2017年12月16日土曜日

マイ[舞]あがる日々



『古事記』を読む会 12/3



 忘年会 12/3


佐藤芙美個展会場 12/3


小澤俊夫さんを迎えて 12/8 


小澤公館にて、1941 


福音館絵本 


『古事記』を読む会

 123日(日)午前、茶屋町豊栄稲荷神社で、『古事記』を読む会。五十嵐喜子さんが「古事記の中の舞」について報告されました。喜子さんは五十嵐顕房・俊子夫妻の長女で、富山大学薬学部の学生さん。神社のお祭りでは、ミコ[巫女]としてマイ[]を奉納したりする一方、大学ではスポーツ系のダンス・サークルに所属しているとのこと。この日の研修会では、『記』上巻、「天の石屋」のくだり、アメノウズメ[天宇受売]マイオドル[舞踊]場面を中心に、「宮廷祭祀」としてのウタ[]・マヒ[]の実態をふくめて、さまざまな議論がかわされました。

 わたしの場合は、なによりまず、議論のテーマになっている用語、マヒ[]・ヲドリ[踊・躍]などについて、「その音形と意味用法との関係」を調べあげ、確認することから、議論をはじめることにしています。

 マヒ[]は、動詞マフ[]の連用形で、そのまま名詞形となったものと思われます。ところが、これとまったく同音のマヒ[幣・賄]があります(いずれも、ヒは甲類カナ)。国語辞典には、動詞マフ[幣・賄]の項目が見あたりませんが、名詞マヒナヒ・動詞マヒナフが成立していたことなどとあわせて、マフ[]・マヒ[]・マヒ[幣・賄]はもともと同源のコトバだと推定されます。マヒ[舞・幣]は、「神のマハリマハル[回・廻]こと」、「神のマハリに[真・目]ハリツケル[貼付]こと」、つまり「神にささげつくすこと」、「神と一体になること」と解釈されます。

 ただし、すこし気になることがあります。『記』上巻、「天の石屋」のくだりで、マフ[]マヒ[]などの用語が使われてないことです。その場面の文句を引用します。

 ・・・アメノウズメ[天宇受売]命、タスキに天の香山の天の日影を繋けて、天の真析をとして、タグサ[手草]に天の香山のササ[小竹]の葉を結ひて、天の石屋の戸にうけを伏せて、踏みとどろこし、神懸かりして、胸乳を掛き出だし、裳の緒をほとに忍し垂れき。しかくして、高天の原動みて、八百万の神ともにワラ[]ひき

 マフ[]・マヒ[]などの用語が出てくるのは、「マヒ[]つつ、醸みけれかも」(中巻・仲哀)、「その国主の子にマヒ[]しつ」(中巻・応神)など、中巻・下巻だけのようです。

それでは、マフ[]・マヒ[]などのかわりに、ヲドル[踊・跳]・ヲドリなどの語音が使われているでしょうか?ごらんのとおり、ゼロです。念のため、上中下巻通してチェックしましたが、ヲドル[踊・跳]・ヲドリの用例はゼロ。ヲドルは、もと「ヲ[緒・尾]+トル[取・執]」の構造で、「裳のをほとに忍し垂れ」の姿にも対応する語音かと思われます。『萬葉集』ではヲドル[]の用例が見られることから、『古事記』は動詞ヲドル[踊・跳]が成立する直前の著作だったことも考えられます。

 ヲドル[]については、日本漢字音ユウdiungyongなどの字形解説も参考になります。

ユウdiungyong おどる。トンと踏ん張って上に飛びあがる

ユウdiungyong ①人がトントンと上下に足ぶみする。②デコボコの台地を切り開いて通した輸送路。③筒形の桝。*ユウ[]・ヨウ[]の原字。(『学研・漢和大字典』による)

 アメノウズメ[天宇受売]命が「天の石屋の戸にうけ(=ヲケ[桶])を伏せて、踏みとどろこし」の場面は、漢語ユウ[甬・踊・勇]ツウ[]にツウ[]じるものがありますね。

 日本漢字音ム・ブ[]は、上古音myag、現代音wu。その字形については       

セン[]は、左足と右足を開いたさま。[]は、人が両手に飾りを持ってまうさまで、

舞の原字。舞は、「舛+音符」の会意兼形声文字で、幸いを求める神楽のまいのこと。フ・ブ[](みこ)・ボ[]と同系のことば(学研・漢和大字典』より)

と解説されています。

 漢語フ・ブ[無・舞・巫]の上古音はmiuag日本語ミコ[]・マク[娶・巻・罷・任・設]・マグ[求・曲]・ムク[向・剥]、英語magic,magus,mechanic,makeなどとともに、m-k(g)タイプの語音と見ることができます。いいかえれば、日漢英3言語にわたって、それぞれ大規模な単語家族が形成され、意味用法の面でも対応関係が見られます。フシギなくらいです。

そこで、その背景として、「〇○教の布教活動」など、東西にわたる地球規模の言語交流があったと想定することもできます。ただし、ここでその話をしている余裕はありません。もしご関心のある方には、『コトダマの世界Ⅱ』第1章「ヒミコ・ミコ・MAGICIANをご参照いただければ幸せです。.



