2017年8月26日土曜日

お盆のあとさき



『コトダマの世界Ⅱ』の表紙


お墓まいり 8/13  


カーテンのカゲ模様8/17 


泉家と藤木家 8/18  


出版祝いの生花  8/20 


北日本新聞の紹介記事 8/23 



『コトダマの世界Ⅱ』の表紙 

『コトダマの世界Ⅱ』は、これまでお世話になった人など、100人あまりの方々に贈呈させていただきました。そして、さまざまな感想なども聞かせていただきました。本の内容のことはあとまわしにして、「本の表紙や装丁がすばらしい」というのが,みなさま共通の感想だったようです。

 この本の内容についてということになれば、もともとイズミがかってに立てた「象形言語説」をもとに展開された議論ですから、「そんな未公認の仮説につきあっているヒマはない」、「じっくり読んでみて、そのあとで賛否の判断をする」といわれるのが普通でしょう。それが、表紙や装丁を見ただけで「すばらしい」と感じ,ついでにモクジをながめて「オモシロそうだ」と思っていただけるとしたら、たいへんありがたいことです。

 この本の表紙や装丁を洋画家佐藤芙美さんにお願いすることになったいきさつについては、これまでブログでもご紹介してきましたが、肝心の表紙については、まともにご紹介していませんでした。ここであらためてご紹介させていただきます。

 原画のタイトルは「渡来」とうかがいました。チューリップを思わせる花が描かれ、その上の方に2羽の鳥が描かれています。1羽は、羽をひろげて空をトビカケル姿。1羽は、羽をおさめて二本足で着地する姿。それは、コトバ=コトダマの姿でもあると、わたしは考えています。コトバ=コト[]のハ[]=カタリ[]のワン カット=コエ[]・イキ[]のカタマリ(=タマ)。コトバ(コトダマ)は、人の口からトビたち、宇宙空間をトビこえ、まわりにいる人の耳をとおして、そのタマシイ[]にトビかかるハタラキをします。つまり、コトダマは鉄砲ダマとおなじ「トビ道具」だといえます。
 鳥は、宇宙空間をトビかけるだけでなく、声を出して、人に呼びかけます。九官鳥のように物語をカタル鳥もいます。太陽を「アカイ[]」、「不死鳥」と考えたり、アスカ[明日香][飛鳥]と解釈する人もいます。たとえば、この本の表紙を連想しながら、第19章(2.4)「トブヤトリ、アスカの寺」の項をお読みいただければ、日本語の人名・地名などのフシギなおもしろさに気づき、日本語(ヤマトコトバ)を人類のコトバの1例として解釈しなおしてみようという気持ちになっていただけるかもしれません。



お墓まいり 8/13  

信子が亡くなったのが427日。立山町のお墓に納骨したのが614日。「本誓院釈尼香信」として永代祠堂開闢法要に参列させていただいたのが730日。そして8月、初のお盆をむかえることになりました。

お盆の時期には、関東・関西方面から親類の来訪も予想されるので、わたし自身の墓まいりは、すこし早めの13日に済ませることにしました。この日、天候にもめぐまれ。早朝立山町沢端のお墓におまいりし、できたての本をかざって、信子にお礼のコトバをかけました。

無事墓まいりを済ませてホームへ帰ったたあと、11時には長念寺住職志田常無さんをお迎えして、お経をあげていただきました。このさき27には、月命日としてお寺さんに来ていただく予定です。

こんなふうに書いくると、まるでわたし自身にそれだけの行動力があるかのように見えるかもしれません。しかし、ほんとうの話、いまのわたしにそれだけのカイショウ(判断力・行動力)はありません。すべて、藤木夫妻の協力があってのこと。わたしは、なるべくカッコヨク見えるように演戯させてもらっているだけということかもしれません。いつ正体がバレルか?いや、正体はもうバレバレだが、本人は余命イクバクもないのだから、もうしばらくユメを見させておけば、といったところかも…



カーテンのカゲ模様 8/17  

817日(木)。デイ・ケアの日。いつものとおり、窓ぎわのテーブルに女性3人と同席でした。座席は毎回指定されることになっていますが、参加者計20人ほどのうち、男性は4人だけなので、毎回ほぼこんな組みあわせになるようです。

この日は、朝から快晴。つよい日ざしを避けるため、カーテンをひいていました。窓ガラスに、イロガミでこしらえた花とリボンがはりつけてあるので、それがカーテンにうつり、おもしろいカゲ模様をつくっていました。さっそくスマホのシャッターを切りました。30分ほどの間に3回。あとで見ると、3回ともカゲ模様の表情に、びみょうな変化が見られました。午後になると、日ざしがよわまって、カゲ模様が消え、やがてカーテンがあけはなされました。



