2014年4月15日火曜日

サクラ サク、マッサカリ

 
 
越の まほろば」第11回 公開講座
 
 

『古事記』を読む会」
 
 
 
 いたち川べりのサクラ、A 4/8
 

 同上、B    4/9
 
 
  同上、Ⅽ     4/9
 
 
 

京都 東岩倉 観勝寺と 富山郷        
4月3日。「越の まほろば」第11回 公開講座が 千代田町の まる十さん 2Fで 開かれ、富山大学講師 久保尚文さんが 「京都 東岩倉 観勝寺と 富山郷」と 題して 講演されました。

わたしども 日本史の 門外漢に とっては、この タイトルを 見せられても、これが どれほど 重大な 問題を 意味して いる のか、どうも ピンと きません でした。しかし 久保さんの お話を 聞いて いる うちに、日本の 歴史の 中で 富山が 一定の 役割を はたして いた ことが 分かり、富山の 歴史を 見なおして みようと いう 気もちに なりました。

久保さんは もともと 越中中世史の 研究が 専門では なかった そう ですが、富山県史 編纂室に はいった こと から、「他の 研究者が 手掛けて いない 部分を 穴埋めして 全体をカバーする 覚悟」を した との こと。南北朝関係の 研究書が すくない 中で 富山郷の名を とりあげ、その 再検討を 提案。それが この日の 発表に つながりました。

アラスジだけ 紹介すると、こう なります。

「富山」地名の初見は、南北朝合一後の応永5年(1398吉見詮頼寄進状。冒頭に「寄進 東岩蔵寺 越中国外山郷地頭職事」とある。「外山郷」は「富山郷」の当て字。荘園は太政官民部省公認地で、荘園領主に経営を任されていた。

南北朝動乱時に、太田小次郎が前守護桃井直常に参じて反幕府行動に奔り、幕府は没収・闕所地処分し、討伐軍功の恩賞として能登守護吉見氏頼に給した。だが三代将軍義満が恣意的に氏頼の守護職を解任したので、子息詮頼は復帰祈願を込めて富山郷東岩蔵寺に寄進した。

次第文書の所蔵者は大覚寺で、そこにある「観勝寺寺領目録」の中に「東岩蔵山…勅願次第…」、「同寺領之次第…越中国富山郷」と記録されている。

久保さんの お話を 聞いて、目から ウロコが 落ちる 思いが しました。歴史上の 事実はただ 一つだけ。いまも むかしも 変わりません。しかし、その 事実を どう 解釈するかは、時代に より、また 見る人の 立場によって、まったく ちがってくる ことも 事実です。だいじな のは、やはり事実を 読みとる たしかな 目=歴史観と いう こと でしょう。その点 では、歴史研究の分野 だけ でなく、たとえば コトバ(日本語・外国語)研究の 分野に おいても、「コトバの実態を どう とらえるか」(=言語観)が まず 一番の 課題に なって くると 思います。

富山の こと は、富山人自身が いちばん よく 知っている はず ですが、じっさいは そうとも かぎりません。同様に、日本語の ことに ついても、「日本語とは どんな コトバか」「漢語や 英語などと くらべて、どんな 点で 共通で、どんな 点で ちがって いる のか」、ほとんど なにも 分からない まま 生活して いる というのが 実態かも しれません。自分の 姿を たしかめる には、カガミの まえに 立って、じっくり ながめてみる という方法も あります。また、「人の ふり 見て、わが ふり 直せ」という ことわざも ありましたねまったくもって。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                 『古事記』を 読む 会」がスタート         
4月6日午前、茶屋町の 豊栄稲荷神社 社務所で『古事記』を 読む 会」が スタートしました。「古事記を 読みたい 仲間が 集い、それぞれの 関心テーマに そって 読み合い 学び合う ことを 通じて、日本の 歴史や 文化に 親しむ こと」が 目的。

この日、簡単な「会則」を きめた あと、さっそく 第1回の 「輪読会」を 開始。「古事記、上巻、序」の 部分を 一気に 読みとおし ました。テキストは 小学館版「日本古典文学全集・古事記」。原文(漢文)・注 あわせて 26ページ 分。とりあえず「書き下し文」を 一人 数行 づつ、順番に 読みあげます。「ヨミガナ つき」とは いいながら、現代語 とは 感覚が ちがいます。はじめて 読まれる かた には 外国語の 文章を 読む ような 感じ だった かも しれません。

こうでも しなければ、1年間(10)で 全巻 読みおえる ことが むつかしい かも しれません。かと いって、あまり 強行軍 すぎる と、消化不良や ストレスで 落伍者が 出る 心配も あります。頭注を 一つ一つ とりあげる ヒマも 必要も ありませんが、参加者が 共通して 関心を もつ 問題項目に ぶつかった ばあい など、すこし 時間を かけて 討論して みる のも 一つの 方法かと 思います。たとえば []の 最 後の 部分に 出てくる「クサカ[日下]」と「タラシ[]の 用字法 解説です。「クサカ[日下]」は 日本国名「ヒノモト[日本]とも 関連する 用字法 であり、「タラシ[]」は 古代天皇名に 多用された用字法。ともに 日本国や ヤマトコトバの 歴史を 読みとく ための キーワードに なっています。

 

サクラ サク、マッサカリ 
41日に いたち川べりの サクラが 開花した こと は 前回 お知らせ しましたが、その後も 順調に 開花が すすみ、9日には ほぼ 満開と なりました。途中 雨が 降ったり、風が 吹いたり しないかと 心配して いましたが、ことしは めずらしく 天候が 安定して いました。4日~6日の チンドン コンクールも 無事終了。

一年一年 足腰の おとろえを 感じて いる わたし ですが、いたち川 雪見橋 あたりを 散歩する だけの 体力は まだ どうにか のこって います。おかげさまで、サクラサキはじめ から マッサカリ まで、そして きょう(14) 散りはじめ まで、じゅうぶんに たのしませて いただきました。
これまで「春に なったら、サクラが サクのは あたりまえ」と 思って いましたが、気づいて みれば、いたち川べりの サクラは(ほかの 桜名所も 同様)みんな 先人たちが 苦労して 植樹した もの でした。まったく もって アリガタイ お話です!そして、大多数の 花見客が、そういった 事情を 知らずに、もっぱら 花の みごとさを たのしんで いる という のも、まことに オメデタイ お話です。

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