2016年11月22日火曜日

シロと テラと サケの 話 


雪見橋から 11/12



水神社への道 11/12 


『古事記』を読む会 11/13  


立山が見えた! 11.13 




画像に ついて

雪見橋 から…変りばえ しない 「定点観測」の 1枚 ですが、両岸の サクラ並木の 紅葉ぶりが 季節を 感じ させて くれます。

水神社への 道…雪見橋 下流・右岸、水神社へ つづく 
  遊歩道です。

『古事記』を 読む 会…毎回 こんな 感じ です。

立山が見えた!…研修会が 終わって、呉羽山 から 市街
 地まで 送って いただく 途中、車窓ごしに 写した 1枚。
 ひさしぶりに、いい 位置で、立山連峰を 見せて いただ 
 きました。
               

富山市内の「鉱山」の話

1021() 午後、茶屋町 豊栄稲荷神社で。日文悠の 研修会が あり、仙石 正三 さんが「富山市大・大山の鉱山」と題して,研究報告されました。レジュメレから  要約させていただきます。

1.  大航海時代

2.  宗教改革

3.  イエズス会の東洋進出

  1560年代においてマカオの人口が急増した背景には、1561年にゴア(インド)に異端審問所が設置され、イベリア半島からゴアへ移住してきた多くのコンベルソ(新キリスト教徒、マラーノ)が宗教穿鑿を逃れるため、コチン、マラッカ、マカオなどのポルトガル領インデイアの官吏の手の届きにくい土地へと流出したことが考えられる。マカオでは、キリスト教徒ではないポルトガル人たちが宗教施設(シナゴーグ)の建設を広東の海道副使に申し出ていたとされ…ユダヤ教に再改宗したものがいた…一族は東アジア貿易で活躍していた。

4.  鉛を食らう「銀の島」(飯沼賢治)

・大伴氏の貿易船は、府内より九州南岸を南下し、琉球を経て中国南部の福建・広東を目指した。そこは東南アジアの文物を入手できる倭寇の拠点であった。

・豊後の出土品にメダイ(イエス、マリア、聖人の像を描いたペンダント風の製品)など。同位体比率から、タイ最大の生産地鉱山ソントー島鉱山の鉛であることが分かった。21世紀初めまで世界屈指の銅山であった。

・当時、鉛は日本国内でも生産が進んでいたのに、なぜ輸入していたのか?それは、国内生産鉛は銀の精錬に必需品であったから。1533年から倭銀は一説では世界生産の3分の1に達し、国産鉛が不足だった。

・当時の佐渡銀山の鉛インゴットは村上市・葡萄山近接の鉛山産。石見銀山の鉛は、近くの仙ノ山鉱山では不足、越中産の鉛と推察できる・外国産鉛はメダイや鉄砲銃弾鉛玉に使用され、国内産鉛は銀生産に使われた。

1609年オランダ船は家康に金杯、象牙、生糸と共に、三千斤の鉛を献上した。⇒大阪の陣。(1614615

5.  大山の鉛は何処へ?

・寛永8年(1631)、但馬生野銀山に720貫売却.

 ・地元越中諸鉱山へ。

 ・佐渡相川銀山:終始莫大な鉛を購入。越中長棟鉛山も:天和3年(1683)越中鉛3641貫余を代金一両につき鉛11貫で購入。

 正直な 話、[亀谷]と 書かれても、カメタニか、カメガヤか、カメガイか 分からない。「長棟」は ナガムネと 読むと 思って いました。まさか ナガトと 読むとは 考えて いません でした。そして、その 越中(富山市)長棟鉱山 産出の 鉛が 但馬 生野銀山・佐渡 相川銀山に 売却され、銀の 精錬に 利用される など、日本列島、さらには 世界経済の 潮流の 中で、一定の 役割を はたして いた らしい ことが 分かって きました。目から ウロコが 落ちる 感じ。ありがとう ございました。



まずは、カメガイ・ナガトの 戸籍しらべ から

 わたしには、歴史・経済・鉱山などの ことは よく 分かりません。しかし、まったく ローカルな 存在に すぎない「亀谷・長棟金山」が、ある 時期、ある 事情で、日本全国 あるいは 全世界規模の 変動の 中で、ある種の 役割を 果たしたと いう 解釈(判断)は、よく 分かる 気が します。そして、そのことは、わたしたちが 毎日 使っている コトバについても、同様の ことが いえるかと 思います。