本家の泉夫妻が来訪

デイ・ケアから帰ったあと、しばらくして泉進さん、公美さん夫妻(東京都在住)が来訪。実は、先日公美さんから電話があり、墓まいりのため、新幹線ではなく、自家用車で、進さんといっしょに富山へ来られるとのことでした。わたしの日程にあわせ、17日午後、わたしがデイ・ケアから帰った時間帯に、ホームへ来訪、いっしょに夕食という予定。
はじめのお話では、まず丸の内のホームまで直行、わたしをのせていっしょに墓まいりという案もあったのですが、わたしのホームでの日常スケジュールをなるべく変更しないですむようにと、単純化していただきました。
この日、立山町で墓まいりをすませたあと、富山市へむかうあたりでラッシュにまきこまれたそうですが、それでも5時まえに丸の内へ到着。イズミ家のお墓のことをふくめて、いろいろ相談。そのあと、富山駅まえCIC 15Fの松屋で夕食をごちそうになりました。
ここはたいへん見晴らしがよく、手前のビル街の屋根から新幹線の線路、神通川の流れへとつづき、さらにその向こうに呉羽丘陵など、ひと目で見わたすことができます。この景色をながめていると、たちまちタイム・スリップして、大伴家持になったような気分になりました。そしてこの時、呉羽丘陵のかなたに沈みかけていた夕日が、これまたミゴトでした。あわててスマホのシャッターを切りましたが、わずか数秒差で雲がくれしたあとでした。
 ごちそうになった日本食はかなりな分量でしたが、おふたりとゆっくりお話できたのはひさしぶり(実は、はじめてのこと)だったので、食欲にまかせてほぼ完食できました。自分でも感心したほどです。



お墓の書類のことなど 

8月18日(金)。お昼まえ、二人がもういちど来訪。開口一番、公美さんが口にされたのが「おじさん、おなかは大丈夫でしたか」というコトバでした。会食のとき、わたしの食べっぷりを見て、胃もたれになっていないか、心配しておられたようです。
きのうにつづいて、電話や手紙では話しにくい問題についても、つっこんで相談できました。公美さんは富山出身ではなく、福岡県出身。富山弁でいわゆる「タビ[旅]の人」にあたるわけですが、じっさいはどんなことでもザックバランに相談できる人がらだということが、よく分かりました。お墓のことについては、わたしが地元にいる分家として、本家にかわって資料(文書)を保管してきましたので、それをのちほど本家(進さん)へお送りすることにしました。

 

身内だけの祝賀会

8月20日(日)。美織さんからの情報として、この日、西田尚信・規子夫妻が来訪。夕食は藤木さんといっしょに会食の予定となっていました。西田夫妻は、それぞれ関東・関西を拠点にIT関係の仕事をしており、多忙な毎日のところ、たまたま休暇がとれたので富山へ来られたとのことでした。夕食会場は市内のトンカツ屋さん。出席者は、西田夫妻・藤木夫妻だけでなく、土地家・藤木家のお孫さんまで動員して、およそ20人ほど。ささやかながら身内だけの出版記念祝賀会を開いてくださったということでした。
この席で飾られたお祝いの生花(写真)をいただいて帰りましたが、ホームのせまい部屋では、飾ってながめるほどのスペースがありません。わたしにとっては、分にすぎた豪勢なプレゼントです。でも、リクツぬきで、うれしいですね。


稗田さんが来訪

 8月21日(月)。デイ・ケアから帰ったところへ、稗田さん来訪。信子の入院・葬式からわたしのホーム入居まで、こちらからなんの連絡もしなかったことについて、おわびしました。1時間あまりおしゃべりしましたが、またしても、わたしの独演会になってしまったようで、ゴメンナサイ。



北日本新聞の紹介記事 

823日(水)。北日本新聞に『コトダマの世界Ⅱ』刊行の紹介記事がのっていました。実は、8月はじめに新聞社へおうかがいして、いちおう 取材していただいてはいた のですが、その後しばらく音沙汰がなかったので、すこし気になっていました。
それが、紙面のトップに、これだけのスペースをとり、3言語の響き比較」、「言葉の由来、音で 解説」など、特大の活字でミダシをつけ、これだけ要領よく、カッコイイ 紹介記事にまとめていただけるとは、まったく予想外のことでした。
 記事の 最期の 部分で、この本の表紙や 装丁を担当していただいた洋画家の佐藤芙美さのことを紹介していただいたこともよかったと思います。これまでのところ、本の内容のことはあとまわしで、「表紙がスバラシイ」と、もっぱらの 評判でした から。
 藤木さんがこの日の新聞を7部持参されました。富山県内在住の方は、大部分北日本新聞を購読しておられるので、かさねてお送りする必要はありません。しかし、県外の方、とりわけ富山出身の方なら、富山地方のニュースをなつかしみながらでも、読んでいただけるかもしれません。そう考えて、さしあたり5人の方へ、23日付の新聞を丸ごとお送りすることにしました。
 824日(木)。デイ・ケアの場でも、スタッフの方から「おめでとう」といわれ、新聞記事のキリヌキにラミネート加工したものをオミヤゲにいただきました。恐縮しました。






