2018年2月28日水曜日

モジとコトバの話など


『漢字が日本語をほろぼす』(表紙)


同上(裏表紙


  ローマ字にも見られる象徴性 

三味線を聞く会 2/21 


訪問販売 2/22  




『漢字が日本語をほろぼす』

215日(木)。砂町自宅から持ちこんだ本の中に、この1冊がありました。『漢字が日本語をほろぼす』とは、いかにもなカゲキな感じがするタイトルです。数年間、ずっとツンドク状態だった本ですが、タイトルにひかれて、一気に読んでしまうことになりました。

著者は田中克彦。1934年兵庫県生まれ。東京外国語大学モンゴル語学科卒業。一橋大学名誉教授。専門は社会言語学とモンゴル学。言語学をことばと国家と民族の関係から総合的に研究」。角川SSC新書126として、20115月発行。

著者の田中さんは、読者にナニをうったえようとしているのか?まずは、表紙カバー帯封などに記された文句に目をひかれます。

 漢字はことばではない。モジである…いまこそ、漢字からの解放だ…モジは、現実に生きて使っている人間のためにあるのであって、人間が漢字のためにあるのではない…

漢字があるから、日本語はすばらしい!そう考える日本人は多いだろう。しかし漢字が、日本語を閉じた言語(外国人にとって学びにくい言語)にしているという事実を、私たちはもっと自覚しなければいけない。日本語には、ひらかな、カタカナ、そしてローマ字という表記方法があるのだから、グローバル時代の21世紀は、もっと漢字を減らし、外国人にとって学びやすい、開かれた言語に変わるべきなのだ。いまこそ、日本語を革命するときである」。



「閉じた言語」から「開かれた言語」へ

 そこで「はしがき」を読んでみると、著者はご自身の体験から、日本語が「閉じた言語」だと痛感させられ、なんとかして「開かれた言語」へ改革しなければならないと考え、この本を書いたといっています。。

 1964年、私ははじめての海外留学として、当時は西ドイツだったボンの大学に学んだ…

私たちの教室と隣りあったところに日本学の研究室があったので、そこの主任教授のツァヘルト先生とは、ほとんど毎日のように会った…

 先生の話はいつも同じだった。「田中先生。日本語はひどいことばです。こんなにモジがむちゃくちゃで無秩序なことば世界にありません」と。まるで私に罪があるかのような言い方だった…度重なると、じゃあ、なんで、そんな、めんどうでやっかいなことばを専門にしたんですかと言いたくなるのだった…

 そのうちに、私はエッセンという大きなまちの市民講座で日本語を教えてくれないかと頼まれ、引きうけた。そのおかげで日本語を教えるということはどういうことかを思い知ったのである。ことばに入るまえにまず文字を教えなければならない。その文字が、教えてみると、たしかにひどいものだとよくわかる。

 こうしてツァヘルト先生のなげきは私自身のものになった。むかしも今も日本語をほめたたえ、気炎をあげている論者たちはその前に一度、漢字をまったく知らない人に日本語を教えるという経験をもってほしいものだ。

 あれから半世紀たった今、日本語の教材も教授法も目ざましく向上した。それでも大変なことはかわらない。アメリカ国務省の調査によれば、アメリカ人スペイン語を学ぶのについやす時間とエネルギーとを比べると、日本語はその三~五倍はかかるという(ユディット・ヒダシ「ヨーロッパにおける日本語教育と漢字・漢語」)…

 従来、外国人で日本語を学ぶ人として目立ったのは、古式ゆかしい日本文化のあらわれとしての日本語を学ぶ研究者や特志家だった。ところがそこに全く新しい層――日本ではたらき子どもを生み、何よりも日々のくらしをいとなむための日常、実用の日本語を求める人たちが加わったのである。

 このことによって、日本語はもはや、日本人だけのうちわのやりとりですむ村ことばではなく、世界に開かれたことばになることが求められるようになった…こういうときになって、またあの復古勢力やその残党が、日本語の、ただでもせまい門をいっそうせばめるようになったら困る、という思いから書いたのがこの本である。



上田万年のことば

 19世紀末のドイツに留学し・・・ドイツ青年文法学派のまっただ中で言語学を身につけて、それを日本の帝国大学に移植する役割をおびて帰国した上田万年は、同時に日本国家が必要とした「国語」意識を造成する役割もおびていた。帰国直後の189410に行った講演の中の次のような一節は、今読んでみても、120年前の発言とは思えないほど現実感がある。

  又他の[漢学者以外の]一派の人は、此母野蛮なり、馬鹿にぐずぐずして気力に乏しなどいひて、それよりは他の母を迎へよなど主張す。此派の人は[――]西洋語尊奉っ主義の人に多し。殊に英学者と称する人の間に多きが如し。(「国語と国家と」)

 さて、とりかえることのできない吾らの母、日本語が「ぐずぐずして気力に乏しい」という感覚は今日でもなお、そっくりそのまま、いな、いっそう増幅されて生きつづけている。次の文章を見よう。

  日本文化は漢文によって培はれた…義務教育における漢文の教材はもっと増やさねばなるまいし、殊に簡黙雄勁な論説文を読ませることによって、現代日本人のともすればふやけがちな文体感覚を鍛へることはむしろ急を要するとと見受けられる。(丸谷才一『日本語のために1974.傍点[下線]は田中)