忘年会 

 この日、午前中で研修会は終了。夕方6時から、内幸町「つむぎ乃」で忘年会が開かれました。会員12名、全員参加。最近入会された会員もおられることから、この席であらためて順番に自己紹介することになり、そこからひとりでに忘年会の雰囲気がもりあがってゆきました。

 年末のいそがしい時期に研究報告を担当された五十嵐喜子さん、ご苦労さまでした。また忘年会場の「つむぎ乃」さんは、日曜が定休日のところを、『古事記』を読む会のために「臨時・貸切で開店」していただいたとのこと。ごちそうさまでした。



佐藤芙美個展会場 

 研修会が終わったあと、夜の忘年会まで、しばらく時間がありました。五十嵐俊子さんの提案で、会員数人といっしょに五十嵐さんのクルマに便乗、千石町の佐藤芙美個展会場をたずねることになりました。

 北日本新聞122日号で、「暖色系の色合いで、女性や鳥、花を描いた、優しくもエネルギーにあふれた絵画30点が並ぶ」と紹介されていましたが、開催第3日目のこの日も、おおぜいの人が会場まで足をはこび、見学・鑑賞していたようです。



小澤俊夫さんを迎えて 

 佐藤芙美さんからの連絡で、小澤開策さんのご子息、俊夫さんにお会いする日程が固まったことを知りました。俊夫さんが129日に金沢で講演される予定なので、前日8日、富山駅でで途中下車、市内千代田町丸十で関係者との夕食会に出席していただくという日程です。出席者は仙石正三さん、針山康雄さん、佐藤芙美さんとイズミ。会場を提供された丸十の経沢信弘さんをふくめ、すべて日本海文化幽学会の仲間です。

 「小澤開策さんのご子息にお会いできる」ということだけで、わたしはすっかりマイあがっていました。佐藤さんの話では、「イズミのほうが年上だから、敬意をあららわすために俊夫さんが富山まで足をはこばれる」ようなニュアンスでしたが、わたしはちょっと「信じられない」きもちでした。小澤開策さんは、わたしの大恩人です。そのご子息がご健在だとわかったその日から、「いちどおうかがいして、当時のお礼を申しあげたい」と願っていました。ただ、「いまの自分の体調では、そのユメを実現するのはムリ」とあきらめていました。

 そんなしだいで、この夕食会の席で、だれがどんな話をされたか、まともに記憶していません。ただ、かねて佐藤さんからの助言もあり、「小澤公館にて、1941年」という写真のコピーを用意していましたので、それを俊夫さんにおわたししました。東京外語を卒業し、華北交通()に就職して間もなく、北京市三条胡同の小澤公館へ「ごあいさつ」におうかがいしたときのものです。写真を見るなり、俊夫さんは、「この写真のことは、記憶しています」といわれました。そして、「この屋敷は、いまも征爾が管理しています。も当時のままです」とつけくわえられました。

 ここまで聞いて、わたしの頭の中は完全に七十数年まえまでタイム・スリップしてしまいました。1939年、東京外語に在学中だったわたしは、夏休みを利用して中国旅行を計画していましたが、当時は一般の中国渡航が禁止されていました。あきらめきれず、新民会東京事務所をたずね、わかい職員の方に相談した結果、「新民会要員」の辞令をいただき、ようやく中国旅行のユメがかなうことになりました。大連・瀋陽・長春から北京まで歩きまわり、北京では三条胡同の小澤公館をたずね、開策さんにお会いすることもできました。

 1941年、学校を卒業して華北交通()に就職したとき、さっそく小澤公館を訪問、学生時代にお世話になったことのお礼と、大陸鉄道建設をユメみて就職したことの報告をさせていただきました。そのとき小澤公館の中庭でうつした写真が、この1枚です。学生服から、セビロに着がえたばかり。ズボンのポケットに手をつっこんだりして、ナマイキざかりのワカゾウ姿ですが、いまのわたしには、だいじなタカラモノです。

それから、因縁話めいた話をもうひとつ申しあげました。『ときを紡ぐ』の中で、開策さんの言動について、こんな話が語られています。

 日本中が皇紀二千六百年に沸いていたころから、父は、「日本はこの戦争に勝てない」といいだした。その根拠は、第一に日本が中国民衆を敵にまわしてしまったからだという。…第二は、そういう状況にいたってもなお、日本の軍人や官僚は事態の深刻さに気づかないばかりか、ますますその横暴、官僚主義が募っていく状況が変わらなかったからであろう。

