2018年2月13日火曜日

シラ・シロ[白]からアサ[麻]・アヲ[青]まで


悠学会新年会 1/26


雪景色 1/29 


『古事記』を読む会 2/4 



 音を聞く会 2/7





日本海文化幽学会

126日(金)。午後2時半から千代田本町丸十2Fで開かれた日本海文化幽学会研修会に出席。中島信之さんが「白山通史」と題して報告されました。「中間報告」となっていますが、当日いただいたレジュメはA4判で9ページ。以下、わたしが理解できた範囲で、要約してご紹介します。

1.はじめに 

昨年「伝承に見る立山と白山」と題して、その開山伝承と周辺について調べた。立山の方は別として、白山の方は、どうも全体像がつかめない。加賀、越前、美濃それぞれから見た断片的情報は得られるが、全体を通史として見ようとすると、資料が簡単には見つからない。

その理由として、最初は、地域主義(セクショナリズム…よくいえば郷土主義)のゆえかとも考えたが、いろいろ調べた結果、文献が残っていないからでは、と気がついた。

今回はもう少し本気で白山の通史に挑んだが、9月から40日にわたる入院で、資料集めや咀嚼吸収する時間が不足。中間報告までも行き着けなかった。ご勘弁いただきたい。



2.1つの発見で…

 昨年私は白山通史にかんして1つの物語―仮説を紡いだ。今年「白山通史」を主題に選んだとき、あらたな知識によって仮説を、あるいは補強し、あるいは小修正すればすむと目論んでいた。

だが、12月に入ったある日、資料をもう一度読み直していて、ある記述にハッとさせられた。衝撃を受けたのは、鈴木正崇著『山岳信仰』の中の「空海勝道上人日光山開山について記録を残している」という記述である。

2.1.それまで考えていた物語

奈良時代山林修行禁止法例が度々出された。という事実は、逆に多くの(私度)僧が山林修行をしていたことを意味する。例えば、『日本霊異記』に「禅師広達は聖武天皇の御世(724-749)に金峯山で修業した」(『山岳信仰』第2章)など。

そう考えれば、白山の開山が、伝承の通り、8世紀前半だとしても不思議ではない。しかし、山林修行という風潮が遠隔地にまで到達するのにもう少し時間がかかるのではないか。『泰澄和尚伝記』の成立が10世紀半ば(957)で、その最古写本が14世紀(1325)のもの、『白山記』の最古写本が1431年のものだということなどを併せ考えると、白山開山が8世紀初頭とは思えなかった。また、開山が泰澄によるというのも疑問だ。

以上をまとめて­

  白山の開山は、伝承の717年よりも少なくとも半世紀は遅い。

  『泰澄和尚伝記』の成立ももっと後である。

  泰澄が実在であろうとなかろうと、白山開山は無名の(複数の)僧であろう。

―という風に白山通史を考えていた。そこに空海による『性霊集』の一文である。

2.2.『性霊集』の一文とは

 性霊集』は空海(774-835)の漢詩文を集めたもので、弟子の真済の編纂。空海の死後間もない頃に成立したとされる。その時期は勝道の日光山登拝と半世紀と離れておらず、勝道の実在は疑うべくもない。

ただ、勝道の開山譚はにわかには信じがたい。あまりに開山伝承の典型だから。泰澄の白山開山もまったく同じ。おそらく中国に先例があり、それをなぞったのではないか。

2.3.それ以外にも…

 各地ばらばらの記述を通して見るには、年表にするのが一番だろう、と早速作ってみた。すると、見えてきたことがある。すなわち。白山(の頂上)に最も力をもったのは

 平安時代(特に、後期院政時代)  加賀

 中世(鎌倉~室町時代)      越前

 一向一揆の時代          美濃

 江戸時代中期以降         (再び)越前

と分かった.

