いたち川
水仙
白梅
カモ きょうだい
姚 さん からの メール(第3号)
「こしのみちのなか」公開講座
ひさしぶりの散歩
冬は どうしても 家の中に とじこもり がちに なります。
毎朝、顔を あらった あと、20~30分
かけて、首・腕・腰・脚 などの 体操を します。自己流の ストレッチ という やつ です。
そのあと、「いたち川散歩」に でかける ことに して いる のですが、その 習慣が だんだん あやしく なって きました。冬に
なって、足場が わるく なって くる たびに、そう 感じます。
「きょうは 雪が ふった から」、「すべって、ころんだり したら、タイヘンだ」とか なんとか いって、とりあえず 朝の散歩を
サボリます。2~3日 サボルと、こんどは それが そのまま 習慣に
なって しまい、やがて 運動不足と なります。ときどき 便秘がちに なるのも、運動不足で シリまわりの 筋肉などの ハタラキが よわって きた ため かも しれません。天罰
テキメン。身から 出た サビと いった ところ でしょうか。
そんな しだいで、この ブログでも しばらく「いたち川 散歩」の 画面が 登場しませんでした。ひとつには、ケータイ電話を
スマホに かえた ので、ハイカラ すぎて カメラとして つかい こなせ なかった ことも あります。
しかし、毎日 家に こもって いると、ぎゃくに 散歩に 出たいと 思う ことも あります。きょうは、3月に はいって から 散歩に でた とき(7日、15日) 目にした 風物を 画像でご紹介させて いただきました。
雪見橋 から ながめた いたち川は、まだまだ
春には とおい 感じでした。
土手や 遊歩道わき には、たしかに 水仙の
カブが いくつも 見られますが、花 そのものは ここに 1輪、あそこに 1輪と いった ていど。それでも、せいいっぱい がんばって花を さかせて いる よう でした。
雪見橋わきの 白梅は、ことしも たくさんの
花を さかせて いました。ただ、かなりの 老木で、花も 小さくて 白色 なので、あまり 目立ち ません。クルマの ドライバーは もちろん、歩行者 でも、うっかり
気づかない まま 通りすぎて しまうかも しれません。
雪見橋下流で 見かける カモ きょうだいは、あいかわらず 健在 でした。と いっても、これは わたしが
かってに 命名した だけの もの ですが、6羽の 生態 から 見て、親子づれ では なく、兄弟姉妹と いって よい でしょう。冬の 川面に うかんで、いつまでもあそんでいる
姿を ながめて いると、こっちまで なんとなく 春の イブキを 感じて しまいます。
姚 さん からの メール(第3号) 15.03.14.
姚 さん からの質問に答えて、3月13日にメールで返信したところ、14日にさっそく姚さんからメール(第3号)がとどきました。その内容を要約してご紹介します。
私がおたずねした問題は、いずれもたいへん回答しにくいものばかりだということが分かりました。「歴史にかかわった人たち」がだんだんすくなくなってきた、その今、あなたのブログを発見して、たいへん喜んでいるところです。ブログの内容は、ひきつづきくわしく読ませていただきます…
日本の国民も中国の国民も、戦争でおおきな苦痛を受けました。歴史という洪水の中では、平凡な人の人生こそが最も感動的な存在となります。わたしはブログ「七ころび、八おき」をよんで感動し、あなたの現在の幸福な生活と考えあわせて、さらに感動しました。中国人として、私は当時日本にいた中国人の中国語の先生たちがどんなふうに考えていたかを知りたいのですが、いまのところ探し出すことができた材料はほんのわずかしかありません。彼らは二つの国家がいずれもあまり関心をよせない無名の人であり、中には死亡した日さえ分からない人もいます。日記や手紙などはなおさらです。いま、わたしもまた日本で働いている中国語教師であり、彼らは私にとってすばらしい先輩たちなので、ぜひ彼らのことを理解したいと願っています。そして、あなたは彼らと直に接触したことがある方ですから、あなたの思い出話は私にとって極めて重要な研究材料となるわけです。
このまえのメールのとおり、私は3月26日に任期満了、帰国します。日本で3年という任期は終了しましたが、まだ完成していない研究はたくさんあり、帰国してからも継続したいと願っています。さいわいなことに、いまはインターネットがたいへん便利です。そのおかげで、あなたとはいちどもお会いしていないまま、あなたのブログやメールで交流することができました。これからも、なにか問題がおこったときには、これまでどおりご教示いただけるよう、お願いいたします!あわせて、お体を大切に、いつまでも健康でおられますように!
