紅葉のなごり
柳と蔦
シルエット
残り、ナンマイ?
菊
悠学会第7回研修会
紅葉のなごり
前号で「いたち川の紅葉」スナップをごらんに入れました。そのあと冷たい雨がつづき、遊歩道のサクラもほとんど葉を落としてしまいました。
11月25日。ひさしぶりの晴天。紅葉のなごりをもとめて、シャッターをきりました。
柳の木は、ほとんどマルボーズ姿に刈りこまれていましたが、それでもいくスヂか細長い線がのこされていました。そしてそのふとい幹には、ツタの葉がしっかりハリついていました。
遊歩道には落葉がしきつめ、やけに長いシルエットができていることにおどろきました。
サクラの木もすっかり葉が落ちて、まるで枯れ木みたいと思っていいましたが、よくみるとまだナンマイか葉がのこっている枝もありました。
さいごに、町内Nさんのお宅のまえの菊にカメラを向けました。例によって(背景がガラス窓だったので、まわりの風景が写りこみ)、合成写真になっていました。
悠学会第7回研修会
11月30日午後、富山市豊栄稲荷神社で開催される「日本海文化悠学会第7回研修会」に出席しました。「住吉の速星神社について」。発表者は山口悦子さん。
<要旨>
名称:速星神社。
祭神:五十筒男命(いわつつおのみこと)。鍛冶の神。
所在地:富山市住吉784。県道小矢部線(富山・戸出・小矢部)沿い、(曹洞宗)高西寺の東隣。
沿革:
江戸時代、宝永元年(1704)7月1日、富山2代藩主前田正甫により、京都の吉田神社にて「速星神社」(?)を勧請。西金屋字京平の内、金草御鷹場に鎮座。「金草の宮」と呼ばれる。山頂の平坦地(400歩)。管理人、御餌指2人。
宝永2年(1705)、高安豊助が鉄山開発・山師雇い方を拝命。
宝永4年(1707)以降、野積谷鉄山を開発。但馬国より山師26人を招く。富山下金屋町(柳町)の鋳物師が鉄砲(火縄銃の銃身)を製造。鉄砲10丁余りを奉納。そのご、閉山。
文化3年(1806)、富山下金屋鋳物師へ下げ渡し。管理人、金屋清右衛門(西金屋字北市)。
天保11年(1840)、現在地(古沢字三番金草9498=住吉784)へ移転。
明治6年(1873)ころ、金草村へ譲り渡し(金草神明社を合祀)。
社宝:①勧請祭文3巻。②鉄砲2丁(前記10丁の内)。
備考:「速星神社」の所在地が「住吉」となっているのは、行政区の変更で、「金草」が「住吉」にかわったため。なお、「金草」はもと「金糞」(鉱石を熔錬する時に出る滓。カラミとも)の意。
山口さんは、古文書「勧請祭文」3巻を読みとくなどして、「速星神社」の歴史をここまで明らかにされました。それは、一見ちいさなホコラの歴史にすぎませんが、見方を変えれば富山(藩・県)地域全体の歴史です。「鉄器(鋤・鍬)によるイネ農耕推進」の時代につづいて、こんどは「鉄砲伝来」の時代。地元産の砂鉄を使い、職人をやとって鉄砲(銃身)を作るところまではこぎつけましたが、藩財政のつごうもあり、ついに「官から民へ」ゆずりわたしたということでしょうか。
だとすれば、それは富山(藩・県)だけの問題ではなく、全国各地方が取りくんできたはずの問題です。ただ、天然資源(鉱石など)や技術などの条件から、成功と失敗に分かれたものと考えられます。
地名の話
こんど山口さんの報告を聞いていて、あらためて痛感させられたことがあります。それは、時代の流れとともに地名が変更されることがおおく、その地域の歴史がたどりにくくなるということです。こんどの例でいえば、「住吉」「金屋」などの地名がそうです。
現行の富山市地図でみると、「住吉」という地名は、呉西の「住吉」(速星神社所在地)のほか、呉東にも「住吉町」があります。また「金屋」については、呉西で牛ヶ首用水をはさんで「金屋」と「西金屋」があり、呉東にも「南金屋」があります。これらの「住吉」や「金屋」が歴史上どんな役割をはたしてきたか、山口さんの報告にあわせて位置づけしたいと考えましが、どうもピンときません。
そこで、『角川・日本地名大辞典・富山県』でチェックしてみました。その結果、江戸時代に呉西の「金屋」に対して、富山城下の東端、いたち川左岸に「上金屋町」、またその下流右岸に「下金屋町」があり、鋳物師が多数居住していたことが分かりました。とりわけ「下金屋町」の項では「春先のフェーン現象による火事が多いため、富山城下の町割りは火災のための配慮がなされ、火を扱う当町は富山町の東方で鼬川沿いの風下におかれた」と解説されています。
呉東の「住吉町」は「昭和40年成立」(直前は大字清水・舘出の一部)とのことで、呉西の「住吉」との関係は不明です。ただ、隣接する「音羽町」(昭40成立、直前は大字清水の一部)に「天正年間の創建」とされる「住吉神社」があります。
地図をしらべているうちに、ふと気がつきました。じぶんが住んでいる「砂町」は「上金屋町」(室町通)と「下金屋町」(柳町)の中間、いたち川のほとりにあります。気がついて見れば、「室町通」のとなりに「古鍛冶町」が現存しています。ふるい記憶をたどると、むかし中学校で担任していた生徒の父親が刀の研ぎ師さんでした。
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