2017年8月8日火曜日

『コトダマの世界Ⅱ』ようやく発行


土用の丑の日 7/25


越中おわら節 7/25 


お化け灯篭の正体 7/28  


『コトダマの世界Ⅱ』を謹呈 7/28 


永代祠堂経 7/30  


「偲ぶ会」こんしん会 7/30  


「暑中見舞い」の来客
719日(水)。朝、東京のitkさん(信子の姪)から電話がありました。「暑中見舞いにモモを送る」とのこと。「一人で食べきれない分は、ホームのスタッフの人たちにでも食べてもらって」といっていました。彼女は地域で民生委員をつとめており、いそがしい毎日を過ごしているようです。

11時すぎ、砂町のnksmさんご夫妻が「暑中見舞い」に来られました。

午後、utymさん(信子と女学校以来の親友)が(お嫁さんの車で送られて)、「暑中見舞い」に来られました。信子生前の写真を見てもらい、しばらく思い出話などで時間を過ごしました。そのあと、自宅へ電話して、お嫁さんに迎えに来てもらい、帰宅。



小澤俊夫さんから伝言
720日(木)。朝8:40, 佐藤芙美さんから電話をいただきました。土井(もと小杉町長)さんをとおして、小澤俊夫さんから伝言をたのまれたとのことでした。「12910日、金沢へ行く予定なので、その時(イズミとも)会えるようにしたい」。

 小澤さんがイズミに会いたいといわれるのは、わたしが学生時代から小澤開策さん(俊夫さんの父上)のファンで、北京市新開路の「小澤公館」へも出入りしていたという話を(佐藤芙美さんをとおして)耳にされたからだと思います。本来ならば、大恩人のご子息のもとへ、こちらからかけつけてお礼のごあいさつをさせていただくのがスジだろうと思いますが、いまの自分の体調では、1カ月、2カ月先の行動日程を確約できる自信がありません。せっかくのご提案をありがたく受け入れさせていただき、当日まで体調をまもってゆくだけで精いっぱいです。

おそくなりましたが、この日、どうにかこうにか、ブログを更新することができました。タイトルは、「ユメ・ウツツの日誌



吉報・警報さまざま
『コトダマの世界Ⅱ』は720日(木)に印刷完了と聞かされていたのですが。ぎりぎりになって、「1週間おくれる」と通知されました。28日(金)悠学会席上で配布を予定しているので、前日夕方までに入手できるよう、念をおしておきました。 現実の話、27日(木)はデイ・ケアのため、昼間は不在。本を持ちこまれても、なにも対応できません。また、保管するスペースのこともあり、16時~17,100部ほどだけ、ホームへ搬入。あとはしばらく出版社で保管。郵送分については、別紙寄贈先名簿にしたがって、順次発送していただくようお願いしました。

 721日()。午前、F1で内科検診。異常なし。午後、美織さんから電話。「いまからホームへゆく」。ところが、そのあとすぐ、また電話。「お兄ちゃん(茂樹さん)がインフルエンザで下痢、入院」とのこと。「それはタイヘンだ。大事にしてあげられ」とつたえました。そういえば、茂樹さんはこのところずっと元気がありません。アタマを丸坊主にし、ヒゲもそり落としたのはよいのですが、だいぶ痩せてきたのではと気になっていました。もともと飲食物にスキ・キライがあり、栄養がかたよっているのかもしれません。

夕方、泉久美さんから電話がありました。817日(木)午後、泉一家がクルマで來富。18日(金)朝,墓まいりの予定とのこと。オキナガの体調がよければ、参加させていただくことにします。



土用の丑の日 
 725日(火)。きょうは土用の丑の日ということで、ホームでもご覧のような昼食となりました。食事メニューについては、この日にかぎらず、四季おりおりの季節感をあじわえるよう、いろいろ工夫をこらしているようです。



