祭壇 10/9
お通夜の食事 10/9
「神通川船橋跡」10/17
「キタキツネと子ども」10/17
波紋 10/17
今週の花 10/23
土地茂樹さんをおくる
10月8日(日)朝,土地茂樹さんが亡くなったとの知らされたとき、わたしはただビックリするばかりで、しばらくコトバが出ませんでした。あの茂樹さんが、70歳未満(満69歳)で亡くなるとは。まったく信じられないことでした。
美織さんのクルマで西番の祭場にかけつけ、遺体と対面して、「ほんとうに亡くなったんだ」と思い知らされました。そして「そういえば…」と思いだしました。数か月まえ、とつぜん頭を丸坊主にして、アゴヒゲもきれいにソリ落としていました。なにか心境の変化を来たしたのかなと感じてはいました。そして。いっぺんに痩せた感じで、すこし気にかかってはいました。いま思えば、信子の葬式やわたしの老院ホームへの入居などの時期と重なっていたので、わたしに心配させないようにと、自分の病気のことはかくしていたのだと思います。
ふりかえれば、わたしがなんとか信子の葬式をすませ、老人ホームへ入居できたのも、すべて茂樹さん、美織さんにダンドリしてもらったおかげです。つい最近、わたしが「コトダマの世界Ⅱ」を出版したときには、ごく内輪の「出版記念パーティー」まで開いてくれました。
実の子どもでもないのに、どうしてここまでメンドウ見てくれるのか、フシギなくらいです。因縁らしいものをたずねるとすれば、信子とふたりとの人間関係でしょうか。まえにもご紹介したかと思いますが、このふたりは信子の姉・和枝さんの長男・長女で、赤ん坊のころから、しょっちゅうイズミの家へ遊びに来ていました。数枝さんの旦那さんが貨物船の機関長で,富山の自宅で家族といっしょに生活したことがほとんどありませんでした。1年に数回、日本の港(横浜・神戸・敦賀など)にはいり,休暇がとれると知らせがあれば、数枝さんはナニはさておき、その入港先へかけつけました。そのとき、子供たちをあずかったのが信子です。当時、信子は貸本屋を切り盛りしていましたが、加藤の婆ちゃん(信子の母)も健在でしたから、二人がさびしい思いをすることはなかったようです。.
さて、現実の話にもどります。茂樹さんには3人の娘がいて、それぞれ結婚して子ども(茂樹さんの孫)もいます。長女は名古屋在住ですが、喪主をつとめ。9日のぉ通夜、10日の葬式・火葬・骨上げ・七日の法事まで、無事すませました。このお葬式に参列して、すこしだけ「風変わり」と感じた点を記しておきましょう。
「土地茂樹」という人物も、たしかにフシギな存在でしたが、(その親友といわれる)Daisinさんも、富山地域では「一風変わった」ご住職だと思います。その表われの一つが、お通夜や七日の法事の食品について「精進料理」のワクをはずしたたことです。東京など都会ではずっとまえから常識になっているようですが、富山では、いまはまだ「革新的」とうけとられているようです。ただ、時代の流れとともに、富山でも、[常識]そのものが変化してゆくことを実感させられました。
はじめての松川散歩
10月17日(火)朝、はじめて松川安住橋上流あたりを散歩しました。砂町に住んでいたころは、自宅から百メートル足らずですぐいたち川遊歩道に出られたので、毎日でも散歩できました。それで、ブログの名も「いたち川散歩」と名づけました。6月に丸の内へ来てからも、こんどは松川を散歩してみようと楽しみにしていました。ところが、いざ転居してみると、つぎつぎいろんな用事が出てきて、なかなか松川散歩が実現できませんでした。考えてみると、雑用がおおいことも事実ですが、わたし自身の身体能力や、精神的な能力(判断力・気力など)が落ちてきたこともまちがいありません。
この日は天候もよし、ひさしぶりに散歩してみる気をおこし、愛用の「歩行用ストック」を使って、松川散歩にでかけました。まずは、初対面のごあいさつという感覚で、安住橋から上流左岸数十メートルを歩いてみました。「神通川船橋跡」と題した図解付き解説掲示板が設置されてあり、「ヒマラヤの少女」(田近東岳)、「緑のアプローチ」(善本秀行)、「キタキツネと子ども」(長谷川総一郎)などと題した彫刻作品も展示されていて、このつぎまた散歩に来てゆっくり鑑賞してみたいという気になりました。