これと似たようなことを、わたしも体験しています。華北交通に就職して、2年間の現場研修の後半、大同駅貨物助役のころ、本社企画の論文募集に応募。「大陸鉄道建設のゆめ」というタイトルの小論をまとめました。その中で、「大陸鉄道の建設には、現地従業員の全面的な協力が必用。それには、日本人中心の人事制度をあらため、現地人の給与を改善するなどの遠望深慮が前提条件だ」と指摘しました。わたしがこの小論を提出しようと考えた直接の動機は、前任地唐山駅助役勤務のころ、助役テイ[]さんはじめ中国人従業員の生活実態をすこしばかり観察することができ、「これは、なんとかしなければ」と考えたことでした。その思いが、そのまま小論にのりうつり、結びの文句がこうなりました。

 「これしきの遠謀なくしては、大陸鉄道建設のゆめはかなわず、これしきの深慮なくしては、日本国かならず滅びん

 書き終わった原稿を読みかえしてみて、「かなり過激で、時代がかった表現だ」とは思いましたが、「正直な実感」なので、そのまま提出しました。(この項、くわしくはブログ「七ころび、八おき」2011.1.25.「華北交通のころ①」をご参照いただければ幸せです)



福音館絵本 

 夕食会の席で、福音館の絵本『かぜのかみとこども』(おざわとしお再話、佐藤芙美絵、1999年刊)を拝見しました。ちらっと見ただけですが、気づいたことをメモしておきます。

 表紙に印刷された「こどものとも」と「かぜのかみとこども」は、すべてひらがなで書かれていますが、ワカチガキはしていません。著作者については、「おざわとしお」(ひらがな、ベタガキ)、「佐藤芙美」(漢字)、「再話・絵」(漢字)となっています。そして、本文を見ると、すべて「文節ごとのワカチガキ」になっています。

福音館にかぎらず、日本の絵本はほぼこのょうな感覚で編集されているようです。それでわたしは「このままでよいのだろうか」と考えてしまいます。せっかく本文でワカチガキをしているのですから、表紙でも、絵本のタイトルなどもワカチガキできないものでしょうか?

 絵本だけの問題ではありません。国語教科書全般についても、おなじような問題がでてきます。学年がすすむにつれて、表記される漢字の數がおおくなり、やがて「文面の中の漢字をひろってゆくだけで、全文の意味がよみとれる」ようになっています。このことは、たいへん便利で、すばらしいことです。わざわざワカチガキする必要もなくなります。

 漢字伝来が、日本語のためにおおきな利益をもたらしたことは事実ですが、ぎゃくにさまざまな不利益・困難をもたらしたことも事実です。もちろん、それは漢字自体の責任ではなく、借用した日本がわの責任です。

 漢字は、もともと漢民族が、漢語(中国語)を記録するために発明したモジです。象形・指事・会意・形声などさまざまな造字法をふくみますが、「表意モジ」の一種です。

 モジをもたなかった日本人は、漢字サン[]をヤマトコトバのヤマにあてたり、セン[][]カハ(カワ)とよんだりする方法を考案しました(訓読み)。便利といえば便利ですが、漢語と日本語(ヤマトコトバ)ではもともと音韻感覚がちがうので、この方法だけでは、日本語を自由自在に書き表わすことができません。そこでこんどは、漢字という表意モジ表音モジとして使う方法を考案しました。いわゆる万葉カナの表記法で、『古事記』(歌謡の部)、『萬葉集』から、やがて「漢字・カナまじり文」として定着します。

 こうして見ると、ヨコグミ・ワカチガキの絵本こそ、日本語表記法のあるべき姿であり、「漢字とカナがマジリあうことで、ワカチガキの必要がなくなる」などというのは、歴史の流れにさからうものといわなければなりません。

 日本では、いまでも、国語の勉強といえばすぐに「漢字のヨミカキ能力」ばかり問題にします。しかし、ほんとうに大事なのは、「コトバをキク・ハナス能力」であり、モジは、コトバを記録するための道具にすぎません。そして、21世紀のいま、漢字という表意モジを使っているのは、中国(台湾をふくむ)と日本だけです。韓国や北朝鮮でも漢字をやめて、ハングル(カナに近い表音モジ)を使っています。漢字の本家・中国でも、漢語教科書をはじめ、新聞・雑誌・単行本など、すべてヨコグミが基本。英語などの外国語や数式なども、そのまま本文にとりこむことができます。

そして、きわめつけはローマ字教育1958年に「漢語ピンイン方案」(中国式ローマ字つづり)を制定。小学校で漢字を覚えるまえに、まずローマ字つづりを習得、このローマ字をたよりに漢字の読みかた(北京音)を習得。つまり、もっとも効率的な方法で中国全土に共通語を普及することができました。それだけだはありません。ローマ字つづりの漢語は、漢字の字形という重荷がなくなったので、それだけ外国人にも親しみやすいものになっています。「漢語ピンイン方案」は、もともと「漢語を全世界にひろめる」という世界戦略をふくめて制定されたものです。

 どう考えてみても、日本語の現状は、世界の流れにとり残されていると判断するほかありません。なんとかしてヨコグミ・ワカチガキの方向を見さだめ、21世紀を生きぬく世界戦略をもちたいものです。



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