『古事記』を 読む 会
豊栄稲荷神社の しだれ桜
福光美術館
愛染苑
庄川峡(宿の窓から)
ゆめつづりを 出発
4月12日(日)午前、豊栄稲荷神社で『古事記』を 読む会の 新年度 第1回の 輪読会が 開かれました。1年間 かけて 中巻、応神天皇 まで いちおう 輪読して きました ので、きょうは 下巻、仁徳天皇の くだりを 一気に 読みあげようと いう こと でした。「后妃・御子と 御名代」「吉備の 黒日売と 皇后の 嫉妬」「八田若郎女」「三色の 奇虫」「雁の卵」「枯野という 船」など、おもしろそうな 話題が
つづきますが、さて そこから ナニを 読みとるか、それが 問題だと 思います。
文学作品として 読むか、歴史資料として 読むか、読む人の 意欲に こたえて 無限の 資料を 提供して くれると 思います。『古事記』を
読む会 も、これまで いろいろ 手さぐりで やって 来た 感じ ですが、このへんで いちど「会の 目的・目標」や「輪読会の ありかた」などに ついて、あらためて
話しあって みたいとも 思います。たとえば 会員 ひとりひとりに ついて、「とりわけ 関心の ある 分野・テーマ」、「独自の 研究方法や 仮説」などの
実態が わかれば、今後の 会の 進め方を 考える 上で 参考に なると 思います。また、会員同士で
研究成果を 交換しやすく なり、学習の ムリ・ムダを はぶく ことができるでしょう。なにはともあれ、全会員に
とって もっとも 効率の よい 学習方法を 採用したい もの です。具多的には、毎回
輪読会あとの 時間を あてる とか、アンケート方式での 回答を まとめて プリント、配布する などの 方法が 考えられます。
わたし自身の ことを いえば、「古代日本語
研究資料」として 利用する 立場 です(ブログ「オオクニヌシと スクナビコナ」2014.6.19.参照)。ヤマトコトバと 漢語・英語の
音韻比較資料を 採集する ため です。
輪読会が 終わった あと、神社境内の 「シダレザクラ」を
ながめて、スマホに おさめました。
4月13日(月)。伊藤夫妻のご厚意で、ことしも 一泊二日の 花見旅行に つれて 行って いただく ことに なりました。午前10時、伊藤さんの
愛車に 便乗して 砂町を 出発。途中 砺波市・南砺市の サクラを 見物、南砺市 法林寺
福光美術館や 分館の 愛染苑で 棟方志功の 作品や 資料などを見学。14時 すぎ、庄川温泉 ゆめつづりに 到着。
ことしは サクラの 開花が すこし 早まわり、つよい 雨風も なかった こと から、いたち川の 遊歩道を 散歩する だけでも 十分 花見を 楽しむ ことが できました。そんな
ことも あって、ことしは 花見は そこそこに して、棟方志功の 作品や 関連資料の 鑑賞にたっぷり 時間を かける 気分に なりました。それにしても、福光美術館が 近代的な 美術館として 整備されて いる こと、あわせて 分館の 愛染苑が 志功 生存当時の 生活環境を そのまま
保存して いる ことに おどろきました。わたし自身は もちろん 面識が ありませんが、見学した 資料の 中に、当時 志功と 交流が あり、応援していた 人たちの
寄せ書きが あり、そこに 岩倉政治さん たちの 署名が のって いました。岩倉政治さんと いえば、もと 呉西出身の 作家で、ながく 富山市に 住みつき、わかい人たちと きさくに 交流して いました。わたしが 仲間と
いっしょに 文芸サークル「ちんぐるまの会」を はじめた とき にも、いろいろ
助言して いただきました。
思いがけない ところで、思いがけない
人との ツナガリ(宿縁)に 気づかされた 旅でした。
サクラ からの 連想、幻想
それにしても、日本人は どうして これほど サクラが 好き なの でしょうか?