白山の開山は越前の泰澄だが、最初に強勢となったのは、越前ではなく加賀であった。それはどうしてか。そう考えているうちに、同じく白山に勢力をもったといっても、その勢力の中味は時代によって異なるのではないか、と気づいた。=とすると、これはひろく仏教・修験道の(歴史の)問題ではないか。



3.仏教とは(中略)

4日本の宗教・仏教略史

日本の宗教・仏教の歴史を、白山通史という切り口を片目で睨みながら、追ってみよう

  仏教伝来から奈良時代まで:伝来してきた形をそのまま受け入れた段階。宗教というよりも、1つの先進文化を受容したということ。

  平安時代密教によって始まった。まだ基本的には神祇の時代であったが、少しずつ宗教として受け入れられ、神祇と仏教が共存するようになった。貴族の仏教の時代。後半は、悟りから救いへの時代でもあった。

  鎌倉・室町時代:平安時代に始まった念仏への傾斜が進行し、同時に山林修行と密教が結びついて修験道が生まれた。皇族・貴族に始まった霊山登拝が土豪へ、さらには庶民へとひろがった。中世末期には一向一揆がおこった。

  江戸時代:特に後半、庶民が講を組織して、霊山を登拝するようになった。

・・・以下省略・・・

 実は、ここまでが序説みたいなもので、このあとあらためて本格的な「白山通史」が展開されているのですが、あまり長くなりますので、くわしいことは省略させていただきます。中島さんから、「歴史を語る(研究する)ときの姿勢(視点の置き方など)」について。いろいろ教えていただいた感じです。ありがとうございます。

 なお、次回223日(金)の研修会も丸十さんで開催。イズミが「[][]ARROWの系譜」について報告させていただく予定です。



新年会

 研修会のあと、ひきつづき新年会が開かれました。昨年機関誌「悠学」第1号を発刊したのにつづいて、ことしも第2号を出すことに年度はじめから決めていましたので、それも話題になりました。何回も編集委員会が開かれ、ほぼ順調に作業が進んでいるようです。この日が、原稿提出の第1次締切日。わたしもUSBを提出。2月の研修会当日が最終締切日ということです。

 むかしとちがって、「ひとりで晩酌」の味を忘れてしまったわたしですが、こうした仲間のみなさんといっしょだと、「きょうは、すこしお酒をいただいてみようかな」という気分になります。ひさしぶりでお酒を飲み、ごちそうをタラフクたべて、ゴキゲンのひとときでした。

 そこまではよかったのですが、丸十さんからホームめぐみまでの帰り道がたいへんでした。この日、丸の内のホームから千代田本町の丸十さんまではタクシーでゆきました。タクシー会社の話では、配車時刻の指定はできないとのことでしたが、じっさいは20分ほど待っただけで乗車でき、途中ほとんど渋滞もなく、無事会場へ着くことができました。

 散会後、仙石さんが自分のクルマで送ってやるといわれ、もう一人の出席者といっしょに便乗させていただくことになりました。その方は富山駅で降りられましたが、わたしは丸の内のホームまで送っていただきました。富山駅までの途中でも渋滞を感じていましたが、そのさき丸の内までが、それこそ絵に描いたようなジュウタイでした。しばらく待たされ、やっとまえのクルマが動きだしたと思ったら、ほんの23メートル前進しただけで、すぐストップ。そのくりかえしです。ふだんならクルマで5分そこそこのミチノリですが、その34倍の時間がかかりました。仙石さんは、クルマの運転のことがあるので、新年会の席でも、お酒は飲んでおられません。わたしのために、たいへんな迷惑をおかけしてしまい、申しわけありません。



なぜシラヤマ=ハクサンなのか

 ここで、すこし話が脱線することをお許しください。せっかく「白山信仰」について議論する機会がありましたので、日本語(ヤマトコトバ)のシラ(シロ)と漢語ハクとの対応関係について、いちど整理したうえで議論を進めたいということです。

 「白山信仰」の問題にかぎらず、一般にいえることですが、たとえばこんどのように「白山信仰」について議論するばあい、テーマになっている用語、ハクサン[白山]シラヤマなどの定義について、あらかじめ共通理解をたしかめておかないと、途中で議論がカミあわなくなったり、脱線したりするおそれがあります。