 カンモクユーケー」などと漢字を四つつらねていい気持になっている…ほんとうは、うまい、ぴったりした日本語が見つからなかったから漢字に逃げただけのことだと思うのだが…こういう人が、外国人ながら日本で看護師・介護士になろうという感心な人たちに、「ジョクソウ[褥瘡]」だの「ゴエン[誤嚥]」だのという漢字が読み書きできないからといって、国家試験で追っぱらっているのだ…

 今世紀中に世界の言語のうちの半数が消え去ると予告され、また生きのびた言語たちも激しい競争の場…国際言語マーケットせりにかけられている。そのマーケットではどんな言語がえらばれるか、いうまでもなく、その言語を使えば職を得て安定した収入が得られるだけではなく、やさしい、いたわりの気持で、たがいに助けあう気持を起こさせっるような、親しみのあることばである。そして、たいせつなことは、その「ことばを好んで使う仲間」を増やすことだ。



ローマ字にも見られる象徴性

 フランス語文字とオトとの間にいろいろ問題が起きることの多い言語だから、文字に多くを求める点では、漢字についで関心が深いという背景はよく理解できる。だから、シャルル・バイイが挙げている次の例は大変おもしろい。

 ポール・クローデルにとっては、toit(屋根)の両端のtは家の二つの切妻であるし、またlocomotive(機関車)にかれは煙突や車両をみとめている。(『一般言語学とフランス言語学』143

  ここに言われていることを私なりに図示してみると、左にかかげたようなぐあいになる。①は機関車ロコモティブで、先頭のi煙突のように上に飛び出ている。次にoooと三つ出てくるのが動輪のように思える。私はさらにいたずらをしてlの上に煙を書き添えて煙突に似せておいた。②は「トワ」と讀み、屋根という意味であり、両端の二つのtが高くなっているから、屋根の両側の切妻をさしているのであろう。文字には、音声文字であっても、このように意味と結びつく傾向はある。バイイはソシュール先生の弟子ではあるが、ラングのわくをふみはずして、大いに遊び心を発揮した人である。



魯迅と銭玄同

 日本に留学したことによって、漢字の害を痛切に感じた人に作家の魯迅(ルーシュン)がある。かれは、その思いを「漢字が滅びなければ中国が必ず滅びる」と表現した…さらに、いわく、「漢字は、中国の勤労大衆の身にのしかかる結核みたいなもので、病菌が中にひそんでいる。漢字を除きすてなければ、自分が死ぬほかはない」(藤堂明保『漢字の過去と未来』95)と。

 しかしルーシュンだけが特別に過激だったわけではない…チエン・シュアントン(銭玄同18871939)は早稲田大学留学中に日本のローマ字運動、カナモジ運動、エスペラント運動など、いくつもの言語改革運動に触れてそれに感化され、挙句の果てに放った有名なことばは次のようなものだ。

  中国亡国にならず、中国民族二十世紀文明の民族になるには、儒学を廃し道教を滅ぼすのが根本解決法であり、孔門の学説や道教の妖言を書いた漢字を廃するのが根本中の根本解決法である。では漢字を廃したあとどんな文字に変えるかといえば、文法が簡潔発音が整然とし語根の精良な人為文字エスペラントにまさるものはない。(倉石武四郎『漢字の運命』81より引用)…

 後になって、銭玄同はこの発言をより冷静に言いかえている。

  文字を廃しても言語は廃せられず、こうして漢語が廃せられない限り漢語を表す記号がなくてはならず、そのためローマ字で綴るのが一番便利だということは僕も一年前に考えていたことであるが…音標文字では意義が混雑するということから、ついに初志をひるがえしてやはり漢字を用い、ただ字数を制限し、その傍らに注音字母をふるということに主張を改めた。(同82㌻)



鄧小平のことば

 古今の教養に通じ、経験深い政治指導者は、片時も言語問題の重さを忘れてはいないと思わせるエピソードがある。1974年のことだと言われる。日本の訪問団が中国を訪れた際に、一行の代表西園寺公一氏が、中国側に、かって日本が中国に加えた蛮行をわびたところ、ドンシアオピン[鄧小平]氏は、「中国もまた日本に迷惑をかけた。一つは『孔孟の道』を伝えたことであり、二つ目は『漢字の幣』を与えたことだ」と応じたという。

 1974年頃といえば、日本の言語的保守勢力が、それまで続いていた改革の雰囲気をはねのけて一気に復古気分を盛り上げはじめたころであり、私は新聞や雑誌で時おりそれに抵抗したのでよくおぼえている。漢字はめいわく文字で困るなどと言いはじめたら、文化破壊者だと言わんばかりの雰囲気がみなぎりはじめていた。



 当時、いかにもじいさんっぽいいでたちで写真などに出ていた柳田国男という大学者の次のような文章に出あって、人は見かけだけで判断してはならないと深く反省したのである。次はこの人が昭和十(1935)年に書いた文章である。

  近年の洋語流行は新たにその最も奇抜な実例を多く作ったが、それに先だって所謂漢語濫用が、かなりに我々の言葉を変ちくりんなものにして居る。書生が社会の枢軸を握った時勢の、是が一つの副作用である…維新はさらに其傾向を拡大したのである。(『定本柳田国男集』第19185186)…

 柳田国男はその過程をさらに次のようにのべている。

  東京の住民などは、まだ江戸と謂った頃から、すでに感覚は可なりに精緻になって、間に合わせながらもやや豊富な心意現象の用語をもって居た。それを維新のごく短い期間に、すべて二字づつ繋がる生硬の漢語に引替へてしまはうとして居たのである。(189 傍点[下線]は田中がつけた)

