姚 さん からの メール(第2号)
姚 さん からの 質問
おそく なりましたが、前回の お話の つづき です。2月16日、姚 さん から とどいた メール(第2号)の 要旨は つぎの ような もの でした。
あなたが 柴垣 芳太郎 さんと 同期生 だった とは 意外 でした。あなたと 知りあえて
光栄 です。
また、わたしの 研究に たいして 激励と 協力の
おことばを いただき、ありがとう ございます。
日本で 勤務する ように なって、もう 3年。すこし ばかり、日本人 学生への 教育経験を 積みかさねる ことも できました。とりわけ 孔子学院では、わたしが もっぱら中国語を使って
授業を すすめる ように 求めて います (いわゆる【直接法】の 授業)。最初は うまく ゆかなかった のですが、現在では 基本的に 学生たちの
承認を 得て います。こうした 中国語の 授業を 通して、わたしは たくさんの ことを 学び とる ことが できました。研究を すすめるに つれて、明治・大正・昭和時代の 中国人 教師たちも、やはり このように して いた ことが
分かり、彼らの 授業ぶりに とても 興味を もって います。いま でしたら、画像や ビデオ などの 補助教材を 利用する ことが でき、学生たちも 電子辞典を
もって いたり、ネットで 資料を しらべる など、いろんな 媒体手段が あり、学習指導に
役だって います。100年前の 日本 では、こうした 学習条件が 一つも なかった のです。そんな 時代 でも、高い
水準の 中国語 学生を 多数 養成する ことが できた とは!当時の 老師たちに 心から 敬服して います!
あなたが はじめて 中国へ 行かれた とき、日本で
学んだ 中国語が 日常生活の 中でもしごく 実用的だと 感じた ことが おあり でしょうか?(『急就篇』の 学習が あなたの 中国での 生活に 役だった でしょうか?)
もし よろしければ、当時 どうして 中国語 学習を えらんだ のか、お聞かせ いただけ ない でしょうか?また、包先生
など 中国人 教師が 教室で、もしくは 私的な 場で、あなたたちと 中日関係に ついて
話しあった ことは ありますか?
わたしは いまの 学生たちに 学習目的を たずねた ことが あります。年配の 人たちは、中国の 伝統文化を 理解する ため、中国旅行を する ため。わかい 人たちは、より よい職業に
つきたい ため。大学生の 大部分は、単位を とる ため(漢字は、見れば 分かるので)。中には
少数 ながら、中国に 興味が あり、中国を 正しく理解し、中国人に むかって 中国語で 日本の ことを 紹介したい という 学生も いました。彼らの 話を 聞いて、たいへん 感動しました。これで、日中友好の 前途は 楽観できると 自信が もてました。しかし、歴史を 見ると、1940年代 日本の「中国語 熱」が
こうした 目的 から 生まれた もの でない ことは 明らか です。当時の 中国人 教師たちは、この 点に 気づいて いた ので しょうか?彼らの 学生たちの
大多数が やがて 中国の 戦場へ 向かおう と して いました。その 学生たちも、この点に
ついて どう 考えて いた ので しょうか?これが、このところ ずっと 私を
悩ませて いる 難題 です。あなたの 視点 から 見て どう なるか、いくらか でも お聞かせ いただければ と ぞんじます。
長々と 書きつらね ました ので、読む だけで
おつかれの ことと おわび 申しあげます。寒い おりから、どうぞ お体を たいせつに!
問題点の 整理
ごらんの とおり、姚 さんは1940年代 日本の「中国語 熱」を 中心に、日本に おける 中国語学習の 実態を 追求して おられる ようです。そこで、たまたま 包老師の 学生 だった イズミに まで 中国語学習の 経過に ついて
質問を よせられた のでしょう。
できるだけ 正確に、ていねいに お答え したいと 思いますが、そのまえに まず、姚 さんが 提起した 問題点を、つぎの ように
整理させて いただきます。
① 中国語教師
たちが 採用した 学習指導法[直接法]を どう 評価するか?