越中おわら節
この日、14時から9F「歌と踊り」の会があり、富山南ライオンズクラブ有志のみなさん約20人が、ホーム「めぐみ」へ慰問にこられました。胡弓・三味線をふくめ。歌い手・踊り手・はやし方とも、多士済々。こきりこ節・麦や節・越中おわら節などを熱演。わたしは、いちばん前の席で、鑑賞させていただきましたが。迫力満点でした。



お化け灯篭の正体
728日()。午後、茶屋町の豊栄稲荷神社悠学会例会が開かれ、山口悦子さんが「越中稲荷神社のお化け灯篭・・・お化けの正体」と題して調査報告されました。山口さんの調査では、灯篭の中には一部、夜間火袋に点火したとき、そこが「真っ赤なホーズキの眼」となり、全体として「ドンブリ笠とバンドリ[]を羽織ったオバケ」に見えたから、というのが結論のようです。

「オバケの正体」とは大体そんなものかと思いますが、この問題を「歴史上の事実」として実証しようとなると、それはかなりむつかしい作業になるかと思います。いつ・どこで、どれほどの規模でオバケ現象が発生したか?その資料を採集するだけでもたいへんですが、その灯篭を設置した人たち(藩主や庭師・石工など)がオバケ現象の発生を予測・計算して設計したものかどうか。などの判断資料も必要になってくるでしょう。



『コトダマの世界』を謹呈
山口さんの報告が終わったあと、イズミから『コトダマの世界』出版の趣旨について簡単に報告し、出席のみなさんに贈呈させていただきました。また、この本の表紙デザインや装丁などを担当してくださった洋画家・佐藤芙美さんから、これまでの経過について報告していただきました。なお、8月の悠学会は夏休みとなっていますので、9月以後の例会などで。この本の内容について議論していただければありがたいと思っています。



永代祠堂経
730()。午前1020分~、長念寺でおこなわれた永代祠堂開闢法要に、美織さんといっしょに(つきそってもらって)出席しました。故信子の名が、法名「本誓院釈尼香信」として、ことしの開闢法要の対象者名簿にかかげられていました。「開闢・総永代経」につづいて真浄寺住職永田寛雄師の法話があり、そのあと昼食をいただきました。美織さんは、ここで帰宅。わたしはそのまま午後の「偲ぶ会」に参加しました。



「志田延義先生を偲ぶ会」
午後1時半から本堂で、「志田延義先生を偲ぶ会」が開かれ、記念講演として、元奈良教育大学教授で日本歌謡学会会員の永池健二先生が「志田延義先生と『梁塵秘抄』の注釈研究」と題して報告されました。先生が中心になって編集された「梁塵秘抄詳解神分編」は8月初旬、八木書店から発行予定とのこと。門外漢のわたしですが、当日いただいたレジュメの中で「3漢字と仮名の表記の書き分けについて」の部分に共感をおぼえました。そこだけ引用してご紹介します(下線は引用者)。

『梁塵秘抄』巻第二の今様の文字表記を総体として一覧すると、漢字と仮名の書き分けについて、つぎのような顕著な傾向を見てとることができるように思われる。

1.歌詞の表記に際しては、漢字を多用せず、できるだけ仮名書きを用いること。

2、とりわけ、本来の和語―大和言葉―については、仮名書きにすること。

3.漢字を用いるのは、仏語など本来漢字によって成り立つ漢語の場合に限ること。

 以下、具体的な文例が紹介されていますが、長くなるので省略。わたしは、ここでも黒田夏子さんの小説『abさんご』の表記法を思いだしていました。「ヤマトコトバはもちろんのこと、日本語の文章は、漢字でなく,カナ書きとする」という方向が、『梁塵秘抄』の時代(平安後期)に確認されていながら、21世紀になっても「『abさんご』の表記法では読みにくい」といわれるのは、ナゼでしょうか?それは、ワカチガキされていないからです。さらにいえば、タテガキの習慣をのこしているからです。英文のようにヨコガキにすれば、

いやおうなしでワカチガキすることになるでしょう。いずれにしても、いまの日本語の表記法は、中国・韓国・北朝鮮にくらべて数十年おくれていることを自覚すべきだと思いますが、いかがでしょうか?。



こんしん会
 「偲ぶ会」には、こんしん会がつきものです。志田延義先生は日本歌謡学会を立ちあげた方なので、「偲ぶ会」では毎回、最先端の研究者たちが講師をつとめられます。また、もと延義先生のファンで、そのまま「偲ぶ会」(こんしん会をふくめて」の常連になった人たちがいます。わたしもその一人です。
 こんどの『コトダマの世界Ⅱ』では、延義先生の文章を引用させていただいたこともあり、この席で、出来たての一冊を現住職の常無さんへ、また同席の数人の方にも1冊づつ謹呈させていただきました。