 柳田はその際の漢語の効用を全く無視しているわけではない。

  成程この隣国の文字を借用した御蔭に、得がたい無数の知識は我々の間に、いとも手軽に運搬せられて居たことは事実で、これを総括して拘束と呼ぶのも不当かは知らぬが、一方に之を余りに調法がった爲に言葉を重苦しく又不正確にした迷惑も小さくない。(191192



服部四郎の憂慮

 次に引くのは近代言語学の方法によって、満州国のホロンボイル地方で話されているモンゴル語の方言調査のために滞在したとき、服部四郎がもらした感想である…

  [以下に述べるのは、私が]他民族に接して始めて、動かすことの出来ない程度に堅くなった意思である。…思うに日本民族は将来漢字を棄て表音文字(ローマ字・仮名等)を絶対に採る必要がある。(そう)考える理由は、第一に漢字が日本語そのものを壊している事実は著しいものである。どう云う字を書きますかと聞き返さなければならない言葉、即ち見てはわかるが聞いてはわからない言葉のいかに多い事よ。かかる単語の多いことは、日本語が不完全なることを意味する・・・

  第二に、日本人にとって国語学習が遥かに楽になる。習って了った人々にはわからない事であろうが静に回顧反省し、又児童学習の状態を冷静に観察するならば漢字学習の爲に驚くべく多量の時間と労力が払われている事がわかるであろう。その時間と労力を現代文化吸収に向け得たならば、いかに有利であり効果的であろう。学ぶべき事多きに過ぎる時代である。

  第三に、漢字を使用しない異民族日本語の学習がどれ程容易となるかわからない。…日本語が表音文字で書かれていたら西洋にも学習して呉れる人々がずっと多く出て来るであろう。いまの状態では、西洋人に見せたくない論文は日本語で書けばいいのである。日本語は表音文字を採用することによって始めて世界的言語となり得るであろう。書物を通じての日本文化の宣揚、それは漢字を捨てることにのみ望み得る事である。(服部四郎『一言語学者の随想』3233)



幸田露伴の随筆から

幸田露伴…この人の作品は、いつも漢字で塗りこまれて、とりつく島のないような印象をもっていた。伝記を見ると、七歳にして『孝経』の素読をまなび十一歳にして『三国志』『水滸伝』などの原典に親しんだという・・・その人に、日本に「文章」が発生した歴史を次のようにふりかえった一節がある。

  元来文字のなかったところ漢字が渡って来て、その            
 漢字を用ゐて書いたのでありますから、自然かくのごとく        
 [漢字だけ]になるのはわが国文章初期の事情として致し方
 のないことでありありませうが、どうでせう、この有様が
 続いたならばわが国は文章上においては支那の属邦たる
 を免れないではありませんか。(『露伴随筆集()163
 岩波文庫。傍点[下線)は田中



三味線を聞く会

221日(水)。午後、9Fで「三味線を聞く会」が開かれました。出演者…名前も覚えていないので、ごめんなさい・・・あいにくカゼ気味とのことで、マスクをつけて三味線を演奏。相方も、いつものお弟子さんではなく、母親(三味線のお師匠さん)が歌手役で登場

こきりこ節・草津節・真室川音頭・青い山脈・津軽じょんがら節・炭坑節・ドンパン節・港町13番地・ヤワラ[]など、つぎつぎ熱演。出席したみなさんは、三味線の音色とお師匠さんの美声に聞きほれたり、いっしょに歌いだしたりしていました。

せっかくの場面だからと、スマホのカメラにおさめようとしましたが、うまくゆきません。ヒルマなので、窓からの日ざしがつよく(逆光状態)、出演者の姿がくらくなってしまいます。申しわけありません。



訪問販売

  222日(木)。午後、9F訪問販売。品目は、ミカン・リンゴなどの食品や日常生活用の小物など、ごく限られていますが、お店の方は毎度のことなので、売れ筋の商品・自信の持てる商品にしぼって出品しておられるのだろうと思います。前回、わたしは「干し芋」を買ったのですが、この日はおいしそうなイチゴが目に入ったので、買うことにしました。1パック500円。これまでスーパーなどで買い物をした経験がほとんどないので、高いのか安いのか、まったく分かりません。ただ、こどものころから食べなれたイチゴにくらべて、2倍以上の大きさで、いかにもおいしそうに見えたので、いっぺん食べてみようと思っただけです。

 部屋にかえって、さっそく口にしてみました。あまりデカすぎて、一口でほほばることができません。そしてとてもジューシーで、とろけるようなあまさでした。ひさしぶりで、ゼイタクなデザートをいただいたような気分になりました。いっぺんには食べきれないので、のこった半分は翌日いただきました。ゴチソウサマ。

 それにしても、日本の栽培技術の進歩ぶり、将来に期待がもてそうだすね。



[][]ARROWの系譜

223日(金)午後、千代田本町の丸十で開かれた日本海文化悠学会の研修会に出席。イズミから「[][]ARROWの系譜」について報告させていただきました。このテーマは、「[矢・屋・谷・哉]の系譜」(『コトダマの世界Ⅱ、第19章』、2017年)にひきつづき追求している問題です。

 はじめは、ヤ・yaという語音「矢・屋・谷・哉」などの漢字が当てられていることに注目し、「どうして、こんなことになったのか」、「特定の音形が、特定の意味(事物の姿」と対応するとすれば、それはどんな原理・原則によるものか」あきらかにしたいと考えました。