「こしのみちのなか」公開講座
3月18日(水)午後、千代田町の
まる十 2階で、「こしの みちの なか」第18回 公開講座が 開かれ、富山市埋蔵文化財センターの 学芸員 鹿島 昌也 さんが「水橋荒町・辻ケ堂遺跡に 見る 日本海文化」と
題して 報告されました。鹿島 さんは、とりわけ この 遺跡 から「坂井」と
書かれた 墨書土器が 出土した ことに 注目し、人名 または 地名と推定。ただ、古代越中の 地名・人名に「坂井」の 記録が 見あたら ない こと から、越前國 坂井郡や 越後國 磐船郡 坂井郷との 関連に
ついても 調査中との こと です。
考古学・歴史学に 門外漢の わたしは、ただ 感心して 拝聴して いた だけ ですが、サカヰという コトバを 聞いた とき、すぐ「ナルホド」と
感じて いました。サカヰの どこが どうして「ナルホド」なのか?もし よろしければ、わたしの 推論を おきき ください。
サカヰは、サカ[坂]+ヰ[井]の 構造ですが、サカも また、①サ[箭・矢]の カ[処]、②動詞サク[裂・](サ[矢]が クル[來])の 名詞形(サク
ところ)などの ように 分析できます。
ヤマトコトバ(漢語が はいって 來る 以前の 日本語)の サカ には、サカ[酒・逆・境・界・冠・尺・積]なども ありますが、音韻の面 からは 同根の コトバです。たとえば、サカ[坂・境・界]は「サカレル[被裂]、サケル」地形。サカ[酒]は「穀物の 実が サカレル、サケル、発酵(細胞分裂)する」姿。サカ[尺・積]は、「サキ[裂・割] ワケ[分]た もの」の
分量、という わけです。
イズミの 私見 では、サカ・サキ・サケ などは
動詞 サク[裂・割・咲]の 名詞形と 解釈されます。さらに いえば、この 動詞 サクは 同類の 動詞 シク[敷・布・如]・スク[鋤・好・透・空]・セク[塞・堰・急・咳]・ソク[退・除]と
ともに、s-k音 グルーグ(単語家族)の カナメと なって います。そして、このs-k音 グルーグは、ヤマトコトバの 音韻組織の 中で 重要な 役割を はたして います。
問題の 墨書土器は 8世紀後半の 須恵器だ
との こと。つまり、大伴家持が 越中国守をつとめた(746〰751)直後 くらいに 当たります。大化の 改新(645)の あと、奈良に
都が 移され(710)、大和政権は 鉄利器 スキ[鋤]に よる 列島改造を めざして 進軍。大伴家持も その 最前線
司令官と して 越中国へ 派遣され ました。
この 時期、大和政権は スキ[鋤]で 田を スク[鋤] 産業革命を すすめ、政権の 基礎を かためると ともに、コトバの 面でも 日本列島 共通語と しての ヤマトコトバを 育て あげました。
大国主神の 別名 八千矛神 とは、「大量の 武器」を ほこる ナノリ ですが、その 国づくりを 助けた のが スクナビコナ神。スクナは「スク[鋤] ナ[刃]」、つまり スキ[鋤]の
こと。スクナ神の 伝承は、海外 から「スキで 田を スク」先進技術が もたらされた ことの 証言です。
建内宿禰の スクネや 蘇我氏の ソガ なども、やはり この s-k音 グループの
コトバです。
「八紘一宇」論議
3月18日の 北日本新聞に <八紘一宇「大切な価値観」>と
いう ミダシの 記事が のって いました。
自民党の三原じゅん子参院議員は16日の参院予算委員会で、日中戦争から第2次世界大戦にかけて、当時の政府が用いた「八紘一宇」を「日本が建国以来、大切にしてきた価値観だ」と訴え、今後の日本のあるべき姿として紹介した。17日付のブログでも、重ねて言及した…
八紘一宇には「世界を一つの家とする」という意味がある。戦前・戦中には、天皇を中心とした日本の海外進出を正当化するスローガンとされた経緯がある…
三原氏は「現在の国際秩序は弱肉強食だ」と指摘。その上で「八紘一宇の理念の下、世界が一つの家族のようにむつみあい、助け合えるような経済、税の仕組みを運用していくことを確認する政治的合意文書のようなものを、阿部首相がイニシアチブを取り、世界中に提案していくべきだ」と持論を展開した。
質問された麻生太郎副総理兼財務相は「(戦前・戦中の)メーンストリーム(主流)の考え方だったと思うが、三原さんの世代にこうした考え方をもつ人がいることに正直、驚いた」と感想を述べた。
わたしも この記事には ビックリ しました。わたし 自身、東京外語 在学の ころ、里見岸雄(田中智学の 三男)さんの 講義を 聞く ため、神田の 明治大学講堂(?)まで 通った 記憶が あります。華北交通(株)に 就職して からも、石原寛治の『東亜連盟論』に 共鳴して いました。
その 点で、「八紘一宇」は わたしに とって ナツカシイ 感じの する コトバです。同時に また、「大日本帝国 敗戦」を
もたらした スローガンと して 禁断の コトバ でも あります。
敗戦 から 70年。おくればせ ながら、「世界の 中で 日本人は どう 生きるか」と いう もっとも 基本的な
問題に ついて、おたがい ナットク ゆく まで 討論を つくす べき では ないで しょうか?国会の 場 だけ でなく、茶の間や イドバタ 会議の 場でも。
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