 また「白山信仰」は漢語ふうの用語ですが、議論の対象は日本のシラヤマという山をめぐる信仰の問題ですから、当事者たちがつかっていた「オシラサマ」という用語についても議論が必用でしょう。シラ(シロ)という語音は、モノの色彩を表わすコトバとして通用していますが、それだけの理解では、オシラサマ信仰のナゾはとけません。わたしのこれまでのシラベでは、シラは動詞シル[知]の未然形兼名詞形であり、シロ[白]はその交替形ということになります。モノゴトをシリつくした人をモノシリ・クロウトと呼び、まだよくシラナイ人をシロウトと呼びます。

 シル[知]とは、どんな行為、どんな 状態でしょうか?リンゴの味を知りたければ、かぶりついたり、スリつぶしたりすれば、そのシル[汁]がその味を知らせてくれます。他人とシリアイになりたければ、まず接触すること。声をかける、握手するなどからはじめるとして、やがて「シリ[]とシリ[]をスリあわせる」ところまで進めば、知りつくすことになるかもしれません。ただし、相手とのマ〔間〕のとり方をまちがえると、「シレモノ[痴者]」と呼ばれるおそれがあります。

 シル{知}とおなじs-rタイプの動詞スル[爲](suru)がありますが、s-が「舌のサキで歯茎をサスル」姿で発声されることから、スル[爲]の基本義は「スル・サスル・コスル」姿ということになります。これにたいして、シル{知}のshiが「舌ので歯茎をサスル」姿で発声されることから、その基本義は「点としてではなく、面としてスル・サスル・コスル」姿となります。その結果、はじめにまず「領有する。治める。とりしまる」のような(具体的な姿を表わす)意味用法が成立し、そのあと「知る。理解する。気がつく」のような(抽象的な姿を表わす)意味用法が成立したと考えられます。

 色彩の一種を表わすシラ・シロは、きわめて抽象的なものであり、s-r音の単語家族が形成される過程で派生した意味用法です。イナバのシロウサギシロウトなどのシロもそうですが、はじめからマッシロのシロ[]を表わすコトバとして生まれたわけではありません。シロは、もともと動詞シルの名詞形で、「シルところ」(=代・城)が基本義。ヤシロ[矢代・社]は、「ヤ[矢](宇宙空間を飛びかけるもの=神)のシロ[代・城]。ナワシロはナエ[苗]のシロ[代・城]です。

シル・シラ・シロなどについては、シラカ[白髪]・シラキ[新羅]・シラク[白斑](白くなる)・シラス[令知]・シラヌヒ[白縫]・シルシ[]・シルス[]などとの対応関係、さらにはsalt, saladaサラダ, salary給料, silk, silverシロガネ、などとの対応関係についてもシラベルとおもしろいと思いますが、(あまり長くなりますので)今回は省略させていただきます。

 さて、ハクサン[白山]のハク[白]の意味用法についても、シラ・シロとおなじような現象が見られます。参考までに、『学研・漢和大字典』の解説をご紹介しましょう。

 ハクbakbai…①しろ。しろい。②しらむ。しろくする。③けがれがない。無色。④あきらか。⑤むなしい。⑥いたずらに。むだに。⑦芝居のせりふ。⑧もうす。内容をはっきり外に出して話す[解字]どんぐり状の実を描いた象形文字で、下の部分は実の台座、上半は、その柏科の木の実のしろい中身を示す。ハク[]しろい布)、ハク[粕](色のないかす)、[](月のほのしろい輪郭)などと同系。

ここまで来ると、すぐ連想されるのが日本語のハク[吐・掃・佩]・ハグ[]などの語音です。すべて上代語2音節動詞として成立しています。擬声・擬態語のパクパク・パクリなどと同系。現代語でも、動詞パクル、副詞パクパクなどが通用しています。