 たとえば、地名の カメガイ・ナガト などは、いつ・どんな 事情で 生まれた (伝来した)ので しょうか?鉱物(カナモノ)の クガネ・シロガネ・アカガネ・ナマリ などの 命名には、なにか 原理・原則の ような ものが あったので しょうか?シロガネの シロシラギ[新羅], silk, silverなど との 関係 など、いろいろ 戸籍しらべを して みたらおもしろいと 思います。

 研修会などで 討論する とき、参加者 全員の あいだで、基礎的な 用語に ついて、客観的・合理的な 意味・用法が 共有されて いれば、それだけ 議論が かみあい やすく、それだけ 客観的・合理的で 説得力の ある 結論が 得られる ことと 思います。



アマテラスの なぞ

11月13日() 午前、豊栄稲荷神社で、「古事記を読む会」の 研修会が あり、近藤 さんと 服部 征雄 さん から、それぞれの テーマに ついて 報告・提案され ました。以下、レジュメから 要約させて いただきます。

アマテラスのなぞ(近藤)

  女神にされたアマテラス

・『延喜式』には天照御魂神、天照神、天照玉命などを祀る神社が大和、摂津、丹波、対馬など各地に散見できる。

・これらの神々はらしく、伊勢の天照大神も古くは土地のアマテル神だった可能性がある。

・『大神宮参詣記』には、天照大神が斎宮の寝所に通う噺が載っているが、これもアマテラスが男神との記憶が残っていたのかも。

・皇大神宮の北側にある別宮『荒祭宮』の祭神はアマザカルムカツヒメであり、このムカツヒメは元来男神であるアマテラスの正妻(ムカツヒメ)であろう。(中略)

  皇祖神としてのアマテラス

・『延喜式』の祝詞には、この神の名が殆んど出てこない。わずかに祈年祭、月次祭の祝詞に大勢の神々の後で付加的な形で、アマテラスが挙げられている。しかも皇祖神としてではなく「伊勢にいます神」として。(中略)

・日本書紀本文における天孫降臨説話の中では、オシホミミに降臨を命ずるのはタカミムスビであり、アマテラスではない。最高神で皇祖神はタカミムスビであったのかも知れない。

アマテラスは、いつから女神になり、皇祖神となったのか?

・「太陽=男=光」「月=女=闇」はヨーロッパ方、その逆は北欧・バルト方、そして日本。

・書紀本文だは、大日孁貴と記す。太陽神の妻の意か(日妻・日女)。孁は巫女の意か。(中略)

・敏達帝の大宮の地、他田には他田坐天照御魂神社があり、日祀り部の遺制だと思われるが、祭神はアマテラスではなく、火明命であった。6世紀後半の宮廷では、まだアマテラスへの崇拝は無かったようである。

・天皇による伊勢行幸は、持統天皇が初見である。

持統天皇が仕掛け人か?

・孫の軽皇子(文武天皇)に皇位を恙無く継承させる爲、アマテラスに女性の太陽神

及び皇祖神としての絶対的な権威を与え、自身をそれに仮託した。

・天武の后ながらも、」天智の娘として、天武系の皇子を排除し、」不比等と共に持統朝とも云うべき王統(女帝の意識は100%近く天智系)の継続に傾注した。

・皇太子の草壁には異母妹の阿閉皇女を嫁がせ、草壁が亡くなると、自身が即位する。孫の文武が即位したが、これも早世すると、文武の子首(聖武)に繋ぐため阿閉(元正)、そして元明と即位させる。持統と藤原の天武封じは、聖武の即位で完成したと思える。

春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほしたり 天の香具山1巻-28 勝利宣言か。



歴史学・考古学 などの 視点

 アマテラスに かぎらず、最近話題に なっている 「天皇の 生前 退位」の 問題に ついても、「いろいろな 解釈・議論が しめされるが、なかなか 議論が かみあわ ない」傾向が ある ように 感じられる のですが、いかがで しょうか?