それともう一つ、いたち川にくらべて、松川の流れはごくゆっくりしています。ボケーッとしてながめていたら、カワモ[川面]になにか二重三重の水紋ができてひろがり、やがて消えてゆくようです。ひょっとすると、川底ふかくに伏流水があり、それがたまたま気泡か水泡となって水面まで上昇し、そこで破裂して波紋をひろげたということでしょうか?その道の研究者から見れば、なんでもないことかもしれませんが、門外漢にとっては、きわめつきのフシギ。そこから、さまざまな妄想をめぐらすことにもなります。
せっかくのチャンスだからと、「神通川船橋跡」の説掲示板をはじめ、彫刻作品などをスマホに収めてから、ホームへ帰りました。ところがそのあと、その画像をスマホからパソコンのピクチャ―にコピーする段階でずっこけてしまいました。いつもなら、まずスマホとパソコンをつなぎ、そのあとkyy23→内部ストレージ→DCIM→100KCRA、この段階で、スマホ内の画像をすべてパソコン画面で見ることができ、そのうち必要な画像をえらんでコピーし、パソコンのピクチャーに保存できたはずなのですが、今回はどうやってもうまくゆきません。ホームのスタッフの方に見ていただき、やっと画像までたどりつきましたが、そのあとまたコピー作業でもつまづいたり…
<追記>
この件は、10月いっぱいつづき、11月はじめから、むかしパソコン教室でご指導いただいたysd先生にしばらく定期的に出張教授をお願いすることで落着しました。こんどのことで、まわりのみなさまにいろいろお世話になりました。ありがとうございます。
今週の花
10月23日(月)。デイ・ケアの日。通所者の中に、10月生まれの方が数人おられ、その誕生日を祝う会がありました。「歌のお姉さん(?)」が来られ、みんなでいっしょに“Happy Birthday”を歌っておいわいしました。ついでに「炭坑節」など、みなさんおなじみの歌を歌って、楽しいひとときを過ごしました。
そして、わたしたちのテーブルには、今週もこんなステキな花(写真)がかざられていました。uszさんが別の場所でいただいた花束のおすそ分けだそうです。花のナマエも教えていただいて、メモしておいたのですが、それも見あたらず、ほんとうにごめんなさい。。たしか、ケイトウ・ガーベラ・トルコキキョウ・バラ(?)
悠学会研修会
10月27日(金)。午前中に長念寺志田常無住職さんに来ていただいて、信子の月命日のお経をあげていただき、午後は、茶屋町豊先稲荷神社で開かれた日本海文化悠学会の研修会に出席しました。
この日、会員のkbtさんが「長者丸と徳川幕府崩壊」について報告・提案されました。お話を聞いているうちに、日本の近現代史について、自分が基本的な知識も持っていないことを思い知らされました。その後、ブログ「山川旅人日記」(10/29号)の解説記事を拝読するなどして、ようやくすこしだけこの問題の意味が分かってきました。以下、その記事の一部をご紹介します。
長者丸は越中売薬薩摩組の能登屋兵右衛門所有の弁財船。薩摩藩へ昆布を輸送し、代わりに密輸唐薬種を入手しようと船出したが、天保9年(1839)三陸沖で遭難し、太平洋上で米国捕鯨船に救出された。
長者丸の乗組員で当時26歳の次郎吉は、英語・ハワイ語を憶え、現地新聞「ポリネシアン」にインタビュー記事が載った。
帰国後の天保14年に江戸へ送られた次郎吉は、江戸小石川春日町の旅籠大黒屋に軟禁お預けとなった。水戸藩の儒学者古賀謹一郎は、自宅で次郎吉の外国話を聴く「漂談会」を主宰し(計30回)、その内容をまとめた『蕃談』を著した。次郎吉にこのような機会を与えられたのは、老中首座阿部正弘、謹慎中であった水戸藩・徳川斉昭の働きかけ、氷見出身の剣豪斎藤弥九郎の斡旋があった。『蕃談』を見た阿部正弘ら幕閣は次第に開国へと政治転換を図る。なお次郎吉の話は、越中へ戻った後『時規物語』『次郎吉物語(全)』でも語られている。
ペリーは日本に開国を迫るために、情報を丹念に集めて研究した。その情報の中に次郎吉が「ポリネシアン紙」にインタビュ―した「日本で銀の価値は米国の3倍」の記事があった。
日米貿易開始の日本経済への影響について、在来産業が壊滅させられ、社会に「不安と混乱」が巻き起こったと見なすのは一面的に過ぎる。生糸売り込み商人の盛んな活動に代表されるように、貿易への参加が広範に見られ、それが日本の独立の真に広大な基盤になった。(井上勝生『日本近現代史①幕末・維新』(2006、岩波新書、113ページ)…この辺りも検討の余地ありか。
「知らぬが仏」現象?