[矢・屋・谷・哉]は、いずれも[]の姿を持っていると考えられることから、おなじ音形で呼ぶようになった。ひとまずは、そんなふうに結論づけてみました。すると、また疑問が出てきました。そもそも、ヤ・yaという音形が、どうしてヤ[]という事物を意味することになったのか、という問題です。



ヤ行音が表わす意味       

 さてそれでは、ヤ行音とはいったいどんな語音なのか?さまざまな解説・仮説があるようですが、ここでわたしがたどりついた解釈にしたがって報告し、みなさまからご教示をいただければと思います。

 母音イとウの中間の半母音y(yuとも)があって、この半母音に母音a, u, oがついて、ヤ行音ヤ・ユ・ヨが生まれたと考えてみます。現代漢語音yang[陽・楊・揚・羊・洋・様]yu[宇・雨・羽]や英語音year, young, youthなどに見られるy音に通じる音形といえるでしょう。

 理論的な言い方をすれば「ヤ行音が表わす意味は、ヤ行音を発声するときに発声器官(クチ・クチビル・シタ・ハグキなど)に生じる感覚によって決定される」ということになります。ただ、ヤ行音のばあいは、k, s, tなどの子音をふくまないので、「シタの部位」や「ハグキ」などは、ひとまず関係がありません。ヤ行音発声にともなう感覚や意味ということになると、やはり「口の開き方」(大小やスガタ・カタチ)が問題になります。

 そこで、こんどは「それではア行音とどこがちがうのか」という問題が出てきます。「五十音図」が示すとおり、ヤ行音のうちイとエはア行音と同音で、ヤ・ユ・ヨだけがヤ行独特の音形だとされています。そこで問題は、「ヤ行音とア行音とのチガイ」にしぼられます。

 ヤ行音については、「母音イを発声し、途中で他の母音ア・ウ・オなどに移動する」ことによって生まれる語音」と考えることができます。そして、この移動・変化、さらには「その原動力」を感じさせるところがヤ行音の特色と考えてよいかと思います。もちろんイ音はそのままでも、(イク[生・行・射来]・イム[]・イル[射・入]など)、事物の動きや進行を表わすハタラキをしてきました。しかし、yiの語尾母音をa, u, oに変えるだけで、(他の子音にたよることなく)、さまざま「事物が変化する(させる)」姿を表現できることになります。たとえばヤク[焼]は、「ヤク[矢来]=ヒキリ杵で発火させる]姿。ヤム[止・病]は、ともに「ヤム[矢産]姿ですが、意味用法が分かれます。①飛んできた矢がハラ[原]にウマリ[埋]、ヤム[止]・ヤスム[休・矢む]姿。②ハラ[腹]などに矢がウマル[埋]=ヤム[病]姿。

同様に、ヤル[遣・矢ル]は、もと「ヤ[矢]」+ル」の構造で、「矢の姿になる」の意。また、「矢をツキダス」、「モノを与える」の意。動詞ヤルの語尾母音uiに変えると、名詞ヤリ[槍]となります。



漢語・英語y-音との関連も

 こんなふうにヤ行音のコトバをさぐってゆくと、さまざまな問題が出てきて、キリがありません。日本語のヤ行音だけでなく、漢語や英語のy-音との対応関係についても調べてみることにしていますが、はたしてどんな結論が出るのか、まだ見通しがつきません。悠学会の席では、ほんの序論程度の中間報告で、あとは宿題とさせていただきました。前途多難ですが、これまでに得られた資料だけでも、このさき時間をかけて比較・分析するだけの価値が十分あると考えています。


2018年2月13日火曜日

シラ・シロ[白]からアサ[麻]・アヲ[青]まで


悠学会新年会 1/26


雪景色 1/29 


『古事記』を読む会 2/4 



 音を聞く会 2/7





日本海文化幽学会

126日(金)。午後2時半から千代田本町丸十2Fで開かれた日本海文化幽学会研修会に出席。中島信之さんが「白山通史」と題して報告されました。「中間報告」となっていますが、当日いただいたレジュメはA4判で9ページ。以下、わたしが理解できた範囲で、要約してご紹介します。

1.はじめに 

昨年「伝承に見る立山と白山」と題して、その開山伝承と周辺について調べた。立山の方は別として、白山の方は、どうも全体像がつかめない。加賀、越前、美濃それぞれから見た断片的情報は得られるが、全体を通史として見ようとすると、資料が簡単には見つからない。

その理由として、最初は、地域主義(セクショナリズム…よくいえば郷土主義)のゆえかとも考えたが、いろいろ調べた結果、文献が残っていないからでは、と気がついた。

今回はもう少し本気で白山の通史に挑んだが、9月から40日にわたる入院で、資料集めや咀嚼吸収する時間が不足。中間報告までも行き着けなかった。ご勘弁いただきたい。



2.1つの発見で…

 昨年私は白山通史にかんして1つの物語―仮説を紡いだ。今年「白山通史」を主題に選んだとき、あらたな知識によって仮説を、あるいは補強し、あるいは小修正すればすむと目論んでいた。

だが、12月に入ったある日、資料をもう一度読み直していて、ある記述にハッとさせられた。衝撃を受けたのは、鈴木正崇著『山岳信仰』の中の「空海勝道上人日光山開山について記録を残している」という記述である。