たとえば、水中で魚がパクパク・パクル姿は、動物や人間が飲食物にパクついたり、ハキ[]出したりするのとおなじ姿。

漢語のハク[]は、ドングリの実がハカマハク[佩・履]姿。実の部分は茶色ですが、

ハカマの部分は白っぽく見えます。そのハカマをハガスと、イチジルシク白っぽく見えます。日本語でシラ(シロ)と呼ばれ、英語でwhiteと呼ばれる色彩が、漢語でハクbakbaiと呼ばれるようになった背景に、こうした事情があったことが見えてきます。

ハカマを履いたドングリの実」という表現では、「マンガみたいで、不謹慎」といわれる方がおられるかもしれません。そんな方には、たとえば「伯父」、「伯爵」のハク[伯]の姿を連想してみていただきましょう。「ハカマ(ズボン・スカート)ハク[履・佩]」など、盛装した成人男子の姿。やがて、ハシャ[覇者]に通じる姿です。

ハク音のついでに、剥落・剥製などのハク[剥]や英語のpack, bagなどとの対応関係までチェックできればと思いますが、かなりヤヤコシイ話になりますので、それもつぎの機会にまわします。

いずれにしても、日本語ハク音と漢語ハク[白・剥]音との対応関係はみごとなものです。おなじく漢語のハク[白]でも、ジハク[自白]・コクハク[告白]・ハクジョウ[白状]のハク[白]は、「コトバをハキ出す」姿ということで、日本語のハク[吐]に対応しています。日本語ではイウ(イフ)[]が普通ですが、イフ[]イブキ[息吹]は、「イキをフキ出す」姿。イハク[]は、「イキをハキ出す」姿。現代日本語でも、「ホンネ[本音]ハク」、「ドロをハク」など、「告白・白状」のハク[]とおなじ感覚のコトバとして、口からハキ出されています。

日本語のハク(p-k)と漢語のハク(p-k)が、ここまでの対応関係を示すとは!この事実に気づいた本人がビックリするほどです。p-k音の単語が個別に対応するだけでなく、単語家族として、まるごと対応しているということは、ひょっとして-k音日本語p-k音漢語が「双子の兄弟」だったことのナゴリかもしれません。そういった仮説を立てたくなりますが、その話もここまでとしておきましょう。




雪景色
  
 129()午前、銀行へ行く用事があり、ほんの50㍍ほど先まで「外出」しました。このところ寒い日がつづき、雪が積もって足場がわるく、危険なので、めったに外出しません。ぎゃくに、いざ外出となると、どんなに近い所でも、完全装備してから出かけます。アノラックを着て、帽子をかぶり、マフラーをつけ、カバンを肩にかけ、左右2本の歩行用ストックを使っての外出となります。.

 毎日ホームで過ごし、7F・9Fの窓から「下界」を見おろすだけでは、「雪に閉じこめられた富山」の生活実態が分かるはずがありません。じっさいに「時間をかけて完全装備する」、「足場のわるい雪道を歩く」などの体験を積みかさねることによって、すこしずつ実態が見えてくるのだと思います。

 いまのわたしのばあい、まわりの人たちが「この年齢で、シャバの生活のきびしさを体験させるのはカワイソウ。しばらくユメを見させてやろう」といってくださるおかげで、いまの生活がなりたっています。こうして毎日パソコンむかい、だれに読んでもらえる当てもなしに文をつづり、毎月23回ブログを更新するだけで精いっぱいの生活です。経済効果はゼロ。たしかに「ユメを見ている」だけかもしれません。

 しかし、本人の思いは、すこしニュアンスがちがいます。「このままでは、日本語も日本民族も、21世紀の競争社会で生きのこれるという保証がない。しかし、日本人はこの問題に気づいていない。気がついたとしても(解決できる自信がもてないので)、知らないフリをしている。これではダメ。過去のアヤマチははっきり認めながら、このさきは世界に通用するまともな方法で、世界各国・各民族とつきあってゆく。その自信やユメを持つことが必用。帝国主義戦争の敗北で失われた「民族のユメとホコリ」を修正したうえでとりもどす作業こそ、敗戦生きのこり世代に打ってつけのシゴトではないか。そう考えて、ユメを語りつづけています。



