アオサギ君、おはよう
県総合運動公園A
同上B
同上C
アオサギ君、おはよう
県総合運動公園を散歩
5月22日。内田長年・歌代夫妻にさそわれて、県総合運動公園まで出かけて散歩することになりました。これには、いろいろ事情があります。
この冬は、大雪で散歩に出かけられない日もおおく、運動不足で足腰がよわくなってしまいました。雪がとけて散歩によい季節になりましたが、こんどは歩きまわる体力がありません。ほんの100メートルほど歩くだけで、息がきれそうになります。これはヤバいと思い、室内でもストレッチなどやってみましたが、なかなか体調が回復しません。
体調がよくないことを、わたしから直接話した記憶はないのですが、内田歌代さんはもともと俳句をやっていて観察眼がするどく、またとても世話好きな人です。わたしのようすを見ていて、「散歩もしないでいたら、そのうち寝たきり状態になるかも」、「なんとしても散歩だけはつづけるように」、そして「いつも見なれた風景よりも、すこし変わった風景の方が脳のシゲキになるかも」と考えられたのかもしれません。21日朝、歌代さんから「あす午前中、県総合運動公園まで出かけて散歩しませんか」と電話がありました。
22日10時、砂町を出発。内田長年さんが運転するクルマで県総合運動公園へ向かいました。この公園は、平成12年(西暦2000年)の第55回国民体育大会メイン 会場として整備されたということですが、わたしがここへ来たのははじめてです。
広くて、りっぱな施設がととのっていて、樹木や芝生のミドリがゆたかで、5月の風の香りが、これまたナンともいえません。とにかく、すばらしい公園です。
クルマを駐車場においたあと、長年さんと二人で「一周2,5キロ」とかいうジョギングコース(?)を歩くことになりました。「これはエライことになった」と思いました。それでも「せっかくここまで来たのだから、さっそうと歩いてみたい」と、わが身をシッタ・ゲキレイしてみたのですが、やっぱり足腰がうまく動いてくれません。200~300メートルも歩いたでしょうか。バッタリ倒れそうになって、道ばたの芝生に腰をおろしてしまいました。しばらくのあいだ、公園のおいしい空気を腹いっぱい吸いこんで元気をとりもどし、もういちど歩きはじめます。コースを一周するまで、なんべん休憩したか数えきれません。
それは、「散歩」などというものではありません。当人にとって、それは「修行・苦行」のたぐいでした。「トボトボ・タドタドしく山道をタドル」老人の姿。どう見ても、運動公園のイメージとは真逆のものでした。平常心を保っていた証拠にと、写真を数枚とりましたが、それが精いっぱいでした。
1時間以上かけて、ようやくスタート地点までたどりつくことができ、正直ほっとしました。ずっとつきそってくれた長年さんは、わたしの体調がここまでおちているのを見て、びっくりされたのでないかと思います。お世話になりました。
大陸時代の思い出
運動公園で2,5kmのコースをを歩きながら、なぜかむかし中国大陸での体験を思いだしました。
それは半世紀以上もむかしの話。日本国敗戦の年12月下旬、中国八路軍管理下の張家口で生活していたころ、とつぜん「承徳へ移動せよ」と命令され、その翌日から1週間あまり、身のまわり品をかついでの行軍がつづきました。
男女あわせて40人ほどもいたでしょうか。こどもづれの人もいましたが、男と女は別々の集団で移動しました。当時わたしは25歳、信子21歳。最初の2~3日はどうということもなかったのですが、しだいに疲労がたまってきます。5日目ころ、宿舎手配のつごうで「1日中に約60km移動」という強行軍の日程が示されました。
昼食休憩までは、全員でいっせいに行動していましたが、いつのまにか数人の小集団で行動するようになり、最後はひとりづつバラバラになってしまいました。集団で行動しなければとは思いながら、いよいよ疲れてくると、1歩も足が動いてくれません。荷物をかついだまま、道ばたであおむけにたおれます。天をあおいでバンザイです。2~3分休んで、またトボトボ歩きだします。5分ほど歩いて、またバンザイ。
何回もバンザイをくりかえしながら、それでもどうやら目的地に到着。山の中の民家の一部屋で、夕食(コーリャンのおかゆ)にありつきました。
平生上品なことをいっていても、極限状態においこまれると、まわりの人とつきあっている余裕がなくなります。自分ひとりのイノチをつなぐことだけを考えて行動してしまいます。「命あってのモノダネ」、まずは、わが命を生きぬくこと。行為の是非善悪は、それから先の話。世間のみなさまの評価にまかせるしかありません。
総合運動公園で中国の山村風景を思いだすなど、いかにもシリメツレツ[支離滅裂]な話になってしまいました。これも老化現象ということでしょうか。
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