2.1.それまで考えていた物語

奈良時代山林修行禁止法例が度々出された。という事実は、逆に多くの(私度)僧が山林修行をしていたことを意味する。例えば、『日本霊異記』に「禅師広達は聖武天皇の御世(724-749)に金峯山で修業した」(『山岳信仰』第2章)など。

そう考えれば、白山の開山が、伝承の通り、8世紀前半だとしても不思議ではない。しかし、山林修行という風潮が遠隔地にまで到達するのにもう少し時間がかかるのではないか。『泰澄和尚伝記』の成立が10世紀半ば(957)で、その最古写本が14世紀(1325)のもの、『白山記』の最古写本が1431年のものだということなどを併せ考えると、白山開山が8世紀初頭とは思えなかった。また、開山が泰澄によるというのも疑問だ。

以上をまとめて­

  白山の開山は、伝承の717年よりも少なくとも半世紀は遅い。

  『泰澄和尚伝記』の成立ももっと後である。

  泰澄が実在であろうとなかろうと、白山開山は無名の(複数の)僧であろう。

―という風に白山通史を考えていた。そこに空海による『性霊集』の一文である。

2.2.『性霊集』の一文とは

 性霊集』は空海(774-835)の漢詩文を集めたもので、弟子の真済の編纂。空海の死後間もない頃に成立したとされる。その時期は勝道の日光山登拝と半世紀と離れておらず、勝道の実在は疑うべくもない。

ただ、勝道の開山譚はにわかには信じがたい。あまりに開山伝承の典型だから。泰澄の白山開山もまったく同じ。おそらく中国に先例があり、それをなぞったのではないか。

2.3.それ以外にも…

 各地ばらばらの記述を通して見るには、年表にするのが一番だろう、と早速作ってみた。すると、見えてきたことがある。すなわち。白山(の頂上)に最も力をもったのは

 平安時代(特に、後期院政時代)  加賀

 中世(鎌倉~室町時代)      越前

 一向一揆の時代          美濃

 江戸時代中期以降         (再び)越前

と分かった.

白山の開山は越前の泰澄だが、最初に強勢となったのは、越前ではなく加賀であった。それはどうしてか。そう考えているうちに、同じく白山に勢力をもったといっても、その勢力の中味は時代によって異なるのではないか、と気づいた。=とすると、これはひろく仏教・修験道の(歴史の)問題ではないか。



3.仏教とは(中略)

4日本の宗教・仏教略史

日本の宗教・仏教の歴史を、白山通史という切り口を片目で睨みながら、追ってみよう

  仏教伝来から奈良時代まで:伝来してきた形をそのまま受け入れた段階。宗教というよりも、1つの先進文化を受容したということ。

  平安時代密教によって始まった。まだ基本的には神祇の時代であったが、少しずつ宗教として受け入れられ、神祇と仏教が共存するようになった。貴族の仏教の時代。後半は、悟りから救いへの時代でもあった。

  鎌倉・室町時代:平安時代に始まった念仏への傾斜が進行し、同時に山林修行と密教が結びついて修験道が生まれた。皇族・貴族に始まった霊山登拝が土豪へ、さらには庶民へとひろがった。中世末期には一向一揆がおこった。

  江戸時代:特に後半、庶民が講を組織して、霊山を登拝するようになった。

・・・以下省略・・・

 実は、ここまでが序説みたいなもので、このあとあらためて本格的な「白山通史」が展開されているのですが、あまり長くなりますので、くわしいことは省略させていただきます。中島さんから、「歴史を語る(研究する)ときの姿勢(視点の置き方など)」について。いろいろ教えていただいた感じです。ありがとうございます。

 なお、次回223日(金)の研修会も丸十さんで開催。イズミが「[][]ARROWの系譜」について報告させていただく予定です。



新年会

 研修会のあと、ひきつづき新年会が開かれました。昨年機関誌「悠学」第1号を発刊したのにつづいて、ことしも第2号を出すことに年度はじめから決めていましたので、それも話題になりました。何回も編集委員会が開かれ、ほぼ順調に作業が進んでいるようです。この日が、原稿提出の第1次締切日。わたしもUSBを提出。2月の研修会当日が最終締切日ということです。

 むかしとちがって、「ひとりで晩酌」の味を忘れてしまったわたしですが、こうした仲間のみなさんといっしょだと、「きょうは、すこしお酒をいただいてみようかな」という気分になります。ひさしぶりでお酒を飲み、ごちそうをタラフクたべて、ゴキゲンのひとときでした。

 そこまではよかったのですが、丸十さんからホームめぐみまでの帰り道がたいへんでした。この日、丸の内のホームから千代田本町の丸十さんまではタクシーでゆきました。タクシー会社の話では、配車時刻の指定はできないとのことでしたが、じっさいは20分ほど待っただけで乗車でき、途中ほとんど渋滞もなく、無事会場へ着くことができました。

 散会後、仙石さんが自分のクルマで送ってやるといわれ、もう一人の出席者といっしょに便乗させていただくことになりました。その方は富山駅で降りられましたが、わたしは丸の内のホームまで送っていただきました。富山駅までの途中でも渋滞を感じていましたが、そのさき丸の内までが、それこそ絵に描いたようなジュウタイでした。しばらく待たされ、やっとまえのクルマが動きだしたと思ったら、ほんの23メートル前進しただけで、すぐストップ。そのくりかえしです。ふだんならクルマで5分そこそこのミチノリですが、その34倍の時間がかかりました。仙石さんは、クルマの運転のことがあるので、新年会の席でも、お酒は飲んでおられません。わたしのために、たいへんな迷惑をおかけしてしまい、申しわけありません。



