第8回「越のまほろば」公開講座
「偲ぶ会」の案内
長念寺玄関
オカリナ合奏
佐々成政のはなし
7月18日、富山市千代田町 まる十さん 2階で、第8回「越のまほろば」公開講座が 開かれ、「歴史資料 から たどる 佐々成政」と 題して、富山市郷土博物館の 萩原大輔学芸員が 講演されました(画像は、7月19日北日本新聞記事「成政と秀吉の対立解説」から借用したものです)。
佐々成政に
ついては、地元という関係で、くりかえし話題に なっています。
昨年11月7日、第5回「越のまほろば」公開講座で、富山大学人文学部 鈴木景二教授が「佐々成政の さらさら越え」と題して講演されました。
また、作家の 遠藤和子さんも
昨年1月に『家光大奥・中の丸の生涯』(展望社)を 発表されましたが、その 中の丸(孝子)の祖父が 佐々成政です。
萩原さんに よれば、いわゆる「成政伝説」(霞堤、クロユリ伝説、冬のさらさら超え、など)の おおくは『絵本太閤記』が もとに
なっている ようなので、これを ひっくり返すような 確実な証拠資料を 発見できるか どうかが、歴史研究者の課題に なっているようです。
歴史の事実 として、勝ったのは 秀吉であり、負けたのが 成政です。しかし、そのあと 間もなく
豊臣勢は 徳川勢に やぶれ、3代将軍家光の 結婚相手に 選ばれたのが 成政の孫、鷹司孝子(中の丸)でした。家光と中の丸との結婚生活に ついては 不仲説も ありますが、この時期に
徳川幕府の 体制が 固められた ことも 事実です。
歴史と いえば、とかく 政治や 軍事面での 勝敗が 問題に なりますが、それは いうなれば
男目線の 歴史観。もう一つ、女性の 目線に よる 歴史観が あると 思います。絶体絶命 とも 思われる 乱世を どう 生きたか、生き残ったか、と たずねる 姿勢です。遠藤和子さんは
歴史研究の 専門家では ありませんが、その 歴史観は 貴重だと 思います。
日本人の歴史観・歴史認識
歴史観と いえば、最近 日本政府は まわりの 国 から「首相や 閣僚の 靖国神社 参拝」、「従軍慰安婦」などの
問題で 責めたてられ、歴史認識を 追及されて います。気にかかるのは、政府当局の 対応の仕方 です。相手が 中国や 韓国の ばあいは、高飛車に 反論したり、論点を
すりかえようと したり していたのが、アメリカすじ から 批判の声が あがる と、あっさり 発言を 撤回する などの 光景が 見られます。発言を 撤回した ということ
は、じぶんの 歴史認識の アヤマリを 認めた ということ でしょうか?「誤解される おそれが あるから」と いうことだ と すれば、これまた 政治家 としての
資格・能力が 不足だ ということに ならない でしょうか?
反省して みると、第2次 世界大戦の 敗戦
以来、この種の 問題に ついて、徹底的な 討論を して こなかったと 思います。もちろん、政治・経済・文化など 各分野で はげしい討論が すすめられた ことは
事実です。しかし、「戦争責任」、「靖国神社」、従軍慰安婦」などの 問題に ついて、みんなで 討論を つくし、すっきりした 結論を だした とは いえません。みんなが
すきかってな 意見を のべ、意見が かみあわない まま、最後は 多数決で きめた だけ。こんな ことを くりかえして いては、いつまで たっても 民主主義は 身につく
はずが ありません。
日本人は 平和主義で、人と 論争するのが きらいです。しかし、21世紀の 現実世界では、討論が ヘタでは 生きのこる ことが できません。客観性・合理性の ある 歴史観を 身に つけ、積極的
にまわりの 国の 人たちと 話しあう ように したい ものです。
異文化を味わう…辞書の楽しみ
7月27日、富山市長江新町の 長念寺で、志田延義先生を「偲ぶ会」が 開かれ、富山県立大学准教授 平野嘉孝さんの講演「異文化を味わう…辞書の楽しみ」を きかせて いただきました。平野さんは 理論経済学専攻の
研究者との ことですが、この日の 講演では 日本語や英語の 同義語・同類語を 比較する
作業の 中で、コトバの 背景に ある 文化の 相違に 気づく べき ことを
指摘されました。
はじめに アメリカの 第16代大統領 リンカーンの
演説の 文句 government of
the people, by the people, for the peopleの 前置詞
ofの 意味用法を とりあげました。下線部分は、ふつう 日本語で 「人民の政治」 と訳して いますが、それで よいのか
どうか?「人民が 統治すること」の 意か?「人民を 統治する」の意か?