『古事記』を読む会

24日(日)。午前中、茶屋町豊栄稲荷神社で開かれた『古事記』を読む会に出席。この日は、まず服部征雄さんから「日本民族と麻」と題する調査報告があり、つづいてイズミから「日漢英s-k音語の系譜」について報告させていただきました。

 前回の研修会(123日)で、五十嵐喜子さんが「古事記の中の踊り」をテーマにして提案されたことから、服部さんは「天の岩屋戸の段で登場するアオニギテ[青和幣]アサ[]の布である」と指摘したあと、『古事記』、『魏志倭人伝』、『萬葉集』などの中から、アサ・タイマ・チョマなどの用例を採集し、解説されました。当日配布されたレジュメ(A48)の中から、イズミの独断で、その一部をご紹介します。(引用文の途中、*印以下にイズミの私見を追加しました)

イミベ[忌部]氏と大麻…忌部氏は古代、中臣氏と並んで朝廷の祭祀をつかさどった氏族で、フトダマ[太玉]命の子孫と称している。

卑弥呼が献上した班布…「魏志倭人伝」の中で、卑弥呼から魏王へ献上したとされる「班布二匹二丈」とは、大麻あるいはチョマ〔苧麻]の布。全部つなげると、巾:約50cm、長さ:23mの布となる。

大麻…麻(大麻)は中央アジアが原産地。日本列島に住みついた縄文人の祖先は、麻を持って移動してきたと推測される。古事記にも神事に麻が使われている。日本民族にとって、麻は単なる衣服の原料ではない。麻の成長の速さ、真っ直ぐに伸びる勇姿は神を思わせる畏敬の対象であった。このことが青いヌサ[幣]を生んだものと思われる。アオニギテ[青和幣]は、「で作ったニギテ」。アヰ[]とアヲ[]は、ともに「ア行音+ワ行音」の構造をもつ語音。アヲは、「ア+ヲ{尾・緒}」の構造で、「矢のように、自在にツキデル、ノビル」姿。このアヲが、麻などの呼び名となり、やがて色彩名としてのアヲ[]になったことが考えられる。

麻を使った人名・地名など…(多数あるが、省略)。

萬葉集の中の麻関連用語・・・30首に見られる。

 ●朝もよし 木人ともしも マツチ[亦打]山 行き来と見らむ 木人 ともしも 萬.55

 *「あさもよし」は、地名キ[紀]・キノヘ[城上]にかかる枕詞。この歌の原文は「朝毛吉」と表記されているが、「麻裳吉」と表記された例(萬.543)もあり、アサ[]とアサ[]のどちらが正しいか、未詳とされている。ただしイズミの解釈では、アサ[]の基本義は「(朝のヒザシが)矢のように、マッスグ、細長く、のび出る」姿であり、アサ[]もまた「のように、マッスグのび出る」姿をもつことから、おなじ音形となったものと推定する。また、キ[木・樹・紀]は乙類カナキル[切・着]のキは甲類カナで、それぞれ独特の意味用法をも持っていた。ここでは、あえてその区別をのりこえ、「麻裳をキル[着]」姿と「木をキル[切]」姿、さらには「木(紀)人がユキキ(行き来)する」姿を、相互に、自在に連想・交替させるような表現になっている。コトバのアソビといえばそれまでだが、この流れがやがて上代語甲乙カナヅカイの消滅をもたらしたとも考えられる。イズミの私見だが、一般のご教示をあおぎたい。

 ●麻衣 ケレバ[著者}夏樫 木国の 妹背の山に 蒔く吾妹 萬.1195

  *ナツカシ(なつかしい)を「夏樫」と表記したのは、コトバのアソビ。「妹背の山に 蒔く」のは、麻の種か、樫の種か?そんなことは、どうでもよい。この歌を聞いた人が「ワギモコをマク[巻・枕・娶]」姿を連想することを計算ずみの歌づくりと考えられる。『萬葉集』の中には、この種のコトバ・アソビが多数見られる。