なぜシラヤマ=ハクサンなのか

 ここで、すこし話が脱線することをお許しください。せっかく「白山信仰」について議論する機会がありましたので、日本語(ヤマトコトバ)のシラ(シロ)と漢語ハクとの対応関係について、いちど整理したうえで議論を進めたいということです。

 「白山信仰」の問題にかぎらず、一般にいえることですが、たとえばこんどのように「白山信仰」について議論するばあい、テーマになっている用語、ハクサン[白山]シラヤマなどの定義について、あらかじめ共通理解をたしかめておかないと、途中で議論がカミあわなくなったり、脱線したりするおそれがあります。

 また「白山信仰」は漢語ふうの用語ですが、議論の対象は日本のシラヤマという山をめぐる信仰の問題ですから、当事者たちがつかっていた「オシラサマ」という用語についても議論が必用でしょう。シラ(シロ)という語音は、モノの色彩を表わすコトバとして通用していますが、それだけの理解では、オシラサマ信仰のナゾはとけません。わたしのこれまでのシラベでは、シラは動詞シル[知]の未然形兼名詞形であり、シロ[白]はその交替形ということになります。モノゴトをシリつくした人をモノシリ・クロウトと呼び、まだよくシラナイ人をシロウトと呼びます。

 シル[知]とは、どんな行為、どんな 状態でしょうか?リンゴの味を知りたければ、かぶりついたり、スリつぶしたりすれば、そのシル[汁]がその味を知らせてくれます。他人とシリアイになりたければ、まず接触すること。声をかける、握手するなどからはじめるとして、やがて「シリ[]とシリ[]をスリあわせる」ところまで進めば、知りつくすことになるかもしれません。ただし、相手とのマ〔間〕のとり方をまちがえると、「シレモノ[痴者]」と呼ばれるおそれがあります。

 シル{知}とおなじs-rタイプの動詞スル[爲](suru)がありますが、s-が「舌のサキで歯茎をサスル」姿で発声されることから、スル[爲]の基本義は「スル・サスル・コスル」姿ということになります。これにたいして、シル{知}のshiが「舌ので歯茎をサスル」姿で発声されることから、その基本義は「点としてではなく、面としてスル・サスル・コスル」姿となります。その結果、はじめにまず「領有する。治める。とりしまる」のような(具体的な姿を表わす)意味用法が成立し、そのあと「知る。理解する。気がつく」のような(抽象的な姿を表わす)意味用法が成立したと考えられます。

 色彩の一種を表わすシラ・シロは、きわめて抽象的なものであり、s-r音の単語家族が形成される過程で派生した意味用法です。イナバのシロウサギシロウトなどのシロもそうですが、はじめからマッシロのシロ[]を表わすコトバとして生まれたわけではありません。シロは、もともと動詞シルの名詞形で、「シルところ」(=代・城)が基本義。ヤシロ[矢代・社]は、「ヤ[矢](宇宙空間を飛びかけるもの=神)のシロ[代・城]。ナワシロはナエ[苗]のシロ[代・城]です。

シル・シラ・シロなどについては、シラカ[白髪]・シラキ[新羅]・シラク[白斑](白くなる)・シラス[令知]・シラヌヒ[白縫]・シルシ[]・シルス[]などとの対応関係、さらにはsalt, saladaサラダ, salary給料, silk, silverシロガネ、などとの対応関係についてもシラベルとおもしろいと思いますが、(あまり長くなりますので)今回は省略させていただきます。

 さて、ハクサン[白山]のハク[白]の意味用法についても、シラ・シロとおなじような現象が見られます。参考までに、『学研・漢和大字典』の解説をご紹介しましょう。

 ハクbakbai…①しろ。しろい。②しらむ。しろくする。③けがれがない。無色。④あきらか。⑤むなしい。⑥いたずらに。むだに。⑦芝居のせりふ。⑧もうす。内容をはっきり外に出して話す[解字]どんぐり状の実を描いた象形文字で、下の部分は実の台座、上半は、その柏科の木の実のしろい中身を示す。ハク[]しろい布)、ハク[粕](色のないかす)、[](月のほのしろい輪郭)などと同系。

ここまで来ると、すぐ連想されるのが日本語のハク[吐・掃・佩]・ハグ[]などの語音です。すべて上代語2音節動詞として成立しています。擬声・擬態語のパクパク・パクリなどと同系。現代語でも、動詞パクル、副詞パクパクなどが通用しています。

たとえば、水中で魚がパクパク・パクル姿は、動物や人間が飲食物にパクついたり、ハキ[]出したりするのとおなじ姿。

漢語のハク[]は、ドングリの実がハカマハク[佩・履]姿。実の部分は茶色ですが、

ハカマの部分は白っぽく見えます。そのハカマをハガスと、イチジルシク白っぽく見えます。日本語でシラ(シロ)と呼ばれ、英語でwhiteと呼ばれる色彩が、漢語でハクbakbaiと呼ばれるようになった背景に、こうした事情があったことが見えてきます。

ハカマを履いたドングリの実」という表現では、「マンガみたいで、不謹慎」といわれる方がおられるかもしれません。そんな方には、たとえば「伯父」、「伯爵」のハク[伯]の姿を連想してみていただきましょう。「ハカマ(ズボン・スカート)ハク[履・佩]」など、盛装した成人男子の姿。やがて、ハシャ[覇者]に通じる姿です。