万次郎の話を聞いたあと、わたしはふと「知らぬが仏」というコトワザを思いだしました。ネットでしらべると;
「知らぬが仏」とは、知れば腹が立ったり悩んだりするようなことでも、知らなければ平静な心でいられるということのたとえ。
また、本人だけが知らずに澄ましているさまを、あざけって言うことば。
と解説されています。万次郎時代の日本をめぐる国際情勢については、徳川幕府の実権派をふくめ、日本人すべてが「知らぬが仏」状態だったといえるでしょう。しかし、「知らないから、平静な心で居られてよかった」という結論にはなりません。やがて「きびしい国際情勢」にかんする情報がつたわり、日本国中いたるところで「尊皇か、佐幕か」、「攘夷か、開港か」をめぐって、血まみれの戦いがはじまりました。こうした歴史の教訓に学ぶ意味でも、あらたな情報はできるだけ早期に公開し、腕力や権力ではなく、公開の場で議論されるべきだと考えられます。
わたしがいま気になっているのは、いまのわたしたち自身が「知らぬが仏」の状態になっている(されている)おそれがないか、ということです。いま世間では、①日本国憲法改正の是非、②北朝鮮拉致被害者の救出方法、③総理大臣の靖国神社参拝の是非などの問題が話題になっています。これらの問題について議論するには、なによりまず日本の近現代史にかんする基本的な情報(知識)が必要になります。ところが現実には、わたしだけでなく、国民みなさんのおおくが「あまり自信がない」状態かと思われます。小中高の学校教育の現場においても、近現代史は年度末にわりあてられ、「時間切れ」などのため学習不足のままとなることがおおく、文科省もその実態を把握しながら、改善する意向は見せていないようです。
靖国神社や戦犯についても、しばしば問題になりますが、そもそも「靖国神社」や「戦犯」というコトバの意味・用法について、日本国民の共通理解ができているのでしょうか?
「A級戦犯」、「B級戦犯」などは外国の人たちがきめたことなので別として、さきの太平洋戦争について、日本国民の総意として、「戦争」、「戦争犯罪」、「戦争犯罪者」、「靖国神社」などについて、いつ・どこで・どんな方法で議論し、そしてどんな共通理解を積みかさねてきたのでしょうか?いまのわたしには、こんな基礎的な問題についても、自信をもって回答できるだけの情報をもちあわせていません。
わたしたちは平生「外国人にくらべれば、日本人自身のほうが、自分たちの国のことをくわしく知っている」と考え、そこで「安心」しています。情報・知識の量だけを見れば、たしかにそうでしょう。しかし、心配なのは、情報・知識の質の問題です。たとえば、「北朝鮮拉致被害者の救出」や「北朝鮮の核兵器開発停止」などについて、「人道に反する行為をしたのは北朝鮮」、「中国・ロシアをふくめ、経済的制裁をつよめれば、政策を転換するだろう」との情報もあります。また、「長い目で見れば、北朝鮮がアメリカと戦争して勝てる道理はない。しかし、和平交渉が失敗した場合、自制心を失った北朝鮮指導者が韓国・日本・アメリカに先制攻撃をしかけるかもしれない。さきの大戦で、日本がアメリカの真珠湾を奇襲した先例もある」との情報もあります。
いずれにしても、わたしたち自身が「知らぬが仏」状態にいなっていないか、よくよく点検しておきたいと思います。
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