同様な 問題が、チャールズ・ウェスリーの 詩の文句に ついても 出てきます(In Temptationの冒頭句)。
Jesus, Lover of my soul,・・・この部分は 2通りに 解釈できます。
①
Jesus loves my soul.
②
My soul loves Jesus.
つまり、英語の 前置詞 「of」 ひとつ とって みても、さまざまな 意味・用法が あり、日本語の 助詞 「ノ」で おきかえて 訳せば よい とは いえない。そこに 日本語と 英語の 「異文化の味」が
あると、平野さんは 指摘されました。
これまで 日本語と 英語との 比較研究 と いえば、あらかたが 語法・文法に かんする
もの ばかりで、語彙に かんする ものが すくない中で、平野さんが「辞書で(日英)単語の意味・用法を たしかめ」、「異文化を 味わう」姿勢を とって おられる
ことに 敬意を表します。ただ、わたし としては、さらに 1歩 さき まで 研究を すすめて いただけたら と 願って
います。
たとえば、英語の 前置詞 「of」に さまざまな
意味・用法が ある ことは、たしかに その とおり ですが、日本語の 助詞 「ノ」にも、さまざまな 意味・用法が あります。その 点では、「of」 と 「ノ」は 大同小異だ と 見る ことも できます。「異文化を 味わう」ことが できるのは、「of」で –f
子音、「ノ」で n- 子音が
使われて いる ことの 意味を 考える 時では ないでしょうか?
コトバの 基本は 音声言語です。すべての 単語は、子音と 母音の 組みあわせ です。日本語 と 外国語(漢語・英語など)との 比較研究を する には、まず 共通の モノサシで 等質の 素材(子音の配列など)を そろえ、共通の 土俵に 乗せる ことです。さいわい、インド・ヨーロッパ語に ついては その モノサシや 土俵が
できて いる ので、あとは 日本語や 漢語の 素材を 規格どおりに そろえる だけ ですが、(漢語に ついては 試案ができて いますが)日本語に ついては、まだ 試案 づくりの 動き さえ 見あたらない 状態です。
たとえば、カツ[搗・勝] と カツ[割] と cutの ばあい、日漢英 語音 と も 基本的に 等質の 音形で、基本義「カツカル・カチワル」姿も 共通。しかも、動詞 カツ・cutの 名詞形(~するもの)が
カタ[型] とcutter、動名詞(~すること)が カチ[搗・勝]。こうなると、日本語 と 英語の ほうが 漢語よりも 近い関係に ある のでは と いう 感じ さえ してきます。このように、3個以上の 言語の 語音を 比較対照してこそ、合理的・客観的に「異文化を 味わう」ことが できる のでは ないか と思うのですが…
平野さんは、つぎに criticalの 意味・用法をとりあげられました。ofに
くらべて かなり 複雑な 音形 なので、それだけ 手数を かけて 分析しなければ なりませんが、ここでは もう 時間が ありません。
この日、会場 玄関で「長念精舎」の 扁額と「あみださま恋歌(風の盆恋歌の 替歌)」屏風を なつかしく 拝見、ケータイの シャッターを
きりました。
講演の あと、有志の 方々の オカリナ合奏(「花は咲く」「こきりこ節」など)があり、これも ケータイに おさめました。
ところが、平野さんの 講演の 場や 昼食会の 席では、聞いたり 話したり するのに 熱中して、写真を とるのを
忘れて しまいました。ゴメンナサイ。
0 件のコメント:
コメントを投稿