「サクラの 花見と いう のは 名目で、本心は 花より 団子。酒を 飲んだり、ごちそうを 食べたり、歌を 歌ったり して
遊びたい んじゃ ないの」などの 意見も ある ようです。実態は どう なって いる でしょうか?
ウィキペディアに よれば、サクラの 原産地は ヒマラヤ近郊と され、ヨーロッパ・西シベリア・日本・中国・アメリカ・カナダ
など、おもに 北半球の 温帯に、ひろく 分布して います。その中で、日本人と サクラとの 関係は、他の 地域と くらべて いささか 格別の 濃密さを もって いる
ようです。そして その原因は、日本列島が イネ農耕の 地域 だから では
ないかと、イズミは 考えて います。
日本の イネ農耕は
水田栽培 であり、大量の 水が 必要 です。川から タンボまで 水を 引く
ため、長距離に わたる 用水路を 作ったり、大規模な タメイケ[溜池](ダム)を つくったり しました。用水路や 溜池の 建設や 維持管理には、高度な 土木技術や 大規模な 労働力が 必要です。そして、完成した 用水路や 池の 土手に、たくさんの サクラの 木が うえられ ました。サクラの 「花見」とは、「開花までの 経過を 観察する こと」であり、これを 参考に「イネ耕作の 作業日程を サグル(立案する) こと」であり、また「イネの 豊作を いのって マツル
こと」でも ありました。
サクラと
いう コトバは、『古事記』や『萬葉集』にも 出て きます。日本の 歴史は「イネ農耕に
よる 列島改造」の 歴史で あり、いいかえれば、「イネ農耕用の 水路や 溜池を建設して
きた」歴史です。その結果、日本列島 いたるところに「○○千本桜」と よばれる サクラの 名所が 出現して います。
中国大陸では、敵対する 民族の 侵入を 防ぐ ために「万里の 長城」が 築かれました。日本では、河川の 氾濫から 農民を まもり、イネ農耕(水田)の 用水を 確保する ために、「川の 流れを ツツミコム(包囲する)」作戦が とられ ました。それが ツツミ[包・堤]、つまり 川や 用水路、池などの ドテ[土手]です。この ツツミ[包・堤]で
囲まれた 内側が「水流の シロ[城・代]」ですが、その 外側も また「住民たちが 安心して イネ耕作 できる シロ[城・代]」だった わけです。
万里の 長城が「農耕民族と 遊牧民族との 交渉」の中で 生まれた 世界規模の
文化遺産だと すれば、日本全国に 分布する「○○ツツミ[堤]」も また、「農耕民族と 自然(とりわけ 水)との ツキアイ」の 中で 生まれた 文化遺産だと 考えて よさそうです。用水の 取り入れ口や
途中の ツツミ[堤](土手)など には、高度な 土木技術が
用いられ、サクラを めぐって、西行法師(平安・鎌倉時代) はじめ、文学や 宗教の 分野でも
深い 関係が 見られます。
「サクラと ツツミ[堤]や シロ[城]と、なんの 関係も なかろう」と いわれる かも しれませんが、じつは 「おおいに 関係あり」です。日本語の サクラは、「動詞
サク+複数の ラ」などと 解釈されて いる ようですが、もともと「サ+ク+ラ」「サク+ラ」「サ+クラ」、いずれとも 解釈できる コトバです。いずれにしても、ヤマトコトバの
音韻感覚として、「サ=ヤ[箭・矢]」、「ク=[來]」。サクは、「サ(矢)が 來る]姿 だから、サク[裂・割・咲] 姿を あらわす ことに
なる のです。サクラは、動詞 サクの 派生語 サクル[決]の 名詞形と 解釈する ほうが 分かりやすいと 思われます。サクルは サケル[裂・避]・サカル[盛]などと おなじs-k音語で、サクラの木をツエとして地面をツキサクル姿です。
手もとの 国語辞典には 「地面を くりぬいて 水を 流す。サク[割]からの 派生か」と 解説されて います。やがて、サグル[探・捜]や サガス[探]にも 通じる 語音です。つまり、「サクラと ツツミ[堤]と シロ[城]」は、「三位一体」という わけです。
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