと から、会員が 研究成果を 持ちよって 会誌を 発行したいと いう ことで、話が 盛りあがって いました。
研究論文発表と いう ことに なると、それなりの 努力覚悟が 必要に なると 思います。小保方さんの「STAP細胞発見」の 論文などは 別格ですが、かりにも 学問研究を 名のる 世界は きびしい 世界です。どの 学界 にも、それぞれ 学界の 常識が あり、また主流・反主流 などの ちがいが ある ようです。常識の 範囲内で、主流に 乗って 論文を発表すれば、攻撃される 心配は すくない でしょうが、興味を もって 読んで くれる 人も すくない かも しれません。ぎゃくに 学界の 常識を こえた 論文を 発表すれば、一般世間で 大評判に なる 可能性が ある 半面、学界内部の 学者研究者たち から 注目され、ちいさな ミスでも 徹底的に 追及される 可能性が あります。悠学会の 会員の 中には、もちろん プロの 研究者も おられますが、セミプロ もしくは アマチュアの 研究者も おられる ようです。せっかくの チャンスです から、アマチュアの 研究者たちも 野心的な 研究論文を 発表されたら よいと 思います。日本海文化は 未開拓の 部分が おおい 研究分野です。1回 発表して みて ミスを 指摘されたら、その ミスを 修正し、自信が もてる まで 補強した うえで、2回でも 3回でも 10回でも挑戦すれば よい でしょう。ミスを 認める ことは、たしかに ハズカシイ こと ですが、未開拓分野での 実験・研究で ミスを おかす ことは さけられ ません。自分自身では 気づき にくい ミスを 第3者 から 指摘される ことは、研究者と して、また 人間と して、おおきく 成長できる、絶好の チャンスだと 考えらます。
 
サクラが 咲きました
329日、晴。きのう 呉羽山では、クルマで 素通り した だけ。カメラの シャッターを 切っている ヒマは ありません でした。きょうは ひさしぶり いたち川 べりを 散歩しました ので、遊歩道や 土手で 見かけた 花などを ご紹介します。
石倉町延命地蔵尊…あいかわらず、クルマで「お地蔵さんの 水」を くみに くる 人たちの 姿が 見られました。縁日(土曜日)の 花も ならべて ありました。
水仙…土手には たくさんの 水仙が 植えられて いる のですが、ことしは 開花が おくれて いる ようです。        
白梅()…石倉町の マンションの まえに、白梅()が みごとに 咲いて いました。             
サクラの花芽…すぐ となりの サクラは、たしかに 花芽を つけて いますが、いつ 咲くか 分かりません でした。  
椿…ながい冬のあいだ、椿 だけが ベニ と ミドリの 色どりを 演出し つづけて くれました。         
そして4月1日。ついに、雪見橋 わきの サクラが 花びらを サキヒラキ[裂開] ました。
April foolではございません。