ハク音のついでに、剥落・剥製などのハク[剥]や英語のpack, bagなどとの対応関係までチェックできればと思いますが、かなりヤヤコシイ話になりますので、それもつぎの機会にまわします。

いずれにしても、日本語ハク音と漢語ハク[白・剥]音との対応関係はみごとなものです。おなじく漢語のハク[白]でも、ジハク[自白]・コクハク[告白]・ハクジョウ[白状]のハク[白]は、「コトバをハキ出す」姿ということで、日本語のハク[吐]に対応しています。日本語ではイウ(イフ)[]が普通ですが、イフ[]イブキ[息吹]は、「イキをフキ出す」姿。イハク[]は、「イキをハキ出す」姿。現代日本語でも、「ホンネ[本音]ハク」、「ドロをハク」など、「告白・白状」のハク[]とおなじ感覚のコトバとして、口からハキ出されています。

日本語のハク(p-k)と漢語のハク(p-k)が、ここまでの対応関係を示すとは!この事実に気づいた本人がビックリするほどです。p-k音の単語が個別に対応するだけでなく、単語家族として、まるごと対応しているということは、ひょっとして-k音日本語p-k音漢語が「双子の兄弟」だったことのナゴリかもしれません。そういった仮説を立てたくなりますが、その話もここまでとしておきましょう。




雪景色
  
 129()午前、銀行へ行く用事があり、ほんの50㍍ほど先まで「外出」しました。このところ寒い日がつづき、雪が積もって足場がわるく、危険なので、めったに外出しません。ぎゃくに、いざ外出となると、どんなに近い所でも、完全装備してから出かけます。アノラックを着て、帽子をかぶり、マフラーをつけ、カバンを肩にかけ、左右2本の歩行用ストックを使っての外出となります。.

 毎日ホームで過ごし、7F・9Fの窓から「下界」を見おろすだけでは、「雪に閉じこめられた富山」の生活実態が分かるはずがありません。じっさいに「時間をかけて完全装備する」、「足場のわるい雪道を歩く」などの体験を積みかさねることによって、すこしずつ実態が見えてくるのだと思います。

 いまのわたしのばあい、まわりの人たちが「この年齢で、シャバの生活のきびしさを体験させるのはカワイソウ。しばらくユメを見させてやろう」といってくださるおかげで、いまの生活がなりたっています。こうして毎日パソコンむかい、だれに読んでもらえる当てもなしに文をつづり、毎月23回ブログを更新するだけで精いっぱいの生活です。経済効果はゼロ。たしかに「ユメを見ている」だけかもしれません。

 しかし、本人の思いは、すこしニュアンスがちがいます。「このままでは、日本語も日本民族も、21世紀の競争社会で生きのこれるという保証がない。しかし、日本人はこの問題に気づいていない。気がついたとしても(解決できる自信がもてないので)、知らないフリをしている。これではダメ。過去のアヤマチははっきり認めながら、このさきは世界に通用するまともな方法で、世界各国・各民族とつきあってゆく。その自信やユメを持つことが必用。帝国主義戦争の敗北で失われた「民族のユメとホコリ」を修正したうえでとりもどす作業こそ、敗戦生きのこり世代に打ってつけのシゴトではないか。そう考えて、ユメを語りつづけています。



『古事記』を読む会

24日(日)。午前中、茶屋町豊栄稲荷神社で開かれた『古事記』を読む会に出席。この日は、まず服部征雄さんから「日本民族と麻」と題する調査報告があり、つづいてイズミから「日漢英s-k音語の系譜」について報告させていただきました。

 前回の研修会(123日)で、五十嵐喜子さんが「古事記の中の踊り」をテーマにして提案されたことから、服部さんは「天の岩屋戸の段で登場するアオニギテ[青和幣]アサ[]の布である」と指摘したあと、『古事記』、『魏志倭人伝』、『萬葉集』などの中から、アサ・タイマ・チョマなどの用例を採集し、解説されました。当日配布されたレジュメ(A48)の中から、イズミの独断で、その一部をご紹介します。(引用文の途中、*印以下にイズミの私見を追加しました)

イミベ[忌部]氏と大麻…忌部氏は古代、中臣氏と並んで朝廷の祭祀をつかさどった氏族で、フトダマ[太玉]命の子孫と称している。

卑弥呼が献上した班布…「魏志倭人伝」の中で、卑弥呼から魏王へ献上したとされる「班布二匹二丈」とは、大麻あるいはチョマ〔苧麻]の布。全部つなげると、巾:約50cm、長さ:23mの布となる。

大麻…麻(大麻)は中央アジアが原産地。日本列島に住みついた縄文人の祖先は、麻を持って移動してきたと推測される。古事記にも神事に麻が使われている。日本民族にとって、麻は単なる衣服の原料ではない。麻の成長の速さ、真っ直ぐに伸びる勇姿は神を思わせる畏敬の対象であった。このことが青いヌサ[幣]を生んだものと思われる。アオニギテ[青和幣]は、「で作ったニギテ」。アヰ[]とアヲ[]は、ともに「ア行音+ワ行音」の構造をもつ語音。アヲは、「ア+ヲ{尾・緒}」の構造で、「矢のように、自在にツキデル、ノビル」姿。このアヲが、麻などの呼び名となり、やがて色彩名としてのアヲ[]になったことが考えられる。

