2012年12月29日土曜日

師走の風景

 
「教育・文芸とやま」第18
 
 
 いたち川雪景色
 
 
 あしあと
 
 
赤・白・みどり
 


アオサギA
 
 
 アオサギB
 
 
 祭壇
 
 
「教育・文芸とやま」第18
1210日。「教育・文芸とやま」第18号ができてきました。(財法)富山県教職員厚生会が毎年1回発行している文芸誌です。わたしは第2号から応募していて、こんどは15回目になります。さっそく、18号の内容をざっとひろいよみしてみました。
編集委員長の須山盛彰さんがノンフィクション「富山県における学童疎開の記憶(その三)…食糧事情②」を発表しておられます。
むかし中学校で同僚だった桜井千鶴子さん(妻信子の女学校同期生)は、ことしも小説「白い風」を投稿しています。
随筆部門では、わたしがはじめて中学校教員になったころの同僚石田光明さんが、「教師と生徒の出会い」と題して当時の思い出を語っています。
川柳部門では、もと同僚の長沢信次さんが「熟慮して断行しない悪いくせ」など5句、木澤隆さんが「痛くない歯医者探して西東」など5句を投稿しています。
須山さんの編集後記によれば、「悩みは、現職会員の投稿がすくないこと」だそうです。作品合計98、内現職者分90、退職者分8。それだけ、いまの教育現場はユトリがなくなっているということでしょうか?いささか気になります。
 
ツクシとスギナ
わたしは評論部門で「ツクシとスギナ」をのせていただきました。サブタイトルを「t-音とs-音の関係を考える」としました。
この40年来、「日本語と漢語・英語の音韻比較」ひとすじにすごしてきましたので、「教育・文芸とやま」の原稿も毎回一貫したテーマ、おなじ論法で議論してきました。
本人としては、ごくアタリマエのこと、客観的合理的なことを主張しているつもりなのですが、まともに読んでくださる方はめったにいないようです。わたしの文章力がとぼしいからで、おはずかしい次第です。
そこでこんどは、タイトルを「ツクシとスギナ」としてみました。「ツクシだれの子、スギナの子」という童謡の文句からはじめて,まわり道しながらsugina, tukusiという語音そのものに関心をもってもらえるようにしたいと考えたわけです。スギナが「スギ+ナ」で、スギがs-gグループのコトバだということに気がつけば、やがてツクシについても「ツ+クシ」か、「ツク+シ」か、「ツ+ク+シ」か、あるいは「ツク+クシ」(の略)かなど、いろいろ考えてみる楽しさも生まれてくると思います。さらには、植物のツクシ[土筆]と地名のツクシ[筑紫]がなぜ 同音なのか、枕詞シラヌヒ[不知火・白縫]ツクシ[筑紫]がどんなメカニズムでつながるのかなどの問題もあります。
「教育・文芸とやま」は、今年7月富山市に開館された高志の国文学館の同人誌コーナーでも展示、閲読されているそうです。
ツクシとスギナ」については、このあとヌキズリをつくって、読んでいただけそうな方にさしあげる予定です。
 
いたち川雪景色
1219日。いつものように雪見橋から下流の景色をながめていました。おとつい見たときは、サクラの幹や枝がやけに黒っぽくて、さむざむとした感じでした。けさは雪のおかげで、すっきり薄化粧した姿に見えました。
1220日。雪見橋の歩道部分にわずかながら雪がつもって、わずかながら通行人のアシアトと自転車のアトがついていました。遊歩道の一画に生えている木の真っ赤な実と緑の葉(毎日ながめていながら、ナマエも知らないで、ごめんなさい)雪の白さと対照的でした。
カモ一家も健在でしたが、画像はこの日も不鮮明。
1223日。散歩でいたち川の遊歩道まできたところ、すぐ目のまえ、水ぎわにアオサギがジッと立っていました。びっくりしましたが、(あわてていないフリをして)そっとシャッターをきりました。3回目のシャッターをきろうとしたとき、アオサギが飛びたちました。その姿が画像にのこっていたのはケガの功名です。
 
お葬式のかたち
1216日。となりの加藤富美さんが亡くなりました。15日午前、自宅でたおれ、救急車で済生会病院に搬送され入院。16日夜、肺炎などのため、95の生涯を終えました。
富美さんは故加藤康正さん(信子の兄)の奥さん。子どもがいないため、長年ひとり住まい。心臓にペースメーカーをいれた身体障碍者ですが、周囲にすすめられても施設にはいろうとはしませんでした。大往生をとげたというべきかもしれません。
喪主は姪御さん。故人の意向もあり、近親者だけでの密葬ということになりました。19日午後、自宅で納棺のあと出棺。通夜と翌日午前の葬儀および七日の法事はセレモニーホールですませました。祭壇にかざられた法名には、「富美」をとりこんで「富徳美心大姉」と書かれていました。なお、祭壇の画像は伊藤広美さんの写真を使わせていただきました。
お葬式のかたちには、いろいろあるようです。事業経営者や政治家などの場合は、そのアトツギを披露するチャンスということもあって、おおぜいの人たちに参列してもらい、盛大な儀式をおこなうほうがよいかもしれません。しかし、人生いろいろ。身内だけでの密葬というカタチもあってよいと思います。
 
どうぞよいお年を
2012年は、いろんなことがありました。とりわけ12月はモジどおりシハス[師走]、セワシナイ季節でした。ブログのほうも、28日までの予定が29日までズレこんでしまいました。
それでもどうやら、あとは年越しそばを待つばかりとなりました。ありがたいことです。
みなさま、どうぞよいお年をおむかえください!