「日漢英s-k音の系譜」について

 服部さんの報告につづいて、イズミから「日漢英s-k音の系譜」について報告させていただきました。

 はじめに前座として、「神代・歴代天皇系図」(『日本古典文学全集・1古事記』巻末フロク)を利用し、系図に表記された神名・人名計約150,23名がs-k音のナノリを持っていることを指摘。その中に、コノハナサクヤヒメ[木花佐久夜毘売]命、オホヤマトヒコスキトモ[大倭日子鉏友]命、タケウチノスクネ[建内宿禰]、オホサザキ[大雀]など、鉄器スキ[]によるイネ農耕推進で日本古代国家ヤマト政権を確立したリーダーたちの業績をたたえるナノリ(称号)だったとの解釈をのべたうえで、本題にはいりました。

 日本語のs-k音については、上代語の段階で2音節動詞サク・シク・スク・スグ・セク・ソクなどが成立しており、これらの動詞を中心に多数の動詞・名詞・形容詞などが成立。ゆたかなs-k音単語家族が形成されています。鉄器伝来で、それまでツキ棒で地面にアナを掘り、タネイモを植えこむような農耕から、スキスキかえした地面で苗を育てるイネ農耕へと進化し、そのことがヤマト政権成長のタスケとなりました。その過程で、s-kをはじめ、k-r, k-t, p-k, p-tなどの単語家族が大きく成長し、ヤマトコトバの語彙体系をゆたかにしてきたこともたしかです。

 ヤマトコトバs-k音と漢語s-k音の対応関係も、あきらかになりました。たとえば漢語のショウsiog小・肖・消・宵xiaoは、日本語チヒサク[]のサクやスクナシ[]のスクなどと、みごとに対応します。その他;

サクsaksuoは、ばらばらにサク・サケル姿。やが1て、サクル・サグル姿。⇔サク・サグル・サガス。Seek, search.

サクsakshuo(ついたち)は、月が一周して、もとの位置にもどった姿。サカノボル姿

セキsekxiは、サク、ハナス姿。いちどセキ止めたうえで、サキ分ける姿。

ソクsekxiは、「屋根のある空間の出入り口を土でセキトメル、フサグ」姿。⇔セク[堰]・セキ[関]。Sect, section, insect.

ソウsiogsou は、サキワケル・サガス・サグル姿。⇔サク・サガス・サグル・ソグ。Seek, search.

シュクsiok宿・縮suは、「旅先の宿で、身をスクメル」姿。マタ、「ヒモでしばり、スクメル、チヂメル」姿。⇔スクム。Shrink.

  (中略)

英語のs-k音についても、レジュメにはのせておきましたが、時間のつごうもあり、口頭での報告は省略させていただきました。全体として、まだ中間報告の段階であり、機会があれば報告・提案をつづけます。ご教示のほど、よろしくおねがいします。



音を聞く会

27日(水)。午後9Fで「音を聞く会」が開かれました。この日の曲目は、季節にあわせて「冬景色・スキー・春よ来い」など。出演は「歌のお姉さん」お一人だけなので、おおいそがし。大判の歌詞カードを黒板に掲示するなどの作業は、めぐみのスタッフkzmさんがお手伝いしていました。

 「音を聞く会」となっていますが、それはエンリョした言い方。ほんとうのネライは;出席したみなさんが、昔なじみの歌を聞いて、まずはリラックスした気分になること。独唱はムリでも、みんなでいっしょに歌えば、コワクナイ。途中どこからでも、声に出してみる。はじめはトギレトギレだが、そのうち次第に、まとめて歌えるようになる。第三者の評価は別として、本人はそんな気分になる。その意味で、リハビリ効果があることは、マチガイないと思います。

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