ツノを出す松
悠学会例会
ガラス戸越の新緑
雪見橋から
佐藤正樹詩集
松の 枝が ツノを かざす
サクラの 花が 散りました。新緑の 季節に はいります。散歩の 途中 いつも 見なれて いる 松の木 ですが、けさ ハッと 気がついた ことが あります。松の木の 枝と いう 枝が いっせぃに、その トンボ先に 茶褐色の 花を つけています。それぞれの 花の 真ん中の シベが、ツノ[角]の ように ツンツン 天に むかってつきのびて います。松の木の 生命力を 見せつけられる 思いが しました。(4月23日)。
悠学会 4月 例会
25日 午後。茶屋町 豊栄稲荷神社で 悠学会 例会4月 研修会が 開かれ。五十嵐顕房さんが「二つの神社の式年遷宮に思う」と題して 発表されました。
五十嵐さんは「式年遷宮」、「出雲大社と 伊勢の神宮」、「大社造と 神明造」、「出雲王権と大和王権の
遺跡と 墳墓」などに ついて 解説された あと、のこされた 課題として つぎの3点を あげました。
① (弥生時代の 邪馬台国を 引き継いだのが 大和王朝と 考える 場合)倭の女王
卑弥呼が 亡くなった 年から 崇神天皇即位までの 20年あまりの 間に、日本の王権に どんな できごとが あった のだろうか。
② 大国主神や 長髄彦の「国譲り」伝承は、どのような できごとを 伝えようと した ものだろうか。
③
奈良県で ヤマト王権の中心と
なって いた 所に、出雲系の神々が 祭られている。このことは、出雲王権の
人たちが、先住民として 奈良県で 生活して いて、「所の守り神」として 定着して いた こと、その神社が 皇室の「近き 守りの 神」として受け継がれた ことを 示す もの だろうか。
さて、日本の「神社」や「神道」の実態に ついては、まだ 情報公開が 不十分で、客観的・合理的な 議論を すすめるための 資料が 不足して いる ような 感じが します。その点、「神道」関係者の 方々は せっかく たくさんの 情報・資料を もって おられるので、積極的に 提供し、議論に 参加して いただければと 思います。
「人の 振り見て 我が振り 直せ」という コトワザも あります。「海外で 生活してみて、はじめて 日本の国の よい ところが 分かった」という 話も よく 耳にします。「神道」の
実態に ついても、「仏教」や「キリスト教」などと、じっくり 時間を かけて 比較し、共通点や
相違点を たしかめた うえで 議論を すすめる ように したい ものです。
この日の テーマに 関連して、ひとつ 提案したい ことが あります。それは(アマテラスの)「テラス[照]」という コトバの 意味用法に ついて 考えて みよう という ことです。この「テラス」は「タラス[帯・足]」や「シラス[知]」と ともに、(地域や国家を)「統治する」の意味用法を もって いますが、もとは 仏教寺院の テラ[寺](テル[照]・デル[出]姿の 屋根)と
同族の コトバです。たまたま 神道と 仏教が ライバル関係に なった ため、神道がわが
テラ という 語音を「アマテラス」専用とし、「テラ[寺]」を 禁句とした 時期が あった よう です。おなじt-r音の コトバ、たとえば 日本語の
タル[垂]・タラス[垂]、漢語の スイdhiuar垂chui、テイter邸di、英語の テラスterrace(邸の張り出し部分)なども 参考に なると 思います。
ガラス戸 越しの 新緑
4月24日に、本田内科医院を たずねました。これまでも 塚本神経外科で いろいろ 検査して いただいて いるので、いちおう 安心して いる
のですが、「前後左右の バランス 感覚が よく ない」とか、「ここ しばらく、かるい セキが
でる」など、心配に なる 材料は いくらでも あります。たまには 内科の 先生にも 見て いただこうかと いう ことになりました。
問診・触診、聴診器を 当てたり、口を おおきく 開けさせたり、「これが 内科の 診察法」という
感じ でした。ついでに 血液検査も して いただきました。この日は、そこまで。26日、血液検査の 結果に ついて、くわしい
説明を 受け、5日分の クスリが 処方されました。「かるい セキが でる」ことに ついては、「格別の 治療が 必要な
状態では ない」との ことで、安心しました。
病院の 待合室は、ガラス戸 越しに 庭を ながめられる ように なって いました。サクラの花が
散った あとの、キミドリ色の 樹木。初夏の やわらかな ヒザシ。ながめて いる だけで ヤマイが イヤサレル 感じでした。
佐藤正樹 詩集
4月の はじめに、佐藤正樹さん から 詩集「ヌーベス・雲、歩いて 日々、山野歩きの
記録」が おくられて きました。1997年に「泰山木、その時の 山、房総丘陵 歩き、山行き記録」を いただいて
から、こんどで 6冊目に なります。
こんど いただいた 作品の 中から、ほんの 一部だけ ご紹介します。タテガキを ヨコガキに したり、ベタガキの 文の 途中に スペースを
いれて ワカチガキしたり して みました。作者の 意思が 正確に 伝わり
やすい ようにと 考えての 実験ですが、ご無礼の 点は おゆるし ください。
歩いて― 五月
風
窓を 開け 手を 出すと 五月 顔を 出すと 緑の 中
鳥の
影
真っ向 から 頭を スキャンして いった
若さ
自転車たちが 抜けて 行く 触れると はねられ そう
今日
つややかな 光の なか 昨年の 五月は すでに 懐かしい
自身へ
一緒に 歩いて いる ようだが どこへ
そちら から こちらが 見えるか
老若混合 ソフトボール 試合
全員 ユニホーム
落球、トンネル、おおらかに 受け入れて
西洋 タンポポ
地面 から 浮いて 咲いて いる 首が 細い ので
名も 知らぬ 青い 小花も
小学校
前
爆走 バイクを 見送る (何かに 当たったら)
歩いて 当たっても 痛い ものを
家路
暑からず 寒からず 心地 よい 夕方
葉っぱたち そよぎの ハイ タッチ
佐藤さんに かぎらず、日本の 詩人たちは 句読点を 使うのが おきらいの ようです。短歌・俳句など からの 伝統と いう ことで しょうか?
伝統を まもる ことは よい こと です。しかし、作者の 気持ちを できるだけ 正確に
読者に 伝える ため には、積極的に 句読点を 使った ほうが よいと 思う のですが いかがで しょうか?
佐藤さんも「落球、トンネル、おおらかに 受け入れて・・・」の ばあいは 読点を 使って おられます。伝統と いう 点では、短歌・俳句の 世界では、句読点も
さること ながら、「スキャン・ソフトボール・ハイタッチ」などの カタカナ語も
使用禁止と いうのが 伝統だった ように 記憶しています。
そうした「古い伝統」を かなぐりすてて、自由な コトバヅカイでの 表現を めざした のが
自由詩・新体詩では なかったかと 思います。
漢字 だけ、カナ だけの ベタガキは よみにくい。そこで ワカチガキすれば という ことに なります。ところが、いざ ワカチガキと なると、こんどは どこで クギルかが 問題に なります。漢字・カナ まじり文の ばあいは、漢字を たよりに クギリを つけ、文脈を たどって いる というのが 実態 でしょう。ワカチガキでは 単語 ごとに クギル のが原則です。リクツは その とおり ですが、これまでの 習慣も あり、どの 程度に すればよいか、まだ しばらく
テスト期間が つづき そう です。
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