 「アマテラスは 男性か、女性か?]、「持統天皇が 果たした 役割は?」などの 問題に ついては、歴史上の 真実を 求める 立場 から、歴史学・考古学 などの 結論に したがう べきで しょう。

 それにしては、戦後 70年を すぎて、いまの 日本人は こうした「歴史上の 真実」を どこまで 認識して いるで しょうか?ただし、ここで 問題は、「歴史上の 真実は 何だったのか?」から「歴史上の 真実は どう 伝え られたか?」に 変化します。ずばり 具体的に いえば、たとえば 小・中・高校の 教育現場で、どれだけ「歴史の 真実」が 追求されたか(されなかったか)という ような 問題です。

 「クルマは、すぐには 止まれない」と いう コトバが あります。慣性の 法則。日本民族は、どんな 状況に おかれた とき、どんな 行動を とるか?どれだけ 自分の行動を コントロール できるか?さきの 世界大戦での 失敗 から ナニを 学びとり、21世紀を 生きぬく ために ドウ 役立てるか?その 作業が 未完成 なの では?心配です。



コノハナサクヤ姫も酒の神(服部 征雄)

 (10月研修会・提案の補足)

木花開耶姫も酒の神

ニニギ尊の妻コノハナサクヤ姫が酒を醸した記載が日本書紀 巻二 神代下にあり、酒の神として大国主命、少彦名に合わせて祀られる。

 「アマノタムサケ[天甜酒]を醸みてニヒナヘ[]す」

 テンシュ[甜酒] 中国産醸造酒の一。もち米を蒸し、発酵させた 甘い酒。



ヤシホオリ[八塩折]の酒

  『古事記』や『日本書紀』の中で最初に現れる酒。

  スサノオ命がヤマトノオロチを退治したときに、オロチに飲ませた酒。

 [八塩折之酒]とは、いったん酒を造り、粕を取り除いた搾り汁()にまた原料を入れ。酒を造り…何度も繰り返した酒と解することができる。アルコール発酵はさまたげられるが、糖発酵は進むので、甘い酒となる(味醂)。



コウジ[]を使った?…帰化人の到来

古事記・応神天皇、百済の朝貢。

 「百済国に科せ賜ひしく『もし賢しき人あらば、貢上れ』」…「ハタノミヤツコ[秦造]が祖・アヤノアタヒ[漢値]が祖と、酒を醸むことを知れる人、名はニホ[仁番]、亦の名はススコリ[須須許理]等と参ゐ渡り来たり。故、このススコリ、大御酒を醸みて献りき」



大蛇への毒

  八岐大蛇は毒により死したとの日本書紀の記載…その毒は何か

  酒の毒

  呼吸器に働く毒…トリカブト毒(アコニチン)、蝦蟇の皮下腺から流れ出る毒(ブファジェノライド)

  金属類…砒石(石見銀山猫いらず)で作った殺鼠剤。ヒ素を含む。



タムサケ[甜酒]に ついて

 服部さんは、化学・薬学の 視点 から『古事記』『日本書紀』などの 記事を 解釈し、報告・提案 されて います。わたしに とっては、 あらたな 視点 から ヤマトコトバを 見なおす きっかけと なり、ありがたい ことです。

 今回も、アマノタムサケ[天甜酒]に ついて、ご提案 いただき ました ので、わたしなりに 考えて みました。『時代別・国語大辞典・上代編』を 見ると、つぎの ように 解説されて いました

タムサケ[甜酒] 味のある酒。タムは舌で味わう意か。(中略)[]「タメツモノ[多米都物](貞観儀式)「タメツサケ[多明酒](延喜式神祇)なども同じものをさすかと考えられる。これから抽出される動詞タムは、舌で味わうというような意であろう。なお、「種種味物」(記神代)の「味物」、「種種之珍味」(記応神)の「珍味」はタメツモノと訓まれることもある。その場合のタメもタムサケのタムと同じであろう。

 ついでに もう 一つ、おもしろい ことに 気づき ました。それは 漢語 テンシュ[甜酒]の テン[甜](現代音tian)が 上古漢語音では dem だったと いう こと です。つまり、上古漢語音 t-mが 途中で 音韻変化を して、t-n音に 合流したと 考えて よい でしょう。

 ヤマトコトバの サカ・サケ[酒]は、動詞 サク[裂・割]の 名詞形。コメ・ムギ・キビ などの 植物細胞が サケル(分裂)姿を 表わす コトバ。タムサケ・タメツモノの タム・タメに ついても、動詞 タム(まわる。めぐる。まがる。たまる。とどまる。たわめる)と 同系と 考えて みては、いかが でしょうか。うまい 酒を 口に 含めば、その味がしばらく 舌に タマリ、トマリ、やがて 口の中を あちこち マワル・メグル ことに なります。
 このように 見て くると、ヤマトコトバの タムと 上古漢語のdemとは、ほぼ 同音・同義のコトバ だったと 考えて よい かも しれません。脱線 ついでに いえば、英語の ダムdamなども、日本語で いえば タメ池 です よね。いつか、じっくり、タメツ、スガメツ、 考えて みましょう。

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