② 1940年代 日本に おける 中国語学習の 実態(教師や
学生の 意識 など)を どう 考えるか?
③ 1937年に 東京外語に 入学した イズミは、そもそも どんな 目的で 中国語を えらび、そのご どこで、どんな 生活の 中で、 中国語と どんな 関係を もって きたか?
まず、①の[直接法]に ついては、2月14日 イズミ から 姚 さん あて メールで 返信した とおりです(前号ブログ参照)。
むつかしい のは、②と ③です。まさに 日本人 としての 歴史認識を 問われる 問題 だと 思います。いま ここで 思いついた ことを 数行の コトバで まとめる という 方法がある かも しれません。しかし、姚
さんが 求めて いるのは 抽象的な 表現では なくて、客観的な 裏づけの ある 真実
だろうと 思います。
その 意味では、わたしの ブログ「七ころび、八おき」を
ごらん いただいた ほうが よろしいかと 思います。この ブログは サブタイトルを「わたしの
リレキ書。イキザマ90年の 記録」と しました(梅棹 忠夫 さんの 著作『行為と妄想…わたしの履歴書』(中公文庫)を まねた ネーミング です)。
イキル[生] とは,イキ[息]を する こと。イキは
空気の 流れ。また、雰囲気 です。どんな 時代、どんな 環境で、どんな イキの 吸い方を するか。それが その 人の イキザマです。旭川中学校・東京外語・華北交通、そして「大日本帝国
敗戦」。八路軍管理下で 半年。帰国後、富山市に 定住。中学・高校教員 として 英語・中国語を 担当。そのご、富山外国語専門学校で 中国語 非常勤講師 として 16年間。
北海道(旭川)~東京~中国(天津・唐山・大同・張家口)~富山。行く先々で、さまざまな人に めぐりあい
ました(水上 勇太郎 先生。小沢 開策 さん=小沢 征爾 さんの
父。菅原恒有 医師。青竜橋 工務段の Y さん。唐山の 程 站長。八路軍の 朱 隊長、など)。
いま ふりかえって みると、「若気の 至り」、「妄想と 妄動」の たぐいが おおく、失敗の 連続 だった とも いえます。しかし、その
おかげで すこし ずつ 人間 として 成長できた とも 感じて います。
わたしの 人生 から 中国と 中国語を とりさったら、ほとんど カラッポに なる でしょう。ただし、わたしが じっさいに
中国語に どっぷり つかって 生活できた のは、帰国後 富山外專での16年間 でした。日間英の 音韻比較を 思いたち、「仮説・象形言語説」、「スミノエ神は
Mr. Smithだった」、「現代日本語音図」(日漢英共通64音図) などを 発表できた のも この 時期です。
「孔子学院」に ついて, おたずね
姚 さん からの 質問に お答え した ついでに といっては 失礼に なりますが、わたし からも 姚 さんに おたずね したい
ことが あります。よろしければ お答え ください。
それは、「孔子学院」および 姚 さん ご自身に ついて です。
富山に 住んで いると 情報不足で、真偽の ほどは よく 分から ない のですが、ネット などで みて いると、「孔子学院」の
設立目的や 運営方針 などに ついて いろいろ 評判に なって いる よう ですね。
姚 さん ご自身は どんな ふうに 考えて おられますか?
*「孔子学院」設立の 目的は?…「共産主義」「社会主義」と「孔子」(儒教)との 関係は どんな風に 解釈しておられますか?
*学問研究と 政治との 関係は?…「アメリカの 大学 では、学問の 自由に 反する との理由で、孔子学院との 契約を 解除する 動きが みられる」などの
報道が ありますが、姚 さんの 見方では どう なりますか?
3月には 帰国
という ことで、いそがしい 毎日を 過ごして おられる こと でしょう。この ブログが 姚 さんの 目に はいるか どうかも わかり ませんが、せっかくの ご縁が
この あとも 長く つづく ことを 願って います。
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