麻を使った人名・地名など…(多数あるが、省略)。

萬葉集の中の麻関連用語・・・30首に見られる。

 ●朝もよし 木人ともしも マツチ[亦打]山 行き来と見らむ 木人 ともしも 萬.55

 *「あさもよし」は、地名キ[紀]・キノヘ[城上]にかかる枕詞。この歌の原文は「朝毛吉」と表記されているが、「麻裳吉」と表記された例(萬.543)もあり、アサ[]とアサ[]のどちらが正しいか、未詳とされている。ただしイズミの解釈では、アサ[]の基本義は「(朝のヒザシが)矢のように、マッスグ、細長く、のび出る」姿であり、アサ[]もまた「のように、マッスグのび出る」姿をもつことから、おなじ音形となったものと推定する。また、キ[木・樹・紀]は乙類カナキル[切・着]のキは甲類カナで、それぞれ独特の意味用法をも持っていた。ここでは、あえてその区別をのりこえ、「麻裳をキル[着]」姿と「木をキル[切]」姿、さらには「木(紀)人がユキキ(行き来)する」姿を、相互に、自在に連想・交替させるような表現になっている。コトバのアソビといえばそれまでだが、この流れがやがて上代語甲乙カナヅカイの消滅をもたらしたとも考えられる。イズミの私見だが、一般のご教示をあおぎたい。

 ●麻衣 ケレバ[著者}夏樫 木国の 妹背の山に 蒔く吾妹 萬.1195

  *ナツカシ(なつかしい)を「夏樫」と表記したのは、コトバのアソビ。「妹背の山に 蒔く」のは、麻の種か、樫の種か?そんなことは、どうでもよい。この歌を聞いた人が「ワギモコをマク[巻・枕・娶]」姿を連想することを計算ずみの歌づくりと考えられる。『萬葉集』の中には、この種のコトバ・アソビが多数見られる。



「日漢英s-k音の系譜」について

 服部さんの報告につづいて、イズミから「日漢英s-k音の系譜」について報告させていただきました。

 はじめに前座として、「神代・歴代天皇系図」(『日本古典文学全集・1古事記』巻末フロク)を利用し、系図に表記された神名・人名計約150,23名がs-k音のナノリを持っていることを指摘。その中に、コノハナサクヤヒメ[木花佐久夜毘売]命、オホヤマトヒコスキトモ[大倭日子鉏友]命、タケウチノスクネ[建内宿禰]、オホサザキ[大雀]など、鉄器スキ[]によるイネ農耕推進で日本古代国家ヤマト政権を確立したリーダーたちの業績をたたえるナノリ(称号)だったとの解釈をのべたうえで、本題にはいりました。

 日本語のs-k音については、上代語の段階で2音節動詞サク・シク・スク・スグ・セク・ソクなどが成立しており、これらの動詞を中心に多数の動詞・名詞・形容詞などが成立。ゆたかなs-k音単語家族が形成されています。鉄器伝来で、それまでツキ棒で地面にアナを掘り、タネイモを植えこむような農耕から、スキスキかえした地面で苗を育てるイネ農耕へと進化し、そのことがヤマト政権成長のタスケとなりました。その過程で、s-kをはじめ、k-r, k-t, p-k, p-tなどの単語家族が大きく成長し、ヤマトコトバの語彙体系をゆたかにしてきたこともたしかです。

 ヤマトコトバs-k音と漢語s-k音の対応関係も、あきらかになりました。たとえば漢語のショウsiog小・肖・消・宵xiaoは、日本語チヒサク[]のサクやスクナシ[]のスクなどと、みごとに対応します。その他;

サクsaksuoは、ばらばらにサク・サケル姿。やが1て、サクル・サグル姿。⇔サク・サグル・サガス。Seek, search.

サクsakshuo(ついたち)は、月が一周して、もとの位置にもどった姿。サカノボル姿

セキsekxiは、サク、ハナス姿。いちどセキ止めたうえで、サキ分ける姿。

ソクsekxiは、「屋根のある空間の出入り口を土でセキトメル、フサグ」姿。⇔セク[堰]・セキ[関]。Sect, section, insect.

ソウsiogsou は、サキワケル・サガス・サグル姿。⇔サク・サガス・サグル・ソグ。Seek, search.

シュクsiok宿・縮suは、「旅先の宿で、身をスクメル」姿。マタ、「ヒモでしばり、スクメル、チヂメル」姿。⇔スクム。Shrink.

  (中略)

英語のs-k音についても、レジュメにはのせておきましたが、時間のつごうもあり、口頭での報告は省略させていただきました。全体として、まだ中間報告の段階であり、機会があれば報告・提案をつづけます。ご教示のほど、よろしくおねがいします。



音を聞く会

27日(水)。午後9Fで「音を聞く会」が開かれました。この日の曲目は、季節にあわせて「冬景色・スキー・春よ来い」など。出演は「歌のお姉さん」お一人だけなので、おおいそがし。大判の歌詞カードを黒板に掲示するなどの作業は、めぐみのスタッフkzmさんがお手伝いしていました。

 「音を聞く会」となっていますが、それはエンリョした言い方。ほんとうのネライは;出席したみなさんが、昔なじみの歌を聞いて、まずはリラックスした気分になること。独唱はムリでも、みんなでいっしょに歌えば、コワクナイ。途中どこからでも、声に出してみる。はじめはトギレトギレだが、そのうち次第に、まとめて歌えるようになる。第三者の評価は別として、本人はそんな気分になる。その意味で、リハビリ効果があることは、マチガイないと思います。