2012年12月18日火曜日

いきなりドカ雪

 
雪見橋付近
 
 
 枯木に花?
 
 
 満天の湯入口
 
 
 雪ダルマとベンチ
 
 
 「スミ・シム・SMITH
 
 
 

コイとアオサギ
1130日。散歩の途中、ひさしぶりにアオサギの姿を発見。737741. シャッターをきること8回。以前に見たアオサギとおなじ個体だという保証はありませんが、ヘタクソなカメラマンによくつきあってくれました。あとで画像をたしかめてみると、ざんねんながら不鮮明。
123日。雪見橋の下流左岸に、5060㎝ほどのでっかいコイがウジャウジャいるのを見つけました。融雪用地下水のおこぼれが流れこんでいる地点のすぐ上手なので、そのことと関係があるのかもしれません。橋の上から水面をながめていても、よほど目をこらさないと見つかりません。光線不足と水面の乱反射のため、魚影をとらえきれないのです。
2枚カメラにおさめましたが、これも画像が不鮮明。ブログにのせるのはエンリョしました。せっかくつきあってくれたアオサギとコイたちに申しわけない気持です。
 
いきなりドカ雪
いたち川べりのサクラもカメラにおさめましたが、丸坊主になったサクラ並木は、幹も枝も黒さを強調するばかりで、さむざむとした感じでした。
そして129。いきなりドカ雪に見舞われました。雪がつもると、雪見橋付近も、いたち川両岸のサクラ並木も、みんないっぺんに雪景色となります。  
      
満天の湯
1212日午後、石金の「満天の湯」へでかけました。11月末から2人ともカゼをひいて、ハナミズやセキになやまされていたのがすこしおさまってきたので、ひさしぶりにゆっくりお湯であったまってこようということになりました。
クルマで5分足らずで到着。予約どおりに、まず「カミキリ処」で散髪をすませ、そのさきの浴場へ。「黒部の湯」、「神通の湯」、「薬草風呂」などのほか、大露天ブロもあります。
トシヨリなのでノボセたりしないように気をつけながら、それでも露天ブロにもいくつかはいって、ゆっくり手足をのばし、しばらくシャバのことをわすれていました。
 
「住吉の速星神社…」補注
前号で山口悦子さんの「住吉の速星神社…」の話をとりあげました。日本海文化悠学会7回研修会のことです。「住吉」という地名を考えるうえですこしでも参考になればと思って、わたしは旧作『スミ・シム・SMITH』(1995.4)を会場へ持参しました。
この小論は、ヤマトコトバのスミ[]・スム[住・澄]・シム[染・占]をはじめ、漢語のサム[三・参]・シム[心・深]、さらには英語のsome, same, smelt, smear, smithなどのs-m音語をとりあげ、その共通基本義をさぐろうとしたものです。サブタイトルは「スミノエ神はSMELTINGMAGICIAN」、「古代日漢語音の中にインド・ヨーロッパ語根をさぐる」としました。
こんどの研修会のテーマは「住吉の速星神社…」ということでしたので、「住吉」はただの地名あつかいになります。またこの報告の文脈の中では、おなじ地名の中でも「金屋」「上金屋」「下金屋」「金草」などが主流で、「住吉」については「速星神社の所在地」、「行政区の変更により、『金草』が『住吉』に変わった」と解説しています。
たかが地名。されど地名。日常の生活では「固有名詞について、いちいち意味をさぐるのはナンセンス。そんなヒマはない」のが実情です。しかし、郷土史・日本史。世界史などについて、じっくり事実をたしかめようと考える場合、その土地の地名や人名などから貴重なヒントをあたえられることがあります。それは、その地名・人名がもともと「関係者たちの無限の思い」(体験・技術などの情報)をこめて命名された文化遺産だからです。
先日は『スミ・シム・SMITH』を5部だけ持参し、ご希望の方に進呈しました。A4判、148ページ。1995年、まわりのみなさまにカンパしていただいて刊行した作品ののこりです。小説などとちがって、よみやすい作品とはいえませんが、よんでやろうという方がおられれば追加・進呈する予定です。

2012年12月9日日曜日

もうすぐ冬

 
紅葉のなごり
 
 
柳と蔦
 
 
シルエット 
 
 
残り、ナンマイ?  
 
 
菊  
 
 
悠学会第7回研修会 
 
 
紅葉のなごり
前号で「いたち川の紅葉」スナップをごらんに入れました。そのあと冷たい雨がつづき、遊歩道のサクラもほとんど葉を落としてしまいました。
1125日。ひさしぶりの晴天。紅葉のなごりをもとめて、シャッターをきりました。
柳の木は、ほとんどマルボーズ姿に刈りこまれていましたが、それでもいくスヂか細長い線がのこされていました。そしてそのふとい幹には、ツタの葉がしっかりハリついていました。
遊歩道には落葉がしきつめ、やけに長いシルエットができていることにおどろきました。
サクラの木もすっかり葉が落ちて、まるで枯れ木みたいと思っていいましたが、よくみるとまだナンマイか葉がのこっている枝もありました。
さいごに、町内Nさんのお宅のまえのにカメラを向けました。例によって(背景がガラス窓だったので、まわりの風景が写りこみ)、合成写真になっていました。
 
悠学会第7回研修会
1130日午後、富山市豊栄稲荷神社で開催される「日本海文化悠学会第7回研修会」に出席しました。「住吉の速星神社について」。発表者は山口悦子さん。
<要旨>
名称速星神社。
祭神五十筒男命(いわつつおのみこと)鍛冶の神
所在地富山市住吉784県道小矢部線(富山・戸出・小矢部)沿い、(曹洞宗)高西寺の東隣。
沿革
江戸時代、宝永元年(1704)71日、富山2代藩主前田正甫により、京都の吉田神社にて「速星神社()を勧請。西金屋字京平の内、金草御鷹場に鎮座。「金草の宮」と呼ばれる。山頂の平坦地(400)。管理人、御餌指2人。
宝永2(1705)、高安豊助が鉄山開発・山師雇い方を拝命。
宝永4(1707)以降、野積谷鉄山を開発。但馬国より山師26を招く。富山下金屋町(柳町)の鋳物師が鉄砲(火縄銃の銃身)を製造。鉄砲10丁余りを奉納。そのご、閉山
文化3(1806)富山下金屋鋳物師へ下げ渡し。管理人、金屋清右衛門(西金屋字北市)
天保11(1840)、現在地(古沢字三番金草9498住吉784)へ移転。
明治6(1873)ころ、金草村へ譲り渡し(金草神明社を合祀)
社宝勧請祭文3。②鉄砲2丁(前記10丁の内)
備考:「速星神社」の所在地が「住吉」となっているのは、行政区の変更で、「金草」が「住吉」にかわったため。なお、「金草」はもと「金糞(鉱石を熔錬する時に出る滓。カラミとも)の意。
山口さんは、古文書「勧請祭文」3巻を読みとくなどして、「速星神社」の歴史をここまで明らかにされました。それは、一見ちいさなホコラの歴史にすぎませんが、見方を変えれば富山(藩・県)地域全体の歴史です。「鉄器(鋤・鍬)によるイネ農耕推進」の時代につづいて、こんどは「鉄砲伝来」の時代。地元産の砂鉄を使い、職人をやとって鉄砲(銃身)を作るところまではこぎつけましたが、藩財政のつごうもあり、ついに「官から民へ」ゆずりわたしたということでしょうか。
だとすれば、それは富山(藩・県)だけの問題ではなく、全国各地方が取りくんできたはずの問題です。ただ、天然資源(鉱石など)や技術などの条件から、成功と失敗に分かれたものと考えられます。
 
地名の話
こんど山口さんの報告を聞いていて、あらためて痛感させられたことがあります。それは、時代の流れとともに地名が変更されることがおおく、その地域の歴史がたどりにくくなるということです。こんどの例でいえば、「住吉」「金屋」などの地名がそうです。
現行の富山市地図でみると、「住吉」という地名は、呉西の「住吉(速星神社所在地)のほか、呉東にも「住吉町」があります。また「金屋」については、呉西で牛ヶ首用水をはさんで「金屋」と「西金屋」があり、呉東にも「南金屋」があります。これらの「住吉」や「金屋」が歴史上どんな役割をはたしてきたか、山口さんの報告にあわせて位置づけしたいと考えましが、どうもピンときません。
そこで、『角川・日本地名大辞典・富山県』でチェックしてみました。その結果、江戸時代に呉西の「金屋」に対して、富山城下の東端、いたち川左岸に「上金屋町」、またその下流右岸に「下金屋町」があり、鋳物師が多数居住していたことが分かりました。とりわけ「下金屋町」の項では「春先のフェーン現象による火事が多いため、富山城下の町割りは火災のための配慮がなされ、火を扱う当町は富山町の東方で鼬川沿いの風下におかれた」と解説されています。
呉東の「住吉町」は「昭和40年成立」(直前は大字清水・舘出の一部)とのことで、呉西の「住吉」との関係は不明です。ただ、隣接する「音羽町」(40成立、直前は大字清水の一部)に「天正年間の創建」とされる「住吉神社」があります。
地図をしらべているうちに、ふと気がつきました。じぶんが住んでいる「砂町」は「上金屋町」(室町通)と「下金屋町」(柳町)の中間いたち川のほとりにあります。気がついて見れば、「室町通」のとなりに「古鍛冶町」が現存しています。ふるい記憶をたどると、むかし中学校で担任していた生徒の父親が刀の研ぎ師さんでした。